意外性との出会い -ヌートカ語-

中山俊秀(モントクレア大学助教授)

語と人々について

 カナダ西部第一の都市バンクーバーの沖に横たわるバンクーバー島。「島」といっても南北の長さでは北海道に匹敵する大きさである。緯度は日本の最北端よりもさらに北に位置するが、海流の関係で、気候は北日本に比べて温暖である。このあたりは夏を除いて雨が多いため、森林が深く、海岸の近くまでヒノキやマツなどの針葉樹が鬱蒼としている。そしてサケ、クジラ、貝類など様々な海の幸も得られ、豊富な自然の恵みに支えられて数々のインディアン文化が栄えた。筆者が研究をしているのは、そんなバンクーバー島の西岸に住むヌートカ族の言語である。ヌートカは北西海岸地域では有力な部族で、かつて盛んに行われた白人とインディアン諸部族間の交易でも重要な役割を果たした。また、その捕鯨、カヌー作りの技術でも名高い。

  「ヌートカ」という呼び名は、かの有名なキャプテン・クックがこの地に訪れた際つけられた。これはヌートカ語の nuutxaaヌートハー/回っている)からきており、一説では、船の修理と食料補給の場所を探してふらふらしていた一行を見たヌートカの人々がクック船長に「あんたたちぐるぐる回ってるのかね」とでも話しかけたのを、自分たちの名前を言っていると勘違いしたのだという。しかし、この「ヌートカ」の名は当事者たちの間では白人につけられたものとして好まれず、今では「山々の連なりに沿って(住む人々)」という意味の Nuu-chah-nulthヌーチャーッヌヒ)が正式名称として用いられている。ただ、この名称はまだあまり広く知られていないので、ここでは旧来の「ヌートカ」を使っておく。

  ヌートカ語の現在の話者について、正確な数はつかめないが、多く見積もっても100人をそれほどこえないであろう。ヌートカ語しか話せない人はいなくなって久しく、英語との二言語話者も多くが70代以上の高齢者であるため、ヌートカ語は典型的な「絶滅の危機に瀕する言語」といえる。言語がまだ広く使われていた頃には15ほどの方言があったが、話者が減るにしたがって方言間の差も急激に失われている。このような状況に対して、地元ではヌートカ語の保存と子供たちへの伝承のための努力がなされているが、何といっても今の親の世代が既に話せなくなっているために、言語の再活性化は思うようには進んでいないというのが現状である。

ヌートカ語の実地調査

 筆者は1991年以来、夏の間1、2ヶ月バンクーバー島に赴いて言語資料を収集している。調査の拠点は、島の南端部ブリティッシュ・コロンビアの州都でもあるビクトリア、そしてそこから北に車で4時間ほどのところにある林業とスポーツ・フィッシングの町、ポート・アルバーニにおいてきた。調査の際に最もお世話になったジョージ・ルイさんは、残念ながら数年前に他界されたが、カヌー彫りの名人で、伝統文化の中で生まれ育った最後の世代の人だった。失われつつあるヌートカの言語・伝統文化の保存に尽力し、その努力を讃えられてビクトリア大学から名誉博士号を授与された人物である。筆者の調査に協力し始めた時には既に高齢であったが、週末もいとわず応じてくれ、時には退屈な質問にもつき合ってくれた。もう一人のヌートカ語の先生、キャロライン・リトルさんは、ルイさんより一世代あとの人だが、やはり言語や伝統文化の知識を後世に残そうと様々なプロジェクトに意欲的に取り組んでいる。やさしいおばあさんで、いつも満面の笑みで出迎えてくれる。リトルさんは地元のインディアンの学校で教鞭をとっていたこともあり、大変辛抱強く、説明上手ないい先生だ。調査は、そんな人々の好意、そしてこの研究が言語と文化の保存に貢献してくれるようにという願いに支えられて進んでいる。

  言語の研究というと、語彙や文法規則のことばかりかと思われがちだが、必ずしもそうではない。我々の社会生活・文化は言葉を通して形成され、維持され、そして後世に伝えられていく。言ってみれば、言葉は人々の生き方そのものなのだ。そんな「生きざま」としての言葉をとらえたいと思っている研究者にとっては、実際に話者が言葉をどう使っているかが観察でき、言葉の「息づかい」みたいなものが感じられる実地調査は大切なものだ。

 何にも代え難い実地調査だが、これが簡単ではない。経済的負担は言うに及ばず、人間関係や政治的問題などが絡んできて、一筋縄でいかないことが多い。いざ調査を始めても、言語資料の収集は様々な社会規範や制約から逃れられないし、調査者もその制約を知り尊重することが大切だ。たとえばヌートカ社会では、歌、踊り、伝統のなかに個人、家族、または氏族が所有するものがあり、所有者以外の人が歌ったり話したりすることは許されない。よそ者には、たかが歌、お話じゃないかと思われるかもしれないが、そうしたものの多くは先祖が超自然的体験(「夢のお告げ」のようなもの)を持った際に特殊能力(天才的な狩の腕、芸術的才能など)とともに授けられたとされ、代々注意深く守り、受け継がれてきた神聖な権利である。それを侵害したり、軽んじたりしないよう常に気を配らなくてはいけない。

