インドにおける「とき」---劫・輪廻・業---


高島 淳


はじめに

史書なきインド

インド史を専門としている人から「史書なきインド」(n.1)と言われることがある。こうした発言の裏にあるものを考えてみると、中国との比較があるのかもしれない。大学における歴史の分類では、インド史は東洋史に入るが、東洋史の中で圧倒的な位置を占めているのが中国史である。その中国における史書の豊富な伝統と比較すれば、「史書なきインド」という言葉は素直な感慨と言っても良いかもしれない。なにしろ、哲学や文学作品なら極めて古くからの伝統を誇ることのできるインドで、史書と呼べる作品は12世紀のカシミールにはじめて出現するに過ぎないのである。

これは、インド社会停滞論的な発想からの問題意識ではなく、あくまでも歴史を歴史書として書きとどめようとする際のインド人の意識のあり方についての感慨である。もちろん、中国人と比較すれば日本人もインド人と同様に歴史意識が欠けていると言われるであろうし、世界的に見れば、史書というジャンルを有する民族の方が珍しい。

しかし、ときとして、「歴史なきインド」というように、インドにおいては歴史意識自体が欠如していると言われる場合もある。例えば、中村元は『東洋人の思惟方法』の中で、インド人の「歴史意識の欠如」「時間意識の欠如」などについて語っている。ある意味では、後述するような根本的な時間意識の相違から、このようにインド人の歴史意識を問題にすることも誤りではないと言えるかもしれない。

それでも、インドにおいても、もちろん王統譜や宗教的師の師資相承の系譜は重要なものとして記録に留められているのである。しかしながら、その歴史的正確さを保証し得るような記述はしばしば三代とか五代程度が限度であり、それを超えると神話的始祖や神々の系譜につらなってしまう場合が多い。こういった点から、我々はインドに関して歴史を語るのに困難を感じるのであるが、このような困難については、一つには単純な物質的理由も考慮しておかねばならない。

虫に食われる歴史

例えば、一〇世紀以後のシヴァ教の僧院の僧院長の系譜などは一五代あまり記述されている場合がある。これはおおむね歴史的に正しいものと想定される。しかし、一代を二〇年(インド人歴史学者は通常一代二五年で計算するが、親子関係では二五年である可能性もあるが、僧院長の場合のように親子関係ではない場合には一五〜二〇年がふさわしいと思われる)としても三〇〇年遡れるに過ぎない。

この時間の長さは、貝葉(ヤシの葉を加工して乾燥したもの)という記録手段の寿命に対応しているように思われる。確かに、ヴェーダ聖典のような特殊な文献は師資相承の口伝(読誦による記憶)によって三〇〇〇年以上も伝えられてきたのであるが、その他のより重要性が低いと見做された文献は書記法の発明以来貝葉への筆写によって伝えられてきたと想定される。通常のインド的気候の環境においては、貝葉はほぼ二〇〇年程度で白蟻等に食われて用をなさなくなる。

つまり、インドにおいては、通常の記録は二〇〇年ごとに筆写し直さなければ失われてしまうのである。その結果として、筆写を行うバラモンが重要であると考える宗教的(その他文学などもあるが)文献以外は長期間保存されることがなかったと言えよう。

さきほど、史書と呼べる最初の文献はカシミールに成立したと述べたが、このことも気候環境を考えずして理解できないであろう。詩人カルハナが一二世紀半ばに著した『ラージャ・タランギニー』(王達の川[波を有するもの])は、波のように現れては消える王達の流れを歴史的と呼べるような記述法で記している点でインドで初めての史書である。この作品においては、神話的時代を別として五〜六世紀ころからの記述が相当程度歴史的に正しいと言える。こうした記述方法が可能であったのも、インド本土とは全く異なった涼しいカシミールの地において相当量の貝葉(カシミールでは樺の樹皮に書かれるのが一般的であった)文献が利用可能であったことに大きく拠っていると想定できる。

カシミールと同様に冷涼な気候によってインド史の資料の宝庫となっているのがネパールである。もちろんインド本土からは辺境であるから、政治史などに関しては役に立たないが、現在我々がある程度までヒンドゥー教の歴史を再構成できるのも、多くの場合ネパールに残る最古の貝葉(一〇世紀ころ)の現存に拠っているのである。インド本土に残っている資料だけからなら、ヒンドゥー教の歴史の再構成は遥かに困難であっただろうと言える。

インド人がそれなりの歴史意識を持っていたことについて言えば、系譜の保持の必要性についても述べておく必要がある。少なくともバラモンに関する限り、七代前までの父方の系譜を把握しておくことは近親婚の禁止の規定から絶対的に必要なことであった。それ以前に関しても、自らの系譜が神話的な聖仙にまで辿れることを知ることは重要であるが、中国の場合のように孔子以来七〇代の系図を維持するというようなことはない。ここには、記録の不可能性と歴史意識の希薄さとの複合的要因を見るべきかもしれない。

