おわび

この文書には、19世紀の南部アフリカの地理に関する記述がたくさんありますが、どうもピッタシくる地図がなくて、いまんところテキストだけしかアップロードしていません。恐れ入りますが、お読みの際は、お手元に地図をご用意ください。

そのうちなんとかします。


政治的単位としての「部族」の創出とキリスト教宣教師の役割

--南アフリカ「コーサ族」という枠組みの恣意性について(1)--

 

abstruct

 

 "Tribe" in South Africa is a category created by the white power. "Tribe" is an invention, which has been recognized as an object to be ruled, and manipulated for political purposes by the white government.  

 In this paper, I focus on the Xhosa-Speaking People in the Eastern Cape. This ethnic group, usually called the Xhosa today, is the most "heterogeneous" in the country, and the name "Xhosa" includes many people that are, historically, unrelated with them.  

 The device which bound those people as one was "written language". The neighbouring people, such as the Thembu, Mpondo "Mfengu" and so on were included under the name of Xhosa in the 19th century, because it was the Ngqika-Xhosa language (dialect), and not others, that had been reduced to writing (for the purpose of translating the Bible) by European missionaries in the early 19th century.  

 100 years after, this "artificial category" was made use of for the Apartheid policy; the white government divided the people of the country not only into Africans (blacks) and whites, but also the Africans themselves into 9 ethnic categories. The criterion of this division was "language". 

In Chapter 1, the preface, the basic idea of this paper is expressed. 

In Chapter 2, the historic outlines of the inhabitants of the Eastern Cape are explained. In this chapter, I try to make clear that the people named the Xhosa today were neither a "monolithic" nor a "homogeneous" ethnic group at the time Europeans landed in South Africa, and started ruling them under the name of colonization. 

In Chapter 3, the activities of the missionaries in the 19th century are explained. The impact of "literalization" "scripture translating " and "publishing" had been so strong that these worked even to change the ethnic identity of the Africans. 

Chapter 4 deals with the process by which languages were made use of in the Apartheid policy, under which the Africans were divided into several "tribes" by arbitrary criteria.  

In Chapter 5, the conclusion, I comment on "tribalism", according to the facts observed in the proceeding chapters, criticising the language policy of the present government.  

 


1 序

 アパルトヘイト時代、南アフリカ共和国に居住するバンツー系アフリカ人は、いわゆる「バンツースタン政策〜ホームランド政策」によって9つの「部族(3)」に分類され、それぞれの「ホームランド」又は「独立ホームランド」の住民/国民として「部族別」に登録されていた。いずれの「ホームランド」においても、その地域の代表的なバンツー系言語が英語、アフリカーンス語と並んで「公用語」に指定され、学校教育などは主にこのバンツー系言語を用いて行われていた。その後、1994年の、初のアフリカ人政権の成立と同時にこれらの「差別的」諸制度は完全に撤廃されたが、ネルソン・マンデラ大統領率いる新政権はこれまでの英語、アフリカーンス語に加えて、この「9部族」の言語を全て新生国家の公用語に指定した。現在、これらの諸言語を「白人言語」と同等にまでその地位を高めるべく努力が払われている(ただし、選挙から4年が経過した現在、その実効性に関しては疑問視する声も多い)。 

 もとはといえば、「人種登録法」や「バンツー自治促進法」などに始まるアパルトヘイト体制の政策立案者が、南アフリカに居住する全てのアフリカ人に対して、言語・文化に応じてこの「9部族」の法的線引きを行ったのであるが、アパルトヘイト体制が崩壊した現在もなお、現政府の言語政策は、この「9部族」の9言語の存在をまず前提としており、他の分類法が持ち出されることはほとんどない。 

 このように、アフリカ人を南アフリカ国内において「9民族/部族」に分類することについては、政治的には、かつての白人政権も現アフリカ人政権も一つの「既成事実」として捉えている。そして、いわゆる「部族対立」は、概してこれらの「部族」を単位とした抗争と説明されることが多い。例えば94年の選挙における「ANC対インカタ」の政治的対立やタウンシップにおけるバイオレンスは、多くがその原因を「コーサ族対ズールー族」の「部族対立」に求めた。南アフリカに限らず、多くのアフリカ諸国における紛争や対立は、こういった「部族対立」をその根本的原因とする見方が支配的である。 

 しかし、いがみ合い、対立することが「民族/部族社会」の本質であり、歴史を通じて常にそうであったのならば、数多くの「部族」を抱えたアフリカには、対立と流血の歴史のみが存在し、「共存」という概念がなかった社会であったことにある。現実にはそうではないところを見ると「歴史の中の存在としての民族」は「近代社会における部族」とは別物であったことが考えられる。 

 それが「民族」であれ「部族」であれ、我々はその前提そのものを問い直す必要がある。いま現在、もともと「そうであるもの」として捉えられている「部族」という概念そのものが、実は西欧近代の合理主義的発想が生み出した人工的なものであるとしたら、それが非常に政治的に、アフリカ人当人たちの意志とは全く別のところで創り出された代物であったとしたら、昨今の「部族対立」なるものを、歴史的な流れの先端に位置づけること自体が矛盾を孕むことになる。つまり、現在、各地で噴出している「対立」を解決する(少なくとも「理解する」)ためには、表面的な分析より以上に、近代社会における「部族」創出のプロセスを解きほぐすことから始めなければならない。 

 本稿の目的は、南アフリカにおける「部族」単位が、その歴史的・政治的な駆け引きの材料として人工的に創り出された、一種の「虚構」であることを指摘することにある。ここでは、主に南アフリカ南東部地域に居住する「コーサ族」に焦点をあてた。南アフリカにおけるヨーロッパ人宣教師の活動と、彼らが行ったアフリカ人の言語の研究、および文字化の作業に注目し、同地域の植民地化の歴史的過程とを重ねあわせることで、「言語」と「部族」の関係を政治的な側面から分析し、「コーサ族」という枠組みがどのようなプロセスを経て創出されたのかを明らかにしたものである。 


2 時代背景

2-1 アフリカ人とヨーロッパ人の最初の接触

 アフリカ大陸中西部に発生し、緩慢かつ大規模に拡散/移動していったバンツー系アフリカ人のうち、南へ向かったものは(考古学的には諸説入り交じり、明確ではないものの)、遅くとも紀元3世紀には現在のナタールに到達し、紀元1000年には現在の南アフリカ地域の東半分の大部分に展開していたものとされている。アパルトヘイト時代、アフリカーナー歴史家たちの中には、入植の侵略的性格を希釈し、ヨーロッパ人の土地所有に正当性を持たせるために「南アフリカ地域へのアフリカ人の到達とヨーロッパ人の到達はほぼ同時期であった」あるいは「ヨーロッパ人の方が早かった」とする説を唱えるものもいたが、これは現在では全く認められていない(5)。この他、植民地支配が始まる以前の16世紀に、南アフリカ沖で船が難破し、東ケープの海岸に上陸したヨーロッパ人船員の記録や、彼らの救出活動を行ったときの記録が幾つか残っているが、これらに基づいた研究によると、アフリカ人たちはこの時期すでに現在とほぼ同じ地域に定着していたという(6)。いすれにせよ彼らが、ヨーロッパ人たちがやってくるはるか以前からこの地域に住んでいたということは、間違いない。 

 これらアフリカ人のうち、その居住領域の最南端--現在、東ケープと呼ばれている地域--へ定着したのが、南部ングニ諸民族である。アフリカ無文字社会の常として、その民族の歴史を知るためには「口承による記録」を頼りにすることになるわけだが、この南部ングニ諸民族のうち、コーサ人は遅くとも1600年までにカイ川流域において、ツァウェ家を中心とする首長国(群)を築いていた。また、ウィルソンの調査によると、同じく南部ングニであるテンブ人は、その首長の家系を19世代前まで遡及することができるが、そこで語られる「記録」には、彼らが、その歴代の首長たちのうち、誰の時代にこの地域へやってきたかという情報は刻まれていないという(7)。これは、この民族が19世代前の時点ですでにこの地域に定着していたことを物語っている。 

 一方、西部ケープ地域には、狩猟採集民であるサン人や、牧畜も行うコイコイ人が生活していた(いわゆるコイ=サン系の諸民族)。バスコ・ダ・ガマの希望峰「発見」以来、彼らとヨーロッパ人との間に散発的な接触はあったものの、当時はまだ、互いの社会生活に深刻な影響を及ぼすようなことはなかった(南アフリカ地域は奴隷貿易の惨禍を被っていない)。しかし、ヤン・ファン・リーベックのテーブル湾上陸(1652年)以降、ほぼ1世紀半にわたってオランダ東インド会社が西部ケープ地域を支配することになり、この間、すなわち17〜18世紀のうちにオランダ人を主とするヨーロッパ人は、西部ケープに住んでいた狩猟採集・牧畜民族のサン人やコイコイ人社会をほぼ完全に制圧、破壊していた。彼らの多くはヨーロッパ人社会に奴隷的身分として組み込まれ、それを逃れたものも、遠くオレンジ川を越えて移動していった。ただし、半農半牧民族であるバンツー系アフリカ人は、この時期西部ケープにはほとんど住んでおらず、彼らとヨーロッパ人との接触は18世紀後半までは殆どなかった。ケープタウンを中心に同心円状にその勢力を拡大していったヨーロッパ人のうち、インド洋沿いに進んでいったものが本格的にバンツー系の人々と接触するのは、次のイギリス支配下の時代に入ってからである。 

 1806年にケープ植民地を完全に掌握してから後、イギリスは東ケープの南部ングニ諸民族を西から順に、東はナタールとの境界に至るまでを、およそ1世紀かけて次々と併合していった(8)。 

2-2 南部ングニ諸民族のアウトライン

 ところで、アパルトヘイト時代及びそれ以降現在に至るまで、この地域に住む(ホームランド政策下では「住んでいることになっている」)アフリカ人たちは、ひとまとめにして「コーサ族」と呼ばれており、「トランスカイ」「シスカイ」の二つのいわゆる「独立ホームランド」における「主要構成部族」とされた(これについては第4章にて詳述)。 

