ヨーガ


高島 淳


1. 神秘体験と神秘修行

神秘体験はとりわけ個人的なものであるとされている。純粋な内的体験である以上、そうある以外にはあり得ないはずである。それ故、神秘体験を理解しようとする時、各神秘家の体験記(聖テレサのもののような)に読み入ることが第一の道となる。しかしインドではどうすればよいだろう。確かに多くの偉大な神秘家達がいる。だが彼らが自らの体験を個人的に表白するのは、神への讃歌としてでしかない。ヨーガのように神の関わらない場合、個人的体験を語る文献は見い出しようがないのである。

ヨーガ文献において語られるのは修行の方法である。そもそも語り得ないものを語ろうとするよりは、体験させようというのだ。なるほど『ヨーガ・スートラ』I. 41--51などは三昧の深化の段階を述べるが、それは明確に理論化されたものであって、体験を直接語るものではない。

ここでひるがえって、神秘体験の個人性について反省してみるべきだろう。何故なら、純粋に個人的なものには共通した修行体系を与えられないだろうから。その「表現の困難さ」故に神秘体験そのものに関する我々の知識は限られているが、近年の実験心理学的研究の示唆する所によると、ドラッグ等によって得られる体験と神秘体験との類似は明らかである(n.1)。こうした点から実験心理学は、神秘体験やドラッグ体験を「意識の変容状態」という形で同一のものとして扱おうとする。もちろん宗教学的立場からは、これらを同一の体験と見なすことは出来ないが、共通の生理学的基盤を想定することは誤りではないであろう。

ところで実験心理学の示す所によると、このような生理学的状態は、ドラッグや冥想法や呼吸法(呼吸数の減少に伴う血中二酸化炭素濃度の増大)その他多くの要因によって引き起される。このように、神秘体験の基盤となる生理学的状態を得るためには多くの可能な手段があるとすれば、ヨーガのように神秘修行が体系化されている場合、そこに一つの選択があることは明らかである。この選択は、単なる行法の有効性によるよりも、はっきりした思想的枠組みに由来していると仮定するのが自然であると思われる。ここではまず、ヨーガ学派の根本教典であるパタンジャリ作『ヨーガ・スートラ』(紀元四世紀頃か) の体系の背後の思想から見ていきたい。

2.『ヨーガ・スートラ』の体系

パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』は、ヨーガの支分として、「禁戒」、「勧戒」、「坐法」、「止息」、「制感」、「執持」、「静慮」、「三昧」の八つを挙げている。このうちの「執持」以下の三つは内支分とされ順次深まりゆく冥想法であるが、前五者は階梯をなす訳ではなく、一般的には同時に修行されるものである。更に、冥想法を行ずる時には常に坐法と止息が伴っている。従ってこの八支則を、岸本英夫のように神秘階梯として捉えることは誤っていると言わねばならない。これらは神秘体験の境地の進展を示すものではなく、解脱という目的のためのある一つの原理に立つ手段を列挙したものなのである。

ヨーガ学派においては、解脱は純粋精神たる真我が物質原理たる根本原質(prak.rti) から分離することによって生じるとされる。真我は純粋な観照者であるのに対して、根本原質は行為者であり我々の通常の心作用の働き全てを司っているものである。苦しみからなる我々の生存(輪廻)は、自己の本質が真我であることを認識せずに、根本原質の働きたる心作用であると誤認していることによる。解脱は、この事態を正しく認識すること(識別知)によって生じるのだが、真我自体は変化するものではないので、根本原質からなる心作用自体がこれを認識しなければならない。

