今後の研究会について
 
「社会空間」をどう考えるか 西井凉子
 
 この共同研究プロジェクトのかかげる「社会空間」という概念について、何をどのように明らかにすることをめざしているのかを少し整理しておきたい。
 
T 問題設定の背景
 まず、「社会空間」というタームの発想の背景となったのは、近年の急速なグローバル化である。今日、世界の至るところで経済、社会、文化にわたるグローバル化、およびそれにともなう近代的なるものが人びとの生活に急激に波及している。特に情報産業の急速な拡大や消費社会の出現は、階級的、民族的な差異あるいは地域間の格差の幅を広げるとともに、人々の社会的経験の多様化や大規模な移動、モビリティを生みだしてきた。とりわけ東南アジアでは、1980年代後半以降の急速な経済成長とそれに続く1997年の通貨危機を経験するなかで、その近代性のあり方は単線的な成長神話ではなく複雑な様相を示している。一般的に、西欧社会に起源する「近代化」という普遍的な転換モデルは、宗教や呪術からの解放、合理的な知識とシステムの形成を基礎とし、従来の慣習や伝統に支えられた社会が民主主義、官僚制度、資本主義生産システムといったメカニズムに置き換えられていく過程をさしている。たしかに「近代化」は社会の均質化に向かう強大な力として作用してきたが、それに直面する人びとの対応はかならずしも均質的ではない。例えば近年、東南アジアでは西欧モデルとは異なった近代性を主張するイスラーム復興運動や仏教ナショナリズムが国民国家の枠を越えて興隆しつつある。また国際的あるいはトランス・ナショナルな連携に基盤をおくNGOやNPOなどの民間組織の台頭は、各地の伝統文化や慣習あるいは地域社会を独自の近代性のなかで再編成する重要な役割をはたしつつある。ある意味では、先日のアメリカの同時多発テロでも明示的に示されたように、均質な主体としての国民国家はすでに終わりをつげ、さまざまなレベルのさまざまな主体が錯綜して、いまや生活世界を構成しているともいえる。そうしたグローバル化に伴う新たな事態を捉えるのに従来の方法論を見直す必要があろう。
 
U 方法としての「社会空間」
 伝統的な人類学の考えでは、人びとが居住する場所や環境、そこにおける彼らの思考や行為をあたかも自然的に構成されたセットとして捉えようとしてきた。そのような研究方法は民族、地域や集団を全体論的に捉える「コミュニティ研究」と言われる。この研究プロジェクトはコミュニティ研究が前提としてきた場所、人、行為を統一的に描く全体論から脱却し、人びとの思考と行為が新たな意味と価値を作り上げ生成していく「社会空間」という概念を考えてみたい。これはアパドゥライのいう脱領域化されたローカリティとそのネットワークからなると考えることもできよう。(ちなみにアパドゥライは現代世界におけるlocalityの生産に直接影響を及ぼす3つの要素として、
 
権力―国民国家
人―ディアスポラの流れ
メディア―電子・ヴァーチャル コミュニティ をあげている。)
 
こうしたグローバル化によって何がかわったかを次の二つのレベルで考えてみる。
 
@ 社会関係
A 権力、国民国家
 
@ は、先ほどあげた従来のコミュニティ・スタディーズの前提である、場所、人、行為が自然なセットとして物象化された「地域local」、またエリア・スタディーズにおける地理的区分、文化的差異、国境が一致するという前提が成立しないということ。Aでは力、国民国家では、個人と国家の関係がくずれており、また権力のあり方についても権力は個々の個人に貫徹するのではなく、人々は様々な差異を含んだネットワークに自由につながっていく社会的スペースが生まれているということをあげた。
 
箭内報告:社会科学における「社会空間」の可能性
 
 社会空間にどうアクチュアリティを与えられるか。
まず、「社会空間」がどのように使われているかをみると、人文地理学においては、「社会関係と環境の関係」、建築学においては都市計画などで「空間と人間」の関係、さらに都市社会学やサイバー・スペースなどでも使われている。「社会空間」というタームは、じつはデュルケームの社会分業論にも使われているがその用い方がこの研究会での使い方とは異なっている。ここでは、まず「社会空間」というタームによって、相互に異質な社会関係が展開され、それが共存しているという異質な場の共存を考えている。「社会空間」を使うことで何から脱出しようとしているかを明らかにしておく必要がある。
 