 ファン・ヴァルメロは、その分類法において(9)、東ケープに定着していた諸民族を「プロパー(Cape tribes proper)」と「イミグラント(Mfengu and other recent immigrants in the Cape)」に大別している。「プロパー」とはコーサ、テンブ、ムポンドの3つの首長国(群)を指す。この3つの首長国(群)は、当時の力関係の点でも、いずれが上位でいずれが下位であるか、ということのない、いわば「並列的な」存在であった(10)。いずれの首長国も更にその下に幾つかのサブ・チーフダム(またはクラン)をもつ「集合体」であったが、統治形態はそれぞれ異なっており、求心力の強い最高首長を中心とした、統制の取れた社会から、帰属意識の比較的緩やかなものまで様々であった。 

 「イミグラント」とは、1800年代初頭に勃興したズールー王国の支配を逃れてナタール地域から東ケープ地域に流入してきた、難民化した移民である。 

 ヨーロッパ人との接触が始まった当時、コーサ人を含めたこれら東ケープのバンツー系アフリカ人諸民族は、歴史的・地理的にどのような位置にあったのか、大まかに記述する。

2-2-1 コーサ人

"Xhosa"とは、コイコイ語で「破壊する」を意味する動詞語幹から派生したものとされる。 

バンツー系民族としてはアフリカ大陸の最南端に位置するコーサ人は、元々は単一のリネージであった。1775年、首長パロの死後、チャレカとララベのそれぞれが率いる勢力に分裂、後者は更にンギカとンドランベの勢力に二分された。チャレカはカイ川の東岸に拠点を置き、ンギカはフィッシュ川−カイ川間、ンドランベはズウルフェルト(Zuurveld)を、それぞれ版図とした(11)。 

ヨーロッパ人たちが最初に接触したバンツー系住民のうち、最西部に位置していたのがコーサ首長国であった。18世紀後半当時、資本力が低下していたオランダ東インド会社としては、経費のかさむ植民地の拡大を望んではおらず、交易や、トレックボーアと呼ばれた入植者の内陸部への進出を何とか規制しようとしていた。しかし、その思惑とは逆に、すでにかなりの入植民が、当時アフリカ人社会とのボーダーに指定されていたガムトゥース川を越えてコーサ人社会との接触を開始しており、1770年の時点で、この川のボーダーとしての意味はすでになくなっていた。 

1778年、「会社」側は、新たにフィッシュ川上流とブッシュマン川を結ぶ線をコーサ人社会と植民地との境界に指定、これを渡ることを禁止し、アフリカ人社会との交流を極力押さえようとした。 

1794年に「会社」が多額の負債を抱えて倒産すると、これと同時にイギリスがケープ植民地を占領する。この時のイギリス植民地政府は、フィッシュ川を境界線とする政策を踏襲したが、この頃は「会社」の倒産による保障問題の噴出や、オランダ人--イギリス人の間の軋轢などによってヨーロッパ人勢力は弱体化していた。これを見計らったコーサ人は攻勢に出(1799年)、ガムトゥース川までこれらヨーロッパ人勢力を押し戻すことに成功している。 

1803年、ケープ植民地は再びオランダ人(バタビア共和国)の手に戻るが、この植民地政府はこれまでと同じく、版図の拡大にはさほどの興味を示さなかった。 

このように18世紀後半の「初期の接触」の時期においては、いずれの植民地政府にも、内陸部への勢力の拡大については、その意志が希薄であった。財政的な問題に加え、コーサ人の抵抗が激しかったことがその理由に挙げられるであろう。1778年から1878年の100年間に、東ケープにおいて植民地政府とアフリカ人との間に9回の戦争が起っているが、このうち18世紀に起った3つの戦争では、アフリカ人側はよく戦い、ヨーロッパ人たちを苦しめた。 

しかし植民地支配権がオランダからイギリスに完全に移行した1806年の「第二次占領」以降、状況は変わる。イギリス植民地政府はこれまでの不拡大政策を改め、武力によって植民地を拡大しはじめた。植民地政府は、当時3派に分裂していたコーサ人社会のうち、ララベ首長国の首長であったンギカを抱き込み、1812年には彼と競合するンドランベ人をフィッシュ川の東へと追放した。更に1817年、植民地政府はその政策の一環として、ンギカをコーサ諸民族全体の最高首長/代表として扱うことを決定した。しかし本来、コーサ諸民族を束ねる最高首長(paramount chief)はチャレカ人の首長が立つことになっており、1804年以来ヒンツァがその地位にあった。チャレカ人とンドランベ人は協力体制を敷き、1818年、武力でンギカの勢力を制圧すると、その勢いを得てグラハムズタウンにまで攻め込むが、植民地・ンギカ人の連合軍の反撃を受け、敗北する。この時、植民地側はフィッシュ川とカイスカンマ川に挟まれた地域を無人の「中立地帯」に仕立てることで対立を解消し、コーサ人との接触を極力おさえようとした。 

そのわずか2年後、フロンティア地域は大きな転換期を迎える。ナポレオン戦争終結後の失業問題に悩まされていたイギリス本国は、その打開策として失業者に南アフリカへの移民を奨励し、1820年にその第一陣約4000人が「中立地帯」であるはずの地域に入植したのである。元々農業に適さない土地であり、入植者自身も農業には不慣れであったため、彼らの多くは早々と農業による生活をあきらめ、商人や職人として生活を始めた。その結果、植民地政府の方策にとらわれない移民たちは自由にアフリカ人社会との間を行き来し始め、設定された境界線は次第に曖昧なものになっていった。ヨーロッパ人たちはヨーロッパ製品やキリスト教を次々にアフリカ人社会に持ち込み、またアフリカ人を適当な労働力として植民地社会に組み込むことで、次第にその社会を侵食していった。 

一方、ナタールではほぼ同時期に、ズールー王シャカが「ムフェチャネ(12)」と呼ばれる侵略戦争を開始、この煽りを受けて大量の難民が東ケープへとなだれ込んできていた。この2方向からの「異民族」の流入により、東ケープ地域全体が、次第に不安定な様相を呈し始めた。1835年、最高首長ヒンツァ率いるコーサ人勢力は、再び「中立地帯」を越えて植民地への攻撃を開始した。当初優勢であったコーサ人は、しかしすぐに劣勢に立たされる。植民地軍の反撃部隊はカイ川を越えてコーサ人領土深く侵攻し、ヒンツァを捕らえた。ヒンツァは逃亡を試みるが、当時植民地軍の大佐であったハリー・スミスによって殺された。以降、1846〜47年の「斧戦争」、1850〜53年の「ムランジェニ戦争」において、コーサ人は植民地の勢力拡大に対して抵抗を試みる。これに対し植民地軍はいずれの戦争においても、コーサ軍の食料供給路を系統的に破壊するという戦術で巧みにそれを斥け、コーサ人社会を次々にその支配下においていった。1847年には、総督となったハリー・スミスがカイ川--カイスカンマ川間の地域をイギリス領カフラリアとした。 

1856年のある日、ノンガウセという名のコーサ人の少女が「牛を全て殺し、穀物を焼き払えば災厄は去るであろう」という内容の「お告げ」を聞いた。牛は彼らの資本であり交換財であるが、当時、戦争により疲弊していたコーサ人社会に追い討ちをかけるかのように牛の肺病が蔓延していた。多くの牛を失い、窮地に陥っていたコーサ人たちはこの「お告げ」を信じ、その「お告げ」によって指定されていた、翌1857年2月に、所有していた牛を殆ど殺し尽くしてしまった(40万頭の牛が殺されたといわれている)。結局、予言は成就せず、多くが餓死したり、生存の場所を求めて植民地に移るなどしたために、コーサ人社会は壊滅的な打撃を受けた。これが「キャトル・キリング(牛殺し)事件」である。こうしたコーサ人社会の弱体化に乗じた植民地政府は1866年、カフラリアをケープ植民地に編入、カイ川以西のコーサ人社会は完全にケープ植民地に組み込まれることになった。1877年にはカイ川以東に逃れていたチャレカが降伏、これによりコーサ人は完全に植民地政府の支配下に置かれることになった。 

2-2-2 テンブ人

植民地政府に対して比較的「忠実であった」とされるテンブ人は、1600年頃からムバシェ川流域に定着していた。彼らはコーサ人社会に比べて更にルースな連合体であり、強力な中央組織は持たなかった。1800年代初期には「ムフェチャネ」の時代に当たり、バチャ人などによる北方からの攻撃に晒されていたため、この時初めてテンブ人社会は当時の首長ングベンチュカの下に団結を図ろうとする。ングベンチュカはヒンツァ下のチャレカ人に協力を求めたが、後に、彼らの社会で活動していたメソジスト派教会の宣教師の進言により、植民地政府に保護を求めた。 

 1835年、ングベンチュカの死後、本家から分裂し、現在のウィットルシー付近に定着していたサブ・チーフダム、チャチュ人がまず植民地軍の配下に置かれる。しかし1844年、テンブ本家はングベンチュカの息子ムティララの名の下に、当時の総督であったメイトランドとの条約を「全テンブ人の代表として」締結、これによりテンブ人は完全に植民地勢力の統治下に置かれることになった。 

 彼らは、1857年の「キャトル・キリング」の被害をそれほど大きく受けなかったと言われている。植民地政府はテンブ人社会を二つの勢力に分割して統治、一つ目は彼らの"Heartland"であるムバシェ川流域で、ムティララの弟ジョイがその地の管理に当たった。もう一つ、インドゥウェ川の西部地域(後のグレン・グレイ地方)はムティララ死後、母親のノネスィが管理、ムティララの息子ンガンゲリズウェが首長としての年齢に達するまで(1863年)摂政をしいた。ノネスィはヨーロッパ人勢力に対抗することを極力避けようとしていたという。 

 テンブ人は1876年のイギリス統治下への編入まで、領土の損失や植民地勢力との軋轢も殆ど経験しなかった。 

2-2-3 ムポンド人

 東ケープの最も東部に位置しており、彼らより更に東部はズールー人、あるいはナタール植民地の領土になる。最西部のコーサ人の征服に始まるヨーロッパ人の侵略は、このムポンド人の領域である「ポンドランド」の併合(1898年)を以って完成する。彼らもまた、ケープ植民地勢力との一連の抗争からは離れたところに位置していた。ムポンド人は東西の2勢力に大分される。1800年代前半期の首長ファクは、二人の息子の跡目争いを避けるため、自分の国を2つに分割してそれぞれに与えた。西の勢力は右手の家(分家)の息子であり、軍の指揮官でもあるンダマセが率いていた。ファクは彼をウムジンブブ川の西岸へ移住させ(1845年)、見返りとして独立を許した。東の勢力はファクの直系の息子ムキケラで、ポート・セント・ジョーンズを利用して手広く交易を行い、富を貯えていた。 

