第2回研究会 (平成12年6月30日金曜日) 1.高崎恵(国際基督教大学アジア文化研究所・AA研共同研究員)「カクレキリシタンの現在にみる宗教の価値」 2.今村仁司(東京経済大学経済学部・AA研共同研究員)「Homo Communicans−Inter-Actionとしての社会空間」 1.「カクレキリシタンの現在にみる宗教の価値」高崎恵  戦後,日本における中央と地方の関係は,増大する同質性と持続する多様性の同時進行としてモデル化されて いる。地域差やローカル色の豊かさが喧伝される一方,全国的な文脈はすでに地方の日常生活に浸透し,その文 脈を前提にしなければ現代社会のなかで自分の生活を意味づけることは難しい。本発表は,想定される日本の 「主流派」からみた容認可能性と,地域独自の伝統の存続との相互関係についての考察である。  カクレキリシタンとは,江戸時代に宗教の隠匿を余儀なくされていたいわゆる隠れキリシタンの末裔のうち, 信教の自由が保証された近代以降もなお,教会と関わりを持たずに潜伏的な宗教形態を受け継ぐ人々を指す。 1990年代での分布は長崎県の生月島,五島列島に集中し,そこでも地域の過疎化や住民の高齢化に伴なう衰退傾 向は否めない。歴史的社会的背景や宗教形態を異にしながら共に現代まで生きながらえたこの二つの地のカクレ キリシタンの伝統は1990年代に転機を迎えた。生月島では観光資源として伝統が再評価される一方,五島地方で は更なる衰退傾向を見せているのである。一見逆向きに見えるこの動きは,「主流派」に対していかに自己像を 提示するかという問題に密接に関わっている。  生月島では,カクレキリシタンの存在は江戸時代から永く伝えられた文化財,すなわち価値ある伝統であると いう共通認識が定着している。海洋資源や伝統漁業と並んでカクレキリシタンの歴史や文化をテーマにおいた博 物館が設立され,オラショ(祈りの言葉)が劇場その他で公演されるようになった。メディアの影響も大きく, 地元の文化遺産としてテレビで一般向けに紹介されたり,長崎県出身の文化人によって称揚されたりもしている。 加えて,その宗教世界は日本独自の宗教文化として学術的にも積極的に位置づけられ,研究者同士のネットワー クを通じて海外にも発信されている。  一方五島地方ではこのように積極的な再評価の試みはなく,全般的に顕著な衰退傾向がみられる。報告者が調 査した宗教組織は年代初期に解散し,成員の大部分は神道へと集団移行した。深刻な過疎化と高齢化に悩むこの 地方では,新たな人口の流入を期待しながらも,進学・就職・老後に向け,移住を視野に入れた生活設計を余儀 なくされている。組織解散の直接の契機は役職継承の失敗にあるが,他者に向けて自己の伝統を肯定的に語る言 葉を持たなかった成員にとって,その伝統は「古い因習」となり,心情的にも戦略的にも負担の大きいものだっ たこともまた事実である。  この二つの地域の伝統に対する認識の差は,各々が想定する「日本の主流派」像に向けて,身の回りの材料を どう用いて,自らをどう提示しているかを見る好例となるだろう。(報告者自身による要旨) 2.「Homo Communicans−Inter-Actionとしての社会空間」今村仁司  本報告は,共同研究プロジェクト自体のテーマでもある「社会空間」という概念を,社会哲学の立場から基礎 づける目的をもつ。  まず,社会空間を複数の人間の相互行為が展開していく場として定義づける。「社会空間」としての相互行為 のアンサンブルは,いくつかの人間学的前提をおいて語られるとする。社会空間に存在するのは,けっして人間 だけではなく,生きている人間,死んでいる人間,自然的世界,物質的な材料,人工的な生産物,そして観念的 な世界,等々である。人間は与えられた場所のなかに与えられて存在する。人間にとって「与えられてある」と ころの場所を,ここでは客観的現実性(objective reality)とよぶ。この現実は,別の言葉でいうと「世間」 または「世界」という言葉に圧縮していうことができる。人間が生きる世界とは,人間がなんらかの仕方で,直 接間接に関係するところのすべて,すなわち,自己の自然身体と等質的な自然領域のすべての事物,身体を維持 するために必要とするものを取得するための手段の総体(道具や機会),そして人間とよばれる「精神」的特性 をもつ同類としての「他人たち」すべてである。つまり人間は自然世界,社会的人間世界,人工物の世界,それ について人間が語り思考する言説的世界を,同時に生きるとする。  次に相互行為を定義する。相互行為は行為(action)と対抗行為(counter-action)からなる。相互行為は, 人間学的には,行為の当事者について人間的当事者相互だけに限定されないで,人間的当事者と「非(ノン)」 人間的当事者との相互行為をも含めなくてはならない。しかし,格段に相互行為といして登場するのは,人間と 人間の行為的関係であり,ここでは人間の間の特殊人間的な相互行為を対象とする。これを「社会的(ソシアル)」 行為とよぶことができる。そのとき「空間」は,相互行為の総体の場面であり,自然その他は「空間」をささえ る書き割りとなる。とくに「自然」という空間は,「人間的なもの」(特殊人間的な存在者)の出現にとって不 可欠な前提である。  特殊人間的なものが「まだ存在しなかった」自然界から,どのように出現するのか。人間は,何らかの仕方で, 対象を「意識(認識)」し,同時にそれが反照して「自己の意識」をもつようになる。この「意識」または「精 神」がどこから出現するのかを説明する道筋は次の二つがある。第一は身体欲望。身体欲望は,自然的人間以外 の動物一般にもある。その意味で,あらゆる生命体に共通する「自然的」欲望であるが,人間の特殊性は欲望に よる空白が充填されてもただちに消滅せず,瞬間から持続に伸びることである。ここに動物ではないなにかが自 然界に出現する。第二は対他欲望である。いつホモサピエンスは,「我は・・・である」と発するのかというこ とである。ここでは複数の人間たちを想定しなくてはならない。一人の人間候補がもうひとりの人間候補を欲望 しはじめるとき,人間候補をホモサピエンスから「人間」(社会的人間,ソキエタス,コムニタスの人間)に変 換する。これをヘーゲルにならって「承認を求める欲望」という。相手の欲望の対象になることは,相手から私 の価値を承認してもらうことであり,承認を求める欲望が人間を「発生」させる。  「社会的」空間は,複数の行為が遂行される場所が舞台である。社会生活は,具体的には,経済,政治,文化 の領域から構成される。これらの「領域」はすべてなんらかの仕方で「制度化」されている。制度化は,固定化 であり,類型化であり,物象化ななしにはありえない。こうした「社会的空間」の特質は,社会的現存在として の「人間」の根本体制を構成する諸契機からその出現の道筋をとらえることができる。簡単にいえば経済,政治, 文化のアンサンブルとしての社会空間は,集団だけでなく,この三要素を内在させた一個の人間の行為から説明 できると結論づけた。(西井凉子)