15Field+ 2009 01 no.1はじめてのフィールドワーク 1987年の雨季、チェンマイから西へ約80キロの道をオートバイで走っていた。明るい疎林だった。松の高い幹が目立ち、光はすみずみまで行き届いていた。まるで天の底が割れ、なだれ打ってセミが落ちてきたのかと錯覚するような大音響が響いた。シャワ、シャワ、ジー、ジー、ミンミンの混声合唱はジャー、ジャーと音の天幕を波打たせていた。「蝉時雨」などという情緒ゆかしきものではない。叩きつけるセミのスコールだった。チェンマイの雨のように。南国のスコールは雨面を翻して、簾のごとく白くはためく。その圧倒的な力が好きだったが、最近はそれを東京でも味わえるようになった。不思議なものである。 セミのトンネルを抜けて、さらに上がったり下がったりと登っていくと林は森となり、森の小さな裂け目に家々が点々と現れる。そこが私の調査村だった。私の家があった。「竹の柱に茅の屋根」という風趣があるともいえたが、当時はまさに生活の場だった。森から薪を集め、泉から水を汲んだ。そこで寝泊りしながら人類学のフィールドワークを行っていた。そして北部タイの少数民族でカレンと呼ばれる人々の文化、すなわち生活様式を調査研究していた。 村人はよく分からぬままに私を受け入れ、片言のカレン語で、どこへでも付いて来る私に戸惑いながらも、「子供」の範疇に納めたらしい。尋ねれば何でも答えてくれたが、叱られることもあった。最初に叱られたときに、あっ、そうだったのか、と「発見」したのである。妻と夫と呼ばないで 調査であるから、人口、世帯数、家族構成、親族用語をまず集めた。そんなある晩、家で醸造した焼酎を飲みにこないかと親しい村人に招待された。というよりは正確には呼び出されたのであろう。そこにはタイ語のうまい老人が来ていた。彼はすでにかなり酔っており、「マ(妻)、ヴァ(夫)は使っちゃいかん。マ、ヴァとは言っちゃいかん。」といきなり絡むように繰り返した。何事かと拝聴していると、マとヴァを人前で言うな、と言う。でも、「妻」と「夫」をカレン語に訳すと、「マ」と「ヴァ」になる。だから、「お宅のご主人」という感覚で「ヌ(あなたの)ヴァ」を使っていた。 会話は行ったり来たりしながら、ようやく分かったのは確かに妻と夫の意味はあるが、同時にそれは性器の隠語だということだった。だから人前では使えないのである。無邪気にそれを口にする私に何とか伝えようと、タイ語の上手な老人が呼ばれ、酒の勢いでお説教されたのである。ああ、そうなんだ。暮らしていなければ分からないことだった。 では、配偶者を何と呼べばよいのか。長子の名で呼ぶのである。「~のお母さん、~のお父さん」、祖父母になれば「~のおばあさん、~のおじいさん」である。自分の配偶者もそう呼ぶのである。以後、この二語は禁忌となった。馬ま幇ばんと出会う 村での調査中にたまたま中国系商人と出会った。ムスリムだということを知ってから、ホーとタイ語で呼ばれる中国雲南省出身の回族に興味を持つようになった。カレンの森を奥へ奥へ行ったら、思わぬ平地に出た、という感じである。回族は古くから馬を連ねて中国南部と東南アジアを結ぶ馬幇と呼ばれる隊商を成して交易路を往復していた。だから、ここ10年くらいはビルマ語でパンデーと呼ばれるミャンマー在住の回族の末裔について調査をしている。 彼らの宗教がイスラームなので、短期のフィールドワークでは犠牲祭に焦点を絞った。犠牲祭とはイスラーム暦12月10日にアッラーへ犠牲を献じる祭である。供犠用獣は牛や山羊で、コーランの一節を唱えながら、刀で首の頸動脈を切って献じられる。マンダレーでは千頭ちかくの牛の供犠も見た。その時、調査の同伴者は本気で私を案じて、密かに気付け薬を持参したんだ、と後で打ち明けてくれた。 イスラーム暦は月齢を基とするため、太陽暦と比すると毎年10日から11日暦が早まる。たまたまシャン州のタウンジーの犠牲祭が太陽暦で1月1日、すなわち2007年の元日だった。そのとき、ちらっと思ったのである。元旦早々、こんなに血を見ていいんだろうか。そんな畏れを追証するかのように、その年は帰国後につぎつぎと訃報が届き、悪いことばかりが続いた。私は息を潜めて早く年が明けてくれるよう願うばかりだった。 だが、これはよくよく考えると変である。無事新年を迎えたから言えるのかもしれないが、元旦の出来事の是非にかかわらず、その年に起こることは起こったはずである。だが、私はそれを元旦に還元してしまったのである。やはりあれは縁起が良くなかった、と。自分自身が驚きだった。文化の恣意性、すなわち虚構を現実として生きていることを十分に理解しており、1年だって、単なる区切りでしかなく、自分の文化も約束事でしかないと承知しているのに、自文化へ還元してしまったのである。 研究者としての歴ではなく質に問題があるのかもしれないが、私はこの頃、人が生きる場所と時代を越えることは無理なのではないかと疑い始めている。フィールドはやはり面白い。ジャニガンに集められた供犠用の牛(右)。マンダレーのパンデーモスク。「1868年に雲南大理府元帥の杜文秀の命により馬陸軍大佐によって建造された」と碑文に記されている(左)。ミャンマーのマンダレー市には政府が供犠を許可した斎場が3ヶ所ある。ジャニガンは墓地のそばで三方を山で囲まれており、牛の供犠が仏教徒の目に触れないように設けられている。縦500メートル横1キロの平地で犠牲祭当日の集団礼拝が行われている。
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