このように、けっしてインドにおいて単純に歴史意識の「欠如」を述べることは正しくない。ただ、比較的見通しのきく範囲を越えたときに一挙に別の時間意識の原理に飛んでしまうことを引き起こす別の観念体系が存在しているのである。

そうしたインド的時間観念は、しばしば単純に循環的時間と呼ばれることも多い。しかしながら、インド的な循環的時間の観念を他の多くの文化に見られる毎年毎年繰り返される「とき」というような単純な農耕文化的循環時間の観念と相同的なものと理解するのは誤っている。

インド的な循環的時間は、無限時間の中での巨大な循環周期なのである。現代人が一般的に持っている直線的無限時間の観念は、西欧近代においてはじめて成立したものであるが、それがユダヤ教に起源する終末へ向かう有限の直線的時間の観念を無限へと展開したものであるとするなら、「無限」の観念の導入という点では、インドこそが世界思想史上はじめて時間の無限性の観念を一般化したと言えるかもしれない。

そこで、本稿ではインド的な無限時間の中での循環的時間がどのように構想されていたか、その日常的な基盤がどのようなものであったか、また理論的な基盤がどのようなものであったか、更に、それが歴史においてまた人間においてどのような意味を持っているかを考察してみたい。

いくつものサイクル

一日の始まり

世界中のどことも同じくインドにおいても、人間にとっての時間の単位の基本は一日である。一日は、夜明けに始まり夜明けに終わる。後に詳しく述べるが、季節によって変わっていく夜明けの時間の計算は暦の作成の基本となる作業となる。

一日が夜明けに始まることに我々はなんの疑問も抱かないかもしれないが、時間の歴史に関心のある方なら、「本当に」と疑問を抱いたことであろう。月の満ち欠けによって暦を判断する太陰暦的世界(例えば現在のイスラム諸国)においては、新月を確認する(新月は月齢三日程度の時に日没後三〇分くら.いの間西の地平線上に糸のように細く観測されすぐに沈む)必要上から一日は日没から始まる。インドにおいても儀礼の暦の多くの部分は太陰暦によっているし、更に、インドの場合、後で見るように満月始まりの暦や、仏教の劫の場合のように、暦の単位の開始は減少していくサイクルから始まるとされることが多い。従って、インドでも日没始まりの一日が存在したことがあったのではないか、というのは当然の疑問である。

しかし、一日の始まりに関する限り、インドの場合では、どうも日没始まりのサイクルは考えられたことがなかったようである。この理由は、不明と言うしかない。現在のバラモンを見ている限り夜明けに行う儀礼に大きな重要性が与えられていると言えるかもしれないが、文献の記述に拠る限り、サンディヤー(昼と夜の接合点、すなわち夜明けと日没)については毎日常に行うべき儀礼としてほぼ同じ儀礼が規定されており、どちらが特に重視されていたとは言えないからである。

敢えて推測してみるならば、基本的には同じ儀礼であっても、夜明けの儀礼には太陽の再生を促すという最高度に重要な働きがその意義として理解されていたことが一つの理由として考えられる。更に、月の変化のに関しては、朔(月齢〇日、月が地球と太陽のちょうど中間にある時、逆に望の場合には、月は地球を間に挟んで太陽の反対側にある、すなわち満月)を、直接に観測される新月というよりも、夜明けに日が昇る直前に糸のような月が見られ翌日の夜明けにはもう見られなくなる日として観測していたこと、また月宿(ナクシャトラ---月がどの星座にあるかを一日単位で分割して単位としたもの、月の平均恒星周期は二七.三日であるため古くは二七、後には二八が数えられる)の観念が古くから発達し、月宿の観測によって月の周期を求めていたこと、が第二の理由として考えられよう。

ここでも、地理的条件に言及しておく必要があろう。中近東の砂漠的気候では日没のときの新月の観測は容易であるが、インドの湿潤な気候では天頂部の観測は容易でも水平線に近い部分の天体観測は雲や靄に妨げられてかなり困難である。新月のかすかな三日月を最初に観測することは不可能に近い。こうした気象的事実も一日の始まりをどのように決定するかの方法に大きな影響を与えたと考えられる。

インドにおける時間の単位

それでは、そのほかの時間の単位を見てみよう。

最初に、一日から小さい方の時間の単位を見てみることにする。一日は、昼と夜からなる。これは一月が、月が満ちていく半月(白分)と欠けていく半月(黒分)の二つからなるのと同様である。月が三〇日からなるように、一日は三〇ムフールタ(四八分)からなる。

これより小さな時間の単位は実に様々な数え方があるので、一例として『マヌ法典』の数え方を示すと、一ムフールタは三〇カラー(九六秒)、一カラーは三〇カーシュター(三.二秒)、一カーシュターは一八ニメーシャ(四五分の八秒)とされている。

