アイヌ語の特徴と現状 

佐藤知己(北海道大学助教授)

アイヌ語の特徴

 以下、私なりの見解であることをお断りしつつアイヌ語の特徴について述べてみたい。

 アイヌ語の音声的な特徴に関して興味深いものの一つにアクセントがある。アイヌ語の方言の中には、アクセントの区別を持たないものもあると言われているが、沙流方言や千歳方言にはアクセントの明瞭な区別がある。アイヌ語のアクセントは高さアクセントだが、これまでは、アイヌ語のアクセントと言えば、派生や屈折などによって単語の外形が決まった後、添えもの的に一番最後に与えられるように、なんとなく考えられて来たと言ってよい。しかし、実はもっと抽象的な、早い段階からアクセントの位置が決まっていて、それが単語の外形が決まる最終的な段階に至るまで、ずっと深い影響を及ぼし続け、非常に重要な役割を果たしているのだ、ということがわかって来たのである。こういう考え方は、既に一部は研究会で発表したり書いたりもしたが(『アエラムック』14、朝日新聞社、1996年)、最近では私とは別に同様なことを考える人も出てきたようだ。しかし、他方、反例も出されていて、最近出たある本でも、例えば、私の考え方だと、ku-wépeker私が昔話を語る」となると予想されるものが k-úwepeker と表記されたりしている。この方は、私と同じようにアクセントとの関係で uw になる場合がある、と考えているにもかかわらず、肝心のアクセントの位置が私の理論に反する例を出されているわけである。困ったが、別売りのテープでこの箇所を聞いてみると、欲目か、私の理論通り、kuwépeker と発音しているように聞こえる。しかし、直接現場で生の音声を聞いた本人が証拠のテープも付けた上で明白に k-úwepeker と表記しているのにはやはり磐石の重みがある。思案投げ首である。また、この方は、「挿入音」(私は挿入子音という名前を使っている)という私と似た用語をお使いで、ruwoka〜の死後」の w のような子音も挿入音と呼んでいる。しかし、私は、このような w を挿入音と呼ぶのはあまり適当ではないと考えている。少なくとも uwepeker w とは少し性質が異なると思っている。このように、この問題は、かなり複雑な問題を含んでいて、さらに考察を続けて論文を書いている最中である。

 次に、単語の構造の特徴について見てみよう。アイヌ語の単語形成法で興味深い特徴の一つは、やはり「抱合incorporation」であろう。簡単に言うと、名詞と動詞を合体して、新しい動詞を作ってしまうのである。一見、簡単で、どの言語にもありそうだが、こういうやり方を全く許さない言語も少なくない。おもしろいのは、「主語」が抱合されてしまう場合で、例えば、koy-は「」、yanke は「陸へ上げる」という意味だが、両者を合体して、koy-yanke という単一の動詞を作ることができる(詳しくは宮岡伯人編、『北の言語』、三省堂、1992年の拙稿を参照)。抱合がある言語でも、このように他動詞の主語まで抱合できる言語はそうはないと思われる。しかも、興味深いことに、このような動詞の「目的語」は「主語」として表示されるのである。例えば「波が私を陸へ上げる」を koy-yanke-という動詞を用いて表現すると、ku-koy-yanke となる。ku-は一人称主格の形だから、もともと目的語であったものが、最終的には動詞の主語に「格上げ」されてしまったわけである。このような現象は raising昇格」と呼ばれて、他の言語でも注目されているが、実はアイヌ語にもあるのである。

 後でもふれるが、アクセントといい、語形成といい、アイヌ語は今まで考えられていた以上に、表面的な構造と、その基になる深いレベルの構造との距離が大きい言語だ、と言うことになるかもしれない。

