「タイ、イギリス「現地」体験ー子連れも楽し」(『通信』1999年 第96号)
 
タイにて(1997年12月-1998年3月)
 
1 初めての飛行機 
 初めて飛行機に乗ったとき、どういう気持ちだったろうか。記憶のない幼少の頃は別として、大学1年生の春休みにインドへ行ったときが初めての飛行機搭乗体験だったはずであるが。その後はもう数え切れないくらい飛行機に乗る機会があり、飛行機は交通手段として当たり前になってしまっている。
 南タイの村からバンコクまで来てもらったナーチュアにとって、今回が初めて飛行機に乗る機会であった。ナー・チュアとは、以前に南タイで長期にわたるフィールド・ワークを行った際に一緒に住んでいたのだ(というより、私が居候していたといった方が正確であるが)。今回は、11ヶ月の息子を連れて行く。私にとってもはじめての体験である。住むところも、文献資料収集のため、南タイの村ではなく、バンコクである。そこで、息子の面倒をみてもらうために、ナー・チュアにきてもらうことにした。ナー・チュアは、私がはじめて調査にいったときは50歳代前半だったけれど、今はすでに60代である。1000キロ以上も離れた村からバンコクまで、列車だと16時間かかる。おまけにナー・チュアはこんな大都会に来たことはないので、一人では無理だという。息子をつれて迎えにいくのに、列車ではあまりに大変なので、飛行機にのることにした。飛行機にのるのは、ナー・チュアはもちろん初めてだが、他の村の人も誰ものったことがない。はじめは後込みしていたナー・チュアも好奇心にまけてついに飛行機でバンコクにくることを承知した。飛行機にのり、緊張した面もちでシート・ベルトをしめてじっと窓から外をみながら離陸の時を待っている。そして離陸。今回は幸いないことに途中大きく揺れることもなくとてもスムーズな飛行だった。着陸したとき、ナー・チュアは、「心臓病の人は検査してからでないと、乗れないんでしょ」と言った。やっぱり怖かったのかなと思ったけど、4カ月後にバンコクから帰るときに、村の人に何て言うのときくと、「下から飛行機ををみてるとあんなのに乗るなんてとてもこわいと思ってたけど、乗ってみるとなんていうこともない。車に乗ってるのと同じで、平気だ」と答えると言っていた。人間なんて身一つ、どんなことにでも案外簡単に適応できるものだと感心した。そして、初めて体験したときの緊張や恐怖、そして新鮮の驚きなどは、あとで記憶のなかでは説明できる形に濾過されて残っていくのだろう。
 
2 南タイ人
 まず、バンコクについて心配だったのは、マンションの受付にナー・チュアをなんと紹介するかであった。バンコクではたった4ヶ月ということもあり、病院等様々な便宜を考え、ホテル形式のマンションをかりていたのであるが、基本的に外国人向けであり、ほとんどの住人は通いのタイ人のお手伝いさんを雇っていた。インド人であるオーナーは、タイ人を同居をさせることをいやがるときいていた。マンションにつくと、すぐに受付にナー・チュアといき、私の南タイからきたおばさんだと紹介した。すると、受付の女性も南タイの出身で、いきなり南タイ方言になり、「おばさんも南タイからか。私もそうだ」と一気にうちとけた。その後このマンションに住んでいる間中、ナー・チュアは私の息子をだっこしては、この受付におしゃべりにやってくることとなった。南タイ人は他の地域からは、「獰猛だ(ドゥ)」とよく言われる。色も黒く、気性が激しいというイメージをもたれている。北タイ女性のたおやかな色白美人のイメージとはちょうど逆である。一つには、言葉のせいもあろう。北タイの言葉はゆっくりしたリズムで語尾を引き延ばす話し方であるが、南タイ方言は非常に早口で単語も短くなり乱暴な印象を与えるようだ。よく言われる冗談に「南タイの人は列車がすれ違う間に会話ができる」というのがある。標準タイ語では「どこへいくの(パイ・ナイ)?」ときき、「市場へ行く(パイ・タラート)」と答えるところを、南タイでは「ナイ?」「ラート」の一言ずつですむというのである。
 バンコクには知り合いがあまりいないだろうと思っていたナー・チュアに、南タイ・コネクションで次々に人が訪ねてくるのにも驚いた。ナー・チュアは結婚したことがなく、子供もいない。しかし、甥や姪、その友人と次々にバンコクに住む南タイ出身者がナー・チュアを訪ねてくる。おかげで、家の中は南タイ語があふれ、私の息子がはじめて理解した(と私がわかった)言葉も南タイ語であった。
 
