24Field+ 2009 01 no.1実在と意味 「文系」と「理系」という区分に代表されるように、現代に生きる私たちが世界を理解し世界と関わろうとする時には、多くの場合、一方に科学が解明する自然の事実があり、他方で人間の集合的で歴史的な営みと結びついた文化的(あるいは社会的)な事実がある、という二分法が前提とされる。宮武公夫によれば、「科学と文化は20世紀の世界において、もっとも大きな力で世界を支配し、あらゆるものを説明し、その存在を正当化してきた二大パラダイム」であり、「このいずれにも回収されない境界部分は、不可知の闇の領域として科学からも文化からも遺棄され恐怖され」てきた(1)。 科学と文化の相互排他的な位置づけは、学問的な制度だけではなく、日常的な思考にも浸透している。例えば、雷が鳴るという現象に対する2つの言明を考えてみよう。1つ目は「電気を帯びた雲と雲との間(あるいは雲と地表の間)に放電が生じた」というものであり、2つ目は「雲の上で神様が怒っている」というものだ。私たちはこの2つの言明を全く異なるものとして把握する。前者は、客観的に実在する自然の事実を表す言明であり、誤っていたとしてもその真偽は科学的に決定できると考える。後者については、この言明を発する人が雷鳴という現象をその人なりに意味づけたものであり、真偽とは無関係だと考える。ある集団が同様の言明をしばしば発する時には、彼らは雷が人間に対する神の働きかけ(=「神鳴り」)であると信じる文化に属していると説明されることになる。 このように、科学と文化の二分法は、‹実在(世界が現にそうであるところのもの)›と‹意味(世界が誰かにとってそうであるところのもの)›の二分法に支えられていて、私たちの世界認識を強く規定している。けれども、人間の営みにはこの二分法では捉えきれない多くの事象が含まれないだろうか、この二分法によって様々な認識と実践の可能性が抑圧されるのではないだろうか。こう考えて、私はテクノロジーを文●化●人類学的視点から捉える研究を行ってきた。その過程で、実在(科学)と意味(文化)が重なり合い、両者が媒介されることによって新たなリアリティが生み出される場としてテクノロジーを捉えることができるのではないかと考えるようになった。 「テクノロジーが実在と意味を媒介する」とはどういうことか。それを例示するために、ここでは、私が2004年から2006年にかけて調査を行った、エンターテインメント・ロボット「アイボ」の開発・受容過程の分析の一部を紹介したい(2)。媒介としてのデザイン アイボの開発は1993年から始まり6年後にソニーによって発売された(第1シリーズの定価は25万円台、2006年製造中止)。一般消費者向けのロボットを目指した開発者たちは、やがて犬のペットと人間のコミュニケーションをモデルにした機械システムを組み上げていく。エージェント・アーキテクチャと呼ばれるこのシステムは次のような仕組みによってロボットの「感情」や「個性」を表現しようとするものだった。 「センサ入力を喜びや怒り、といった基本情動に対して評価し、適当なダイナミクスをその基本情動に与えて情動モデルを構成し、例えば喜びが大きな値を持っているときに目の前に手を出されるとお手をするが、怒りが大きな値であればお手を拒否する行動をする、というように同じ刺激に対して異なる行動を取らせることで複雑度を増すことができる」(3)。ここで言われていることは、アイボの機体に備え付けられたCCDカメラやステレオマイフロンティア媒介としてのテクノロジー久保明教 くぼ あきのり/日本学術振興会特別研究員、AA研共同研究員捕捉したピンクボールに接近するアイボ(2代目ERS-210シリーズ)。
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