 現在でもナタールとのボーダーに近いポンドランド東部では、この民族の言語(方言)が残っているが、これは標準コーサ語とはかなり異なっている(13)。彼らの言語は"ndrondroza"と呼ばれるが、これはndやntなどの鼻音複合がndrやntrと発音されるためである。 

 一方、よりコーサ人の居住区に近いポンドランド西部地域では、19世紀初頭にはすでに、後述する「コーサ語圏内」に含まれていた。 

2-2-4 「イミグラント」

 これに分類される諸民族は、ズールー王国の勢力拡大の煽りを受けて、難民となって東ケープまで流れ着いた人々である。多くは情勢の安定に伴いナタールへ戻っていったが、幾つかの民族集団は東ケープ地域に残った。彼らは現在、南部ングニ諸民族に分類されている。 

 このうち、西トランスカイ地域にまで達し、主にコーサ人社会内部に定着したのが、"ムフェング"/"フィンゴ"("Mfengu"/"Fingo")(14)と呼ばれる難民集団である。その大部分が、シュビ、ジジ、ベレといった名の民族に帰属するとされるが、いずれも実体は希薄なものであり、多くはその民族意識を解体(detribalized)されている。彼らは流れ着いたテンブ人社会やチャレカ人社会で社会的下層に置かれ、労働力として利用された。また当時、同じく戦争により労働力が欠乏していたイギリス植民地当局が彼らに目を付け、1835年には1万6千人の"ムフェング"たちにフィッシュ川を越えさせた。彼らは植民地の農場などにおける労働要員となり、また戦時には植民地側の兵力として動員された。 

 東トランスカイ地域における「イミグラント」は通常"ムフェング"とは呼ばれない。ここでの主要な民族はバチャ人で、その下にケシベ人など、多くのクランを従えていた。現在でも少数の住民によって東ケープの一部で話されているバチャ語は、言語的にはスワティ語などと同じテケラ系に属しており、このことからバチャ人はナタール地方でもかなり北部から移動してきたと推測されている(15)。 


3 宣教師の到来

3-1 プロテスタンティズムと文字

 宗教改革においてルターが聖書をラテン語のくびきから解き放ち、「民衆の言語による布教」を唱えて以来、「民衆語」で書かれた聖書の存在は、プロテスタント系の宣教師による布教活動の大前提であった。また、この流れに拍車をかけることになったのが、同じ時期に発明され、普及した活版印刷技術である。 

宗教改革者たちの理念的な関心と、印刷工たちの物質的な関心が、ここで直接に絡み合った。両者とも市場の拡大を重視していたのである。パンフレットを使って、ますます大勢の人間をキャッチすることは、理念闘争における利点であり、新しい生産手段をより有効に利用することであった(16)。 

「ヨーロッパにおける言葉と国家と国民の事実上の統一は、19世紀になって初めて、ほぼ実現した(17)」。これは南アフリカにおいてプロテスタント系宣教師が本格的に布教活動を開始した時期でもある。彼ら宣教師の目的は(結果的に商人や植民地為政者のそれと変わらなかったという皮肉な見方もあるものの)、第一に、聖書に書かれた神の教えを広めることであったのは言うまでもない。キリスト教徒は聖書の「記述」を絶対の教義として信仰する。ところが、他のサハラ以南アフリカの殆どの社会がそうであるように、彼らが入った南部ングニ社会もまた文字を持たない社会であった。そのため宣教師はまずこの「文字を持たない異教徒たち」の言語を記述=文字化し、さらには「原住民」を識字化(literate)するために、語学学習用の教材を作成するという作業から始めなければならなかった。 

 前章において、18世紀後半から19世紀後半にかけての南部ングニ系諸民族の地理的、歴史的位置について大まかに述べた。これは東ケープにおける先住民たちが、現在「コーサ族」とされているような一枚岩的な存在ではなく、テンブ人やムポンド人など、それぞれ首長を戴いた多くの首長国が広範囲にわたって点在しているという状況にあったことを確認するためである。 

では、なぜこれら諸民族が現在、十把一絡げに「コーサ族」と呼ばれるようになったのか、この点について、イギリスの南アフリカ歴史家サウンダースは以下のように述べている。 

The Xhosa were the first African people among whom missionaries worked in the early 19th century. Because their dialect was the one reduced to writing by the missionaries, other Cape NGUNI peoples including the Thembu, Mpondo, and MFENGU came to be classified as Xhosa-speaking(18). 

 以下、本章および次章では、この記述を裏付けるための作業を進めることで「コーサ族」という枠組みの創出に至る過程を明らかにする。 

3-1 植民地初期の宣教師の活動

 既に述べたように、版図拡大の意図がそれほど強くなかったオランダ東インド会社やオランダ系移民は、周辺の「先住民」をひたすら奴隷化するだけで、キリスト教布教活動に関しても基本的には関心がなかった。1700年代にケープ地域で布教活動を行ったのはモラビア派の宣教師たちであったが、活動対象であるコイ=サン系アフリカ人社会はこの時すでに壊滅的状態に陥っており、また布教活動の中心人物が同地を追放されるなどしたために、見るべき成果や影響力は殆ど残らなかった。 

 東ケープのバンツー系アフリカ人および彼らの言語に関する初期の記録は、宣教師よりも冒険家や旅行者によってなされたものが多い。以下、主にドークの"Bantu Language Pioneers of the Nineteenth Century(19)"を参考に、初期に残された東ケープ住民の言語に関する記録を羅列する。 

3-1-1 植民地初期の「カフィール語」に関する記録

 A Voyage to the Cape of Good Hope…and the Country of the Hottentot and Caffres from the Year 1772-1776の中で"Specimen of the Caffres"として63の単語を記録している。「かれらのコトバは、コイコイ人のそれとは異なり、クリック音がない」と記述するなど、多くの事実誤認が見られるという。

 著書Travels into the Interior of Southern Africa, 1979-8の中で、「ホッテントットではない」アフリカ人の言語と語彙について若干の記述を行っている(彼がこのアフリカ人をどのように呼んでいたかは不明)。

 著書Travels in Southern Africa in the years 1803, 1804, 1805 and 1806に"Remarks upon the Language of the Koossas, accompanied by Vocabulary of their Words"を付記 (20)。

 旅行記Travels in South Africa(1815年)の中で"Caffers"の語彙を記録。

 旅行記Travels and Adventures in South Africa(1827年)に、"Caffers"の話す言語の文法事項を付記。

 S.A. Quarterly journalに"An Account of the Amakosae"を投稿(1833年)。 

(下線部神谷:以下同様)

 この「カフィール」という呼称は、当時、a)アフリカ人一般を指す場合と、b)とくに「東ケープ地域のバンツー系アフリカ人(南部ングニ諸民族)」に限定して用いられる場合とがあった(21)。ここに挙げたのは記録物のタイトルのみであるが、この記録者たちのアフリカ人に対する呼称は「コーサ」と「カフィール」の間で揺れており、一定していないことが分かる(下線部参照:以下、「カフィール語」とは「宣教師によって文字化されたコーサ語」のことである)。 

 ケープ植民地の支配権がオランダからイギリスに移ってから(「第一次占領」)4年後の1799年、ロンドン宣教教会(London Missionary Society:以下LMS)のヨハネス・テオドール・ファン・デル・ケンプが南アフリカへ到着する(22)。ファン・デル・ケンプはバンツー系アフリカ人社会で活動を行った最初の宣教師であるとされている。彼は当初、主に東ケープのコイコイ人社会で活動していたが、1803年にはポート・エリザベス近郊のベテルスドロップに宣教基地(mission station)を設立し、これがコーサ人社会における最初の宣教基地となった。かれはこの地で"Specimen of the Caffra Language(23)"を記録している。ただし、この時期のLMSの活動はロバート・モファットを中心として、主に内陸部のツワナ人社会に重点を置いていたので、東ケープにおける宣教師の活動は、いずれも組織だったものではなく、このファン・デル・ケンプなど、少数の宣教師による散発的なものだった。 

3-2 1820年の移民による影響

 すでに述べたように、1820の大量入植は東ケープ地域のアフリカ人社会にとって重大な出来事であった。これにより、これまで顧みられることのなかった「文化的接触」が始まったのである。この大量入植に伴い、これまで小規模だった宣教師の活動も本格化=組織化する。彼らの活動はヨーロッパ人移民社会内のみのとどまらずアフリカ人社会にもその活動版図を広げ、文明化=キリスト教化の名の下に次第にその影響力を浸透させていった。 

 これらアフリカ人社会に対して宣教活動を行った団体のうち、代表的なものがスコットランド長老派のグラスゴー宣教教会(Glasgow Missionary Society:以下GMS)とウェスレイ派メソジスト伝道教会(Wesleyan Methodist Missionary Society:以下メソジスト派)の2団体である。1820年の移民はイングランドに限らず、ウェールズ、スコットランド、アイルランドなどからの出身者が多く含まれており、GMSもおそらくスコットランド系移民とともにケープへ赴いたと考えられる。 

 また、このころ、アフリカーナーの中に、コーサ人を取り込んで、イギリス植民地勢力に背かせようと企てるものがいた。これに危機感を抱いた植民地政府側は、キリスト教宣教師をンギカ人居住区に送り込み、社会内部に橋頭堡を築くことで、彼らを自らの勢力下に置こうと企図したとされている。すなわち、ヨーロッパ人植民地とキリスト教宣教師の利害は、その当初から一致したものだったのである(24)。 

 1820年の移民とともにケープに上陸したGMSのジョン・ブラウンリーは、同年さっそくカイスカンマ川上流のテュミエ川岸地域に宣教基地を設立する。年内には二人の宣教師が加わり、1824年には二つ目の宣教基地を、10数キロ離れた地点に設立した。LMSの創始者ジョン・ラブの名に因んでラブデイル(Lovedale)と名付けられたその基地は、1834〜5年の「第六次戦争」で一旦は破壊されるが、1841年、テュミエ川岸の別の地点に再建される。このラブデイルが、後に東ケープのアフリカ人教育の拠点として多大な影響力を持つ事になる(25)。 

 メソジスト派のウイリアム・ショーも、1820年の移民とともに渡来。1823年にはカイスカンマ川東部のクヌクウェベ人(26)社会で宣教活動を開始する。メソジスト派は1830年までに、グラハムズタウンから、320キロ東方にあるバンティングビル(現在のウムタタ付近)まで、ナタール方向から5個所への連鎖した宣教基地(chain of mission station)を設立し、東へと版図を広げていった。 