一般的な天文学や暦学の計算においては、一ムフールタの半分が一ガティカー(二四分、あるいはナーディカーとも呼ばれる)、一ガティカーの三〇分の一が一カラー(四八秒)というのを基本的な単位にしている。ガティカーは水瓶、ナーディカーは細い管を指すことからも、水時計を時間の測定に使っていたことが解る。カウティリヤの『実利論』(西紀一世紀ころ?)が水時計の穴の太さを規定していること、夏と冬とで昼と夜の長さが三ムフールタづつ増減することを述べていることから、かなり古い時代から時計によって測定できるような一定の速度での時の経過という観念が広く行われていたことについては注目しておくべきだろう。

もちろん、水時計の維持は大変な仕事であるから、都市においてのみ可能であったと推測される。日常的な時計としては日時計が用いられていたであろうことは『実利論』の記述からもわかる。また、最も古い時代の文献ではムフールタは昼と夜とをそれぞれ一五分した不定時法(江戸時代の日本のように昼と夜をそれぞれ六分したりする方法)であった。

さて、逆に一日からより大きな時間を見ていくと、まず半月(パクシャ)がある。これは先ほど述べたように黒分と白分からなり、それぞれ一五日からなる。一月は満月始まりの場合は、黒分と白分からなり、新月始まりの場合は白分と黒分からなる。

一年は、太陽の軌道が北に昇っていく半年(本来は冬至から夏至であるが、現在のインド暦では歳差運動を考慮しないため二三日ほどずれている)と逆に下がっていく半年(夏至から冬至)の二つの部分からなる。おそらくは、初期の一年の周期の観測は、一定の地点から日の出の太陽を観測してその出現する点が少しづつ移動するのを測定し、あるところ(夏至と冬至)で向きが逆転することを確認することに拠っていたのである。そのため、一年も、太陽の北行の半年と南行の半年に自然に区分されるのである。特に、夏至の時は、インドの農業と生活すべてに圧倒的な影響を持つモンスーンの到来とほぼ一致しているのでその重要性は計り知れない。

このように、一日・一月・一年が、明と暗の二つの部分からなっている、というのがインドの時間の観念の一番基本の部分にあると言えよう。

インド暦の仕組み

ここでインド暦の基本について説明しておこう。先ほど、半月が一五日からなると述べたが、天文の知識をお持ちの方は、いつもそんなはずはないと思われたはずで、インド暦の基本的知識なしには理解困難なことも多いからである。

インド暦は、太陰太陽暦である。平均的な朔望月(満月から満月、あるいは新月から新月までの期間)は、約29日半であるから、一年365日と合わせるためには、適当にうるう月が挿入される必要がある。古くヴェーダ時代においては5年に2回挿入され、この5年の周期が、月と太陽の一致という意味でユガと呼ばれた。後にははるかに精密な方法で、うるう月が挿入されることになる。

普通の太陰太陽暦のシステムでは、この挿入方法のみが暦法の中心であるが、インド暦では、太陰日(ティティ)というものが非常に重要である。

ティティは、一朔望月の30分の一である(正確には、太陽と月の動きが一二度離れていく時間、三六〇度を一二度で割った三〇ティティが一朔望月である --- 太陽と月の楕円軌道のずれによって、ティティは一日より長くなったり短くなったりする可能性がある)。したがって、太陽日よりもわずかに短い。各半月には、常に15ティティが存在しているので、何日という場合にはティティが基本となり、夜明けにおけるティティの名前(第一〇ティティ等)がその太陽日の名前(一〇日)となる。あるティティの期間の内に夜明けがない場合は、その日は欠日となる。つまり、九日の次が一一日になったりする。逆に、あるティティの期間の内に夜明けが2回ある場合には、同じ名前の日が続けて生じることもある。つまり、九日が二日繰り返されたりする(この現象の発生する頻度は平均的なティティの長さは太陽日より短いのでそう多くはない)。

このような一見奇異な暦のあり方は、正確な儀礼の執行を保証するためにあると考えられる。太陽日に基づいて朔望月に合わせると15日目がなくなってしまったりする。それに対して、儀礼の日付をティティによって定義しておけば、そうした問題は生じない。ティティに関しては常に一五日正しく存在しているからである。もちろん日中に行わねばならない儀礼などに関しては、対応する太陽日を規定する必要があるが、たとえ対応する太陽日が欠日の場合でもそのティティは夜明けをわずかに過ぎた時点で正しく始まるので特別な規定の必要もない。余日(同じ名前の太陽日の繰り返し)の場合にのみ特別な規定が必要であるが、通常最初の日が本来の日として行われ、この場合には祭りの期間が一日長くなったりする。

うるう月の決定方法に関しては、太陽月(太陽の公転周期を三〇度ごとの星座(一二宮)によって分割したもの)と太陰月とによって決定されるが、満月始まりや新月始まりの相違によって複雑なので、ここでは触れない。矢野道雄氏の『占星術師たちのインド』という好著があるので一読をおすすめするが、南インドの事情についてはほとんど触れられていないので、一言だけ付け加えておきたい。