3 変貌するバンコク
 今回、久々のバンコク滞在で、10年前にくらべ交通渋滞がさらに悪化し、大気汚染が非常にすすんでいることを実感した。交通渋滞ときたら、一日中いつどこでいきなり車が全く動かなくなるのかわからない状態だ。バンコクで待ち合わせをして1時間遅れても2時間遅れても、「渋滞(ロット・ティット、字義通りだと車がくっついている)」の一言でみんな納得する。(それを遅刻の理由に乱用する人もままあるが。)時間に律儀な日本人の友人たちと待ち合わせをして、約束の時間から1時間以内についたのは、10人中3ー4人で、2時間以内に、あと3人くらい到着、3時間遅れでやっと全員そろったという有様だ。なにせ、1時間たっても10メートルも動いていない時もある。歩けば30分の距離を、車では3時間ということもざらだ。確実なのは、歩くか、バイク・タクシーにのることだ。しかし、歩くのはモクモクと黒い排気ガスの中で喘息になる危険をおかすことになるし、(実際友人の子供もバンコクに半年滞在しているうちに喘息になってしまった)、バイク・タクシーは車の間をぬってすごいスピードで走るので命の危険を犯すことになる。今回はバンコクの交通警官が皆白いマスクをしているのが目に付いたが、あんなものではどれだけ防げるだろうかと気の毒になった。
 今回は、それでもタクシーに乗る機会がたびたびあった。そこで気づいたのは、なんだかすれていないタクシーの運転手がとても多いということだ。話してみると、やはりこの不況下での転職者だ。つい先月まで、リージェント・ホテルでボーイをやっていたとか、有名大学を出たあと商社につとめていたのに首になったという人がいたりした。あるときは、出身大学及び経歴入りの名刺を渡され、職を紹介してくれと頼まれたりもした。タイの経済状況の厳しさは短期の滞在者にも目に見えるかたちでおしよせているようだ。
 
4 タイ式療法
 息子はこんな空気の悪いバンコクでそれでも元気だったが、まだ1歳かそこらである。ときどき高熱を出した。そのときの対処方がタイと日本では全く異なっている。熱を下げるために全身を水をひたしたタオルで頭から足の先までびしょびしょにぬらすのである。日本では頭だけ冷やして、体は冷やさないようにと思わず逆に厚着させそうなものなのに。ナー・チュアが水拭きしろと主張し、私が少ししか水をつけないと、もっと水浸しにしろという。病院へつれていくと、ナー・チュアの言うとおり、おむつをとってほとんど水風呂につけるかんじで水浸し、息子は赤い顔をしてぎゃーぎゃー泣いている。ナー・チュアはほらみろと言わんばかり。日本から持参した本にも、よく読むと額のみを冷やすのではなく、首や耳の後ろの頭の方に行く血液の通ってる血管や脇の下を冷やせとある。実は高熱のときに水風呂にいれるのはイギリスでも同じであると、後でイギリスにいったときにわかった。タイでは熱があるとき、ただ冷やすだけではない。物理的に体の外から冷やしたり暖めたりして、体を一定の温度に調整するのである。ナー・チュアは頭からお腹、足の先まで全部さわって、熱があっても足が冷たいと、それまで冷やせ冷やせと言っていたのに、今度は足にソックスをはかせろという。こうしてみると、乱暴にも思えたタイ式療法も論理的だと納得がいく。もっとも、今度息子が日本で高熱をだしても、水風呂にはいれないで、首の後ろとか脇を冷やすくらいにしようとは思うけれど。
 
5 タイで働く日本人女性
 バンコクでの生活は、日中はナー・チュアに息子をみてもらい、朝食後、国立文書館か大学の図書館にでかけ、夕方5時頃に帰るといった毎日であった。だから、日中は基本的には連絡がつかない。そこで、今はバンコクでも安い携帯電話のレンタルがあるから借りたらいいという友人のすすめもあって、はじめて携帯電話をもつことになった。日本人むけのバンコクで発行されている新聞などの広告から、一番安いところを探して借りた。電話一本で日本人がすぐに届けてくれた。ところが、一週間もしないうちに、レンタル会社から連絡があり、会社をたたむことになったのですぐに返してほしいという。