 ルーテル派のベルリン宣教教会(Berlin Mission Society:以下BMS)もこの時期に幾つかの宣教基地を設立するが、アフリカ人改宗者を殆ど得られず、1846年の戦争によって基地が破壊されたため、これを期に拠点をナタール地方(後にトランスバール地方)へ移している。 

 この他の宣教団体としては、モラビア派、LSM、英国国教会等があり、それぞれ後にはアフリカ人社会の変容に大きな影響を与えることになるが、殊「カフィール語」の文字化=聖書の翻訳作業に関しては、GMSとメソジスト派が抜きんでていた。この2つ以外の宣教師(団体)による、言語に関する記録は殆ど残っていない。たとえばBMSの宣教師デーネは、東ケープでの活動を断念しナタールへ移動した後、アメリカの宣教団体に合流し、そこでZulu-Kafir Dictionaryを著している。 

3-3 ラブデイル

3-3-1 宣教師による言語研究あるいは文法書、読本、教材などの作成

【GMS】

【メソジスト派】

 先に挙げた、旅行者による記録とは異なり、宣教師たちは明らかに呼称を「カフィール」に統一していることがわかる。

 1820年以降の「原住民」の言語研究は、このように殆ど(全て?)がGMSかメソジスト派などの宣教師の手によるものである。言語研究の目的が宣教活動、なかんずく「原住民の言語訳による聖書」の出版であったことを考えると、プロテスタント系の宣教師がこれらの作業に熱心に取り組んだのはむしろ当然で、当時の「言語研究」と「聖書翻訳」は、いわば同義語であった。

 "The Father of Kafir Literature"と呼ばれたGMSのジョン・ベニーが、その先鞭を付けた人物である。1821年にブラウンリーと合流したベニーはラブデイルを拠点に、さっそく「カフィール語」の学習を開始する。初期のGMSの宣教基地はカイスカンマ川上流のテュミエ川西岸に集中していたが、この地域には主にンギカ・コーサ人が居住しており、ベニーらGMSの宣教師たちが「インフォーマント」としたのは、この住民たちが話す言語(方言)であった。現在の標準コーサ語の正書法や、教育に使用される標準形、また、テレビやラジオなどで用いられている「標準コーサ語」は、このンギカ人の用いた言語が基本となっているが、その理由は、このように、彼らの社会が「たまたま宣教師の最初の活動拠点であったから」にすぎない。

 1823年には宣教師ジョン・ロスが小型印刷機とともにラブデイルに到着する。ベニーはその時の様子を次のように記録している。

On the 17th we got our press in order; on the 18th the alphabet was set up; and yesterday we threw off 50 copies. Through your instrumentality a new era has commenced in the history of the Xhosa nation(27).

 ベニーはこの印刷機を用いて、コーサ語ンギカ方言に基づいた「カフィール語」リーダー用の教材やキリスト教の啓蒙書など、幾つかのパンフレットや本を出版した。All Cattle Come From Godというタイトルのリーディング・シートが、コーサ語で書かれた出版物としてはおそらく最初のものである(28)。語学の才能に恵まれていたベニーは、1826年、「カフィール語」の語彙を体系的に記述したA Systematic Vocabulary of the Kaffrarian Languageを著し、ラブデイルの出版部門である「グラスゴー・ミッション・プレス」の名の下に出版した。1839年にベニーは2巻の読本を出版する。これは後に「ラブデイル・カフィール語読本(Lovedale Kafir Readers)」という名の識字教育の基本書として、東ケープ全土に行き渡ることになる。

 しかし、ラブデイルは1834年〜35年の「第六次戦争」によって破壊され、GMSの宣教活動は一時的に停止を余儀なくされる(Readersの出版はグラハムズタウンの民間業者に委託されていた)。このため、GMSに代わってメソジスト派の宣教師たちが言語研究に力を注ぎ始めた。ボイスのGrammarは「カフィール語」初の本格的文法書とされているものである。メソジスト派はグラハムズタウンに出版部門および印刷機を所有しており、Grammar以降もメソジスト派の殆どの出版物はここから出されている。また、アップルヤードのThe Kafir Languageは「以降のコーサ語文法書には、本質的にはこれ以上の発展は見られない(29)」とされるほどの精密な内容を誇っていた。なお、アップルヤードは、1847年、The South African Christian Watchman, and Missionary Magazineに、アフリカ諸言語に関する7本の論文を立て続けに発表(1847年)、「カフィール方言」を初めとする諸言語の分類を行う。これは、以後のバンツー言語学における分類法の雛形とされるものである。

3-3-2 聖書の翻訳と出版

【GMS】

【メソジスト派】

 聖書の「カフィール語」翻訳作業は1830年代に本格化するが、これを推し進めたのもGMSではなくメソジスト派の宣教団体だった。1846年、アイリフらの手による最初の(バンツー系諸語としてはツワナ語(トラピン方言)に次いで2番目の)「カフィール語(コーサ語)New Testament」が完成・出版されるが、これは広く行き渡らなかった。

 最初に広くアフリカ人キリスト教徒に受け入れられるようになったのはアップルヤードの手によるものである。1854年、アップルヤードは独自に改訂(翻訳)したNew Testamentを出版した。1859年にはOld Testamentも完訳され(一部他の宣教師の手による)、Bibleが完成すると(これもバンツー系言語としてはツワナ語トラピン方言に次いで2番目)、これは「アップルヤード版」として広く普及した(1863年には、これに更に改訂を行ったものが、英国内外聖書教会より出版されている)。 

 しかし実際にはこの「アップルヤード版」には、ギリシャ語やヘブライ語の原文に忠実に翻訳しようとするあまり、現実のコーサ語に比べて晦渋な表現が多く、これに対する他の宣教師たちからの批判が噴出した。1863年、GMSおよびドイツ系宣教団体の宣教師たちがキング・ウィリアムズタウンに集まり「アップルヤード版」の問題点を討議するが、ここで批判の急先鋒に立ったのはGMSのティヨ・ソガだった(31)。この時点でソガは聖書の翻訳作業に携わっていた唯一のアフリカ人であり、彼を中心とするGMSはこの「アップルヤード版」の訳を手厳しく批判し、これをまとめたものをKafir Bible: Rev. J. W. Appleyard's Version Judged by Missionaries of Various Denomination and Othersとしてラブデイルから出版した(1866年)。 

 これに対してアップルヤードは、その翌年にAn Apology for the Kafir Bibleを提出、反論を試みるが、結局はソガの主張に押し切られる形になる。ただ、アップルヤード、ソガともに程なく死亡したため、聖書翻訳作業はGMSを主体にされた「南アフリカ聖書協会」に一任される形になった。 

 こうして「カフィール語」聖書翻訳作業は、ラブデイルの主導によって行われていくことになる。1875年にはNew Testament、1889年にはOld Testamentが、この「南アフリカ聖書協会」から出版される。以降、「カフィール語/コーサ語」聖書に対しては数回の改訂が行われているが(1975年の時点で第9版)、現在もなお「アップルヤード版」に対する人気は高いという。 

3-4 新聞の発行 

 GMSは次第にコーサ語出版事業の中心となっていった。1834〜35年の戦争で初期のラブデイルが破壊されてから5年後、GMSは、ディケ(アリス)という町で新たな宣教基地を建設、印刷機を入手して、再び出版事業を開始した。1861年には本格的な印刷・製本部門を発足させる。この出版社「ラブデイル・プレス」は、後にサブ-サハラ・アフリカにおける最大の出版事業施設となり、19世紀後半から20世紀前半にかけて、コーサ語出版業界に君臨し、強いてはコーサ語文字文化を支配することになる。1876年には6〜7千だった年間出版部数は、1882年には1万2千8百にまで達している(32)。他方、メソジスト派はコーク山、英国国教会はセント・マシューズに、それぞれ印刷部門を構えたが、19世紀後半になると民間の印刷業者に太刀打ちできなくなり、いずれもその規模を縮小せざるを得なかった(33)。   

 ラブデイルは定期刊行物も発行し始める。1870年、英語誌Kaffir Expressの第1号がラブデイルから発行された(34)。更に「カフィール語」による新聞が発行されるようになると、その文字文化はこれまでにない勢いで東ケープのアフリカ人社会に広まっていく。

【「カフィール語」で書かれた新聞/雑誌類】  

3-5 文字文化の支配

 このように、19世紀半ばから後半にかけての東ケープにおいては、コーサ語メディアは、教材・文法書、宗教出版物、新聞など、あらゆる面で、教会、特にGMS=ラブデイルの独壇場であった(35)。「カフィール語」で書かれた文学作品などの出版部数も着実にその数を伸ばし、1939年の時点でのコーサ語による出版物は、バンツー系言語としてはスワヒリ語に次いで2番目の発行部数を誇るまでに至った。 

 19世紀末になると、西洋式教育を受けたアフリカ人たちの中から、教会の枠組みを超えて活動しようとする動きが出てくる。その代表がジャバブである(36)。"ムフェング"であったジャバブは、おそらく「反コーサ」的な姿勢が強かったのであろう、政治的であるという理由で、Isigidimiの編集長を解雇された後、白人政治家からの財政的支援を取りつけて、キング・ウィリアムズタウンでアフリカ人としては初めて出版事業を開始、1884年にコーサ語/英語の週刊誌でジャーナリスティックな内容のInvo zaBantsundu(黒人の声)を刊行する(37)。また、1897年にはA・K・ソガらがIzwi Labantu(人々の声)を刊行するが、こちらはセシル・ローズが金銭的なバックアップを行っていたと言われている(38)。 

 20世紀に入ると、このようにキリスト教教育を受けた「エリート」たちが教会の傘下を離れて「知識を非キリスト教徒に売り渡す」動きを見せはじめたため、これに危機感を覚えたラブデイル出版、特に社長のR・H・W・シェパードは、自らが出版する様々なコーサ語出版物に対する表現の規制を強化した。これにより、反キリスト教的な内容、すなわち伝統的宗教、一夫多妻制、呪術などに関する記述は削除され、また「伝統コーサ寄りの記述」も出版を差し止められた。このため多くの優れた作品が、日の目を見ないまま消えていったという(39)。 