上述したように、インドの太陰太陽暦では、儀礼的な事柄に関する限りティティが最も重要であるが、南インドでは儀礼的な事柄に関しても、太陽暦に従う要素が多い。例えば今でも、新年は四月一四日のメーシャ・サンクラーンティ(太陽が牡羊座に入る日---本来は春分であるが歳差を考慮しないインド暦の仕組みによって暦の大枠が固まった西紀五〇〇年ころから二三日ほどずれている)に祝われている。北インドの暦では太陰月のチャイトラ月で新年に入っていても、一年の数え方が太陽暦に従っている場合にはまだ前年のままである場合があるので、注意が必要である。

例えば、ヴィシュヌ派のヴェーダーンタ学者として高名なラーマーヌジャの生年を最近の研究では西暦1077年とする場合が多いようだが、誕生日に関する記述と総合すると、西暦1078年3月と考えるべきであると思われる。

また、タミルナードでは、個人の誕生日についても、太陽月と月宿(ナクシャトラ)によって決められている。これは、生まれた時と、太陽と月の恒星天における位置関係がもっとも近い日を祝っていることになる。

インドの歴史資料を扱う上では、ヒンドゥー教徒かムスリムかという根本的な相違に加えて、地方ごとの暦の体系の違い(到底充分に明らかにされているとは言い難い)について十二分の注意を払う必要があることを強調しておきたい。

巨大なサイクル

一日・一月・一年が相同の関係にあることを『マヌ法典』は、人間の一月は祖霊の昼と夜であり、人間の一年は神々の昼と夜である、と述べている。一年は理念的には三六〇日からなるとされるから、神々の一年は人間の三六〇年であると言われる。神々とは、仏教用語では「天」と言われるように、天界に暮らす超人的な存在であってもキリスト教の「神」のような絶対的存在ではなく、寿命が尽きれば人間などに再び転生しなければならない存在である。

この神々の一年(人間の三六〇年)を単位として、更に巨大な時間のサイクルが測られる。このサイクルがユガと呼ばれるが、ヴェーダ期において太陽と月の周期の一致という意味で五年がユガであったものが後代に巨大な時間周期を指すようになった言葉である。

神々の四千年がクリタ・ユガ、三千年がトレーター・ユガ、二千年がドヴァーパラ・ユガ、千年がカリ・ユガであり、それぞれのユガはその十分の一の薄明と薄暮(四百年・三百年・二百年・百年)総計二千年を伴っているので計一万二千年からなる期間がマハー(大)ユガ(あるいは「四ユガ」)と呼ばれている。すなわち、これを人間の時間に直すと四三二万年ということになる。

更に、このマハーユガが千集まったもの(四三億二千万年)がブラフマー神の昼であり、これが一カルパ(劫)と呼ばれる。ブラフマー神(仏教用語では「梵天」)は、古い時代には最高の絶対者とされた神であり、後にシヴァあるいはヴィシュヌが最高神とされてからも我々の存在している宇宙の直接の創造者として考えられているために、我々が通常理解する宇宙はブラフマー神の目覚めによって創造され、その眠りによって吸収されると考えられている。

また、クリタ・ユガ等の観念とはおそらくは独立に生じた時間のサイクルの観念として、マヌ(人祖)の世紀(マヌヴァンタラ)という観念が存在する。すべての生類の創造者である人祖マヌが繰り返し生まれては世界の一つのサイクルを維持するという観念である。この「マヌの世紀」の観念はおそらくは四ユガの観念よりも古くから存在するが、マヌとブラフマーが古くから持っていた関連性から、やがてブラフマーの昼であるカルパと結びつけられ、一カルパは十四のマヌの世紀からなるとされることになったようである。従ってひとつのマヌの世紀は約71(1000÷14)のマハーユガからなるとされている。現在は、今のブラフマー神のサイクルの七人目のマヌの世紀であるとされている。

宇宙はブラフマー神の目覚め(昼の始まり)に創造され、入眠において消滅(還滅---元素に戻ること)する。眠りの間の期間においては宇宙は潜在体として不活動の状態で継続する。

マヌ法典の時代にはブラフマー以上の神は考えられていないが、後のヒンドゥー教では最高神はヴィシュヌあるいはシヴァとされ、ブラフマーの一生はどちらかの最高神にとっては一瞬であるというような更に巨大なサイクルの考え方も成立するようになる。

いずれにせよ創造と破壊をともなう宇宙のサイクルは無限に継続する、というのがインド的時間論の根本である。発達したヒンドゥー教においては、最高神ヴィシュヌあるいはシヴァは時間を超越した存在であり、論理的にいえば時間は最高神の創造するものである。しかし、人間の立場から理解される時間は、常に無始の存在であると理解されている。存在論的には、神による時間の創造を認めることはできるかもしれないが、後に述べるカルマ(業)の起源の問題が説明不可能となるためである。