やがて、オーナーだという多分40歳代後半くらいの日本人女性が回収にきた。中西さんという。中西さんは平謝りにあやまったあと、くやしそうに会社がつぶれることになった経緯を話した。信頼して一緒に会社をやっていた日本人男性が、顧客から預かっていた保証金などすべてのお金をもって逃げてしまったのだという。まだ、会社をはじめて一年もたっていない。客もつき商売が軌道にのり始めた矢先だったのに。レンタル会社は中西さんがシンガポールを拠点に20年間かけてためた数千万円のお金を元手に、物価が高くなったシンガポールからタイにやってきて始めたという。そのとき20年来知りあいだった男性に協力を頼んだところ、持ち逃げされてしまったのである。できれば電話を買い取ってほしいとのこと、私もせっかく使い始めたところだったので知り合いにきいてみることにした。しかし、携帯電話はタイ人名義でなければ買えないし、一ヶ月の基本料金が高いので、結局買い取る人が見つからず、2−3日後に電話を返しに彼女のオフィスに行った。中西さんは顧客の保証金を返すため、コンピューターやファックスなどすべて売り払ってしまったというガランとしたオフィスでひっきりなりにかかっ・トくる電話と訪れる客の応対に追われながら残務整理をしていた。「これからどうするの」と訊くと、「残務整理が終わると旅にでる、インドあたりにでも」という。そして日本に帰ってお金をためて、今度はベトナムかラオスで経済状況をみて、また商売を始めるつもりだという。借金はなく、ただ貯蓄がすべてなくなっただけだからと。こんななかでも、打ちひしがれることなく、もう先をみて行動を起こすエネルギーをためている。日本女性も強いなー、とある種さばさばした爽快ささえ感じた。
 タイに10年前に留学していた頃も、日本を脱出してタイで自ら運命を切り開こうとしている日本人女性達に大勢会った。こうした脱出者には男性は少なく、圧倒的に女性が多かった。男性は一度やめると再就職がむつかしいことから、もともと一つの企業に一生縛られることのない女性がかえって身軽に行動を起こすのであろうか。そうした女性達のその後の運命は様々だ。ある人は旅行先のバリで知り合った銀細工師と結婚して、現在バリにすんでいる。ある人は日本に帰り日・タイ貿易を営む商社につとめている。ある人はその後友人を頼ってドイツにわたった後、今は日本に住んでいる。当時、私が知り合った女性達の多くは今はタイには住んでいないが、その後また別の女性達が中西さんのように、タイにやってきて新たな運命を切り開こうとしているのであろう。しかし、こうした新天地開拓の余地もグローバル経済の浸透で東南アジアの中でもどんどん縮小していきつつある。行き場を失った女性達は今度はどこへ向かうのだろうか。
 
イギリスにて(1998年3月-1999年3月)
1 イギリスに到着
 山のような荷物とベビー・カーに乗せた息子を抱え、日本からタイまできてもらった夫の母とヒースロー空港に到着した。私はタイの感覚で、タクシーはいくらでも空港には待っているものだろう、少々お金はかかってもケンブリッジまでいってもらおうと思っていた。ところが、空港のタクシーには長蛇の列、しかも通常はロンドンまでしかいかず、ケンブリッジほどの遠距離になるとタイからの飛行機代(格安チケットだけれど)くらいかかってしまうほど高額なのをきいてしばし途方にくれた。それでも、気をとりなおし、インフォメーションでフリーで電話をかけることのできる遠距離交通の会社の電話番号をもらい、もういくらだしてもいいという気になって最初につながったところに空港までの迎えを頼んだ。10分もしないで「Yuko??ki」となんだか日本人の名前らしきものを書いた紙をもった人が迎えにきてくれたときはとても嬉しかった。
 
2 イギリスの保育事情
 イギリスは以前に国際学会で一週間ほど滞在したことがあるだけで、今回がはじめての長期滞在である。これから一年間住むにあたっては、様々な面倒な手続きが必要であった。家に住むだけでかかる税金(Council tax)の減税手続きや、電気、ガス、水道の手続き、おまけにテレビをみるのに必要なテレビ・ライセンスの購入などがあり、なかでも緊急かつ困難だったのは、子供を預けることであった。子供を預かってくれるところがみつからないと動きがとれない。日本からきてもらった義母にいつまでもいてもらうわけにもいかない。日本でも、公立の保育所はなかなか空きがなく入るのが困難なので問題になっているが、私立の保育所だといくつか選択肢があった。ところが、ケンブリッジでは、20ほどもある保育所はどこもいっぱい、ほとんどのところはwaiting listにさえのせてくれない。ようやく、のせてくれたところは2つあったが、これは長ーいリストの終わりでいったいいつになるのかわからないという。
