FIELD PLUS No.1
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17Field+ 2009 01 no.1たくさんある。その最たるものはコンテクストだ。ここで言うコンテクストは調査の中での話の文脈のみならず、調査の場面を取り巻いている状況、人間関係、社会的な背景などをも含む広い意味での環境のことだ。こうしたコンテクストは我々の言葉の使い方と大きな関わりがあり、その言語表現がなぜ使われたのかを考える上で重要な要因なのだ。しかしながら、「言語データ」とされる記録には、コンテクストに関する情報はほとんど記録されない。その理由は、これまで言葉の研究においてコンテクストの役割がよく理解されてこなかったこと、コンテクストというものがあまりに漠然としていて何をどのように記録してよいかがわかりにくいこと、などにある。 理由はどうあれ、言葉の使い方に関する重要な情報の一部が、調査結果としての記録、データでは捉えきれないとすれば、やはり「生の状況」をこの目、この耳で捉えに行くしかない。フィールドワークの宝:「負ける」経験 フィールドワークの場には直接見聞きすることでしか得られない知識がある。その中でもっとも重要なものは、分厚い語彙のリストでもなく、何十時間分にもなる昔話の録音でもなく、言語という現象、システムの複雑さ、豊かさ、奥深さに対する深い驚きと畏敬だと思う。 規則性を見つけて説明をつけ、言語を見透かしてやろうと思って臨むが、必ずといって良いほど例外や違ったパターンが見つかり、そうは問屋が卸さない、とすり抜けられてしまう。「言語には勝てない!」―フィールドワークではそんな実感の繰り返しだ。言語のパターンは多くの要因が複雑に絡んで形成されていて、しかも機械仕掛けのシステムのように100%の規則性で動く部分はまずない。外国語を習った時にどんな文法規則にも例外があってイライラした覚えもあるだろう。言語は機械仕掛けのからくりというよりも気ままな生き物のようだ。 こうした言語の使われ方の実際を見ずに、自分の頭の中だけで言語とはこう動くものだろうと考えていると、言語の豊かさ、奥深さ(そして手に負えなさ)を過小評価してしまいがちだ。我々の想像は、どんなに想像力が旺盛でも、自分の経験に基づいた想像でしかない。心底驚くようなことは想像できないものだ。私は、フィールドワークで「言語には勝てない!」と繰り返し感じる中で、自分の「常識」の限界を強く意識し、そのたびにその常識の地平を広げ新しい見方をしてみようとしてきた。フィールドワークの過程で起こる、こうした考え方の枠組みの再編の大切さは、調査で得られたデータによる知識量の増加などとは比べものにならない。自分を変える体験としてのフィールドワーク フィールドワークはたいてい何らかの物や情報を収集するために現地に赴く活動として考えられる。しかし、フィールドワークは、物や情報の収集だけの話ではなく、自分を変える旅なのだと思う。生の活動、営みがおきている場の中に身を置いて、自分の常識の枠から自分を解き放ち、そこでおきていることを自分の世界に関連づける、そしてそれを通して新しい自分の世界を作る。フィールドワークの本質はそういう自分の知識体系の拡大・変質にある。 この世の中に驚く余地がある限り、フィールドワークは重要な活動だ。そしてこれは研究者だけのものでもない。自分の日常をちょっと離れて見慣れない営みの中に身を置き、自分の常識で意味づけるのではなく、その営みが理解できる他の視点を探してみる。そのとき、新たなフィールドワークが始まる。このコミュニティー(ツィッシャート)で100年ぶりに立てられた新しいトーテムポール。急激に失われつつある伝統文化を新しい時代に向けて再生させていこうとする意気込みが感じられる。浜辺にたつウェルカム・ポール。コミュニティーがある入り江に入ってくる来訪者を迎える。彼らの文化空間への入り口だ。カナダ西海岸地域の自然は恵み深い。豊かな海の幸と深い森林はヌーチャーッヌシを含めた先住民の伝統社会・文化の発展をはぐくんだ。

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