そして、こうした時間のサイクルは、その中で一つの方向性を持っている。堕落という方向性である。クリタ・ユガにおいては正義と真実は完全であり、不正は存在しない。トレーター・ユガにおいては、正義の四分の一が失われ、ドヴァーパラ・ユガにおいては半分が、カリ・ユガにおいては四分の三が失われる。同様に寿命も四百年三百年二百年百年と減少するとされる。

この四ユガの名前は、インドの賭博の目の名前に由来しており、クリタが四で最高の目、トレーターは三で二番目によい目、ドヴァーパラは二で悪い目、カリは一で最悪の目である。

現在はカリ・ユガが始まってから約五千年経った時点であるとされているから、我々には今後四十三万二千年の暗い時代がほとんどまるごと残っていることになる。このカリ・ユガのありさまは、次のように述べられている。

すべての人はうそつきとなり、バラモンはヴェーダの学習を捨ててシュードラと同じ振る舞いをなし、シュードラが財を蓄えたり、戦士となり、蛮族の王が地上を支配し、人々は短命となり、力も精神も弱々しくなる。女性たちは貞節をなくし、人々は平然と様々な罪を犯すようになる。インドラ神が定期的に雨を降らせることもなく、牛はろくにミルクも出さなくなり、穀物も実らなくなる。

プラーナ文献によると、カリ・ユガの終わりには、カルキンというヴィシュヌの第十の化身が現れて、すべての蛮族の王や不正な人々を打ち倒し、クリタ・ユガを再びもたらす、とされている。

仏教の時間論

仏教においても、ヒンドゥー教と同様の生成と消滅を繰り返す宇宙論が定説となっている。しかし、仏教では創造神を認めないので、すべては衆生の業の力の集積によって生じるとされる。

最初に(すべては無限の過去から始まりなく繰り返している中での宇宙が存在していない時に)、衆生(すべての生類)の業の力の働きによって、広大な虚空の中で微風が渦を巻いて吹き始め、やがて密度を高めて、円盤状をした固い大気の層が形成される。この円盤の厚さは一六〇万ヨージャナ(一ヨージャナは仏教文献の場合約八キロメートル、従って百六十万ヨージャナは約一二八〇万キロ)、その周囲にいたっては十の五九乗ヨージャナという途方もなく広大なものであるとされている。

それから、大気の層の中心部に雲が生じそれが雨を降らせて、中央に水の円盤が形成される。この水は周りを吹きめぐる風の力によって支えられて垂直な側面をなしているとされる。その厚さは一一二万ヨージャナ、直径は一二〇万三四五〇ヨージャナであるとされる。この水の円盤の上部七分の二(三二万ヨージャナ)は、次第に、ミルクの表面に膜が生じるように凝固して、黄金の層に変化する。この層「金輪」の表面が我々の住む大地である。つまり、「金輪際」とは大地の底の底のことなのである。

大地の上には、須弥山を中心とする七重の山と海、我々の住むジャンブ州などが形成され、また、天上界から地表・地獄にそれぞれの住人も業の力によって形成される。その過程は、最初の自然界の形成に一中劫(アンタル・カルパ)、更に生物界の形成に一九中劫、計二〇中劫が世界の形成過程(成劫)であるとされている。

仏教におけるカルパ(劫)の長さは、ヒンドゥー教の場合のように明確な数値で表現されていない。一辺が一ヨージャナの立方体の城の中に芥子粒を満たし、百年に一つ取り出すことにして取り出し終わっても、一劫は経過していないとか、同じ大きさの岩に天女が百年に一度舞い降りてきて、すそで払うとして、それによってその大岩がすり減ってなくなる以上の時間であるとか、譬えの形式で述べられている。今、中劫と述べたのはこの劫のことであり、それが八十集まると大劫(マハーカルパ)と呼ばれる。

すなわち、二〇中劫の世界形成過程に続いて、二〇中劫の世界の持続(住劫)、形成の反対の順に世界が消滅していく過程も同じく二〇中劫あり(壊劫)、なにも存在しない期間が同様に二〇中劫続くとされ(空劫)、計八〇中劫が世界の生成から消滅までの一サイクルで大劫とされるのである。この過程は、繰り返し繰り返し無限に続いていくのである。

また、ヒンドゥー教の四ユガの堕落に対応する観念として、二〇中劫の世界の持続(住劫と呼ばれる)の期間においては人間の寿命は各劫の間に一〇歳から八万歳まで増加してからまた一〇歳まで減少するとされている。そして各劫の終わりに「小の三災」と呼ばれる戦争・疫病・飢饉が起こって劫の終わりを画すると言われている。

