イヌピアックのことばと文化

永井 忠孝(東京大学大学院博士課程)

アラスカの言語分布

アンブラーの風景
アンナ・ミニー
アーナ・ミニーと彼女の作った干し魚

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イヌピアック語の分布と概況

 東エスキモー語は、アラスカ北部、カナダ北部、およびグリーンランドで話されている方言の連続体である。そのうちアラスカ北部で話されている東エスキモー語をさして、イヌピアック語と呼ぶ(イヌピアック Iupiaq は、この言語で「本当の人間」という意味)。

 イヌピアック語は、現在全ての世代によって話されているわけではない。地域によって異なるけれども、私の調査地であるコブック川上流地域では、イヌピアック語を英語よりも流暢に話す世代は、およそ60代が下限である。それから下は、世代が下るにつれて英語がイヌピアック語をしのぐようになり、10代以下の世代ではイヌピアック語を聞いて理解することもできない。要するに、イヌピアック語も消滅の危機に瀕した言語である。

 私は、1996年からこれまでに5回、通算一年近くにわたって、アンブラーというコブック川上流に位置するイヌピアックの村でこの言語を学んできた。一般にエスキモーといえば、アザラシなどの海獣を狩猟するというイメージが強い。海岸沿いに住むイヌピアック(タギウグミウト Taiumiut海の民」と呼ばれる)に関してはそのとおりだけれども、このあたりのイヌピアック(ヌナミウト Nunamiut内陸の民」と呼ばれる)は、カリブーやクマやムース、それにサケやマスなどを主食とする。ここで私にイヌピアック語を教えてくださるのは、ミニー・グレイさん、通称アーナ・ミニー( aana はイヌピアック語で「おばあさん」)。1924年生まれの快活なおばあさんだ。昔はこの村の小学校でイヌピアック語の先生をしていた人で、イヌピアック語の辞書の編纂や口承説話の文字化にも携わってきた、イヌピアック語出版界ではちょっとした顔でもある。私は毎年夏にアンブラーを訪れる。夏は彼らにとって、引き網漁にカリブー狩りにと忙しい時期なのに、アーナはほとんど毎日私のために時間を作って教えてくれる。ありがたいことだ。  

イヌピアック語の特徴

 イヌピアック語に特徴的なことは、接尾辞が非常にバラエティーに富んでいるということだ。他の言語だったら独立した単語で表されるようなかなり具体的な意味を表す接尾辞がたくさんあるのである。日本語で接尾辞といえば、受身の「-れる」とか丁寧の「-ます」とか複数の「-たち」とか、その種類・数は知れたものだが、イヌピアック語はその比ではない。ほんの少しだけ例をあげると、-nu--が痛い」、-iyaq--を壊す」、-nit--の匂いがする」、-luq-残念なことに-」等々。これらは全て接尾辞としてしか使われない。つまり、単独で使われたり、単語の頭に現れたりすることはない。

 この特徴に起因して、イヌピアック語は次のような性質をもつ。

 1、接尾辞を多く含んだ長い単語が多い。

 2、かなり基本的な概念を、語根と接尾辞の組合せで表す。

 まず、長い単語が多いという点について。言語の構造全体に関する限り、あらゆる言語は大体同程度に複雑だ、というテーゼは現代言語学における暗黙の仮説である。ただしこれは、どの言語も同程度に学びやすい、ということを意味しない。イヌピアック語は、世界の言語の中でも稀にみる学びにくい言語なのではないか、と私は勝手に思っている。それは何よりも、この言語では単語の長さに限度がないからである。意味的におかしくない限り、息が続く限り、豊富な接尾辞をいくらでもくっつけて長い単語が作れる。例えば、今までに私が採録した談話の中で一番長い単語は、次のとおりだ。

kuvraq-tu-uraa-na-umiai-i-gaqsi-li-ukna-aa 網-使う-長い間-ねばならない-かもしれない-ない-なる-今-多分-三人称単数主語三人称単数目的語)「今では長い間網を使わなくてもよくなったと思う」

この単語では、実に八つの接尾辞が並んでいる。これはこれ全体でひとつの単語で、一息で発話されるわけである。このような単語をテープから起こすのは大変だし、分析するのも大変だ(実際、この単語は1996年に採取したものだが、それを完全に分析できたのは今年の夏だった)。このような単語に出くわすたびに、先の私の勝手な思いこみを再確認するのである。

