19Field+ 2009 01 no.1 大学院でニホンザル研究に取り組んだ当初、個体識別はなかなかできなかった。まず傷・色・大きさといった特徴の組み合わせで識別表を作り覚える。こうした識別表は、とっさには役立たず、10頭さえ覚えられず絶望感に襲われるが、そこを我慢していると、そのうち、一つの特徴だけで「あいつ」とわかる自信が出てくるようになる。それからは割合スムーズに体つきや声だけでも、「あいつ」とわかるようになってくる。それまで物理的マークのセットに対応づけていたAが、私の中で主体化し、Aには、額の右上に小さな傷跡があるとなるのだ。この変化を私は、両眼で別々に見えていた写真が立体写真として一つの像を結ぶ瞬間になぞらえている。 人間同士は、相手の表情や姿勢の微妙な変化も瞬間に察知して意味をくみ取る能力を持つ。サルの個体識別は、人間に普遍的に備わったこの能力の応用で誰にでもできる。つまり、サルを人格的に認知できるようになること、それが個体識別のすべてであって、その時点で、観察者は心理的にサルの世界に参入しているのである。 観察者は、サルや類人猿に追随して生活の一部始終を知ろうとする。私はそれ以上に彼らの生活世界を早く自分のものにするために、一人で森を歩き、ボノボとともに叫び鳴き、同じものを食べ、昼寝し、ディスプレイを真似、ビクッとすれば同じ方向を窺い見るようなことを繰り返した。ボノボと同じ果物や若葉を食べ続けた(芋虫は焼いて食べたが)ことや森で寝ころんだことはとくに効果があったと思う。個々の木やツルや果物のなり具合がよく見えるようになり、ある時不意に森に懐かしさを感じ、怖さがなくなった。3 生態的参与観察 個体識別による心理的参入とこのいわば生態的接近を併せて、生態的参与観察と呼ぶ。これは「観察対象の世界を経験し相手に自己を重ね合わせてみる」方法であるが、「そこでの同化・異化作用を対象化する」方法でもある(黒田1999b)。同化・異化作用というのは、相手への重ね合わせ=同化ができれば相手を見る眼を鋭敏にするのだが、そうなるとおのずと相手との違和感が湧くことを指す。じっさい類人猿の表情や動きがよく見えるほど、彼らの表情に読み取れない何かを感じ、解釈が行き詰まる。自分たちとは別物のこの何かが、自分が読み取れないだけか、彼ら独自のものか、それをペンディングして説明できるところだけを説明すればよしとするか、解釈の構図を全面的に変更するか、などなどと際限ない疑問に直面することになる。このような事態は自然科学でも起こるが、決定的に違う点は、対象を操作せず、あくまで観察者の側の変更で認識を進めることである。 このような違和感のもっとも単純なものは、行動や信号の多義性の導入によって解決できる。ベイトソン(2000)は、アカゲザルの遊びの解析で行動の多義性とメタ認識を主張したが、サルたちは普通に信号を多義的にやりとりしており、当事者たちはそれを読み取って交渉しているとしか説明しようがないのである(早木1990、黒田1986)。これが単純な違和感というのは、「そうだったか!」レベルの再解釈で解決するからだが、行動の多義性を導入することは、サルの主体性と間主観性をもちこむことであり、パラダイム変換に近い。私たち以上に霊長類を微細に見ている多くの研究者が、この問題に行き当たらないのは、おそらく、サルたちの交渉の文脈に観察眼を無意識のうちに柔軟に合わせる能力をもっているからと思われる。この同化・異化作用の認識は、エスノメソドロジーの対象になるような問題である。4 生態的参与観察の課題 私の実践の極端さは別にして、容貌でサルを個体識別し森や原野で追跡する霊長類学者は基本的に生態的参与観察者である。だが今日では、そうして獲得した(しうる)データを、日本の霊長類学の目標であったように、社会学的な次元で分析・表現する、あるいは人間社会とかかわる形で問題提起する研究者は少ない。生態的参与観察は、データ取得の一方法として、かつての目標から分離され一般化されたのである。自然科学化の必然からすると、やがて生態的参与観察の可能性である「サルを内部から(微細に)見る」(黒田1986)ことも職人仕事の非科学的手法となり、実験的に再現性が確認されたことがらのみが「事実」化し、生態的接近といったフィールドワークも衰退すると予測される。 