さて『ヨーガ・スートラ』(II. 28)は、真我と根本原質とを識別する知への道を要約して、「ヨーガ支の遂行によって不浄が滅する時、識別知に到る認識の光がある」と述べている。注釈によるとこの不浄とは五種の煩悩(「無明」、「自我意識」、「欲」、「憎しみ」、「生存欲」)(YS. II. 3)のことである。従って、ヨーガの八支の遂行はいずれも五種の煩悩からなる不浄を滅する手段であり、それによって識別知が生じるのである。ところでこれらの煩悩は心作用の一つである。心作用の働きは同種の潜勢力を生じ、その潜勢力はまた同種の心作用を生じるという具合に無限に続くとされている(YBh. I. 5参照)。煩悩のような汚れた心作用は無限の苦しみに導くが、逆に浄い心作用は同じカルマの原理によって浄い潜勢力を生じさせ最終的に心作用自体の停止に導くとされる。この点を最初の二つのヨーガ支たる「禁戒」と「勧戒」を例に見てみよう。

禁戒と勧戒

「禁戒」は、不殺生・真実語・不偸盗・貞潔・不貪、「勧戒」は、清浄・満足・苦行・学誦・神霊への帰入、のそれぞれ五つからなっている。両者のうちで特に禁戒の方はジャイナ教の五戒と共通であり、一見した所、単に予備的な道徳的教えと思われるかもしれない。しかしヤナチェクの指摘するように(n.2)、その本質は「対抗する冥想」(pratipak.sa-bhaavana, YS. II. 33)にある。これは、殺生等の悪しき(不浄な)観念が生じた時に、そうした観念がカルマの法則によって苦と無知の無限の連鎖をもたらすことを観想して悪しき観念を滅することである。

そして、こうした修習によって直接的に超自然力が得られるとされる。例えば、不偸盗が確立すると総ての宝が手元にやって来るし、真実語によって口にすることはすべて実現する。このような超自然力は、インドの伝統にとっては何ら特殊なものではなく、心作用自体の力の側面の自然な現れなのである。悪しき観念が輪廻の苦しみを必然的に生み出すのはその心作用の力であり、その反対に浄い心作用の力は、解脱に到る知を生じさせるのと同時に、必然的かつ直接的に上述のような超自然力を生じさせるとされるのである。

ヨーガの内支分で説かれる冥想法も同様のカルマの原理に基づいている故に、ヨーガにおいては多くの超自然力が述べられるのであるが、最終的には浄い心作用自体を停止させてしまうような潜勢力を増大させることが目的とされている。坐法と止息も、人間の揺れ動く性向という不浄に身体レベルで対抗していく点で共通の原理に基づいていると言えるが、これは心作用も身体も同じ物質原理たる根本原質からなることによって同一のカルマの原理が働いているからである。インドにおいては西欧的身心二元論は成り立たないのである。こうした非二元的思考は、ハタ・ヨーガの体系において一層明確に現れているので、以下にそれを見てといくことにする。

3. ハタ・ヨーガの体系

狭義の意味でのヨーガが『ヨーガ・スートラ』を根本教典とするインド正統六派哲学の一つを指すのに対して、広義のヨーガは解脱に到る手段のすべてを意味する。広義のヨーガの分類として、『ヨーガ・タットヴァ・ウパニシャッド』は、ハタ・ヨーガ、マントラ・ヨーガ、ラヤ・ヨーガの三種に区分している。これらは、身・口・意の三つに対応する手段であり、ハタ・ヨーガが「ハタ」( 激しい) と呼ばれるのは身体的技法を中心とするからであると考えられる。

ハタ・ヨーガ文献の大部分は十五世紀以降の成立と考えられ、その体系としての成立は比較的新しいと思われる。しかしながら、個々の技法への言及は『マイトリ・ウパニシャッド』(二世紀頃か)などにも見られ、その思想的基盤は古くまでたどり得る。

さて、ハタ・ヨーガの行法は、(1)坐法、(2)止息、(3)ムドラー、(4)冥想法の四つからなるが、以下に順に見ていこう。

坐法(aasana)