 もう一つの手段は、個人の自宅で子供をあずかってくれるchild minderに頼ることだ。社会福祉局(Department of social services)でリストをもらい、家に近い順からかたっぱしから20人ほどもかけただろうか。これも一人が預かることができるのは3歳以下の子供の場合は3人までという制限があるためほぼいっぱいの状態であった。やうやく、週3回ならみてあげるという人がみつかり、結局その人に、後にはフルタイム(週5日)でみてもらった。しかし、イギリスのこうした保育事情は意外だった。きっと日本より楽にみつかるだろうと思いこんでいたからだ。おまけに、金額もかなり高額だ。たとえ保育所にあずけることができたとしても、週3万円近くする。1ヶ月にすると10万円を越し、日本の民間の高い保育所にくらべても約2倍はかかる。child minderにしても同様だ。私のあずけていた人は町の中心部に近いせいかやや割高の1時間3ポンド(イギリスにいる間、最高1ポンド250円にもなり、帰るころは再び200円位となった)だったが、これも1日8時間で週5日と計算すると週で120ポンド(2万4千円から3万円)で保育所とほぼ同額であった。ただし、保育所は昼食つきなので、毎日お弁当をもたせなくてよいという利点はあったが、時間に融通が利くのはchaild minderの方であろう。こうしたなかでイギリスの女性はどうやって働けるのだろう。結局、保育料とのバランスで仕事を続けられない人が多いのではないだろうか。
 息子のchild minderはジョアンナというイギリス女性だった。多分40歳代前半で、離婚して18歳の娘と二人暮らしだった。ジョアンナの場合は他人の子供を3人預かり職業としてやっていたが、child minderで多いのは、自分の子供を育てるついでに、子供の遊び相手にもなり、またお小遣いも稼げるという理由でやるケースである。はじめにリストにそって電話をかけたときに、何人かにもう子供が大きくなったからやっていないと言われた。リストにある57人のうち男性はただ一人だった。彼のところも手一杯で断られたのであるが。
 じつは、もう一つ手段がある。それは、オーペアという住み込みのベビー・シッターを雇うことである。イギリスには英語の勉強をかねてヨーロッパ各地からイギリス人の家庭に住み込んで英語の勉強をしながらベビー・シッターをしている人が大勢いる。ケンブリッジではポーランドやオランダ、フィンランド人などにあった。じつはこれもやってみようとした。はじめの3ヶ月間ちょうどケンブリッジで客員研究員をしていた夫も、義母も日本に帰国し、私一人で息子と暮らすことになったので、空いている部屋はあるし(タウンハウスといって2階建ての建物の縦割りの半分で、狭いながら庭もついていた)、子供の面倒もみてもらえるのでちょうどいいと考えたのである。しかし、人選が大変だった。なにせ、何ヶ月も生活をともにするのである。もし、生活習慣のあわない人だとそれこそ、自分の家にいるのに人に気をつかったり、我慢しながら暮らさなければならなくなる。まあ、ためしに募集してみようと、ケンブリッジで私が所属していたDarwin Collegeとアジアに興味をもっている人がいそうなFaculty of Oriental Studiesに広告をだした。それに対し、3人の応募があった。インド人、オランダ人、そしてイギリス人で、互いの条件を考えて、オランダ人の女の子に決めた。ところが、急に彼女がメキシコ人のボーイ・フレンドの後をおってフィジーにいくことになり(ボーイ・フレンドは社会人類学の学生で調査に出かけたのである)、オーペアの話は立ち消えとなった。もう同居人を探すのも面倒になり、とりえあず、ジョアンナのあと夕方から息子をみてくれるベビー・シッターを探すことにしたのである。何人かの人にローテーションで頼んで、結局これで何とか最後までのりきることができた。
 
