イテリメンのことばと文化                 

小野 智香子(千葉大学大学院博士課程)

ペトロパヴロフスクカムチャツキー市 インフォーマントの女性たち カムチャッカ州郷土博物館に展示されている「古代イラリメン文化」の様子

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カムチャツカの先住民イテリメン

 カムチャツカと聞いて皆さんは何を思い浮かべられるだろうか。ヒグマが川でサケを捕る姿、豊かな大自然。火山群と数多くの温泉。ソ連崩壊後、外国人がこの地に入れるようになってから、カムチャツカに関する情報が少しずつもたらされるようになった。テレビ番組などで目にした方も多いであろう。近年では観光も盛んになってきている。かつて、このカムチャツカの地の大部分を占めていた民族がいる。イテリメン族と呼ばれるこの人々は、北はコリヤーク族、南は千島アイヌと接し、17世紀末の人口は約2万人と言われている。しかしロシア人の侵入後は、混血とロシアへの同化、紛争や伝染病の流行などで人口が激減、現在では2400人ほどしか残っていない。かつてはカムチャダール族と呼ばれていたが、現在は「カムチャダール」は正式な民族名称ではない。イテリメン語の話者は統計上は500人を越えているが(母語保持率.23.2%)、実際はもっと少ないと思われる。

イテリメン語の特徴

 イテリメン語は伝統的にはチュクチ語、コリヤーク語、ケレク語、アリュートル語と同系であると言われているが、最近の研究ではそれを否定する論議、いわゆる「イテリメン問題」が指摘されている。

同系とする根拠:   

1 動詞の活用が似ている。  

2 音声や語彙に違いは見られるが、それはイテリメン語が早い時期にチュクチ・コリヤーク語のグループから分離し他言語の影響を受けたからだと 考えられる。  

3 イテリメン語に、チュクチ・コリヤーク語に特徴的な抱合(インコーポ レーション)と語幹結合が存在しないのは、イテリメン語がその特徴を「失 った」からである。

同系説否定の根拠:  

1 音節構造の決定的な違い。チュクチ・コリヤーク語が母音を挿入して子音連続を防ぐのに対し、イテリメン語は母音連続を防ぐために子音を挿入する。  

2 イテリメン語では名詞・形容詞は人称変化しない。

3 イテリメン語はチュクチ・コリヤーク語のような能格構造を持たない。  

4 テンス・アスペクトマーカーの位置の違い。チュクチ・コリヤーク語では語根の前、イテリメン語では語根の後の位置に現われる。  

5 イテリメン語には、チュクチ・コリヤーク語に特徴的な抱合(インコー ポレーション)と語幹結合がない。

6 動詞の人称標識の類似と名詞の格の一致は借用によるものである。

7 イテリメン語にはかつて3つの「言語」(西部語・東部語・南部語)が存在していた。同系説をたてている研究は現在残っている西部語だけをチ ュクチ・コリヤーク語と比較・対照しているが、この西部語が最もコリヤーク語の影響を受けていると考えられるため、両者の類似点は系統が同じ であるということの根拠にはならない。そのほか、アリュートル語、ケレク語は以前チュクチ語、コリヤーク語の方言とみなされていたが、最近では独立した言語とする立場もあるし、チュクチ語、コリヤーク語、アリュートル語、ケレク語はすべて一つの言語「チュクチ・コリヤーク語」の方言であるという立場もあり、チュクチ・カムチャツカ諸語の研究に残された課題は多い。しかも話者数が減ってきているため緊急に記録・記述しなければならない。

カムチャツカでのイテリメン語調査

 私は1997年8月〜9月の約一カ月間、初めてカムチャツカでイテリメン語の調査を行った。当時大学院の博士課程の学生だった私は、調査の一年前から休学し、マガダン市(ロシア連邦マガダン州)の大学で日本語を教えて生計を立てながらチュクチ語の勉強などをしていた。1997年6月にマガダン大学での仕事が終わり、大学から休暇手当や帰りの旅費を苦労して手に入れて、なんとか夏の間カムチャツカに滞在するめどがついたのである。マガダンからペトロパヴロフスク・カムチャツキー(カムチャツカ州の州都)まではハバロフスク又はウラジオストク経由の便しかない。日本から行く場合も同様である。

 こうしてペトロパヴロフスク市に到着した私は、以前から連絡を取り合っていたイテリメン女性、V・I・ウスペンスカヤ氏をインフォーマントに調査を始めた。彼女は一九四一年生まれ、セダンカ・オセードラヤ村出身である。地元の新聞『アボリゲン・カムチャツキ(カムチャツカの原住民)』の編集者でもあり、イテリメンの言語・文化を残す活動に意欲的な女性だ。現在残っているイテリメン語は西部語と言われているが、その西部語は北部方言(セダンカ方言)と南部方言(コヴラン方言など)に分類される。現在は南部方言が優勢で、小学校の教科書・辞書はすべて南部方言で作成されている。ウスペンスカヤ氏は数少ないセダンカ方言の話者であり、私自身もこれまであまり研究されていないセダンカ方言に大きな興味を持った。はじめて聞くイテリメン語の音声に興奮を覚え、徐々に基礎語彙の収集や、用意していたロシア語の文をイテリメン語に訳してもらう作業などを行った。

