チュクチ語との出会い

アジア・アフリカ言語文化研究所 通信 第93号(1998.7)P22

 

 私がチュクチ語に専門的に取り組み始めたのは、今から6年前のことである。モンゴル語(チャハル方言)を母語として育ち、故郷の内モンゴルでは小学校から大学まで母語で教育を受け、さらに大学院修士過程でモンゴル語学を専攻し、言ってみれば、それまでは母語の世界から離れることはなかった。また大学の時に教わった先生方は様々な地方出身であったため、モンゴル語の多様な方言について、いながらにしてある程度知ることができた。そのためわざわざ苦労して地方に出かけていき、データを集めてそれを記述するというような勉強はほとんどなく、大学ではモンゴル文語や文献研究が中心であった。しかし、私自身はこのような研究方法にはなんとなく物足りないものを感じていた。修士論文執筆中に初めて、一ヶ月あまり地方にフィールドワークに出かけ、自分が話すチャハル方言の他、バーリン、ホルチン、ナイマンなどの生の方言に触れることができた。この経験は私にとって貴重な財産となり、その後チュクチ語のフィールトドワークを始める素地となったといえるかも知れない。  

 その後縁あって、1990年10月に来日し、北海道大学文学部言語学講座で勉強する機会に恵まれた。ここは北東アジアの言語や北米インディアンの言語に関する研究が盛んで、資料もかなりそろっていた。しかも当時の言語学講座の主任教授でいらしたエスキモー語学の宮岡伯人先生をはじめとし、大学院の多くは夏休みになるとアラスカやカナダ、シベリアでフィールドワークを行い、アメリカ・インディアン諸語やツングース系の言語などの研究を進めていた。このような研究方法はそれまでの私が勉強していた方法とは大きく違い、自分としてもなにかをしなくてはという気持ちが強まった。そして、「どうせやるなら人があまり行かない地域の、母語のモンゴル語とはかけ離れた言語をゼロから記述してみたい」こんな素朴な思いで、シベリア北東端、チュコト半島を中心に分布するチュクチ語を研究対象に選んだのである。私はこうして一人でシベリアに渡り、白夜が続く北極圏の土をはじめて踏んだ。

 しかし、自分が思い描いていたチュクチと現実のチュクチとでは相当の隔たりがあった。チュクチはロシアの領域であるため、まずはロシア語がなにをするにも必要とされる。しかし当時の私はほとんどロシア語ができなかった。チュクチ人と会う前にはロシア人役人と会い、なんのために国境警備隊が監視するこの閉鎖地にきたのか、ロシア語で説明しなければならなかった。その難問をなんとか乗り越えて、チュクチ人が住む村にたどり着くと、今度はロシア語を媒介にチュクチ語を調査しなければならない。最初のインフォーマントのおばさんとお会いしたとき、私はきっと不安に満ちた情けない顔をしていたに違いない。しかし、そのおばさんの身振り手振りまじりの一言が私を大きく変えた。「我々チュクチ人は代々言葉を喋らない犬と一緒に暮らして、何一つ不自由はなかった。ましてやあんたと私は人間同士なんだから何も心配することはないんだよ」。その時から、私はチュクチ語を研究するという偉そうな考えを捨て、まるで赤ん坊のようにチュクチ語を一言一言覚え、毎日6時間の勉強が終わると、おばさんを助けて、ツンドラを流れる川から飲み水を汲みに行ったり、ベリーやキノコを摘みに行ったりして、母と息子のように生活をともにした。

 このように最初は村に残った年寄りに頼っていた私のチュクチ語の勉強は、その後遠いツンドラのトナカイ放牧キャンプにも広がり、チュクチ族の本来の現場で、私はさらに生きたチュクチ語を学ぶことになった。
 

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