生態的参与観察の価値が維持されるのは、今西が構想したように、霊長類学と人類学の挟撃で人間社会の成立過程を明らかにしようとする場合だけであろう。ところでこの両分野がこの問題でついに接続部をもたなかった原因は、人類学では前提である「意識の社会的現れ」、つまり「制度」や「規範」に対し霊長類学が取り組みを怠ってきたことが大きいと、私は考えている。比較認知心理学では「心の理論」実験や「あざむき」の研究で霊長類の意識に接触しているものの、社会行動の実際には迫っていず、社会生物学は遺伝的行動規制と制度に発展しうる自制を区別しない不十分さがある(黒田1999a)。「意識の社会的現れ」は、内部観測者的位置で初めて解釈の俎上にのってくる事象であり、生態的参与観察の関与事項である。5 生態的参与観察の射程 さて、サルや類人猿の表情がわかるようになった時点で、観察者は、サルを単純な刺激−反応系とは捉えられなくなる。いわば、初めてサルのリアルな世界の入り口に立つ。こうしたところから見える世界をあげておこう。 たとえば、ボノボに上体を揺らせて相手をまねくロッキングゼスチャーがある。交尾やグルーミングの誘いや一緒に座る合図になる。よく見ると、この誘いを向けられたメスが視線をずらして「無視」したとか、誘っていない相手が来てオスがあわてたとか、背伸びを交尾の誘いと間違えて跳びついたメスがすぐに跳び離れ、オスのペニスが立つのを見てあらためて交尾したとかが見えてくる。こうした事例では「無視」「驚き」「誤解」「その修正」など、信号の読み取りの「意図性」が確認できる。 実はこうした観察や評価は多くの霊長類学者がやってきたことである。しかし、こうした観察を、例えばサルが主体同士としてコンテキストを作り出し、行動に意味を付与し合うといった個体間交渉の意味づけにまで深め(早木1990)、社会意識や制度に射程を伸ばそうとする研究者はまずいない。早木も私もサルの行動は多かれ少なかれ多義的であり、当事者間で読みあって意味確定をしていると考えている。そこから、サルの主体性の認識の深化、間主観性、自由といった問題が浮上してくるのである。 ボノボ、チンパンジーの食物分配もまた、この問題圏のなかで取り上げるべき重要な事項である。これらの類人猿は、食物の保有者が他個体にその一部ないし全部を取らせることがよくある。しかし、小さい方・不味い方を取らせる消極性から1970年代以降、人類進化との関連で積極的に評価する研究者はほとんどいなくなった。だが、ボノボの食物分配を詳細に見ると、むしろこの消極性は「分けたくない惜しみ」の現れととらえられることが示唆される。この「惜しみ」という表現はボノボとチンパンジー研究者に共有できるものであるが、そこにとどまらず、ただちに彼らの行為を「意識的」な食物分配として再定位できる(黒田1999a)。さらに、そこから彼らの食物分配は、「価値あるものの独占を断念し他者と共有する行為」で「他者の慮り」の単純な形態であり、すでに「所有」の萌芽形態があることなどが結論できる。この議論でも社会意識のみならず間主観性や自由の問題が浮上してくるのであるが、こうした展開は思弁の結果ではなくて、人間の近縁種を人間のごとく見詰めた論理的帰結として、霊長類の生活世界から立ち現れるものである。6 最後に 他の動物の関連分野に対する霊長類学の特権性は、私たちもまたサルであり類人猿の一種であることに由来する。私の言う生態的参与観察は、できるものなら同一化を徹底して類人猿の「価値観」や「ハビトゥス」の領域まで踏み込もうとしている。しかし、そうして初めてメスのボノボが私に向き合ったとき、まっすぐ見詰める黒いガラスのような眼に恐怖し、同一化のエロスも方法論も一瞬に瓦解した。そのガラスに私のなかの不可解なものが映し出され、それが私を乗っ取ってしまう、いやもともとそのようなものが私なのだ、などとうろたえてしまったのだった。その不可解なものは、私のなかの類人猿なのか、人間性の底にある何かなのか、それとも私自身なのか、今もわからないが、心地よいものではなかった。これは「可能性の集合の枠」を突き抜ける、現場での観察者にとっては自己を一変し終生の課題となる重みをもつ経験であった。それが結局、「見る」ことの自省を促してくれている。
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