3 ケンブリッジの社会人類学学科
 息子と二人になって何が大変だったかというと、夕方からセミナーがあることであった。そのために、住み込みのオーペアを雇うことまで考えたのである。セミナーは5時から7時くらいまでだが、そのあとでパブへ場所をうつしビールをのみながら話をするのである。毎回セミナーが終わって急いで帰っていたのでは、誰とも話しもできない。また、定期的に開かれるセミナー以外に夜8時からといったセミナーも臨時であったりする。さすがに、臨時のものはベビー・シッターの手配ができず、ほとんど参加できず残念だった。
 だいたい私が参加していた主なセミナーは二つあり、一つはSenior Seminarといい誰が参加してもいい公開のもので、世界各地からイギリスを訪れている研究者をつかまえて発表を頼んでいることが多いようだった。もう一つはPh.D.論文を書いている最中の学生が途中経過を発表するものでWriting-up Seminarという。こちらは、学生ではない私は担当のMarilyn Strathern教授に頼み込み、さらに教授が学生の許可をとって参加させてもらった。現在のイギリス人類学で若い世代の人々がどんなことに関心をもっているのかを知りたかったのだ。
 ケンブリッジのPh.Dの学生はさすがにインターナショナルで、ほとんど外国人、たまに英語がとても流暢だとしても、アメリカ人だったり南アフリカ人だったり、ニュージーランド人だったりした。アジアからの留学生も多かった。日本、韓国、フィリピン、シンガポール、台湾、マレーシアと、1998年度のセミナーの発表者リストだけからもあげることができる。中南米からも結構多かった。イギリス人ときくと、まあ珍しいという気がするほどである。もっとも、これは学部にもより、社会人類学がとくにこうした傾向が強いようだ。学生の就職先も世界中にひろがっている。英語圏だとどこでもいけるのだ。学生も出身国にかかわらず世界中どこにでもいくという人がほとんどのようあった。こうして植民地ネットワークが現在にも生きている。もっとも、学生の多様性とは対照的に、教員の方は大部分がイギリス人、しかもケンブリッジ出身のイギリス人にしめられているようだった。しかし、14人の専任スタッフのうち半数の7人が女性であるのは、日本よりはるかに多様性にとんでいるといえようが。
 ある日、あるはずのセミナーがない。事務室に問い合わせて、じつは・サれはbank holidayという公休日に行われて終わっていたとわかって、ケンブリッジでは公休日も授業をするということをはじめて知った。Bank holidayというのは、自分が使われていると思っている人が休む日で、自分か使われていないと思っている人は休まないのだとういう。だから、使われてると思っている事務職員は休み、使われてないと思っている教員は授業をするのだとか。
 
4 孤独な数学者ハイディ、危険なケンブリッジ
 息子と二人暮らしになってしばらくした9月の終わり頃、家の近くの原っぱでポール遊びをしているとき、ころがったポールをひろって話しかけてきたのがハイディだった。ケンブリッジを出たけれどオックスフォードの大学院にいき、再びケンブリッジのkingユs collegeに就職し、今日がはじめての顔合わせのパーティだとかで少し酔っぱっらているようだった。自分のcollegeを罵倒したと繰り返しいう。母親を2週間前に80歳で亡くしたところで、父親はそれ以前に亡くなっており、兄弟はいない。母親はドイツ人で、父親はイギリス人だという。ハイディはまだ32歳だというから、ずいぶん遅くにできた子だったのだ。赤いブラウスに黒いミニのタイトスカートのスーツをきている。家に帰りたくないのか、ずっと私達のそばにいる。とうとうまた、いつでも遊びにきてと、電話番号と住所を交換してわかれた。ハイディの住まいは母親が所有していたというマンションで、原っぱのすぐそばにあった。
