シヴァ信仰の確立 ---シャイヴァ・シッダーンタと南インド---


高島 淳


ヒンドゥー教とシャイヴァ・シッダーンタ

 ヒンドゥー教を構成する二大宗派であるシヴァ教とヴィシュヌ教は、南インドにおいてどちらも熱心な信仰の対象となっている。しかし、普通の人が旅行などの機会において目にとめるのは、巨大なシヴァ教寺院の場合の方が多いであろう。

 これらの寺院の大部分の儀礼を規定しているのが、シャイヴァ・シッダーンタの教えである。この言葉はわが国の概説書では一般に「聖典シヴァ派」と訳されるが、「シッダーンタ」とは「確立された教え」という意味で、「シヴァの信徒(宗派)」を意味する「シャイヴァ」という語とあわさって、「確立されたシヴァ教の教え」を意味している。パーシュパタ派などの他のシヴァ教の諸派よりも優れた最高の教えであるということから、このように名乗っているのである。

 本稿では、本書の他の論考とは異なって、あえて「シヴァ教」という表現を用いるが、その理由は、この宗教が一神教であるからである。ヒンドゥー教は多神教であるというのが一般的な理解であるかも知れないが、それは信仰の実際の現れにしか目を留めない理解であって、信仰の深いあり方を無視するものである。カトリックにおいてマリアや諸聖人が信仰されているからといって多神教とは呼べないように、ヒンドゥー教においても深い信仰(バクティ)が存在している場面では、信徒は一神教的信仰を抱いているのである。儀礼を主として神々自体は影の薄いバラモン教から発展したものであるが、唯一最高の神の信仰を強調するのが、ヒンドゥー教の一面の本質である。たしかに、その初期においては教理等の組織化はなされていないが、2−3世紀ぐらいからシヴァ教・ヴィシュヌ教双方において教理と実践の体系の組織化が行われるようになる。シヴァ教においては、この頃から最古の宗派であるパーシュパタ派の体系化が始まったようである。シャイヴァ・シッダーンタは、そのパーシュパタ派を母胎として徐々に成立していったものと考えられる。

 このシャイヴァ・シッダーンタの教えが、現在も生きて行われているのは、タミルナードゥを中心とする南インドだけである。学者も含めて大部分のタミル人の理解においては、この教えはタミル起源のものであると考えられている。しかしながら、最近の研究は、この派がより北方から伝来したことを明かにしている。本稿では、この派がどのように南インドに伝播し、どのような変容を受けていったかについて、出来るかぎり明かにしていきたいと思う。

シャイヴァ・シッダーンタの成立

 「聖典シヴァ派」と訳されるシャイヴァ・シッダーンタは、「アーガマ」と呼ばれる聖典にその基盤を置いているが、このアーガマについては28の根本アーガマのリストのみが知られ、その大部分は失われてしまったものと信じられていた。ヒンドゥー教は単なる民間的土俗信仰であると理解されて教理を説く聖典などがあるとは信じられていなかったがために、その聖典を探してみようとする人もいなかったようである。しかし実際には、すでに戦前から南インドではグランタ文字などの多くの学者には読めない書体での印刷が行われていたのであった。幸い、戦後になって、ポンディシェリーに本拠を置くフランスの学者たちの努力による写本の収集と出版が行われることによって、ようやくその内容が知られるに到った。

 現存するアーガマの多くでは様々な寺院儀礼を説く部分が多くを占めているが、古いものでは、最初に教理が、次にそれに基づいて救済を得るための儀礼が比較的簡潔に語られるというのがアーガマの一般的な姿である。

 このような古い層に属するアーガマは、不二一元論の立場に立ち一般にカシミール・シヴァ派と呼ばれる派にとっても、同様に根本聖典である。神と個我とを、根本的に同一であるとするか、独立別異の存在であるとするかの解釈の違いによって、アーガマに基づくシヴァ教という一つの宗派から、カシミール・シヴァ派とシャイヴァ・シッダーンタ派との二つの派が、のちに分かれて行ったのである。

 ではこれら両派の基となったアーガマ文献はいつ頃どのあたりで成立したものであろうか?