 コーサ語の書記法は1930年〜50年代にかけて混乱する。1926年、ロンドンにおける「アフリカ言語文化国際研究所」の設立を受けて、同年11月に「中央正書法委員会」がヨハネスブルクに発足(C・M・ドーク委員長)。これに伴いアフリカ人諸言語の正書法の見直しが検討される。コーサ語の「新正書法」は1931年に導入されたが、この作業を強力に推し進めたのが、ジョン・ベニーの孫で、ケープ州政府における「原住民」教育の責任者W・G・ベニーと、ラブデイルの出版部門の責任者であるシェパードであった。しかしこの「新正書法」は、英語では通常用いない、音声記号をベースとしたアルファベットを用いるため、新たな活字やタイプライターの製造、また「書き直し」にかかる財政的な負担などから評判が悪く、一般には殆ど定着しなかった。1957年には再度見直しが図られ、これが現在の正書法であるが、その書記法は皮肉なことに「旧正書法」と殆ど変わらない。 

3-6 ンギカ・コーサ語の標準語としての定着

 ただ、いずれにせよこういった「カフィール語」出版物は、いずれもGMSの書記法、すなわちンギカ・コーサ人の言語(方言)に従っていた。このためラブデイルがあらゆるコーサ語メディアを掌握した時点で、唯一「文字を得た」このンギカ・コーサ語が東ケープにおける「標準カフィール語」として成立していたことになる。 

 一方、第3章で述べたように、ンギカ・コーサ人以外にもチャレカ・コーサ人やララベ・コーサ人がいたり、より東方にはコーサ人とは出自を異にするテンブ人、ムポンド人など、あるいはその他ナタール方面からの難民たちが同時代のケープ地域に居住しており、彼らの間でも宣教活動は行われていた。しかし、それらの言語に関して宣教師たちが記録や研究をしたり、聖書を翻訳しようとした、などという記録は残っていない。たとえば、メソジスト派は初期から東ケープ最東部の民族であるムポンド人社会にまで活動範囲を広げていたが、その規模はきわめて小さく(40)、彼らがその土地の人間を「インフォーマント」に言語収集/研究を行った痕跡がない。メソジスト派は当時最も大規模に宣教活動を行っていた団体であるが、彼らはムポンド人やその他の民族の言語には関心を示さず、一方ではシスカイでGMSなどと共に辞書の編纂、聖書の翻訳、教科書の普及に力を注いでいた。つまり、ポンドランドにおける識字教育はコーサ・ンギカ人の方言をベースとした「標準カフィール語」によって書かれた教材を用いて行われており、また、宣教活動は「標準カフィール語」で書かれた聖書を用いて行われていたのである。 

3-7 「レッド=スクール・ダイコトミー」

 宣教基地は、広大な敷地の中に農場、教会、学校、商店などをもつ、ひとつの「社会」であり、したがってラブデイルを始めとして、おもだった教育機関は大抵が全寮制(boading school)であった。このためアフリカ人改宗者は「スクール・ピープル」と呼ばれ、宣教基地での生活の中で、西洋式教育を受け、西洋の価値観を受け入れ、「洋服」を着、英語を学んだ。「方言」を話すアフリカ人たちは、自らの言語を、宣教師が定めた「標準カフィール語」に切り替えなければならなかった。ンギカ・コーサ人が話す言葉とはかなり異なる「方言」を話すバチャ人でさえ「キリスト教に改宗し『スクール・ピープル』となると、それまで使っていた『バチャ語』を捨て、『標準カフィール語』を用いなければならなかったのである(41)」。一方、改宗しなかった人々は、コーサ人の伝統的民族衣装が主に赤色をあしらった着物であったことから「レッド・ピープル」と呼ばれ、「スクール・ピープル」と区別された。これらの呼称は、伝統的衣装を脱ぎ捨て、シャツとズボンを着、帽子をかぶり、ネクタイを締める------つまり、ライフスタイルを西洋式に変えることが、改宗し、西洋的価値観を受け入れたことの表明であった、ということをよく物語っている。 

 こうして、学校教育を受け、アフリカ人社会のヒエラルキーにおける上層部を形成し始めた人たちは、同時に同じ言語を共有することになった。これが後に、政治的単位としての「コーサ族」という「部族アイデンティティ」を生み出す一つの要因となる。 

 宣教基地は「社会的弱者」--すなわち女性、老人、障害者(度重なる戦争による犠牲者が多かった)そして"ムフェング"たちを吸収し、改宗させることでその勢力を大きくしていった。第2章で述べたように、"ムフェング"はナタール地方から流れてきた「イミグラント」であり、コーサ人社会においては虐げられた地位にあったため、"ムフェング"には当初からキリスト教への改宗者が多かった(コーサ人の改宗者が急速に増加するのは1857年の「キャトル・キリング事件」以降である)。一連の「カフィール戦争」の際は、植民地側兵士として戦うことも多く、また、文字が読めるなど「教育水準が高い」ということで、植民地社会内でも重宝された。この"ムフェング"たちは「西洋式教育」を受ける過程で、自らの言語を棄て、「標準カフィール語」を身につけていった(42)。奇妙なことに、後の「コーサ族」というアイデンティティの担い手となるのは、心情的にはコーサ人と対立していた彼ら"ムフェング"たちなのである(43)。 

3-8 「カフィール」から「コーサ」へ

 もう一つ重要な点は、宣教師たちや初期の旅行者たちが、その記録において殆どがこの地域で出会ったアフリカ人たち、及びその言語のことを「カフィール(語)」と記録していることである。既に述べたように、特に1829年以降に宣教師たちが著した出版物の中では、その呼称が「カフィール」にほぼ統一されていることがわかる。この「カフィール」という名前は、ヨーロッパ人がアフリカ人を総称して使用する場合と、東ケープに居住していた諸民族に対して用いられる場合の二通りがあったが、当時は後者の意味合いの方が強かったと思われる。これは、その他のバンツー系民族、例えばツワナ人やソト人に対する宣教師などの活動記録や報告書の中で「カフィール」という呼称が用いられていないことからもわかる(ズールー人に関しては"Zulu-Kafir"すなわち「ズールー系カフィール」という呼称を用いていたようである)。 

 19世紀後半にウムタタ川上流のムポンドミセ人居住地域の宣教基地(セント・カスバート)において、主に学校教育を担当した英国国教会の宣教師G・キャラウェイは、その記録を記述するにあたり、「ここでは『カフィール』という呼称について、やや広義に用いる」と断った上で「トランスカイにおける、フィンゴ("ムフェング")を含む全てのバンツー種族(Bantu race)を指す」と書いている。また彼は、ムポンドミセ人の話す言語に関し、その方言差にもかかわらず「ムポンドミセ人はコーサ語(the Xosa language)を話す」とも書いている。キャラウェイの記録は基地および学校内のそれに限られているが、彼がこのように記述していることは、この時点で「カフィール」の話す言語は(少なくとも学校内におけるそれは)「コーサ語」と名付けられていた(呼ばれていた)ことを示している(44)。 

 「カフィール」という呼称が東ケープ全土に行き渡った19世紀後半、この単語の「蔑視的意味合い」が問題視されるようになり、呼称の「言い換え」が行われるようになる(45)。繰り返すが「カフィール」は文脈によって「バンツー系アフリカ人」全体を指す場合と、東ケープの南部ングニ系民族のみをさす場合とがあった。そこで前者を指す場合は「原住民(native)」に置き換えられ(46)、後者に関しては、白人たちが一番はじめに、戦闘ではない「文化的接触」を行ったのが、地域的な関係上たまたまコーサの人々(厳密にはンギカ人)であったために、また、たまたま彼らがングニ諸民族の中でケープ植民地に近い西部に位置し、そこに宣教基地が設立されたために、この時「コーサ」という名称を持ち出したと考えられる。歴史的経緯をみれば「コーサ」が白人たちの間では最も耳慣れた呼称であったことは間違いないであろう。 

 この時点ですでに「カフィール語」としての書記法は東ケープを通じて広がっており、統一教科書も多数出回っていたであろう。従ってこの「言い換え」が行われた際、「カフィール語」を話し「カフィール語」で教育を受けた人間は、ムポンド人やテンブ人などを含めて一律に「コーサ語話者」となった。そしてこれは、20世紀に入りヨーロッパ人=白人の支配が強まる中で、「1言語=1民族」というヨーロッパの「常識」によって「エスニシティ」という色付けがなされるようになる。次章ではこの過程について考察する。 


4 固定した「部族」の成立

4-1 "homogeneous"であることの必要性

 もとオランダ改革派教会の宣教師であった文化人類学者B・A・ポーは、1960〜61年にかけて「コーサ族のクリスチャン社会」に関する調査を行い、その報告を提出した。この中でポーは「コーサ族」が一枚岩的な存在であることを強調し、学校教育を受けたものこそが「コーサ・エスニシティ」の担い手であると述べている。引用が少し長くなるが、彼ら当時のアフリカーナーたちが何とかして「コーサ族」の枠組みを創り出そうとしていたかがわかる。

  With regard to indigenous traditional culture the Cape Nguni peoples are largely homogeneous. They speak a common language, Xhosa, and their traditional customs and beliefs do not vary conspicuously, although there are minor tribal and even clan particularities. The people themselves are aware of this homogeneity and its is common for people who are not Xhosa proper to refer to themselves as Xhosa and to their custom as Xhosa custom. In Thembuland, for example, an audience is commonly addressed as `baThembu' (Thembu people) but in conversation people often speak of themselves as `we Xhosa', and traditional custom is invariably called Xhosa custom. Although this may not be true of all parts of the Transkei, it certainly applies to the areas where intensive fieldwork was conducted. In this book `Xhosa' is used in this comprehensive sense of Cape Nguni people who are aware of a common cultural heritage of which the Xhosa language forms a significant part.(中略) 

  Throughout the Cape Nguni area conspicuous contrasts have developed between the conservative pagan Xhosa, called `Red' people, and the `School' people who are associated with churches and schools and have accepted many elements of Western culture which the Reds have not.(中略)Among School Xhosa I met the opinion that in their performance of Xhosa custom they do not observe the minor tribal variations that are displayed by Red people. School Xhosa are therefore presumably more aware of a common homogeneous Xhosa cultural identity than are Red people(47). 