 それから一週間ほどした深夜、もう二階の寝室にあがって寝ていたとき、電話がかかってきていつまでもなりやまない。仕方がないので、起き出して電話にでると、英語でなんだかよくわからないことを男の声でいっている。また、前の住人あてにかかったのかと、私はここに4月に引っ越してきたところだと言っていると、なんだか聞き覚えのある名前が聞こえた。よく聞いてみると、ハイディが車にはねられ、Acrefield Drive通りの30番地にいるという。なんで、先週知り合ったばかりの私のところに深夜こんな電話がかかってきたのか、どうして車にはねられたハイディがそこにいるのかよくわからなかったけど、電話をきったあと、ようやく少し頭がはっきりして、とにかく私がすんでるのと同じ通り(ちなみに私はAcrefield Driveの14番地にすんでいた)の少し先の家にハイディが車ではねられた後、かつぎ込まれたらしいとわかった。もう息子は熟睡しているし、少しなら家をあけてもいいだろうと、通りを歩き、くだんの家とおぼしき家の前までいってみた。でも、もし間違ってたらとノックをするのをためらっていると、中から警察官が二人でてきた。ハイディはここにいるかときくと、いるという。中に入るとハイディが鼻から頬から顔中擦り傷だらけにしてでてきた。かわいそうにひき逃げされたのだ。倒れているところを、30番地の住人の息子とそのガールフレンドが通りかかり、とりあえず近くの母親の家に運んだのだとわかった。そのときそばに落ちていたハイディのハンドバックももってきたが、財布はみあたらず、そのハンドバックの中に私の電話番号があったのだという。ハイディはショックをうけて、ボーイフレンドの名前はいえたけれど電話番号は思い出せず、私の名前と電話番号を書いた紙をさして友人だといったという。それで私のところへ電話をかけてきたのだ。ほどなく、救急車が到着した。これから病院へ運ぶという。ハイディは不安そうに「一緒にきて」と言ったが、私も家に子供を残しているので一緒にいくわけにはいかない。誰も一緒にいってあげられない、誰も病院へかけつけてはくれない。かわいそうなハイディ。家にたずねていくからというのがせいいっぱいだった。救急車がでたあと、ハイディを見つけた男性もそのガールフレンドも、私も一様にショックをうけ、なんだか泣きたくなるような、一種の連帯感みたいのものを感じた。男性はピアスをつけパンクっぽい格好をしていたが、いいやつじゃない、と思った。たぶん普段だったらちょっとこわいから関わらないでいようと思ったかもしれないけれど。
 この話をイギリス人の友人にすると、もしかしてその人はアルコール中毒じゃないか、問題があるかもしれないから、あまり深く関わり合わない方がいいかもしれない、という。たしかに初めて会った日も酔っぱらっていた。そして、車にはねられた日もかすかにアルコールの匂いがした。寂しさをまぎわらすためにハイディはアルコールにたよっているのだろうか。それでも、ハイディがその後どうなったか、せめて病院から無事戻ったかどうかだけでも確かめなくてはと、ハイディのマンションに行ってみたがいつも留守だった。そこで、はがきをだすと、しばらくしてハイディから返事がきた。病院からは翌日もどり、これからボーイフレンドと一緒に海辺の保養地にいくつもりだとあった。よかった、ハイディは一人ではなかったと安堵した。
 しかし、このことがあって以来、ケンブリッジもあまり安全だと油断していてはいけないと、少し怖くなった。ハイディはこのすぐ近くでひき逃げされたうえ財布まで盗られているのだ。さらに、深夜にハイディのことで電話があった翌々日には、隣の人が夜たずねてきて、家に泥棒が入ったようだが、物音をきかなかったときいてきた。この日以来、出かけるときと夜寝るときは必ず二重に鍵をかけるようにした。
 
5 コミュナリティ
 イギリスの裁判所にはMagistrate Court(治安判事裁判所)とCrown Court(刑事裁判所)がある。すべての裁判は現在のところまず治安判事裁判所を通過して、刑量の重いものは刑事裁判所にいく。刑事裁判所では全体の3%のケースのみを扱っているという。