近年「ヨガ」という名で健康法として行われているものの元がこのハタ・ヨーガの坐法であるが、このような誤解の原因は、アクロバティックと言えるような坐法の存在や効果として無病が強調されていることであろう。しかしながら、説かれている坐法の大部分は結跏趺坐に類似した確固安定の姿勢であり、無病という効果が得られるのも身体の不動性を通してとされている。『ヨーガ・スートラ』T.30 で病気が心の散乱の一つとして挙げられているように、身体の不動によって心が不動となる時、病気もなくなるとされるのである。

困難な姿勢の場合も、より困難な不動性を追求することが目的であり、それによって人間の自然な揺れ動く性向を克服し人間的条件を超越することを目指しているのである。またこれは、根本原質の三素因( 純質・激質・暗質) の中の「激質」を滅し浄化することによって、直接に心の平静不動を生じさせるともされている。身体の不動性と心の不動性との結びつきについては更にプラーナの観念も関係しているが、これについては以下に「止息」について論じながら見ていこう。

止息(praa.naayaama)

「プラーナーヤーマ」(プラーナの抑制) はしばしば「調息」と訳されるが、それは過程にすぎず、最終的には呼吸の完全な停止を意味している。何故このようなことが目指されるかというとと、インドの生理学にとって呼吸とは外気を吸入することではなく、逆にプラーナが外に出てしまうことであるからである。プラーナは、宇宙を動かす風との相同によって風のようなものとして考えられた生命のエネルギーであり、人体においては呼吸として現れる。それ故、呼吸を停止してこの実体的な力を体内に留めておくことによって不死が得られると考えられたのである。

また一方で、プラーナは生命のエネルギーとして身体のあらゆる器官の働きを司る力でもある。ウパニシャッドにおいても、プラーナは視覚等の感覚機能・精液・心などと同一視されている。精液としてのプラーナの側面は、タントリズムの影響もあってハタ・ヨーガにおいて重要視され、直接に精液の抑制を目指す行法も行われる。しかし最も重要なのは、感覚機能及び心としての側面である。プラーナは感覚機能の力そのものであるから、呼吸の完全な停止によって「制感」( パタンジャリのヨーガ八支中の五番目) が生じるとされる。その延長として、感覚機能の統御者たる心そのものもプラーナと同一視され、呼吸としてのプラーナを抑制することによって心も抑制され不動となって滅するとされる。このような考え方から、三昧の境地さえも完全な止息の時間が充分長くなることによって達成されると言われる。

このように、心とからだのあらゆる機能の力である実体的存在としてのプラーナの観念がハタ・ヨーガの行法すべての基礎であり、坐法の追求する身体の不動性も、プラーナの不動性の追求として理解されるであろう。

この他に同じくプラーナーヤーマと呼ばれるが別の意味の行法もある。プラーナは身体内をナーディーと呼ばれる脈管を通って流れるとされるが、この脈管を浄化するための種々の呼吸法が行われる。同じ意味で腸の洗浄等も行われる。これは、インド的な浄不浄の観念に基づく浄化の行法でもあるが、一方ではプラーナをスシュムナーと呼ばれる中央の脈管に導くための予備的行法でもある。

小宇宙としての人体

スシュムナーは、人体の中央を貫いて会陰部から頭頂に達していると考えられている脈管である。この脈管が重要なのは、人体が小宇宙と見なされているからである。人体を小宇宙とする思想は古くからあるが、特にタントリズムによって発展させられた。それによると、小宇宙としての人体の頭頂部には宇宙展開の根源としての絶対者(梵、シヴァ神、あるいは空) が存在するとされ、スシュムナーはそれに達するための道なのである。プラーナは通常左右の鼻孔に通じる左右の脈管を流れているが、呼気も吸気も停止することによって中央のスシュムナーに入りそれを登って絶対者と合一して滅し三昧が生じるとされる。