更に、「小の三災」に対して「大の三災」と呼ばれる火災・水災・風災が大劫の終わりを画するともいわれている。七つの大劫が火災によって滅すると、八つめの大劫が水災によって滅し、こうした八大劫の八つの集まりの最後が水災の代わりに風災によって滅して、計六四の大劫からなる大きな周期を形作る。これを総称して六四転大劫と呼ぶとされている。

このように火災・水災・風災が世界を滅ぼすと考えられているのは、宇宙の最上層には、初禅天・二禅天・三禅天・四禅天という禅定の段階の進展に対応する四つの天が存在するとされているからである。火災は、初禅天以下を滅ぼし、水災は二禅天までを、風災は三禅天までを滅ぼすとされているのである。四禅天に達した人々のうちの一部は解脱するが、そこに留まる人々もいるので、宇宙はそうした人々の業の享受のために必ず再生を繰り返すことになる。

輪廻と業

こうした循環する歴史の観念については、世界的にかなり普遍的に見られるものであると言われることが多い。日本人の一年の感覚にも見られるように、毎年毎年古い年が消えて、同じような一年が繰り返されることを待望するような感性は、程度の差はあってもすべての農耕社会である程度共通に見られるものである。その周期を拡大してみる考え方も、例えばマヤ暦などに見られる。

一方、歴史の堕落という考え方については、例えばギリシアにおける、金の時代・銀の時代・青銅の時代・英雄の時代・鉄の時代という観念のように、現在こそ歴史の堕落しきった時代であるという観念は多くの文化において見られる。

そういった単純な比較思想史的見方によると、インド的時間観念もそうした多くの中の一つであると、取り立てて説明もせずに提示される。確かに、要素として見るとインド的時間観念もそうした要素の集合として見なすことも可能であるが、こうした形での独特の時間観念があるまとまりを持って成立したのは、そのすべての基底にある業の観念に由来している。

輪廻

宇宙が無限に生成と消滅を繰り返すのと同じく、人間を含むすべての生命は無限の過去から、生まれては死ぬことを繰り返している。これが輪廻(サンサーラ)である。仏教においては、一般に「六道輪廻」と呼ばれ、地獄・餓鬼・畜生・人間・阿修羅・天の六趣の状態の間で生まれ変わりを続けることとされている。このうち、餓鬼は地上において飢えに苦しむ亡霊的存在、阿修羅は神々と同様の存在であるが常に闘争に明け暮れている存在、天は天界のことではなく天に住む神々のことである。

ヒンドゥー教においては、六趣のように定まった数を立てることはあまり行わない。大別すると、地獄・動植物・人間・天、の四つになるが、より具体的に、どのような罪を犯すとどのような境遇に生まれ変わることになるかが語られる場合が多い。

マヌ法典の述べるところによると、バラモン殺しの罪を犯せば、長年の間恐ろしい地獄をめぐった後、犬、豚、驢馬、駱駝、牛、山羊、羊、鹿、鳥、チャンダーラ、プッカサ(いずれも最下層の人間)に生まれ変わるとされている。あるいは酒を飲むバラモンは、同様に地獄を経てから、虫、蛾、糞を食う鳥、危害を加える獣となる、と言われる。穀物を盗むものは鼠になり、肉を盗むものは禿鷹になるといったような、素朴な関連も説かれている。

また、輪廻の観念の中で明確に理解しておかねばならないことは、天界の神々に生まれ変わることはそれで終わりではないことである。神々は、人間に比べればはるかに長い寿命を持ち、飢えや病気に苦しむことはなくとも、寿命を有している限りやがては死んで天から落ち、人間や動物に生まれ変わるのである。

なお、死と誕生の中間では目に見えない身体(微細身)をとって存在しているされ、その期間(中陰・中有[ちゅうう])が49日間であると考えられたことが「四十九日」の儀礼の起源である。

このような無限の生まれ変わりの原動力となっているのが、業(カルマン)の力である。業という日本語は、「業が深い」というような用いられ方をするように、前世の罪深い行いのように理解されているが、本来は「行為一般」を意味する。それがまず、ヴェーダ後期(ブラーフマナ文献期)において、特に結果(果)を目的とする儀礼行為を意味するように用いられ、そこから、行為と結果の一般法則を意味するようになったものである。

すなわち、あらゆる行為は近いまたは遠い将来に行為に対応する結果を生じさせる、ということである。善い行為を行えば、その結果がいつか自らに善いものとして現れ、悪しき行為を行えば自らに悪しき結果が還ってくることになる。

「善業善果」「悪業悪果」と言われるのはこのことである。もっとも、正しくは「善業楽果」「悪業苦果」と言わねばならない。何故なら、業の結果自体、例えば貧乏などには道徳的な善悪は存在しないからである。この場合「業」は行為を意味しているが、行為と結果の間には非常に長期間が経過することもあるので、その間にやがて生じるべき結果をもたらすべく存在している潜在的エネルギーという意味でも「業」という言葉は用いられている。