 まず年代に関しては、カシミールの資料から、8世紀以前にいくつかのアーガマが成立していたことが確認できる。原型的なものを考えるならば、6−8世紀の成立と仮定してよいものと思われる。ただし、現存しているアーガマのかなりの部分はもっとのちに作られたものである。

 一方、場所に関しては、はっきりしたことは言えないが、中インドのヴィンディヤ山脈周辺部ではないかと筆者は考えている。シヴァ教の僧院の伝統がこの地方で最もはっきりと確認できるからである。アーガマ的シヴァ教の源流の一つをなす僧院アーマルダカはゴーダーヴァリー河の上流域にあったと推定されるし、もうひとつのトリアンバカ僧院もゴーダーヴァリー河の源、ナーシクの西30キロ程のところであったと思われる。また、アーガマ的シヴァ教を産み出す母胎であったパーシュパタ派もヴァドーダラー(バローダ)の近くにその起源を持っている。

 さて、このアーガマのシヴァ教の基本的な教えは次のようなものである。まず世界を構成する基本的な要素として、主(パティ)・家畜(パシュ)・索縄(パーシャ)の三つの原理をたてる。主はシヴァ神であり、全知全能の永遠の精神的存在である。家畜は個々人の魂であり、本来シヴァと等しい能力を持つ精神的存在であるが、索縄のためにその能力は覆われている。索縄は更に三種に分類されるが、根本的なものは「個我の汚れ」(アーナヴァ・マラ)と呼ばれる微細な物質的存在で無始以来個我に付着してその能力を覆っているものである。恩恵を本質とする主はこうした個我のあわれな状態を見て、彼らを救うために世界を創造する。汚れた着物を洗濯するのに灰汁を使うのと同じように、物質からなる汚れを落すために物質からなる世界が必要だからである。この世界創造の原物質がマーヤーであるが、これも物質的存在であることから索縄の一つと数えられている。

 索縄の最後の一つはカルマ(業)であるが、これも個我を世界に縛り付けるというインド思想一般に理解されている働きと同時に「個我の汚れ」を落すために必要な(洗濯のような)行為としても理解されている。個我は世界の中に繰り返し誕生し行為をなすことで、次第に「個我の汚れ」の吸着力を減らしていくとされる。こうして「個我の汚れ」の力が弱まった時点でシヴァが人間の師匠の姿をとってディークシャーとよばれる儀礼を行って、「個我の汚れ」を切り離す。これによって個我はその人生を終了する時点で完全に索縄から解放され、シヴァと等しい能力を回復して解脱に達する。

 このように、不可解な苦しみの生存としてしか理解されていなかった世界の存在を、神の人間に対する恩恵の手段として捉え直したところに、この新しいシヴァ教の根本的な特徴がある。長い輪廻の期間によって「個我の汚れ」が弱まるとシヴァへの信仰が生じ、その結果入信して師匠からディークシャー儀礼を受ければ、すべての人に死の時の解脱が保証されると説くのである。しかしながら、初期の教えが主要な対象としていたのは、世間を離れて師匠について修行を行うことのできる人々のみであった。

 こうした人々は人里離れた森林や洞窟に庵をかまえ、師と弟子からなる少数の集団を構成して、解脱と同時にシヴァと等しい神通力を求めて修行を続けていたものと思われる。こうした師資相承の系譜の記録は10世紀以後にしか残っていないが、6−7世紀頃に中インドで始まったものと推定される。8世紀にはカシミールに入り、そこではシャイヴァ・シッダーンタの数々の学匠と同時に不二一元論的ないわゆるカシミール・シヴァ派をも産んでいる(9−11世紀)。

 中インドにおいては、800年頃からこれらの集団は王の帰依を受け、僧院などの寄進を受けはじめたようである。特にカラチュリ朝の諸王は10−11世紀にかけて相当に大規模な僧院の寄進を行なっている。