プラーナを直接にスシュムナーに導くためのもう一つの行法がムドラー(「印」、この場合は「締めつけ」の意味) と呼ばれるものである。これは身体の各所を締めつける行法であり、このような締めつけによって直接にプラーナを圧迫しスシュムナーに注入しようとするものである。坐法として説かれる行法中のいくつかも同じ目的を目指している。このように身体的締めつけによってプラーナを直接に制御しようとする所にもハタ・ヨーガの特徴が明確であり、同様の小宇宙としての人体観を有するタントラ的行法が視覚化する冥想法によって身体内の絶対者と合一しようとするのとは異なっている。

以上がハタ・ヨーガの行法の中核であり、冥想法は比較的補助的な位置に留まっている。ハタ・ヨーガにおける冥想法は大部分の場合ムドラーや止息の一部として述べられ、身体的行法によって操作しつつあるプラーナとそれが合一すべき対象( シヴァ神など) を視覚化するものである。

このような視覚化は、タントラの場合のように詳細ではないが、最低限のものは不可欠である。何故なら、生理学的には止息による血中二酸化炭素量の増大や坐法による(針麻酔と類似の機構による) 脳内エンドルフィン型物質の生成がドラッグと同様に「意識の変容状態」を生じさせるとしても、ドラッグ体験がそのまま神秘体験にはならないように、神秘体験を生じさせるためには宗教的な方向づけがなくてはならないからである。

三昧

では、以上のような行法の結果としての三昧の状態はいかなるものとして捉えられているのであろうか。まず一方では、三昧の状態は、何ものをも識別することのない、心が滅し去って、外見的には全く死人と同じような状態として、我々の眼からは極めて否定的なものとして捉えられている。しかしその一方で、ハタ・ヨーガは離身解脱を説かず、三昧がすなわち生前解脱であるとし、身体は否定されるどころか、錬金術的に変成されて不死の神的な身体になるとされるのである。この状態においてヨーガ行者は、不死で、超自然力を持ち、全能であり、要するに主宰神と等しいものになるとされる。

これを三昧の体験の直接的な表現と見なすことも可能であろうが、むしろその基盤にあるのは「力」の観念であると思われる。『ヨーガ・スートラ』の体系の基礎にも、カルマの法則に基づく心作用の力の観念があったが、ハタ・ヨーガの場合は更に実体的に捉えられたプラーナとしての力の観念がある。生命力としてのプラーナが抑制されると不死が生じ、身体が不動となることが消化の火を生じさせるように、プラーナすなわちエネルギー的実体としての人間は、具体的な形をとらずに抑制されてある時にこそ、一切の可能性に充満した存在として最高の力ある存在となるのである。その時身体は、エネルギーに充満した瓶のようなものとなり、外的には死体のように見えながら、内的には未発の生命力が躍動するものと感じられるのである。

略号

YSは『ヨーガ・スートラ』、YBh は Vyaasaの『ヨーガ・スートラ』への注解である。

参考文献

[ヨーガ一般について]

M. エリアーデ『ヨーガ』1. 2. 立川武蔵訳、せりか書房、1975年

[神秘主義とヨーガについて]

岸本英夫『宗教神秘主義---ヨーガの思想と心理』、大明堂、1958年

同『神秘主義とヨーガ』、渓声社、1975年

F. スタール『神秘主義の探求---方法論的考察』、宮本啓一・秦本融他訳、法政大学出版局、1985年

[『ヨーガ・スートラ』とその注解の訳について]

本多恵『ヨーガ書註解---試訳と研究』、平楽寺書店、1978年

[ハタ・ヨーガ文献の訳について]

佐保田鶴治『ヨーガ根本経典』、『続ヨーガ根本経典』、平河出版社、1973, 1978年

[本文中で詳説できなかったヨーガにおける知と浄と力の関りについて]

Penza, C., `On the Purification Concept in Indian Tradition, with Special Regard to Yoga,' in East and West, vol. 19 1969.

初出

本稿は、「ヨーガ」, 『神秘主義を学ぶ人のために』, 世界思想社, pp. 65 -- 76, 1989. のonline版である。サンスクリット表記はdot方式によった(一部削除)。

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