従って、業の働きを考える場合、量と質の二つの側面から考える必要がある。例えば、ある人が良い人で生涯を通じてひとびとに恩恵を与えるなどして死んだ場合、次には富豪の家に生まれるなどの善業の総量に対応した生を受けるかもしれないが、たまたま前世で飼っていた馬に鞭を当てる際に誤って眼をつぶしていたとすると、その悪業に対応して自らの眼をつぶされることが生じるかもしれない。こうした際には、たいてい善業のおかげでしばらくの苦しい生活の後で聖者にであって視力を回復するというような物語になるのであるが、どんなに善人であっても悪しき行為には対応した結果が生じるという原則は常に貫かれている。

逆の例、つまり悪しき行いばかりした中で一つだけ善いことをしたことに対する善き報いの話が、芥川の『くもの糸』によって親しまれているかもしれない。しかし、業の働きは神であれ佛陀であれ基本的には一切の人為的判断を含まない機械的な照応関係であるとされているのであり、佛陀が糸を垂らすなどというのは、芥川の小説的仮構であり、インド的な業の観念を忠実に伝えているものではない。

業の個人性

また、もう一つ強調しておかねばならないことは、業の個人性である。私の行いの果報を他人が受けることもないし、他人の業の果報を私が受けることもない。すべては「自業自得」である。「親の因果が子に祟り」というようなことは決してない。たとえ、ある人が誰かの子供を殺すなどした結果、次の生で自分の子供が殺される立場に置かれることになるとしても、その子供が殺されるのは、その子供自身が前世でなんらかの悪しき行為をなしたことに対する報いを受けているのであって、業の力は各個人が適切な報いを受けるように事件の組み合わせを生じさせているだけである。

もちろん、亡くなった親が地獄で苦しんでいるのを見てそれを助けるために供養の儀礼を行う、といった観念は存在する。廻向あるいは功徳の転送と呼ばれるものであるが、これは本来的な業の教説からの逸脱である。こうした逸脱が生じるのは、業もある種の力として理解される限り、伝統的な力の観念から転送可能なものと考えられるところに根本的な原因があるだろう。

東南アジアに広がる上座部仏教では、この功徳の転送を、僧と教団に対する布施などを人々が積極的に行うようになるための誘引として用いている。

しかしながら、善なる功徳は転送することができるとは考えられても、悪業はあくまでも自ら責任を取らなければならない。他人の悪業を無関係の人が受ける可能性があると考えることは、あまりにも業の根本的理念に反するもので受け入れがたいからである。

それでも大乗仏教には、阿弥陀仏が悪人をも成仏させるというような思想が存在している。この場合は、阿弥陀仏が無限の過去から無限の善業を集積しており、その一部を悪人に転送し、悪業を上回る善業によって帳消しにすることによって救済を与えると理解できる。

ヒンドゥー教の場合では、慈悲深い救済神という観念が中心となるので転送という観念はそれほど見られない。ヴィシュヌやシヴァは絶対神であり、業の論理が通用する次元を最初から超越しているから、業を超越した救済を与えることができる。それでも業の観念はあまりにも深くインド的心性に焼きついているので、救済の際には個々の魂の業の集積をまとめて焼き尽くす、といった表象がしばしば見られる。

業と運命論

業の理論はしばしば運命論であって、個人の自主性を否定するものである、という形で理解されることが多い。しかし、これまで述べてきたように、業の理論の根幹は、徹底した自己責任の原理であると要約できる。

この観念によってはじめて善悪と道徳が存在し得るというのがインド文化における根本的合意である。自我という観念を否定する仏教においても、業の観念を否定することは道徳と社会を否定することになるとして、業の観念はその教理の中心に据えられている。

そして、業は宿命論ではない。インドにおける代表的な宿命論は六師外道の一人、マッカリ・ゴーサーラの理論として知られている。それによると、生類の輪廻における生存には因も縁もなく、解脱にも因も縁もなく、八四〇万の大劫の間生類は輪廻を続け、それが経過し終わると自動的に苦しみの終わりに達する。その間人間の意志や努力にはなんの意味もないとするのである。

これに対して、業の理論は人間の行為に決定的な意味を認めている。確かに、現在の生における寿命の長さとか、私が金持ちの子に生まれたか否かとか、あるいは私がこの生においてある時点でなにかの苦しみや快楽を受けたりすることは、既に決定されている(ただし、ある種の強烈な行為は現在の生において果報をもたらす)。

しかし、これは私が過去において行った行為の結果であって、他の誰の行為によるものでもない。更に業は自由意志を否定するものではない。確かにある種の業は心的傾向とでも言うべきものを形作るので、悪しき行為の継続は更に悪しき道への耽溺へと導くが、逆に少しでも善い方向に発心すれば次第に善い道へ向かうことも可能である。

