FIELD PLUS No.1
25/36

23Field+ 2009 01 no.1ているために「胃は別」であり、いま近くで暮らしている自分とおまえこそが「胃が同じ」であると述べることで、自分の要求が正当であることを主張している。次は、逆に「胃が別」なことが強調された事例である。 ある世代組に属するひとりの男性が死んだ。死者が飼養していた去勢牛は屠殺してその肉を死者の世代組仲間が共食することになっているため、共食儀礼が開かれた。この儀礼には、参加可能な世代組仲間は出席すべきだとの共通認識がある。しかしXは参加せず、木陰で寝そべるばかりだった。翌朝ある年長者に「なぜXは来なかったのか」と尋ねると、「彼の胃は別だ。彼の胃は望まなかったのだ」と答えた。さらに「しかし同じ世代組なのだから、儀礼に参加すべきだろう」と聞くと、「彼の胃は泣いているのだ。わたしと彼の胃は別なのだ」と述べた。 年長者の説明によれば、その男性は自分の父方オジに呪詛されて死んだ。Xは彼と非常に親しい関係を築いていたため、その死の経緯に強い悲しみを抱いており、儀礼への参加も拒んだのである。 多くの東アフリカ牧畜社会で世代組は重要な社会組織であり、同じ組に帰属する成員はさまざまな経験をともにする。しかしこの事例では、同じ組の成員でも儀礼の契機となった人物の死亡への感情の抱き方が異なり、それが各成員の儀礼への参加/不参加を決定付け、また各人が相互の決定を尊重していることが示されている。 同じダサネッチでも、みな異なる「胃」をもつ。しかし、ともに生活をしていくなかで、「われわれの胃は同じだろう」と言える関係性が築かれる。その関係性が、ともに行為をしたりなにかを要求するときの論拠になる。しかし同時に、各人はともにした経験を他者が別様に解釈する可能性があることも分かっていに移動する。今日の隣人は明日には別の土地へ移動していくかもしれない。もちろん、移動するか否かを決定するまでには議論がなされる。しかし、一度当人がそう決めたら、周囲の人はその決定を受け入れて、彼の行く道を祝福するだけだ。ぼくが旅立つ際にも、「おまえの道がカミとともにあるように」という、簡潔だがなにも不足することのないことばで、「父」が祝福を与えてくれる。 濃密さのあとに突然訪れるこの乾いた感覚は、炎天下のサバンナを歩いたあと木陰に入ったときに感じる、あの心地よい清涼感に似ている。冷えた地面と涼やかな風が、汗だらけの身体を一瞬で乾かしてくれる。その激しい自己主張にしばしば辟易させられながらも、なぜか別れたあとに「鷹揚で心地よい人びと」という印象が強く残る秘密は、他者の「胃が決めた」ことを最後にはただ受け入れる、ダサネッチの引き際の見事さにあるのかもしれない。る。だから「胃が同じだろう」と誘いをかけても、相手が「わたしの胃は別だ」と言って同意しなければ、最終的にはそれをただ受け入れる。 ぼくは、「胃が同じ/別だ」という表現の含意に思いをめぐらすことで、ダサネッチの一見矛盾した他者との接し方を、少しは理解できるようになった気がする。たとえば、別れの場面の「ふっと切れた感じ」は次のように考えることができるのではないか。この男は、いままでともに暮らして多くの経験を共有したのだから、わたしになにかを与えてしかるべきだ。それを要求することは当然だ。しかしもうこの男が立ち上がり歩き始めたら、それを妨げて要求することはできない。もう行くことを「彼の胃が決めた」のだから、彼の行く道を遮るべきではない。 乾いた別れの光景は、ダサネッチ同士の別れの場面でも同じだ。家畜とともに遊動的な生活を送っている彼らは、新たな放牧地を求めて頻繁2回目の調査のときから親しくしているふたりの友人。いつもねだられてばかりなので、あるとき「ウシをくれ」、「ヒツジをくれ」と軽い気持ちでねだったら、あっさりくれた。

元のページ  ../index.html#25

このブックを見る