シャイヴァ・シッダーンタの伝播

 タミルナードゥにおいては6世紀後半から9世紀にかけて、ナーヤナールと呼ばれる一群のシヴァ派の宗教詩人達が出て、シヴァへのバクティを説いたことが知られているが、この時代にはいまだシャイヴァ・シッダーンタの伝統は導入されていなかったように思われる。すでにある程度の思想が導入されていた可能性もないわけではないが、師資相承の系譜は辿りえない。この教えにおいては、師からディークシャーという儀礼によって「個我の汚れ」を切断してもらう事が救済の中心を占めているから、師資相承の系譜が確認できるか否かが最も重要な指標となるからである。

 この時代においては、深い信仰心(バクティ)の確立はあっても、当時一般的であった哲学理論が、シャンカラに代表されるように、行為の価値を認めず、救済(解脱)のためには無行為(現世離脱)による業の滅尽を必要条件としていたために、バクティのみによる救済を理論化できなかったと言えよう。それに対してシャイヴァ・シッダーンタは、救済についての理論と実践の体系をもたらすのである。

 シャイヴァ・シッダーンタのタミルナードゥへの本格的な伝来は10世紀以後であると推測される。後世の伝承の一つによると、チョーラ王ラージェーンドラT世(1012-1044)がガンジス河に巡礼に赴いた際に優れたシヴァ教の師を見て自国に連れ帰ったと言われている。刻文に記されている彼の遠征が史実とは考えにくいが、チョーラの軍勢がマディヤ・プラデーシュ付近にまで進軍した事は確かなようである。すると、その付近からシャイヴァ・シッダーンタの師達を連れかえったということはあり得る事と思える。このような推測を裏付けるものとして、1041年の碑文にラクシャーディヤーイ相承の僧院がタンジャーブール近くに存在していたことが知られる。この相承の名前は、カラチュリ朝の首都トリプリーに建てられたゴーラキー僧院の第二代院主であるダルマシヴァ(10世紀末から11世紀始め)への呼び名に由来するものと推定され、その弟子をカラチュリ朝との接触によってラージェーンドラが自国に招いたという事は大いに考えられる事である。

 それ以前に、チョーラの王家がシャイヴァ・シッダーンタの師達を後援していた事は、ラージャラージャ王(985-1014)の建てたかの巨大なブリハディーシュヴァラ寺院を管理していたのがシャイヴァ・シッダーンタの司祭であった事からもわかる。ラージャラージャ王の時の司祭は、イーシャーナ・シヴァという明確にシャイヴァ・シッダーンタの名前であるし、次の者の名は必ずしもシャイヴァ・シッダーンタを思わせるものではないが、シャイヴァ・アーチャールヤと呼ばれている。シャイヴァという呼称は単にシヴァ教全般を指すのではなく、通常シャイヴァ・シッダーンタの事を指すのである。また次のラージェーンドラの時の司祭は「シャルヴァ・シヴァというシャイヴァ・アーチャールヤ」と明確に述べられているし、この師がおそらくは北方の出身である事は、アーリヤ・デーシャ(ガンジス河上流地域)・ベンガル・中インドに住むその弟子達という言及から推定できる。

 本書の小倉論文にもあるように、チョーラの王達は民衆のシヴァ信仰を利用して、自らが最高のシヴァ信徒である事を宣伝し、自らをシヴァの地上における代理人することによって自己の権力の強化を図ったものと思われる。この際、パーシュパタ派のように個人の解脱のみを目指すものではなく、神の恩恵により多くの人々の救済を目指すこの新たなシヴァ教を信奉することが、一層有効であると考えられたものと思われる。さらに、このシャイヴァ・シッダーンタの伝統には王権の強化等を保証する多くの呪術的儀礼が存在していた事にも注意しておかなければならない。