すなわち、業の理論は積極的に捉えれば、自由意志による積極的な善なる行動へと人を誘っていると言えるのである。

カリ・ユガの必然性

しかしながら、業の理論を個人のレベルではなく、すべての生類の業の集積として考えると、ある種の必然を伴った宇宙の循環が生じることとなる。

ヒンドゥー教の四ユガの説にせよ、仏教の宇宙論にせよ、宇宙は当初クリタ・ユガとして完全なるものとして生成する。この状況においてはすべての人々は幸せに暮らしている。このような世界においては、天界に住む神々と同じく、人間は他人への善行を行うことができない。新たな善業を積むことができないと、幸福な生存を生み出している業のエネルギーを単に消費しているだけなので、その力が尽きたときには必然的に悪しき生存のあり方に移行する。(n.2)

また逆に、人間の生存はそれ自体で他の生類を食べるなど悪行ばかりをなすだけである。古典的な仏教の説では、植物は輪廻の結果として転生する存在として数えられていないので、菜食であれば他の生類に危害を加えていないことになるかもしれないが、ヒンドゥー教など他の宗派ではすべて植物も輪廻転生する存在である。

更に、宇宙のあり方も世界の堕落を必然とするようになっているとされている。人間の住む世界の中でわれわれの住んでいるバーラタという地表のごく一部分を占める部分においてのみ善業を積めることになっている。それ以外のすべての世界は業の果を享受するにすぎない世界である。地獄では苦果を受け、他の地上の世界は寿命一万年で苦しみのない楽果を楽しむ世界である。

このような業の作用の必然的結果として、世界のあり方全体が悪化していく。それが、クリタ・ユガ、トレーター・ユガ、ドヴァーパラ・ユガ、カリ・ユガへという世界の堕落である。

世界の悪化に伴って、逆に善行の可能性も増加し、一方悪しき行為への報いは比較的短時間で成就してそれ以上の影響力が消滅するので、次第に善なる業が総体として集積される。これが一定量に達すると一挙に方向が逆転して再び完全なる世界が生成されるのである。こうした一挙に逆転するという考え方は、実際のところ、業の理論からは説明できない。業の理論により整合的な考え方としては、仏教の理論における「増劫」と「減劫」の考え方のように、次第に世界が悪化していき、最悪の状態になると再び向上に転じて、また絶頂に達するとまた悪化していく、という理論も存在する。ジャイナ教などでも同様に考えられている。

こうした考え方は、月の満ち欠けなどの自然現象との類比によっても比較的素直に理解できるが、四ユガの理論にある完全な形成から直線的堕落、その後再び完全に形成されるという鋸歯状循環の考え方については、すべての形成は完全でなければならないというような思索の前提を考える以外に理解しにくい。あるいは、こうした考え方の根拠には、印欧語族神話体系の世界の終末(ラグナレク)などの考え方の反映を見るべきかもしれない。

いずれにせよ、業の理論を認める限り、世界のあり方が善と悪との間を振り子のように繰り返し変動することは不可避であると言える。また、このような世界のあり方に始めを認めることもできない。なんらかの開始が存在すると、生類の間に不平等を認めることになるから業と世界は無限の過去から存在してきたと認めなければならない。現在、ある人が不幸な状況にある理由はその前世の悪行によると説明されるが、その連鎖に開始が存在するならばその理由に説明が必要となるが、すべてが無限の過去からの連鎖ならば、すべてはその個人の行為の責任であると見做すことができる。

このように、宇宙が完全なる状態で生成しながら次第に悪化していくのは、衆生の業の総体の働きに拠っているのである。

カリ・ユガ礼賛

最後に、歴史の堕落が逆に賞賛される一見奇妙な言説を見ておこう。例えば、『ヴィシュヌ・プラーナ』などでは、カリ・ユガではヴィシュヌの名を唱えるだけで巨大な功徳を積むことができる、と言われている。これは、もちろんシヴァやヴィシュヌを対象とするヒンドゥー教の救済神への信仰の進展を示すものであるが、時代の悪化が単に苦の増大を意味するだけではなく、善の実行の可能性の増大をも意味するという、業の働きの逆説を物語っているものと言えよう。

また、タントラ文献などでは、カリ・ユガに苦しむ人々のために神が特別に開示したのがタントラであると述べられることもある。旧来の教えでは長期間の修行などが必要であったが、寿命の短いカリ・ユガでは到底そうした修行が不可能なので、短期間の修行で解脱の得られる教えが述べられるとするのである。

仏教でいう天(神々)が幸福な生活をおくっているが故に解脱を得ることができず、苦しみを伴う人間という生こそが解脱を得るために必要であるように、完全な幸福の時代が続くだけならば解脱を目指す人はほとんどいないであろう。

仏教風の言い方で言い直すならば、今は末法の世であるが、輪廻は永久に続くものである。輪廻からの解脱を目指すならば、末法の世は解脱に最も近いところにある、ということになろう。


参考文献

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