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ユカギール語の過去・現在・未来  

遠藤 史 (和歌山大学助教授)

ネレムノエ村で  

 まっすぐに伸びた村のメイン・ストリートを、土ぼこりをあげながら練習中の若者のバイクが走っていく。周囲に立ち並ぶ木造の家の前には、走り回ったり自転車に乗ったりして遊ぶ子供たち。ある家の軒先には「ディスコテーク」と書かれている。今は何も騒がしい音楽はかかっていないようだ。しかし、メイン・ストリートを離れて民家の横を歩いていくと、ビートのきいた音楽が聞こえてくる。帰省中の若者がカセットテープを聞いているのだろう。あれは、いまヒットしているヴァレリー・メラッジェの「セーラ」だろうか。それともアメリカのダンス・ミュージックだろうか。

 こんな光景は、ロシアの村では今はごくありふれたものかもしれない。けれども1995年の夏、はじめてこの村に足を踏み入れたときには少々とまどった。なにしろこの村は、北方の諸民族に関心のある人なら、どこかで耳にしたことがあるにちがいない少数民族「ユカギール人」たちの住む村なのだから。

 昨年の夏から3年計画で、私はいまユカギール語の言語学的フィールドワークを続けている。調査地は、サハ共和国(ヤクーチア)のコルィマ上流地区にあるネレムノエ村[地図参照]である。この村の人口は昨年の段階で304人、そのうち169人がユカギール人だ。ヤクーツクから飛行機で3時間半あまりで、コルィマ川沿いのズィリャンカという町に着く。そこからコルィマ川の支流のヤサーチナ川を40キロほど上流にさかのぼったところに、この村はある。といっても読者の多くはこの村のことはすでによくご存知だろう。NHK大型ドキュメンタリー「北極圏」の「追跡・ユカギール最後の20人」が、この村に入って現地取材をしているからだ。圧倒的な映像の迫力で見せたオオジカのハンティングの光景は今も記憶に新しい。それとともに、この番組によって、「滅びゆく民族ユカギール」 「滅びゆく言語ユカギール語」のイメージが、心にしっかりと定着してしまった人も多いのではないかと私は想像する。

 機会あってユカギール語の調査に行けることになったとき、心に決めた目的が二つあった。一つはもちろん言語学的調査。もう一つは、現代の文化の中で生きるユカギール語の姿をしっかり見ておきたいということだ。「文化」というとき、伝統的文化だけを考えていればよいのだろうか。文化は時の流れの中で変容を繰り返していくものだ。とすれば、現代の文化の中で、ユカギール語はいまどのような道を辿りつつあるのだろうか。

伝統的文化とユカギール語

 ユカギール語は東シベリアで古くから話されていた言語の一つで、系統的には孤立している。かつてはかなり広い範囲で話されていたらしいのだが、ヤクート人、チュクチ人、さらにはロシア人などの様々な新興勢力に押されて、その範囲は次第に狭まり、現在は互いに離れた二つの地域しか残っていない[地図参照]。一つは北のツンドラ地帯(ツンドラ方言)、そしてもう一つがコルィマ川沿いのタイガ地帯(コルィマ方言)である。話し手の人口は、ツンドラ方言が約200人、コルィマ方言が約50人。ツンドラ方言のほうが若干活力があるが、それでも「危機に瀕した言語」であることに変わりはない。

 基礎語彙の収集を始めた段階で、伝統的文化と言語との関わりについて述べるのはおこがましいが、それでも伝統的文化が言語の中に刻印を残しているさまはこの段階でもいくつか認めることができる。たとえば、川に関係する語彙。コルィマ・ユカギール人の場合、狩猟や漁労で伝統的には生活を支えてきたから、川は移動手段として欠かせない。舟で川の上流に向かうときにmoejという動詞(三人称単数形、以下同様)を使い、下流に向かうときに ierej という動詞を使うのは、このことを反映していると思われる。(「川に向かう」動きと「川から離れる」動きは、どちらも xoni という動詞を使う。)「では川の向こうに渡るときにはどうするのか、橋は何というのか」とたずねると、「川は舟で渡るもので橋を架けることはしない」と答えが返ってきた。だから、この方言の場合「橋」にあたる単語は欠けている。その「舟」にあたる単語は、昨年出会っただけでもかなりある。たとえば、小舟xarbas2人乗りで板を釘で打って造る舟ekil、3人以上乗りの丸太をくりぬいて作る舟anubuskeいかだminoなど。また、村の周囲の川の名称の由来も興味深い。たとえば、村から上流約20キロほどのところにラソハという名の支流がある。そのユカギール語名をたずねたら、nungedenだという答えが返ってきた。この名はnungen(ロシア語でネリマ)という魚に由来する。つまりその川で多くとれる魚で命名しているわけである。

