第3回研究会 (平成12年10月21日土曜日) 田村愛理(東京国際大学商学部・AA研共同研究員) 「エル・グリーバ:『イスラーム的』多元社会における漂着聖女の役割」  一般に限られ自然状況下において異なる諸コミュニティが共存する場合,殊に文化の基盤ともなる宗教が 異なる場合には紛争が頻発し,それを避けるためには生活圏の分離が必要であるとされる。しかし,そのよ うな常識は単に誤りであるばかりでなく,事実は逆である。一見分離していて接触がないように見えても, 諸集団の固有性は不断の接触により保持され,固有性が保持されることにより共存構造が保障されるのである。  本報告は,以上のような問題関心を基礎に,いわゆる「イスラーム的」とされる諸コミュニティの多元的 共存システムに注目したものである。具体的な報告の対象としては,チュニジア南部のジェルバ島の漂着聖 女伝説を取り上げた。ジェルバ島は,地中海性気候とアフリカ大陸性気候とが入り交じり,さらに雨量がき わめて少なく,地下水資源が限られているために,その狭い島内に多様な生態環境と生活形態が繰り広げら れ,数キロ異なると生産物から民族衣装まで異なるという多元的社会を現出している。島内にはスンニー派 からイスラーム最初の分派のイバード派ムスリム,そして世界で一番古いと称されるユダヤ教徒のディアス ポラ・コミュニティまでの様々な宗教共同体が,アラブ,ベルベルといった民族的要素をより細分化し,さ らにそれらがメンゼルと呼ばれる数家族の拡大家族から成る集団を形成し,諸民族と諸宗教と諸生活形態が この小さな島にモザイク状をなして展開されている。  この島に現在約800人程いるユダヤ教徒の最大の祭礼が,エル・グリーバと呼ばれる巡礼祭である。過ぎ越 し祭の後に行われるこの祭礼は,この島のユダヤ教徒コミュニティの最大の祭りであるとともに,島外のユダ ヤ教徒がこの地へ巡礼する機会でもある。また,東方系のハーラ・スィゲーラと西方系のハーラ・キビーラと いう二つの居住区に分裂しているこの島のユダヤ教徒が交わる数少ない機会ともなっている。  エル・グリーバ(El Ghriba)とは「遠く離れた−gha/ra/ba」という語源から派生した「驚異,奇跡」ある いは「見知らぬ人,客人,外国人等(女性形)」を意味するアラビア語である。この奇妙な名を持つシナゴー グこそがジェルバ島ユダヤ教徒の精神的な絆の中心であり,また,祭礼の主人公である。シナゴーグは,対立 関係にあるユダヤ教徒の両居住区から離れたハーラ・スィゲーラの郊外にある。祭礼は三日間続き,寄進され たスカーフを山のように着けた山車の巡行をもって終わるが,この間多くの巡礼がシナゴーグに参詣し,世界 で最も古いとされるトーラー(律法書)を拝観する。しかし,シナゴーグの土台となっている,ソロモンの神 殿から流れ着いたとされる石柱のある岩窟に入れるのは女性のみである。女性達は,良き結婚相手に恵まれる ように,また子供の病の治癒といった願を書いた卵をこの岩窟に蝋燭と共にお供えする。  この祭礼を調査していく過程で,報告者は,このような祭りがユダヤ教徒に特有なものではなく,島のムス リムの諸コミュニティにも同様な伝説に基づく聖女信仰が広く分布していることに注目した。これらの伝説に 共通するのは,祭りの主人公が,どこの誰ともしれない島外からやってきた聖女で,婚姻と子供の病の癒しに 霊験あらたかな力を持っていると人々に信じられていることである。  漂着聖女とでも名付けられるこれらの伝説に基づく聖地は,エル・グリーバもそうであるように,各メンゼ ル共同体間の境界線上に展開している。  その祭りは聖女が住んだとされる祠と彼女の墓所とされる場所を参拝する巡礼の形式を持ち,メンゼル共同 体の境界を越えて人々が出入りする。  聖地は,エル・グリーバのような立派なシナゴーグから,海辺の小さな祠,ただのオリーブの古木まで様々 であるが,伝説の内容と,人々がここに参拝に来る理由は同じである。こうした漂着聖女信仰の祭礼は,普段 は交流がなくよそ者の出入りに厳しいメンゼル共同体間を不断に接触させる機会となっている。  またこの信仰は,正統イスラームの側から土着的であるとはされても,異端的とは否定されず,むしろお墨 付きを得ている。その意味では,イスラームは,制度的に,イスラーム法に基づく正統性と慣習に基づく土着 性の二重の信仰構造を保障している。  そもそも中東は,ジェルバ島に集約されるような自然環境がさらに大規模に展開される地域であり,孤立的 な自給自足農業体制が成立しうる条件は一般的でない。従って,イスラーム社会はその成立の初期から,それ 以前に既に形成されていた流通/交易活動を社会の前提として組み込み,幾つかの異なる生態系を持つ広大な 文化経済圏間を,都市を結節点として繋ぐネットワーク構造に編成し展開してきた。 本質的に多元的である この構造はしかし,非常にバランスの崩れやすい個々の生態系の上に組み立てられてきたものである。このよ うにイスラーム社会の特色を設定すると,いわゆる「イスラーム的」共存構造とは,従来言われてきたように, 断片的諸集団が特殊な宗教的寛容性に起因した保護政策により孤立的に共存してきた,静的な「モザイク社会」 ではなく,異なる生態系を繋ぐ諸コミュニティ間で多層/多元的に形成された動的な関係性の展開にその本質 があるのではないかと考えられる。この関係性を構築し保持するバランサーとしての役割を,異宗教集団の存 在を普遍的法理念で規定した「イスラーム的」システムが,広く果たしていたとは言えるであろう。諸共同体 の固有性の保持は,日常の中で各共同体の境界をいかに柔軟に組み替えていけるかの工夫に負っている。  この関係の具体的な表出として,上記の漂着聖女をめぐる祭礼は捉えられるのではないだろうか。 (報告者自身による要旨)