 社会人類学学科の教授であるアランの妻セーラが、magistrate(辞書には微罪判事とあった)だときいていたから、てっきり日本でいう司法試験のようなものを通って資格をえる司法の専門家だと思っていた。ところが、やがてセーラはとくに法学部をでたわけでもなく、何ら法律の専門知識をもっているわけでもない素人で、自ら志願してボランティアで裁判官をやっているとわかって驚いた。給料はでないかわりに、雇い主は裁判のために会社を休むことを認め、その分の給料を負担しなくてはならないという。いわば陪審員制度の延長のようなものだ。市民から選ばれたものが裁判官まで勤めているのだ。セーラはいう。裁判はゲームだ。提出された証拠と自白をもとに、reasonableかどうかをロジックにそって見定める。それでどちらが勝つか、負けるかを判断する。だから、万が一のときにやり直しができるように死刑はないのだと。法律の専門家が上から市民を裁くのではなく、同じ市民が市民を裁く。常識をもった市民なら誰でもできる。自分は社会の一員として、社会にお返しをするためにやっているのだという。刑事裁判所のみで司法の専門家が裁く。magistrateは全国で約3万人いるという。
 セーラの仲介で裁判を見学させてもらうことになったが、じつは裁判は治安判事裁判所も刑事裁判所も未成年を裁く裁判以外は、かってに入っていって見学できるという。私が見学した治安判事裁判所は、3人の素人の裁判官が壇上におり、その下に法律的なポイントについて助言をする司会役の専門家が座っていた。この司会役は多くは新人の司法修習生が勤めるという。ケンブリッジの治安判事裁判所は街の中心街にある駐車場の上階にあり、駐車場の階段をのぼっていくと、殺風景なうちっばなしのコンクリートから急に絨毯をしきつめたホテルのような高級感のある一角が現れる。そこが裁判所となっていた。この日見学した裁判は危険な運転、アルコール中毒らしき人の公衆猥褻罪、そして兄弟喧嘩のあげく止めに入ったガードマンにかみついて傷を負わせたという3件だった。最初の被告人はなんとか刑を軽くしようと高いお金を払ってロンドンから弁護人をよんだが、結局刑事裁判所へ送られることになった。治安判事裁判所では6ヶ月の懲役以下の判決しかだせないので、それ以上であると判断されると刑事裁判所にまわされるのだという。2番目と3番目では、ぱりっとスーツを着こなした若い法律専門家と、よれよれの服を着た被告人の対比が際だっていた。色んな人生があるなあ、と思わせる裁判所見学だった。
 しかし、おもしろいのは、日本とイギリスでは裁判に対する考え方が全く異なっていることである。日本では司法といのは専門知識をもった専門家が扱うもので、イギリスのように市民が互いに統制して自らが社会やコミュニティを保つという市民意識は希薄であろう。そのため、市民が同じ市民を裁くという陪審制も日本では根づかなかったのではないだろうか。(日本では陪審制は大正12年に陪審法により存在したが、制度上不備があって十分に機能せず、昭和18年に停止措置がとられたという。)これは、イギリスでは頻繁にまわってくる募金やチャリティへの個々人の関わり方とも通ずるものであろう。もちろん、すべての人がセーラのように考えているわけではないだろうが、イギリスにきてはじめて「社会」の成り立ちの違いというものを実感した。これはタイでは感じなかったことである。タイはむしろお上と村人との溝は深く、裁く者と裁かれる者、支配する者と支配される者は敵対的といってもいいくらいだ。村人の中から今でこそ、教育をうけ警官や役人になる子弟がでてきているが、かつては役人は畏れの対象であり、そうした意識は今でも続いている。
 
6 City Church
 イギリスにきて、思わぬことでキリスト教の教会に頻繁に出入りすることになった。子供を平日はジョアンナにあずけることができたが、週末は一人で相手をしなければならない。冬になってくると、外は寒くて行くところも限られる。友人宅も、家族水入らずのところをあまり週末にじゃまするのも悪いとあって、キリスト教徒でもないのに毎週のように、日曜日には教会に通うこととなった。教会には家族で来る人も多いので、多くの小さい子供・Bもくる。そこで、説教の間親がゆっくりきけるようにと保育室がもうけられているのである。息子にしても、そこにいけば多くの同年代の子供に会うこともできるし、おもちゃもたくさんあって、家で母親と二人でいるよりは気晴らしになっていいだろうと、寒風のなか、自転車の後ろに息子をのせて教会に通った。
