16Field+ 2009 01 no.1 専門とするヌーチャーッヌシ語の調査のためフィールドワークに行くようになってからもう17年になる。「フィールドワーク」というとジャングルの奥地でワニに狙われながら川を渡ったり、灼熱の砂漠地帯を砂まみれになりながらジープを飛ばしたりというような光景が思い浮かぶかもしれないが、私が向かうのはカナダ南西端バンクーバー島、大きなスーパーも何軒かあるし、マクドナルドだって2軒あるフツウのいなか町だ。インディ・ジョーンズの向こうを張るような冒険心はいらない。 言語学のフィールドワークが主な目的とするのは、聞き取り調査や会話などの録音・録画によって単語や表現の例、また人々が言葉をどのように使っているかのデータを集めることだ。ヌーチャーッヌシ語のようにこれまでの研究資料が非常に少ない言語の研究では、とにかく言語事実に関するデータを増やすことが必要で、そのためにフィールドワークは欠かせない。フィールドワークはつらいよ 観光ルートから外れた小さな町や奥地などに、比較的長期にわたり滞在して、様々な人から話を聞いて歩いたり、いろいろな場所を訪ねたりする、というと端からはおもしろそうに見えるかもしれない。しかし、たいていの「おもしろそうなこと」がそうであるように、フィールドワークもなかなか一筋縄ではいかない仕事だ。調査旅費の捻出など先立つものの話ももちろんだが、より複雑なのはコミュニティーとの関係だ。 言葉のような社会活動の調査では特に言えることだが、入っていくフィールドは物理的場所ではなく、独自の伝統と社会活動、そして複雑に入り組んだ人間関係のネットワークとが織りなす「文化空間」だ。こうした文化空間の中で行うフィールドワークでは、目的地に車で乗り付け必要なものを拾い集めてきて任務完了というような訳にはいかない。必要なデータの収集には調査する言語の話し手に協力してもらわなくてはならないが、その前にまずコミュニティーの中に迎え入れてもらう必要がある。時間をかけて人間関係を作り「外からの闖入者」たる自分に社会的な「居場所」を認めてもらうのだ。特に少数民族のコミュニティーは「狭い社会」なので、「とんでもないよそ者」という噂はすぐ広がる。長期にわたって調査につきあってもらうには良い人間関係は不可欠だ。人間的現象を対象とするフィールドワークではこの部分が一番の難所といってもいいだろう。 データの収集にしても、言葉が文化空間の中に位置づけられた現象であるがゆえのむずかしさがある。たとえば、ヌーチャーッヌシのお話や歌の中には、先祖が儀式や夢のお告げなどを通して神や精霊から譲り受け代々家宝として受け継がれてきたものがある。こうしたお話や歌は正統な所有者以外が話したり歌ったりすることは許されない。「モノ」として考えるとたかがお話、たかが歌、減るわけでもあるまいに、と思ってしまいがちだが、こうしたお話や歌はヌーチャーッヌシ社会の中で単なる言葉の塊以上の重要な意味を持っている。「単なる言葉の塊」自体を集めることを目的とする調査であってもそうした意味づけから離れられるわけではない。「学問のため」などという論理を振りかざして「世の中の道理」を曲げようとしては調査は長く続けられない。フィールドワークで見つけるもの 言語研究のフィールドワークで集めるのは言葉のデータだ。典型的な「成果」はフィールドノートに書き取った単語や文例、言葉のコミュニケーションの様子を捉えた録音や録画のかたちをとる。こうしたモノ的成果がフィールドワークにとって重要であることは言うまでもないが、フィールドワークの意味はそうしたモノを生むことだけではない。情報や知識そのものについて言えば、インターネットの進化などにより、自分の部屋を出なくても世界の裏側の小さな集落に関する詳細な情報を集めることもできるようになった。では、フィールドワーカーはもはや苦労してフィールドに足を運ぶ必要はなくなってきたのか。 実はいわゆる「成果」、「データ」とされるものに記録されないものはフィールドワークで何が見つかるか中山俊秀 なかやま としひで/AA研フィールドワークは、物や情報の収集だけの話ではなく、自分を変える旅なのだと思う。その本質は自分の常識の枠から自分を解き放ち、新しい自分の世界を作ることであり、知識体系の拡大・変質にある。2墓地にたてられたトーテムポール。ポールには家系に代々伝えられてきた伝説や家の氏族系統など、いわば家の歴史が刻まれている。生きた言葉に触れるフィールドワーク。知れば知るほど分からないことが増えていく気がする。言語の動きを「見切る」ことは難しい。ヌーチャーッヌシの子供たちが演じる創造伝説の劇。この世の動物たちと人間がどのように創られたのか、世界創造の物語もまたわれわれのそれとは違う。知る
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