 ポーがこのように記述したのは、彼が調査対象を「コーサ・クリスチャン・コミュニティ」や「学校」に絞っている限りは、間違いではない。すなわち、先に述べたような歴史的経緯から、西洋式教育の方法論に則って「コーサ語」による教育(とりわけ識字教育)を受けたものは、仮に自分がテンブ人だと思っていても、「コーサ族」という名称に自らをアイデンティファイせざるをえなくなっていたからである。 

 しかし、すでに第2章、第3章で明らかにされたように、「コーサ族」は歴史的に見ても決して"homogeneous"な存在ではない。この「部族」の枠組みは、1800年代以降の、行政や教会勢力の版図、また、文字や教育の浸透の過程で生み出された、すぐれて人工的なものである。そしてアパルトヘイトの時代、白人政府には、かれらが"homogeneous"な「部族」であると言い切らなければならない「理由」があったのである。

4-2 バンツースタン計画

 1910年に南アフリカ連邦が成立すると、白人政府は南アフリカ連邦内に居住する非白人系住民(「バンツー人」「カラード」)を白人居住区より法的に分離する政策を開始する。アフリカ人の権利を制限する法律としては「バンツー土地法(1913年)」「バンツー信託・土地法(1936年)」などがあるが、これらの法律は主にアフリカ人の土地所有の規制に関する法律であり、まだこの時点ではアフリカ人をいくつかの「部族」に分類する、という発想は、具体的なものではなかった。

 しかし、1948年、国民党が政権の座に就き、初の「純アフリカーナー政権」が誕生すると、アフリカ人に対する政策は大きく変化し始める。初代「アパルトヘイト首相」となったD・F・マランは、後に「差別法」と呼ばれることになる諸々の悪名高い法律を矢継ぎ早に制定していった(例えば「雑婚禁止法(1949年)」、「人口登録法(1950年)」、「背徳法(1950年)」)。1950年、マラン首相はH・F・フェルブールトを原住民問題担当大臣に任命する。アフリカ人を「部族別」に法的に分類し、統治しようとする一連の政策は、このフェルブールトの発案である。1951年、フェルブールトはアフリカ人社会のそれぞれの首長を代表とする「バンツー部族当局」を設立する旨の「バンツー土地機構法」を議会に提出、これは後に自らの率いる内閣による1959年の「バンツー自治促進法」によって具体化され、「部族別統治」、いわゆる「バンツースタン計画」が具体的に動き出すことになる。この「バンツー自治促進法」により南アフリカ連邦のアフリカ人たちは、まず始めに8つの「部族」に分類されることになる。

【バンツー自治促進法・1959年法律第46条(48)】

(前文)南アフリカ連邦のバンツー諸人民は、等質的な一民族を構成せず、言語・文化に基づいて別々の部族区を形成しているので、 

そして、前記の諸人民の福祉と進歩に当たっては、多様な部族区に承認を与え、バンツー統治制度に基づいた彼ら自身の地域内における自治の漸進的発達の備えをすることが望ましいので、(中略)以下のように定められる。(中略)

(第2条)(バンツー民族区および総弁務官の任命)一、バンツー住民は本法の目的のために以下の民族単位によって構成されるものとする。 

(a)北ソト区 (b)南ソト区 (c)スワジ区 (d)ツォンガ区 (e)ツワナ区 (f)ベンダ区 (g)コザ区 及び(h)ズル区

 (下線神谷)

 

 1979年にはこれを数え直して、クワンデベレ(ンデベレ区)を加えることにした。結局、「南ア黒人を十の民族集団に分けることに決めたのは、最終的にはプレトリアの高級官僚群だった(49)」。「十だと黒人の政治権力への要求を拡散させても、露骨には弾圧と映らず、制度上そうしたのだと弁解できるので、まあ好都合なのだ(50)」。 

 この時、東ケープ地域の南ングニ諸民族は初めて法的存在として単一の「コーサ族」という名の「部族」となった。「コーサ族」の「バンツースタン」であるとされた「トランスカイ」に自治を付与するための、南アフリカ共和国側の法律を見てみよう。1963年に可決された「バンツースタン・トランスカイ憲法」のうち、「トランスカイ市民」であることの定義に関する条文を引用する。 

第7条の2、以下に言及される、いかなる部類にも入っているすべての者は、トランスカイ市民であるものとする。

a)(省略:トランスカイ内における出生地に関する条項)

b)(省略:トランスカイ内における居住期間に関する条項)

c)(南アフリカ)共和国におけるすべてのクホザ語を話すバンツー人で、一般的にケープ・ングニとして知られている者によって話されている言語の、どのような方言であれ、普段用いている一切の言語集団にも属しているすべてのバンツー人を含め、そのような者が、トランスカイ以外のバンツー祖国に属しておらず、または他のいかなる地域的、又は区当局、又は議会、又は他のいかなる自治区域の管轄下にない場合。

d)(省略:トランスカイ内におけるソト語話者に関する条項)

 

 このc項に従えば、南アフリカ「本国」に居住する者でも、「コーサ語」を話してさえいれば(そしてその者が他の「バンツースタン」 --たとえばシスカイ-- に所属しない限り)、その者は自動的に「トランスカイ市民」として登録されることになる(51)。

 

4-3 「民族アイデンティティ」の条件

 この発案の背景には、アフリカーナーたちが突出した形で示した「1言語=1民族=1国家」という、当時のヨーロッパ人の典型的発想があると考えられる。マラン首相は、自らの民族アイデンティティに言及するにおいて、アフリカーンス言語文化こそが民族意識の基礎であることを強調している。

  A living powerful language is born from the soil of the People's history (volksgeskiedenis) and lives only in the mouth of the People (volksmond).. Raise the Afrikaans language to a written language, make it the bearer of our culture, our history, our national ideals, and you will raise the People to a feelings of self-respect and to the calling to take a worthier place in the world civilization.. A healthy national feeling can only be rooted in ethnic (volks) art and science, ethnic customs and character, ethnic language and ethnic religion and, not least, in ethnic literature(52).

 アフリカーナーたちはこの「原則」を、自分たちだけでなく、アフリカ人の「部族のアイデンティティ」にも当てはめようとした。隣のナタール州のズールー人などと異なり、東ケープのアフリカ人には、民族の帰属意識のコアとなる存在が大きくはなく、それぞれのアイデンティティをもった諸民族が多様に分散して居住するという状況にあった。白人政権は、そこに「民族国家」としての体裁を与えようとした。同じ(似通った)言語を異なる民族が用いている場合、彼らの言語をひと括りにし、単一の名称を与えることに躊躇しなかった。そこで(本来のコーサ人の話すコーサ語の範囲とは無関係に東ケープ全土に広まっていた)「コーサ語」を、「コーサ族」という「部族意識」に収斂させる道具として用いたのである。東ケープ地域では、実際には様々な民族言語が--例えば、スワティ語に近いテケラ系の言語を話すバチャ人などを含めて--存在する中で、「コーサ語」の文字言語文化だけが(宣教師たちの手によって)広まったために、自らの言語が文字化されなかった人々は、すでに文字を持ち、新聞や文学など「文字文化」を発展させていた「コーサ」という名称に吸収されざるを得なかったのである。

 「トランスカイ」地域は歴史的には、第2章で述べたように、コーサを名乗る民族以外にも、テンブ、ムポンドなどの「プロパー」諸民族と、"ムフェング"を主とする、ナタールから流れてきた「イミグラント」諸民族が入り混じって居住していた。この中でテンブ人は、かつて植民地時代にヨーロッパ人勢力と手を組んだ経緯があり、またメソジスト派教会との結びつきも強かったこともあり、白人政権からは優遇されていた。「トランスカイ独立」時の(傀儡)首相であったマタンジマは、テンブ王家の首長である。仮に「部族の首長」を中心とする統治形態を創り出そうと白人政府が目論んだのならば、「トランスカイ」は「テンブ族」の領域として位置づけられるべきであろう。にもかかわらず、白人政府は「バンツースタン・トランスカイ」を「テンブ族」ではなく「コーサ族」の領土とし、そこで話されている言語を「テンブ語」ではなく「コーサ語」と呼んだ。なぜなら、行政レベルでは、この時点ですでに東ケープ地域は「コーサ語」の領域であり、テンブ人が話す言語も「コーサ語」と名付けられてしまっていたからである。

4-4 「コーサ・スピーキング・ピープル」という呼称

 ただし、上に挙げた法律の条文を注意深く読めばわかるが、「トランスカイ市民」として「コーサ語を話す」ことが条件であるとする条項はあるものの、「コーサ族であること」という条件はどこにも記載されていない。「コーサ族」とのみ記してしまうと、実際にはコーサ人ではない諸民族は、この法律の対象から除外されることになり、条文の解釈が明確になりすぎる。共和国政府は当然、このことには気づいていたであろう。そして、条文の解釈に曖昧さの入る余地を残すことで、自由に「部族」区分を操作できるようにしたものと考えられる。

 研究者などによる文章では大抵、注意深く「コーサ語話者(Xhosa-Speaking People)」という名称を用いている。こうすることによって、東ケープのアフリカ人を「コーサ族」と一括りにすることを避け、本来の"コーサ人"と「コーサ語」の領域が異なるものであると認識していることを表明することになる。しかし、この「コーサ・スピーキング・ピープル」という名称自体が、彼ら研究者が置かれている(いた)立場を逆説的に示すものであろう。「コーサ族」であれ「コーサ・スピーキング・ピープル」であれ、彼らを一括りに認識・統制しようとして白人政府が創り出した、人工的な「枠組み」であることには変わりがない。「コーサ・スピーキング・ピープル」を用いる人たちは、「コーサ族」が、実は"heterogeneous"な存在であることを知っている。しかし、既成事実として(まして法的に)作り上げられてしまった枠組みを勝手に組み替えることは、彼らにはできないのである。

4-5 「部族分類」の恣意性

 東ケープのアフリカ人を厳密に民族集団別にカテゴライズすると、際限なく細分化されるということは、アパルトヘイト政策を推し進めた白人政府には分かっていたはずである。仮にテンブ人を1部族として「法的に認定」し、自治を与えようとするならば、同じ原則に則って、並列的に存在する、例えばムポンド人やその他多数の諸民族にも自治を与えなければならないことになり、とても管理しきれなくなる。そもそも「領土が重なり合ったり、時には融合してきた(53)」曖昧な民族の境界線を、「法的な部族単位」として明確に線引きをすること自体が不可能なのである。こういった線引きは「白人と非白人とを区別する」ことと同様、その恣意性=欺瞞性に変わるところはない。 