 その教会はCity Churchという名前だったが、教会の建物をもたず小学校の校舎を借りて礼拝をしていた。ペンテコスト派の教会で、ギターやピアノの演奏にあわせて立ち上がって体を揺らして賛美歌を歌い、体と心で精霊を感じるよう奨励していた。初めて行ったときに、突然何語がわからない言葉しゃべり始める人がおり、そのあとそれをうけて英語でしゃべる人がいた。何を話しているのかをときくと、はじめの人は精霊の言葉をしゃべり、次の人はそれを翻訳したのだという。翻訳とは心で感じてそれを言葉にすることで、誰でも精霊を感じることのできる人は、翻訳ができるのだという。そもそもその教会へは、ケンブリッジについたとき契約していた家に移るまで一週間ほど泊まっていたB&B(朝食つき民宿のようなもの)のオーナーにつれて行ってもらったのだ。はじめは、もっていたキリスト教のイメージとあまりに異なっていたので驚いたが、それがイギリスの一般的な教会だというわけではないらしい。その教会は30年位前にバーミンガムで始められたという新しい派で、特定の牧師といった人もいない。ただ、代表者はいるが、彼とて他の人々と異なった宗教的立場にあるわけではない。教会の活動は日曜日の礼拝以外に、セル・グループといって住んでるいる地区の近くで小グループを組み毎週一度夕方に集会をもつ。
 この教会で、息子のベビー・シッターをしてもらうことになった12歳からイギリスで育った日本人学生のルツコさんと知り合った。彼女の名前は新約聖書のルツキ伝からとったそうで、彼女の両親もキリスト教徒だが、2年前に自分の意志で洗礼を受けたという。いつも奉仕精神にあふれ、Ph.D論文で忙しい中できる限り息子の面倒をみてくれた。彼女のボーイ・フレンドである中国系のアンディもイギリス育ちだった。ここの教会では、毎週熱心に教会にくる若いカップルは、教会活動を契機に知りあって一緒になったという人が多いようだった。アンディに、なぜキリスト教徒になったのかときくと、「それは自分にとっては自然な(natural)ことだった」と答えた。
 ちょうど私が日本に帰国する少し前にこの教会から3人の洗礼式があった。City Churchは教会をもっていないので、ペンテコスト派の別の教会を借りて行なった。祭壇の前の床がくりぬかれていて、そこにプールのように水をはり、服を着たまま介添え人に支えられながら仰向けに全身をざぶりと水につけるのだ。3人のうち一人はイギリス人、もう一人はイギリスにもう10年以上すんでいる中国人、そして半年の予定で語学留学にきて洗礼式の翌日には帰国するという日本人だった。日本人の洗礼者はまだ20歳代前半の若い女性だったが、彼女はキリスト教の家庭で育ったわけではないが、子供のときから神の存在を感じており、それがここでキリストであるとわかったという。彼女にとっても、キリスト教徒になることは自然なこととして感じられているようだった。
 私の調査地である南タイは、ムスリムと仏教徒が混住している地域であり、また自分が葬式と法事の時くらいしかお寺にはいったことがないとはいえ一応仏教徒の家庭で育ったため、仏教徒(上座部及び大乗)とムスリムの生活はある程度見当がつくが、キリスト教の教会とは今まで縁がなかった。イギリスにいたからといって、イギリス人皆が熱心なキリスト教徒であるわけではない。私が仏教徒であるというのと似たようなキリスト教徒の方がむしろ多いだろう。しかし、期せずして教会にかようことになったことは、ある意味では、なぜ自分が宗教をテーマに研究をしているのだろうという問いを含め、漠然と自分が求める「宗教性」とはなんであろうという問いを相対化する契機になりえた。今までの私の調査の姿勢は、宗教を持たない自分と宗教をもつ調査地の人々というある意味でオリエンタリスティックな二項対立的な視点を無意識のうちにもっていたような気がする。じつは自分の中にも「自然に」受け入れている「宗教性」のようなものがあるのではないだろうか。しかし、その「宗教性」とは何であるのか。この問いには未だ解答がでない。それはもしかしたら、自分の生とはなんであろうかといった、はっきりとした解答など一生でないものかもしれないという気もするのである。こうしたことを考えさせてくれ、様々な問いを投げかけてくれたイギリス滞在もまた、私にとってはフィールドすなわち「現地」体験であったと思うのである。