かれこれ10年以上南タイで、ムスリムと仏教徒の関係をテーマに調査をしてきました。そこで、どんなことに興味を持ち、どんなことをやってきたのかを端的にあらわしたのが昨年出版しました拙著の冒頭の一節です。以下に引用します。
 
 南タイの西海岸には、ムスリムと仏教徒が通婚を繰り返し、共存している不思議な地域がある。不思議というのは、本来、イスラームは厳格な一神教であり、食生活を含む生活全般を規定するシャリーア(イスラーム法)にのっとった生活をするためには、ムスリムが多神教の仏教徒と生活を共にすること、ましてや通婚することはできないはずだからである。かりにムスリムと仏教徒が同じ地域に居住している場合でも、日常生活圏は別々で、市場といった公共の場での接触以外はほとんどないという状況が一般的である。そうした地域では、ムスリムと仏教徒が通婚すること、ましてやムスリムが仏教に改宗することは、通常ムスリム・コミュニティからの追放を意味するのである。実際に、このようにムスリムと仏教徒が「共存」している事例は世界でもほとんど例を見ない。それは、たんに中東や、東南アジアに限ってもマレーシアやインドネシアといったムスリムがマジョリティである地域において見られないというだけではなく、ムスリムがマイノリティであるフィリピンや、タイの私の調査地である南タイの西海岸以外の地域においても希有の事態である。
 
 ここでのムスリムと仏教徒の「共存」のあり方は、文献などによって東南アジア地域のムスリムのことはある程度理解していたもりだった私の予断をはるかに越えたものであった。一例をあげよう。村にはじめて調査に入って1ー2ヶ月もすぎ、だいたい村人とも顔見知りになった頃、村人相互の関係をつかむためにも、家族や親族関係などについての村の全世帯の調査を行うことにした。その調査項目には、各世帯の家族一人々の宗教実践に関する項目も含めた。仏教徒の世帯では出家経験の有無を尋ねた。男性ならば、二十歳以上で出家する僧(プラ)かそれともそれ以下の年齢の沙弥(ネーン)か、女性ならば尼(メーチー)として出家したことはあるか、いつ、どのくらいの期間、どこで出家したかといったようなことを尋ねていった。こうした出家経験についての質問項目は、仏教徒から改宗してムスリムになっているケース以外は当然ムスリム世帯では省いた。村は第1回目の調査時で仏教徒72世帯、ムスリム61世帯であった。約三分の一ほど調査がすすんだ頃、あるムスリムの世帯で、うっかりと出家経験の項目をとばすのを忘れてそのまま尋ねてしまった。その答えは、母親と長女がメーチーとしてそれぞれ1日半(3ガイ)出家した経験があるというものだった。それをノートにそのまま書きこもうとして、ふと気づいた。あれ、ここはムスリムの家ではなかったっけ。しかも仏教徒との通婚世帯ではない。あわてて訊きなおした。寺での出家のことですよ、と。確かに相手は私の質問を理解し、寺での出家経験について答えてくれていることがわかった。それからが、大変だった。ここでは、ムスリムも寺で出家する慣行があるのだとはじめてわかり、すでに調査を終えていたムスリム世帯についてもこの項目についてまた質問し直さなければならなかった。その結果、メーチーとしての出家の事例が13ケース、ネーンとしての出家の事例が2ケースあることがわかった。(これについては、第3章で詳しくみていことにする。)これは、偶然の失敗から判明した予想もしないムスリムの仏教の儀礼の取り込みであった。これまで、ぶらぶらと1−2ヶ月もの間、村の中を歩きまわりながら色々な話をきいてきたけれど、こうした慣行については誰も言及しなかったのである。そのうち、ムスリムと仏教徒の少女が一緒に出家したときのものだという白い衣をつけ頭を剃った少女が二人並んだ写真を見せてもらう機会があったが、こうした出家自体は何年かに一度あるかないかなので(実際私の調査している延べ2年間の期間にはなかった)、なかなか目にすることはできないし、普段の話題にものぼらないことなのである。しかし、村人にとっては周知のことであり、私が宗教的実践について質問していても誰も特にかわったこととしてあえて言及するまでもない当たり前のことであったのである。
 
 このような地域で、いったい彼らにとって「ムスリムである」「仏教徒である」とはどういうことなのであろうか。彼らにとって宗教とは何であろうか。イスラームと仏教という本来全く異なった宗教理念をもつ宗教は、この「共存」状態のなかでどのように生活の中で実践されているのであろうか。こうした素朴な疑問が調査の出発点であり、かつ本書の探求の動機となっている。
 
(『死をめぐる実践宗教 南タイのムスリム・仏教徒関係へのパースペクティヴ』西井凉子、世界思想社(アジア・アフリカ言語文化叢書37)、2001年)
 
 こうした私の研究が、昨今ムスリムと一言で称せられる人々にも様々な人がいる(仏教徒でもキリスト教徒でも色んな人がいるように)ことを知ってもらう一助になれば幸いに思います。