 逆に大きな枠組みを考えると、言語学的には、南アフリカのバンツー系諸言語は、ツォンガ、ベンダの2言語を除くと、大きくングニ系とソト系に分けることができる。分類基準を「言語別」とするならば、この基準を用いた方がまだしも本質的であるといえるかもしれない。いずれも同系言語内では、意志疎通は容易であるばかりでない。特にングニ系言語では、「ズールー語」や「コーサ語」などといった各々が一個の独立した言語であるとすること自体が、言語学的には何ら必然性を持たぬものなのである。例えばンデベレ語はズールー語の一方言であるとの捉えかたが一般的である。つい最近まで、学校教育におけるンデベレ語の授業には、ズールー語教育用の教科書が用いられていた。この二つの「言語」の差異が、しばしば「アメリカ英語とイギリス英語の差程度」と説明されることは良く知られている。また、スワティ語の識字教育にも同様に、最近までズールー語で書かれた教材が用いられてきた。更に、コーサ語とズールー語も意志疎通は極めて容易である(54)。ソト--ングニ間の言語的差異については、例えばソト系言語の話者がングニ系言語を習得する場合は、通常は一定量の学習を必要とする(55)。 

 しかし、この「ソト系・ングニ系」という基準を用いると、白人政府にとっては厄介な問題が生じる。「南ア黒人を二ないし三の民族集団を分けるだけだと、現在白人が独占している広大な土地を黒人たちに譲り渡さないといけなくなる可能性ばかりでなく、これこそブラックパワーの基盤を創出し、(中略)白人支配がぐらつくことになりかねない(56)」からである。 

 いずれにせよ「コーサ族」という「部族の枠組み」は、極めて恣意的・人工的な物であり、アフリカ人本人たちの意志とは全く無関係に、白人権力者の論理によって創出された「政治的単位」なのである。 

 80年代に入り、「部族国家ホームランド」なるものの正体が明らかになってくると、白人政府は次第にその欺瞞性を覆い隠すことができなくなったのか、「部族」や「部族語」に関する定義を修正し始める。アパルトヘイトが終焉を迎える直前、80年代後半の「南アフリカ公式年鑑」には「コーサ語」に関して次のような記述が見られる。

Xhosa is one of the country's most heterogeneous languages, with numerous dialects of which many are not immediately related to Xhosa proper, on which the written form is based(57).

 (下線神谷) 

 

 これは先に挙げたポーの記述とは正反対の内容である。ただし、これも本来的には、「コーサ語には多くの方言が含まれる」のではなく「コーサ語という名称の下に、他の周辺言語が取り込まれていった」とすべきであろう。さらには「コーサ語」を(単に学校や教会において)用いる民族を「コーサ」と名付けてしまったのである。

4-6 歴史に残らない民族

 白人政権が創出した枠組みをそのまま無批判に受け入れることで、別の重要な問題が生じる。すなわち、実際の歴史的存在としてのコーサ人と、政治的に創出された「コーサ族」とを同一視し、その歴史を直線的に結び付ける--少なくとも「同一である」といった印象を与える--ことは、テンブ人やムポンド人などの存在を捨象してしまうことになるからである。例えばトンプソンの著した浩瀚な「南アフリカの歴史」では、20世紀以前の「コーサ人」社会の歴史についてやや詳細に記述されているが、その他の東ケープ諸民族の歴史に関しては殆ど触れられていない。少なくともこの本に従えば、テンブ人やムポンド人は「いなかった」ことになってしまう。これは、「文字文化をいち早く確立した者のみが歴史に名を残す」例の一つであるといえよう。

南アフリカの歴史家ペイレスは、コーサ王家の歴史を詳細に記したThe House of Phaloの序文の中で、

  Other peoples usually classified a Xhosa-speaking, for instance the Thembu, Mpondo, Mpondomise, Bhele, Zisi, Hlubi, and Bhaca, have long and proud histories of their own, and I can only hope that they receive attention in near future(58).

と述べ、現在の東ケープのアフリカ人に関する歴史研究がコーサ王家の歴史に集中していることを暗に批判している。

 


5 終章

 「白人>カラード・アジア系>黒人」という差別の区分を「水平的」とするならば、アフリカ人をいくつかの「部族」に分類することは「垂直的」とでもいえる。そして前者が白人政権の欺瞞の産物であるのと同様、後者もまた宣教師の活動が素地を整え、白人政権が制度化した一種の虚構にすぎない。したがって「水平的区分」が(「原則的」ではあるにせよ)消滅した現在、この「垂直的区分」もまた撤廃しないことには、真の意味での「アパルトヘイトからの解放」は有り得ない。南アフリカの人種構成が「白人、カラード、アジア人、アフリカ人からなり、アフリカ人は更に主要9部族に分かれる(59)」などと捉え続けること自体、アパルトヘイトの産物をそのまま受け入れてしまうことになるのである。 

 マンデラ大統領率いる現政権は、従来の公用語である英語、アフリカーンス語に、アパルトヘイト体制下の時代に各「ホームランド」において「公用語」として指定されていた9言語を加えた11言語を、そのまま新国家体制への公用語として制定している。これに加えて新たに割り振りされた各州(province)において、それぞれが州の公用語を制定することになっているが、ここでは、ある州がかつての「ホームランド」地域を含む場合は、そこ公用語をそのまま州の公用語に指定する措置が取られている。 

 これらの方策は、アフリカ人の言語の復権を考えるならば、当面は妥当な措置と言えるであろう。しかし、これは真に「アパルトヘイトからの解放」を意味するものではない。この9言語の分類法の存在は、そのまま「9部族」の存在の映し鏡となるからである。 

 現政権の発足時に打ち出した「11公用語政策」に対する批判は、実際的な側面--例えば財政的な問題--にのみ焦点が向きがちで、このように理念の問題として取り上げられることは少ない。こうした中で、ケープタウン大学のN・アレキサンダーは独自の言語政策を提唱する。「アレキサンダー・プラン」と呼ばれるこの政策案は、アフリカ人言語について「ングニ系言語、ソト系言語を統一し、それを公用語に指定(およびベンダ語、ツォンガ語を始めとする少数言語の保護)」することを目指している(60)。この案は、本稿でこれまで述べてきたような「言語・部族・政治」の歴史的過程を十分に認識した上で、権力によって創り出されたその「枠組み」を乗り越えつつ、その一方でアフリカ人の言語文化のアイデンティティを維持・発展させるというものである。これは、いわば一種の妥協案であるが、アパルトヘイトのくびきから逃れる、という意味では有効な手段となりうるであろう。 

 「国民意識の統一(national unity)」という謳い文句で一見見栄えのするこの「アレキサンダー・プラン」に対しては、しかしながら、研究者を含む多くが、その有効性は認めつつも、財政的な問題などから、実行に関しては批判的である。 

 白人政権下の南アフリカは「人種」と「部族」を法的に分類するという政策をとっていた点で、他国の「民族/部族」とは微妙に異なる。また彼らの言語には、これと並行して、アフリカ人を「互いに孤立させ、支配者層であるエリートから、社会的地位を向上させる可能性から、また文献その他の国際的な接触の機会から遠ざけようとする(61)」政策に利用されてきた歴史があるために、アフリカ人側、特にインテリ層の中には、自らの母語やその使用を否定的に捉えるものも多い。更に、1976年の「ソウェト蜂起」を引き起こしたことに代表される、アフリカ人のアフリカーンス語に対する悪感情も絡み、南アフリカの言語問題について語る際には、常に政治的な色合いが付きまとう。ここにも南アフリカの「部族・言語に関する問題」の特殊性/複雑性がある。従って南アフリカの「部族」の問題は、一般に言われている「民族/部族問題」とは分けて考える必要があるかもしれない。 

 しかし、それはあくまで表面的なことであり、近代社会の人々が持つ「部族」のイメージを南アフリカの白人が突出した形で示しただけであって、「部族」に対する基本的な捉え方は何処も同じであろう。 

 「民族・言語・政治」が絡み合うことによって様々な問題が生じるという現象は、もちろん、アフリカや第三世界に限ったことではない。「言語共有の意識」は「民族のアイデンティティ」を強固にし、それが更に言語への固執を生み出す。こういった動きは、「民族の時代」としてもてはやされた、特に1980年代後半から90年代にかけてのソ連の崩壊や東西ドイツの統一などによる「政治的インパクト」によって加速されてきた。近代国家の中にいる(政治的)マイノリティたちにとっては、「言語」と「民族のアイデンティティ」はあたかも車の両輪のごとく民衆のパワーを牽引する力となり、次第に政治的発言力を拡大していく。しかし、例えばカナダのフランス語系住民による「ケベック独立運動」のように、最近ではその動きも歓迎されざるものとなりつつある。 

 苛烈な差別と闘争の歴史を背負った南アフリカにおいて、この「9言語=9部族」をそのまま維持し、政治(行政)と言語を結び付け続ければ、対立の火種は消えぬばかりか、新たな火種をも生み出してしまう危険性を含んでいる。そしてそれが現実となる時、そこでは必ず、おびただしい量の血が流されることになる。 

 アフリカや、この地球上で現在生じている様々な「部族/民族間の軋轢」は、解決はおろか、その構図を理解することすら難しい状況にある。注意深い観察者ならば、こういった「部族/民族対立」が、それに名を借りた「利益対立」や「政治的対立」であると説明することを怠らないであろう。しかし、そこから更に踏み込んで、「部族それ自体」の正体を明らかにしようとする試みは、現在のところ数少ない。たとえ対立や紛争の当事者でない「部族」であっても、それが政治的なプロセスによって作り出された存在であり、「部族」と捉えることそれ自体が政治的な認識方法に絡め取られているのだ、ということを意識することは重要である。(それが「部族」であれ「民族」であれ)そういった「枠組み」が、いつ、どのようにして出来たのか、なぜそれが必要とされたのか、それによって利益を得るのは誰か--「部族」の存在を真に理解するためには、これらの根源的な問いを発し続けなければならない。

(終)

 
注釈

(1)本稿は、修士論文として大阪外国語大学に提出されたもの(平成7年度)に大幅な加筆、削除、訂正を行ったものである。

(2)本稿では「黒人」という名称は使用せずに、「アフリカ人」として表記した。ここでいう「アフリカ人」とは、基本的に「南アフリカ(地域)に居住するバンツー系アフリカ人」を指すものとする。ただし、彼らの中には誇りを持って自らを"black"と名乗るものがいることは承知している。