 次に、先に挙げた二番目の性質について。例えば、日本語で「歯」という単語は、それ以上分析できない。だから、日本語の話し手は、〈歯〉という概念を、それ以上分析できない基本概念として捉えているはずだ。でもそれは必ずしも普遍的なことではない。事実、イヌピアック語ではそうではない。この言語では、「」はkig-un(噛む-ためのもの)である。このように、イヌピアック語では、大抵の言語がそれ以上分析できない単語で表す概念を、語根と接尾辞の組合せで表すことが多い。そしてここに、この言語がその概念をどのようなものとして捉えているかを見ることができる。いくつかこのような例をあげると、「生きる」は iu-u- (人間-である)、「誕生日」は anni-vik (出た-時)、「心臓」は uumma-n (生きる-ためのもの)、「やかん」は uunaq-sii-vik (熱く-する-ところ)、「開ける」は talu-iq- (戸-をなくす)という具合だ。こういう調子だから、外来の事物を表すことばも、その多くは借用によらず、持合せの素材で表現する。例えば、「バンドエイド」は puu-ksraq (覆い-になるもの)、「アイロン」はqaiq-sa-un(滑らかに-する-ためのもの)。このように、イヌピアック語では、ひとつひとつの単語にも、話し手のものの見方が表れている。

双数形/複数形で表される名詞

 イヌピアック語の名詞には、単双複の数の区別がある。もちろん、単数形はひとつのもの、双数形はふたつのもの、複数形はみっつ以上のものを、基本的には表すわけである。しかし、ひとつでも双数形または複数形で表されるものがあり、そこにこの言語のものの見方が表れる。

 まず、双数形から。例えば英語で、靴は1足でもshoes、ズボンは1本でもtrousersと複数形で表される。おおざっぱにまとめると、対になっているものや左右対称のものはふたつのものとして捉える、とでもいえるだろうか。これと同じことがイヌピアック語にも見られる。違うのは、複数形とは異なる双数形が用いられる点だけだ。例えば、「ブーツ」は1足でも kammak、「ズボン」 は1本でも kamikuuk と、いずれも双数形で表される。ここまでは、英語の知識からも理解しやすい。しかし、このような双数形の用法は、イヌピアック語ではもっと広い。体の部分を表す名詞のいくつかは、双数形で表される。例えば、「背中」は quliik、「」は narraak、「」は iqquk、どれも双数形だ。これらの例から、イヌピアック語は、背中のような体の部分を、右側と左側が合わさって全体をなすものとして捉えていることがわかる。

 次に、複数形。いくつかの名詞は、ひとつかふたつのものを表すのにも複数形が使われる。例えば、「」は、1台でも qilich と複数形だ。その理由をアーナに尋ねると、「橇はたくさんの部品でできているから」との答え。他にも例えば、「食卓」はniiiaviich、「手袋」は argaatと、いずれも「たくさんの部品でできているから」複数形である。それではたくさんの部品でできているものはなんでも複数形かというと、そうではない。飛行機や自動車は、橇よりもずっとたくさんの部品でできているはずだが、「飛行機」は timisuun、「自動車」は aksraqtuaqで、(1台だったら)単数形である。ここで、橇と飛行機の違いを考えると、前者はイヌピアックが伝統的に自分達で作ってきたものであるのに対し、後者は出来上がった全体を外部から与えられたものである。すると、複数形で表されるものの共通点が見えてくる。それらは、彼らが昔から自分達で作ってきたものであり、たくさんの部品でできていることを身をもって知っているものである。この言語は、そのようなものを、複数形で表すに値するものとして捉えるのである。  

男言葉・女言葉、タブー、婉曲表現

 男言葉と女言葉の違いは、どんな言語にも多少なりともあるはずだ。日本語ではこれがわりと著しいし、英語ではあまり目立たない。さてイヌピアック語はというと、私は今のところ、男言葉と女言葉の体系的な違いといえるようなものを見出せないでいる。そんな中でひとつだけ、男言葉と女言葉の明らかな違いを学んだ。それは、熊を表す単語である。イヌピアック語で「クマ」にあたる単語はなく、「ヒグマ」は akaq、「クロクマ」は iyyariqである。ただしそれは男言葉の話で、女性はどちらにもpisruk-tuaq(歩く-もの)という語を使う。明らかに婉曲表現だ。さて、どうして女性は akaq iyyariq を使えないのか、アーナに尋ねてみたところ、「女がそれを見たり、その名前を言ったりすると、男たちの狩りがうまくいかなくなるから」だそうだ。この男言葉と女言葉の違いは、akaq iyyariq が女性にとってタブーであることに由来していたわけである。なお、男言葉だけ見ると、イヌピアック語は〈ヒグマ〉と〈クロクマ〉を全く異なるものとして範疇化しているように見えるが、女言葉を見ることで、イヌピアック語も日本語の〈クマ〉に似た範疇をもっていることがわかる。

 以上、イヌピアックのことばと文化について、私が学んできたことの一部を述べてきた。もちろん私が学んできたことも、この言語の全体像のごく一部である。これからも、この言語を楽しみながら学んでいきたい。

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