イテリメンの語彙ー生活を映すことばの多様性

 語彙はそれぞれの言語の話者が背景に持っている環境、生活、文化を最も忠実に反映する。イテリメン語においても、当然ながらカムチャツカの自然やそれらを利用して作った物に関する語彙が豊富である。中でも特に目を引くのは魚に関する語彙である。「魚」という一般名称もあるが、イテリメン語では魚のオスとメスを別の語で表す。魚の体の部分の名称は「頭」「頭の軟骨の部分」「頭の前の軟骨の部分」「腹」「背」「後ろの背びれ」「大きな背びれ」「鱗」「皮」「卵」「尾びれ」のように細かく区別される。また「魚の頭」「動物の頭」「鳥の頭」はそれぞれ違う語で表される。魚の加工・調理の仕方によっても様々な語彙があり、「背から切り開いた魚」「薄切りの生食用冷凍魚肉」「焼いた魚」「丸ごと焼いた魚」「煮た魚」「煮た魚の頭」「発酵させた魚」「発酵した魚の頭」「魚の干物」「野天干しにした魚全体」「煮て少し野天干しした魚」「魚の肉を野天干しした帯」「ハエの幼虫によって食い破られた魚の干物」「小さい魚を編んだ二つの束」「野天干しにしたイクラの束」など実に多様であり、魚が日常の食事でいかに重要であるかを物語っている。

 その魚を捕るための装置についての語彙も多い。「魚を捕獲する装置」(川に仕掛ける罠)、「閉じこめ式の罠」「四つ足の(閉じこめ式の)罠」などがあり、さらにそれらの装置の部分「閉じこめ式の罠の扉」「びく型の罠の扉」「太い枝の束で作った閉じこめ装置の柵」「閉じこめ式装置の前部の柵」「閉じこめ式装置の後部の柵」「閉じこめ式四つ足罠の柵」「閉じこめ式装置の前の杭」「閉じこめ式装置の中心の杭」など、細部にわたって名称が付けられている。

 そり(特に犬ぞり)の構成部分に関する語彙も非常に豊富である。「そり前方の水平なまがり木」「そりの操縦に使う垂直なまがり木」「そりの滑り木」「そりの台を支える支え木」「そりの二本の支え木を固定する横木」「そりに敷く台板」「そり支え木を縛り付ける革紐」「そりの前部のまがり木を支え木に固定する革紐」「そりの積み荷を縛る革紐」「犬の装具の引き綱」「(金属製の先端がついた)そりを操る棒」などたくさんあるのだが、「そり」という一般名称はなぜかロシア語からの借用語nartaである。

 イテリメン族は伝統的には狩猟・漁労・採集で生活していたので、隣接するコリヤーク族やエウェン族と違いトナカイに関する語彙は少ない。「野生のオストナカイ」「野生のメストナカイ」「家畜のトナカイ」「トナカイの子」のように、野生か家畜か、雄雌、子という単純な区別しかない。  おもしろいのがアザラシに関する語彙である。「1〜2歳のアザラシ」「3歳のアザラシ」「3〜4歳のアザラシ」「4歳以上の大きなアザラシ」「1歳のアゴヒゲアザラシ」「2歳のアゴヒゲアザラシ」「4歳のアゴヒゲアザラシ」「五〜六歳のアゴヒゲアザラシ」「中年のアゴヒゲアザラシ」「年老いた大きなアゴヒゲアザラシ」というように年齢によって区別されているが、数詞とは形態的に関係がないようである。ではいったい何によって、何のために区別する必要があったのか、おおいに興味をかきたてられる例である。

 これらの動物の毛皮とその加工法に関する語彙も多い。「トナカイの毛皮」「トナカイの足の毛皮」「煙でいぶったトナカイのなめし皮」「トナカイの白いなめし皮」「犬の毛皮」「アザラシの毛皮」「切り取ったけばの付いた真皮をとった毛皮」「生皮の内薄膜」「柔らかい皮」など。また毛皮の加工品の語彙も豊富で、「冬のトナカイの毛皮でできた上着」「夏のトナカイの毛皮でできた上着」「(衣服を雪から守るための)密閉した上着」「古い毛皮上着」「トナカイのなめし皮のズボン」「男性用のズボン」「女性用のズボン」「冬用の男性のフード」「毛皮上着のフード」「女性用フードのつば」「毛皮の長靴下」「冬用の毛皮の履き物」「日常の夏の履き物」「日常の春秋用の履き物」「狩猟・漁業用の柔らかい皮長靴」「狩猟・漁業用の夏の履き物」「トナカイのなめし皮で作った祭日用の夏の履き物」「家用の履き物」「手袋」などの衣類の名称やその構成部分の語彙も非常に多い。

 以上、イテリメン語において特に多様な語彙を有するものについて簡単にご紹介した。たくさんの語彙があるということは、それぞれの物や行為に対する明確な区別がことばによって行われているということである。伝統的な生活から近代的な生活に変化したことにより失われた語彙もあれば新たに作られる語彙もあり、良くも悪くも、ことばはそれを話す人々の生活を映す。イテリメン語には、カムチャツカで培われてきたイテリメン族の智恵が詰まっているのである。

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