 ツンドラ方言ではトナカイに関係する語彙が豊富だ。qun'e2才の雄トナカイ」、t'uran2才の雌トナカイ」、n'uorkent'a4才の雄トナカイ」のように年齢や性別を細かく分節するのはその例である(クレイノヴィチによる)。これは当然ながら、ツンドラ・ユカギール人が伝統的にトナカイの遊牧で生活を支えてきたことと関係する。そもそもトナカイの遊牧を知らないネレムノエ村では、このような語彙は欠けている。

現代文化の中のユカギール語

 ユカギール語は現在話し手の人口が減少し、衰退の状況にある。何よりも深刻なのは、若い時代の話し手が激減していることだ。コルィマ方言について見てみよう。1987年にN・バフチン(現 European University at St.Petersburg)が中心になって行った社会言語学的調査では、ネレムノエ村では40歳以下の話し手は平均値で自分のユカギール語を「容易に理解するが、いくつかの定型表現を除けば話せない」という水準以下にあると自己評価している。これは約10年前の調査なので、現在はこの状況がもっと進んでいると考えるのが妥当だろう。

 この状況の中で現地ではいくつかの動きが見られる。第一に学校教育である。1985/86年度からネレムノエ村では学校教育にユカギール語の授業が取り入れられた。村の先生にうかがったところでは、現在1〜4年は週3時間、5〜10年は週3〜4時間のユカギール語の授業があり、1993年には立派な教科書が完成し、成果は着実に上がりつつあるとのことだった。確かに現代文化の中での学校の役割を考えれば、授業が開始された成果は大きい。だが、授業が「ロシア語でユカギール語を教える」という方法であるなどの問題点もある。この方法でユカギール語の運用能力を効率よく高めていけるのだろうか。

 第二に大人に向けたユカギール語の教育である。ツンドラ・ユカギール出身のクリロフ(現ヤクーツク大学)は、ツンドラ・ユカギール語の辞書を完成するかたわら、ユカギール語会話集を2冊出版している。それらを私はネレムノエ村で見ることができたが、「郵便局で手紙を出したい」などの現代的な例文がちりばめられて興味深かった。ユカギール語がこれから生きていこうとすれば、現代の文化に対応したこのような表現が必要となることは明白である。誰がどのように作っていくかは今後の課題であるが、学校教育の次の段階に向けた試みとして評価するべきであろう。

 第三に地元の経済的基盤の整備である。もともとユカギール語の衰退の背景にはその生きてきた経済的基盤が失われつつあることがある。1992年にネレムノエ村で開かれた第一回ユカギール民族大会でもこのことが話し合われ、その後一種の「保留地」のような計画も立てられたと聞く。だが問題は、ネレムノエ村に住んでいるのがユカギール人だけではないということだ。すでにこの村はヤクート人・ロシア人なども交えた多民族状況である。この状況下で「ユカギール人のため」の経済計画を進行させるには、当然他の民族との調整過程が必要とされることになるだろう。

ユカギール語の未来に向けて

 「民族に固有の伝統的文化」という概念は確かにロマンチックであり、人を魅了する。けれども現代にその民族が生きていこうとすれば、伝統的文化と現代の文化との折り合いを何らかの形でつけなければならないだろう。現代の文化から完全に隔絶するという方法をとるのでなければ、何か妥協の方法を見いだす以外に現実的な解決案はない。

 ではユカギール語の場合、その解決案はあるのだろうか。もちろんそれを決めるのはユカギール人自身であるべきなのだが、外部の人間であってもユカギール語を何らかの形で保持するための最小限の助力は可能だと思われる。さしあたって、コンピュータを使ったユカギール語での現地での少部数出版などはどうだろうか。あるいは、インターネットを使ったユカギール語のホームページはどうだろうか。もし現地の協力が得られれば、今後はこのような最先端のテクノロジーの利用も積極的に考えてみようと私は考えている。