1 社会構造をぬけだして社会空間に向かう。
 社会構造は経験的に抽出されるが、論理的には経験的なものより先にある。それは超越的なレベルにあるモデルといえる。社会空間は、経験そのものの中にあるような内在的社会的プロセスの中で描写を行う。「実践コミュニティ論」はこの研究会の土台となる民博での研究会で議論されたものだが、やはり社会構造を脱出して内在的社会過程の描写にむかっている。それは、言葉を変えると部分的インタラクションの中で全体が作られていくプロセスをみる。外から捉えていくのではなく、局所的モデル、ローカルなところから考えていく、超越的モデルの不可能性を指摘して内在的プロセスを捉える必要がある。
 
2 同質のものではなく、相互に異質な相互関係を捉える。
 マルクス主義などは相互に異質なものがあっても弁証法的に全体が統一されると考える。しかし、ここでは必ずしも全体が統一されるとは考えない。本質的にヘテロジーニアスである空間を考える。ある意味で複数性、場所・行為・人が自然なセットとして物象化された地域、ローカルからそれと別のレベルにあるマスメディアや国民国家、世界的マーケットなどを同時に把握して、その間にある微妙なずれや共犯関係や抵抗などを、全体を仮定しないで把握する。異質なものが共存するということをどう捉えるのかということを問題意識としてもっておく。理論的に整理していく過程でどうしても全体を同質なものに還元する傾向がある。例えば、開発や倫理を考えるときにも文化の多様性を超えた普遍的な価値をおしつける圧力がある。多文化共生といっても、多文化を認めるといっても最終的には普遍的な価値を通じて再統合してホモジーニアスなものにしていく傾向があるのではないか。複雑系でも最終的には経済原理に還元するような研究がたくさんある。社会科学における「空間」は、ニュートンの絶対空間といった均質的な空間、レヴィ=ストロースなどもこうした空間を前提としていた。均質的でホモジーニアスな空間のイメージと決別しなければいけない。自然科学、哲学、数学など本質的にヘテロジーニアスなものを内包した空間が出てきている。人類学はエスノグラフィーなどで、還元できないヘテロジニティを実践的な文化相対主義などて提出してきた。「社会空間」を考える中でそこをどう捉えるかという問題提起をしておきたい。
 
西井、箭内の報告に対して、「社会空間」を様々な時代様々な地域に適応できるものと考えるかのか、それとも90年代の新しい現象を解明したいと考えるのか(名和)、空間というのは均質的イメージがあるので、むしろロカリティの方がヘテロジニティをあらわすにはより近道、ロカリティが生成する場としての空間ならば言葉としては、幾何学的イメージで理解できるが、場と非場(非場は具体的にいうと人々が動いていることそのものを非場というが、動きは場を伴う)といえばすむ(内堀)といった疑問やコメントがなされた。
 また、なぜ空間と時間といわず空間だけにしたのか(川並)という質問に対しては、3次元の空間を時間を含めて4次元空間へと数学的に考えるといい。ニュートン的な絶対空間では、時間と空間が判然としてその問題がでてくる、その空間のイメージから決別すればその問題はおこらない(箭内)との回答も示された。
 また、認知科学の方からの「空間」の捉え方については、高木共同研究員から次のようなコメントがあった。
 空間は人間も含んだ動物の移動可能性、関係可能性によってしか定義できない。蟻にとっての空間、猫にとっての空間というように定義される。エイジェントの行為可能性が結果的に空間を定義していく。動物の行為可能性、身体と世界がセットになって定義される。会空間も作動によって閉じていって、結果として空間が生成されていく位相空間のようなものとしてイメージされる。空間の問題は、時間の指摘があったが、空間のなかでではなく、空間が生成していく、異質性もすでに二つの存在する空間があるというではなく、作動によって異質なものが生成され、結果的にヘテロジーニアスな空間が生成していく。当の行為者にとっては空間の境界が見えない。ところがそこに空間があるように認識してしまうというのが社会の不思議。内在性と異質性を含めて社会空間の問題を考えると、当の行為者のパースペクティブからは空間の境界が見えない。行為によって空間は生成されていく。
 もっとも、こうした「社会空間」の概念をどのように実際に用い、それによって何が新たにわかるのかということが、もっとも重要なことであるが、それはこれからの課題である。ここでは、とりあえず出発点として「社会空間」の概念についての覚書を示しておきたい。