 ラージャラージャの時代以降、繁栄するチョーラ帝国の富とチョーラ王達の帰依に引き付けられて、北方から多くのシヴァ教の師達が流入して僧院などを築いた事は、碑文からも確認できる。彼らがシヴァ教のどの派に属していたのか確認できない場合も多いが、おそらくはかなりの部分がシャイヴァ・シッダーンタに属していた者であろう。

 明確な形で確認できるシャイヴァ・シッダーンタの師匠達の来歴は、二人の偉大な儀軌書作者の系譜に辿ることができる。ソーマシャンブとアゴーラシヴァである。二人はそれぞれの名を冠して呼ばれるパッダティ(儀礼のマニュアル)の作者であり、二つのパッダティは現在でもシヴァ教寺院で用いられている。

 まず、ソーマシャンブはカシミールの出身であると推定されるが、11世紀末に中インドのゴーラキー僧院の院主をしていたことが確実である。ゴーラキー僧院は、アーマルダカ僧院の系統に属し、10世紀後半にカラチュリ朝のユヴァラージャ王によって、現在のジャバルプルに建てられたものである。このゴーラキーの系統からはソーマシャンブの6−7代目の後継者が13世紀半ばにアーンドラのカーカティーヤ朝の庇護を受けていくつかの僧院を築いた事がわかっている。タミルナードゥに作られた多くのゴーラキー系統の僧院がこの系譜に属するものか、それ以前に直接にタミルナードゥに導入されたものかは判然としない。

 もう一人のアゴーラシヴァは自らに先行する系譜を15代にわたって述べている。最初はアーマルダカの僧院長であり、以後10代ほどはヴィンディヤ山脈周辺で活動したと述べられ、3代前のシュリーカンタシヴァがチョーラ朝のヴィクラマ王(1120-1135)の時にベンガルからタミルナードゥにやって来たとしている。シュリーカンタシヴァはヴィクラマ王を始めとする3代のチョーラ王達の王師となったと言われているし、アゴーラシヴァ自身もチョーラ王達の師であったと述べられている。

シャイヴァ・シッダーンタの変容

 このように、タミルナードゥにおける初期のシャイヴァ・シッダーンタの伝統はチョーラの王達の保護によるところが大きかったのであるが、13世紀に入ってチョーラ朝が衰退するのを契機として、新たな段階を迎える事になる。もちろん、単に外的要因によるだけではなく、内的な発展も遂げた結果である。

 アーガマ的シヴァ教の伝統の中には、始めから二元論と一元論の二つの傾向が併存していた。いわゆるカシミール・シヴァ派がもっぱら一元論的傾向を発展させたのに対して、二元論的傾向を発展させたのがシャイヴァ・シッダーンタの伝統である。この傾向は上述したアゴーラシヴァに至って頂点に達し、最高神シヴァからあらゆる物質的要素を取り去ろうとする。現象世界がシヴァのマーヤーから発するとするのは同様であるが、そのマーヤーは神自身のエネルギー(シャクティ)ではなく、ビンドゥ(滴)と呼ばれる、神とは異なった物質原理から発生するとするのである。

 これはバクティ(信愛)の対象となる神の純粋性を守ろうとする試みではあるが、このように物質的汚れから身を遠ざけておかなければいけないような神という観念は、その全能性の観念と矛盾する事になる。恩寵深く全能である神が何故に人々の苦しみを放置しておくのか、という神義論の問題が再度取り上げられなければならなくなるのである。

 そして、こうした問題提起は、新たにタミル語を用いて行われる事になる。ベンガルあるいは中インドから移住して来たシャイヴァ・シッダーンタの師達の伝統も、一〜二世紀を経て自然に土着化したということもあるし、チョーラ朝の衰退によって王権の保護を受けられなくなった師達が、普通の人々からの支援を求めて彼らに教えを説く事に勢力を注いだという事もあろう。12世紀には二つのシャイヴァ・シッダーンタの作品がタミル語で書かれることになる。