アイヌ語の現状

 平成5年は私にとって生涯忘れることのできない年だった。アイヌ語を教えていただいていた静内の織田ステノさん、千歳の白沢なべさんがあいついで亡くなられたからである。織田さんも素晴らしい人だったが、白沢さんも本当に素晴らしい人だった。アイヌ語に関して言えば、白沢さんは私にとって神様のような存在である。亡くなった後でも、白沢さんの資料を整理していると、アイヌ語というものがここまで整然とした体系を持っているものなのか、という畏怖に近い驚きを何度か経験させられた。今、お元気でいてくれたら、と思わない日はない。その後の2年間は呆然として半分死んだような状態だったが、幸運にも平取の上田としさんという方と親しくなることができ、今はこの方からアイヌ語を習っている。楽観はできないが、まだまだ上田さんのようなすばらしくアイヌ語のできる方がいるのである。平取は沙流方言の中心地で、アイヌ語を勉強する人の大部分はまずこの方言を勉強する。しかし、私にはこれまで沙流方言を直接学ぶ機会が全くなかった。今、ようやく、晩学ながら、この方言を学ぶ機会ができて、本当に有り難く思っている。上田さんは、人間離れのした、ずば抜けた頭脳の持ち主で、行くたびごとに感心させられる。アイヌ語について、さらに考察を深めさせてくれるような例をこともなげにどんどん出される。例えば、sir-peker夜が明ける」という単語は誰でも知っているが、sir-ko-peker夜を明かす」という単語もあるということは、上田さんから初めて教わった。この単語は ku-sir-ko-peker私が夜を明かす」のように使うが、もともとは、「私(ku-)に対して(ko-)天候が(sir-)明るくなる(peker)」という構造をしていると考えられる。おもしろい点は二つあって、一つは接頭語 ko-の「目的語」であるはずの「私」が、実際には動詞全体の「主語」として現れているという点で、言語学的には既に触れた「昇格raising」と呼ばれる現象を引き起こしていると考えられることである。もう一つは、ko-の現れる位置で、なぜこのように真ん中に現れなければならないかが問題である。おそらくは、sir-peker が派生や屈折に関して閉じた動詞であるということが原因だと考えられるが、いわば語幹の中に割って入る、とでも評したいような構造がアイヌ語にあることは、私にとって驚異であった。このことは、アイヌ語の構造を考える上で大変重要な意味を持っていると思う。従来のアイヌ語学は、単語の構造をその表面構造に極めて忠実に解釈することで発展して来たが、実はアイヌ語の単語の形というものは、もともとの構造を、文法関係を変更する色々な規則を適用したり、表面構造を制約する種々の網をかけたりして修正を重ねたあげくに出てきたもので、それを表面構造をなぞって解釈しただけでは、アイヌ語の構造が本当にわかったことにはならない恐れがあるのである。たとえば、maw-ko-wen という単語は、ある人の分析では「〜が悪い風の吹き廻しで没落する」と解釈されている。訳のおどろおどろしさの当否はともかく、いわばこれは表面構造に忠実な解釈で、そういう解釈も勿論不可能ではない。しかし、私は、この単語は sirkopeker と同じ構造をしていると考えた方が良いと思っている。つまり、ku-maw-ko-wen のような形は、もともとは「私に(ku-)に対して(ko-)風が(maw)悪い(wen)」という構造で、ko-の「目的語」である「私」が「主語」に昇格したものだ、と考えるのである。同じように解釈可能なものとしては、kur-ko-tunas中風になる」のような例があげられる。一見、問題がなさそうな例の中にも、二様の解釈の可能性を秘めているものが隠れているのである。

 上田さんのおかげで、今までは気が付かなかったアイヌ語の特性が色々とわかってきて、本当に感謝している。上田さんは昨年、道の表彰を受けられ、益々お元気であるが、今後の上田さんとご家族のご幸福を心からお祈りしたいと思う。  

おわりに

 どの先生にアイヌ語を教わったのですか、とよく尋ねられる。私がアイヌ語を本格的に勉強し始めたのは、大学で言語学を専攻するようになった15年程前のことで、そんなに古い話ではない。しかし、当時はまだ、アイヌ語の授業を持つ大学も身近になく、手軽な入門書もなかったように思う。その頃にアイヌ語のアカデミックな専門家の指導を受けていれば、今頃はもっとましな研究者になれていたかもしれない。アイヌ語の学びにくさは、以前に比べれば大分改善されているとは思うが、まだまだ十分とは言えない。事大主義で、外国語や外国の理論に連なるもののみを「一流」と称し、身近なものは、身近であるがゆえに訳もわからずただなんとなく貶める、というのが、日本のアカデニズムの通弊であるとはよく言われるところだが、昔も今も状況があまり変わっていないように思えるのは残念である。大したことはできないが、私なりにアイヌ語が学問的な考察の対象となり得るものなのだ、ということを証明するために残りの人生を捧げたいと思っている。

 アイヌ語は魅力ある言語であるが、アイヌ語の調査を通して知り合った話し手の方々もまた魅力ある人ばかりであった。大部分は学校教育など全く受けていない人だったが、いわゆる頭の良い人が入ると言われている大学を出ているような人と比べても遜色ない教養と風格を備えた方々ばかりだったと思う。アイヌ文化の底力である。

  アイヌ語の価値がもっともっと正当に評価されて、より多くの人がアイヌ語に興味を持って下さることを、一研究者として心から願っている。