(3)日本語でこの種のトピックを扱う場合の「民族」×「部族」、および「〜人」×「〜族」の用語をめぐる問題に関する論争は周知の通りだが、本稿ではその内容の性質上、以下のような原則を立てた。すなわちa)あるアフリカ人人間集団を「人工的、政治的枠組み」として、あるいは外部の人間が抱いている「未開/閉鎖的イメージ」の中で捉える際は「部族/〜族」を用いる、b)当該のアフリカ人が本来(何が「本来」なのか、実際のところよくわからないのだが)帰属すると考えられる人間集団を表す場合には「民族/〜人」を用いる。文中では、これらは文脈によって使い分けられているが、その必要性は本稿の趣旨からすれば自ずと明らかであろう。また「部族/〜族」を使用する場合には、「いわゆる〜」というニュアンスを持たせるために、すべて「 」で括ってある。

(4)日本語でこの種のトピックを扱う場合の「民族」×「部族」、および「〜人」×「〜族」の用語をめぐる問題に関する論争は周知の通りだが、本稿ではその内容の性質上、以下のような原則を立てた。すなわちa)あるアフリカ人人間集団を「人工的、政治的枠組み」として、あるいは外部の人間が抱いている「未開/閉鎖的イメージ」の中で捉える際は「部族/〜族」を用いる、b)当該のアフリカ人が本来(何が「本来」なのか、実際のところよくわからないのだが)帰属すると考えられる人間集団を表す場合には「民族/〜人」を用いる。文中では、これらは文脈によって使い分けられているが、その必要性は本稿の趣旨からすれば自ずと明らかであろう。また「部族/〜族」を使用する場合には、「いわゆる〜」というニュアンスを持たせるために、すべて「 」で括ってある。

(5)アパルトヘイトの時代には、アフリカ人学校の歴史の授業においてさえ、このような教え方がなされていた。

(6)この時期の、難破船やその乗組員による情報に関しては、Derricourt, 1976参照。

(7)Wilson, 1982, pp.87-89.

(8)ナタール地域は1839年に、アフリカーナー系"トレッカー"による「ナタール共和国」として成立するが、1843年にはケープ植民地の1州としてイギリスに併合された。このナタールの西限はムジムクル川だったので、イギリスが西から徐々に進めていった、東ケープの南部ングニ諸民族の植民地への編入は、ムジムクル川西岸までを版図としていたムポンド人社会の併合をもって「完成」することになる。

(9)Van Warmelo, 1974. p.56.

(10)ファティマ・ミーアの「ネルソン・マンデラ伝」の最初の2章は、マンデラの出身民族であるテンブ人およびテンブ王家について割かれているが、ここではコーサ、ムポンドといった人々に関しても、「同胞」に対する畏敬の念を込めて、並列的に記述されている。

(11)これらンドランベ、ンギカ、チャレカといった名称は、首長個人の名前を表わすと同時に、その首長国および国民のことも指す。従ってここでは、たとえば「ンギカ人」とのみ表記した場合には、勢力としての「首長国全体」を指し、「ンギカ」とのみ表記した場合は首長個人を指すものとする。

(12)「ムフェチャネ」"mfecane"はズールー語で「衝突」の意。ソト語では「ディファカネ」"difaqane"と呼ばれている。

(13)Bryan, 1959, pp.152-153.

(14)"フィンゴ"は宣教師アイリフにより英語化された名称。

(15)Bryan, loc. cit.

(16)クルマス、1993年、17ページ:F・クルマスはこの著書の中で、マックス・ヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、近代ヨーロッパ型国家の雛形となる「資本主義的国民国家」形成過程の中で、「印刷物による統一言語の制定」が果たした役割について殆ど触れていない(見落としている)ことを指摘しつつ、文字化=印刷された民衆言語が、いかに後のヨーロッパ諸国の「発展」に寄与したかについて、主にその経済的側面を述べている。

(17)クルマス、同20ページ。

(18)Saunders, 1983, p.192.

(19)Doke and Cole, 1961, pp.27-53.

(20)また彼は"Bemerkungen "uber die Sprachen der S"udafricanischen wilden V"olkerst"amme" (1808)において、"Hottentot"と"Kaffirs"を区別した最初の人物であるとされているが、この際、「コーサ語」と「ツワナ語」を一つの「方言」とみなしている。Travels in Southern Africaでは"Koossas"を用いていることから、彼は「カフィール」という名称を、「ホッテントットではない」アフリカ人全体をあらわすものとして「広義に」用いていたようである。

(21)「カフィール」とは、アラビア語で「異教徒/邪教徒」の意。日本語では「黒んぼ」と訳されることからも分かるとおり、現在は明らかな蔑視語とされており、使用は好ましくない。

(22)ファン・デル・ケンプ自身はオランダ人。もともとは軍医だったが、妻子を船の事故で亡くしたことをきっかけに50歳で宣教活動を始めた。彼は通常の宣教師とは違い、「教義」や「文明」といった概念は殆ど持ちださなかった。ある時、彼がコーサ人のある村を訪ねた時のいでたちは「裸足で、帽子をかぶらず」、コーサの小屋に住み、コーサ人と食事を共にする「奇人」であったという。

(23)Transaction of the Missionary Society, 1803, Vol.1.に収録。

(24)Scheub, 1985, p.545.

(25)ラブデイルの教育部門は、後にフォート・ヘア大学となり、アパルトヘイト体制下でのアフリカ人教育に関して重要な役割を果たした。ネルソン・マンデラ現大統領やオリバー・タンボ元ANC議長など、後のアフリカ人政治(活動)家が多数在籍した事でも有名。

(26)バンツー系とコイ=サン系民族の接点に位置する民族。両者の性質を併せ持つ(a people of mixed Nguni and Khoi attributes)[Davenport, 1991, p.115.]とされている。

(27)Glasgow Missionary Report, 1824, p.27: quoted in Pinnock, 1994, p.79.

(28)Godfrey, 1932参照:この論文が収録されているBantu Studies Vol.[, No.2の見開き頁に、この"All Cattle〜"がリプリントされている。

(29)Doke and Cole, 1961, p.39.

(30)Doke and Cole, op. cit. p.112.

(31)ティヨ・ソガはンギカ系クランの出身で、ラブデイルに学び、スコットランドに2度留学、アフリカ人として初めて正式な身分の聖職者として叙任された。スコットランド人女性と結婚し、帰国。白人と同等の地位を持つ聖職者として宣教活動に従事する。ソガの家系はいずれも当時のアフリカ人を代表する知識人として活躍した。

(32)Switzer, 1993, p.385n19.

(33)ibid., p.119.

(34)Kaffir Expressは後にChristian Expressに、更にSouth African Outlookとタイトルを変え、現在も発行を続けている。

(35)この他、英語による新聞類としてThe Lovedale NewsThe Healdtown Messengerなどがあり、いずれもラブデイルから発行。

(36)ジャバブはアフリカーナー・ボンドを支持したり、「原住民土地法」に賛成したりと「親白人」姿勢が強かったので、現在のアフリカ人の間ではあまり快く思われていないという。

(37)Invo zaBantsunduはケープ地域におけるアフリカ人オピニオン誌として現在もキング・ウィリアムズタウンから刊行中。購読者数は3万を超える(Africa: South of the Sahara 1995, 24th edition, p.867.

(38)Scheub, op. cit., p.548.

(39)Pinnock, op. cit., pp.80-81: シェパードはコーサ語が読めなかったので、検閲の作業は"オールドジョン"という名の植字工と、ジャバブの息子でフォート・ヘア大学の教授であったジョン・テンゴ・ジャバブが行った。

(40)Beinart, 1982, p.138.

(41)Hammond-Tooke, 1962: in the preface by M. Willson.

(42)"ムフェング"は元々ナタール地方の住人なので、バチャ人などと同じく、ズールー語に近い言語(方言)を話していたと考えられる。現在ではムフェング"語"の話者は絶えている(Bryan, loc. cit.参照)。

(43)これに似たパラドクシカルな現象は、「ズールー族」創出の過程でも生じている。ズールー王国の崩壊後、約100年経って再び「ズールー・エスニシティ」を掲げる運動が台頭してきたが、こういった思想を持ち出したのは、実際には「ムフェチャネ」の時代にその支配を逃れ、植民地や宣教師に助けを求めた人々の子孫である(Marks, 1989, pp.216-217)。

(44)Callaway, 1905; introduction参照。

(45)余談ではあるが、1933年刊のブルームフィールド『言語』においてもなお、コーサ語を表す名称として「カーフィル語」(Kaffir)が使用されている(三宅他訳、85ページ)。

(46)Saunders, op. cit., p.92.

(47)Pauw, 1974, p.3-4.

(48)法令の引用に関しては全て浦野起央編・著『アジア・アフリカ国際関係政治社会史・第4巻・アフリカWc』より。訳文の語彙に若干の問題があるがそのまま引用してある。

(49)リリーヴェルド、1987年、211ページ。なお、1970年の統計では、「ンデベレ」は更に「北ンデベレ」と「南ンデベレ」に分類されている(Van Warmelo, 1979, p.59参照)。ファン・ヴァルメロは「北ンデベレ」は「言語・帰属意識共に『ソト』に分類されるべきであろう」と述べている。ここでリリーヴェルドは民族を10に数えているが、恐らくこの時期の統計に基づいた記述であろう。

(50)リリーヴェルド、同212ページ。

(51)「1部族=1バンツースタン」の原則にも関わらず、「コーサ族」の場合のみ「トランスカイ」と「シスカイ」の2つの行政単位に分けられた理由は、はっきりしていない。

(52)Moodie, 1980, p.47.: quoted in Mar'e, 1993, p.29.

(53)リリーヴェルド、同、212ページ。

(54)例えば住民集会などでの演説が英語で行われる際、「コーサ語話者の聴衆のためにズールー語通訳が雇われた」などということが実際にある(Bua!, Augst 1994, p.14.)。

(55)Maake, 1991, p.56: ただし、形態レベル、統語レベルでは両者の間にはほとんど差はなく、体得は容易であるという。

(56)リリーヴェルド、同、211〜212ページ。

(57)South African Yearbook 1987-1988, p.68.

(58)Peires, 1891, p.ix.

(59)星・林、1992年、後ろから64ページ。

(60)Alexander, 1989参照。

(61)トラッドギル、1975年、168ページ。

(62)匿名で発表されたもの。


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