ヌートカ語のしくみ

 世界で話されている言語はどれも特有の「くせ」を持ち、それぞれ違った側面で研究する者の興味をかきたててくれる。したがって、ある言語が他に比べて特別に変わり者だとは言いにくいが、それでもこのヌートカ語は、言語構造上の「くせもの度」という点ではなかなかのもので、かなり悩ませられる。

 数ある特異性の中でも一番広く知られているのが、名詞・動詞の区別の不明瞭なことである。たとえば日本語では、「人」「炭」「火」などは名詞で、「走る」「落ちる」などの行いや出来事を表わす動詞とは別物だ。ところが、ヌートカ語では基本的には物の名前を表わす語も動詞のように使うことができる。たとえば、qu は「」という名詞的な意味を持つが、そのまま動詞的な活用も見せ、quiii(直訳すれば「人ッテクル」=「一人前の人になってきた」の意)と使うこともできる。その他の例では、tumis」はそのままで「炭を塗る」の意の動詞(「炭ル」とでも訳せるだろうか)として、ink 」は、「火ル=火が燃えている)」という動詞として使えるという具合だ。

 語の作り方の面でも、ヌートカ語はちょっと変わっている。語の形成でよく見られるものの一つは、語の意味的核になる語根と付属要素の接辞を組み合わせるやり方だ。たとえば、日本語の「上品(語根)+ぶる(接辞)」とか、「わかり(語根)+にくい(接辞)」などがその例だ。ここでの「ぶる」、「にくい」という要素を見てもわかるが、接辞というのは、日本語を含むたいていの言語では抽象的な意味しか表わさず、語の核となる語幹を修飾する役割を果たすにとどまる。ところがヌートカ語には文法的には接辞でありながら、独立の語のような具体的な意味を表すものがある。いくつか例を挙げると、-imグループに集まって」、-ipi 家の中に」、などがある。これらは、意味的には立派な語のようであるが、単独で使うことはできず、必ず他の核になる語と組み合わせなくてはならない。このような接辞を伴うと、一つの語でありながらかなり複雑な意味を持つことになる。たとえば、ヌートカ語では aqimyipiaquua 彼らはよく家の中に集まったものだ」( aqまとまる」+-imグループに集まって」+-ipi 家の中に」+-a 〜のだ」+-quu よく〜する」+-a 複数)というような一つの文に匹敵するほどの意味を一語で表すことができる。これは、具体的意味を持つ接辞を駆使することで可能となっている。いったいどういう要素がこのような特殊な接辞として現れるのか。一般的には、人々の社会生活に深く刻み込まれた習慣的行動や概念が多く表現されており、逆にいえば、接辞に表されている意味から、ヌートカの生活様式やそれを取り巻く環境が見えてくる。たとえば、-caaq〜を集めるので忙しくする」、-ata〜を捕らえようと努める-ii 〜を狩る、集める」などは狩猟と採集を主とした生活形態をうかがわせる。北西海岸地域では伝統的に、ポトラッチと呼ばれる習慣がある。これは冠婚葬祭にあたって大々的に行われる披露の宴で、ヌートカ社会の中でも非常に大切な位置を占める。その重要度を考えると、-uua〜のためにポトラッチを催す」とか -in 〜をごちそうに出して宴を張る」などというポトラッチのまつわる特別の接辞があることも納得がいく。

語句による範疇化

 この連載で今までに紹介されてきたように、それぞれの言語の語彙の違いは、単に同じ物を何と呼ぶかというラベルの違いにとどまらない。たいていの場合、言語間の違いは意味領域の区分の違いがからんでいてヌートカ語も例外ではない。たとえば、「泳ぐ」という概念はヌートカでは3つに区分される。uak は「(魚・クジラなどが群をなして泳ぐ」、cisaa は「(水鳥・アザラシなどが水面を滑るようにして泳ぐ」、susaa は「(人間・陸にすむ動物が泳ぐ」と、泳ぎ方によって3通りに使い分けられる。日本語ではすべて「泳ぐ」と訳すしかない。また、陸上の動きを示す語彙(「歩く」「走る」に相当する語彙)にも日本語にはない区別が見られ、動きが4つ足か2本足かによって異なった語が使われる。「走る」に関しては4つ足の muukmuuka走る動物が)」に対して、2本足の kamatquk走る人間・鳥が)」があり、また「歩く」については、saak歩く動物が4つ足で)」と、yaacuk 歩く人間・鳥が)」の区別がある。

  これらの語彙に見られる意味領域の区分の違いが興味深いのは、それが単に単語の意味の問題にとどまらず、話し手がある現象をどうとらえるかにも影響するからだ。たとえば、遠くの林の中で何か歩いているのを見たとしよう。日本語の話し手だったら、ただ「なんか歩いていた」といえばいいが、ヌートカ語の話者だったら、何本足で歩いているかもう少し目を凝らして見てみようと思うだろう。とにかくヌートカ語では「なんか2本足歩きをしていた」、もしくは「なんか4つ足歩きしていた」と言わなくてはならないわけで、それを見極めるまでは、どう表現していいかわからんということになる。このように、語彙の組み立ての違いは単語上の違いにとどまらず、その言語の話し手が普段どのような現象面の違いに気を配っているかということとも関係しておもしろい。

 「くせもの」のヌートカ語との付き合いには「予想外」のことがつきもので苦労も多いが、そんな「予想外」との出会いは、我々の「常識」が実は結構狭いもので、数ある「常識」の中の一つに過ぎないのだということに気がつかせてくれる。