 しかし、一般にタミル・シッダーンタの伝統の最初とされるのは、メイカンダール(13世紀始め)である。彼の『シヴァニャーナボーダム』はわずか12詩節からなっているのみなので明確ではないが、その教えは従来のシャイヴァ・シッダーンタの教えを要約したものであるといえる。また彼はティルヴァンナーマライのゴーラキー僧院に属していたようである。おそらく彼自身の思想に大きな独創性があったとは思えないが、宗教的熱情とカリスマ的人格を持っていた人物であって、タミル語をもちいてシャイヴァ・シッダーンタの教えを平易な形で説いたものであろう。彼の弟子達は、シャイヴァ・シッダーンタの教えの理論的側面をもタミル語で記述するようになっていく。

 しかしながら、この伝統はサンスクリット語を用いる伝統と分離してしまうのではない。ウマーパティを始めとするこの伝統に属する論師は、ほとんどの場合サンスクリット語とタミル語の両方で作品を残しているし、論証においても伝統的なサンスクリット語で書かれたアーガマに依拠する場合が多いのである。

 これ以後のシャイヴァ・シッダーンタの伝統の発展を要約する事は難しい作業である。様々な傾向が併存し対立しているからである。二元論的傾向を強調する派も力強く続いている。しかし、アーガマが本来持っていた不一不二論的傾向に回帰しようとする傾向の方が顕著なようである。物質的世界に関しては、ビンドゥという考えを認めつつも、それをシヴァのシャクティの現れとして、神の身体のようなものとして認め、ヴィシュヌ教の被限定者一元論の考え方と接近する。個我については、神と潜在的に等しいものであるという観念は保持しつつ、神と別個のものであるという点は崩さない。しかも恩寵に満ちあふれた神という観念は根本的な大前提であるから、個我が束縛されている原因となっている「個我の汚れ」に関しては、それを単なる力弱き物質的存在であると見なす事はできなくなってくる。「個我の汚れ」は精神的なものであると再解釈され、執着心などと同一視されるようになっていく。こうした考え方は神の側の悪の責任を取り払うが、信徒としては最高度のバクティの実践、すなわち自己の悪心を払うためにシヴァ以外のすべてを捨てる、真摯な修道生活を要求される事になる。

 そうした修道生活をおくる人々の僧院(ゴーラキーの系譜に属する)が現代でも何ヶ所かに存続している。こうした僧院の人々はひたすらシヴァの讃歌を唱えながらシヴァの瞑想に耽り、それによって現世への執着心を捨てて、シヴァと一体となる救済を目指している。

 しかし、一般の人々にとっては、恩寵にあふれる神の存在、とりわけ、この神が人々を救うために地上に降下して寺院の中に居を定めているということが、救いの充分な保証となっている。つまり、シャイヴァ・シッダーンタの伝統を守る司祭達を通してわずかの捧げものを捧げて、この寺院に住する神に祈れば、この世での幸せもあるし、やがては(いくつもの生を生まれ変わった後に)シヴァの御足の元での楽園、あるいは僧院に入るだけの強い信仰心(バクティ)を持つ人と生まれて、シヴァとの一体化という最終的な解脱が得られると信じられるのである。こうしてシャイヴァ・シッダーンタの教えの本質は意識されないまま、シヴァの寺院への崇敬は跡絶える事がなく続いているのである。


参考文献

高島 淳 「タントリズム」岩波講座『東洋思想』第六巻『インド思想2』岩波書店, pp.121-140, 1988.

 〃    「初期シヴァ教僧院(matha)の歴史---8〜13世紀---」『南アジア研究』第1号, pp.41-59, 1989.

徳永 宗雄 「南インドの宗教思想」岩波講座『東洋思想』第六巻『インド思想2』岩波書店, pp.141-169, 1988.


[初出] 「シヴァ信仰の確立」, 辛島昇編『ドラヴィダの世界 --- インド入門II』, 東京大学出版会, pp. 41--53, 1994

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