「村の企業家―プラノーム先生」(『通信』1999年 第85号)
 
 タイの村に入った日に、小学校の教室から持ち出した机と椅子を校庭に並べ、手料理とビールで歓迎会を開いてくれてのが村の小学校のプラノーム先生だった。その時、臨月だったプラノーム先生の妻のペンは、翌日産気づいて病院へ運ばれ、双子の女の子を生んだ。これでプラノーム先生は長女と合わせて3人の女の子の親となった。今ではその子達が小学生になっている。(ちなみに、ペンは村のムスリムの娘だったが、仏教徒のプラノーム先生に従って仏教徒になっている。村はムスリムと仏教徒が半々で混住し、通婚もよくみられる。)
 プラノーム先生の趣味は広く、何でも器用にこなす。趣味の一つが狩猟であるが、村の回りのマングローブの森に、そこへ流れ込む細い水路をつたって小船で分け入り、猪やサルを撃つ。私も友人が日本から来ると、よくこの森の狩猟に連れていってもらったものだ。捕れた獲物は、自ら解体して料理をし、友人達に振る舞う。料理の腕がまた絶品である。私がタイに留学して今までに食べたトム・ヤム・クンの中でも、プラノーム先生が作ってくれたものが最高だと今でも思っている。その料理の腕を買われて、村人の結婚式の料理人を頼まれることもよくある。また、プラノーム先生はとても達筆である。仏教徒の村人の葬式には、棺桶に死者の名前と年齢を書くのであるが、葬式の度にいつもプラノーム先生が呼ばれ、棺桶の飾り付けを担当することになる。
 プラノーム先生の器用さを示すこんな話もある。ある時、村長の水牛が産気づいたが、逆子だったため後ろ足が半分くらい出てつかえてしまった。村長は村中を走り回って助けを求め、ついに村の産婆まで呼んだが、彼女も水牛の助産には後込みしてしまった。水牛の周りを村人が7ー80人も取り囲んで見ていたが、そこに向かって村長は「誰でも助けてくれたら、500バーツ(現在のレートでは1バーツ=4円位)出す」と叫んだ。なにしろ、水牛1頭は8000バーツはするのだ。そこで進み出たのがプラノーム先生だった。プラノーム先生は、水牛のお腹の中に後ろから手をつっこみ、子牛の前足を掴んで引きずり出した。子牛は死んでしまっていたが、母牛は助かった。母牛はその間、自分を助けようとしているのを知っているかのように、暴れもせずじっとしていたという。村長は約束通り、お礼の500バーツを払った。その金でプラノーム先生は西瓜や酒を買ってみんなに振る舞った。ところが、この事件が思わぬところで波紋を及ぼした。村の小学校では、2カ月ほど前から、先生が交替で給食の調理当番を勤めていた。給食といっても、食べたい生徒が1食5バーツで買うのである。プラノーム先生の担当は金曜日であったが、いつも美味しいと評判で週の中でも一番の売り上げであった。ところが、水牛の出産事件以来、金曜日の売り上げががた落ちになってしまった。月曜日から木曜日まではよく売れているにも関わらずである。当分の間、同僚の先生達でさえ、水牛のお腹の中に手をつっこんだプラノーム先生の料理を食べるのを気色悪がっていたという。
 1990年に村を再訪した時には、プラノーム先生の様子がおかしかった。いつもなら、話好きで喜んで私の話し相手をしてくれるのに、少し会いに来てくれても、すぐに落ちつかない様子でどこかへ行ってしまう。村人の話によると、驚いたことにプラノーム先生はカードの賭事に夢中になってしまって、10万バーツ以上の借金を作ってしまっているという。村の中では毎日のように集まって賭事をしている人々はいるし、仏教徒の葬式ともなればムスリムも仏教徒も混じって一晩中トランプや札の賭事に興じる。しかし、今までプラノーム先生が参加しているのは見たことがなかった。私と話していて落ちつかなかったのも、賭事がしたくてたまらず、そわそわしていたのだ。私は、あの陽気で親切なプラノーム先生の変わりようが残念でたまらなかった。後にプラノーム先生自身振り返って、あの年は自分の人生の中で最悪だったと言っている。自分ではどうしようもなくなり、隣の県に住む親が生計をたてているゴム園を抵当に借金を肩代わりしてくれた。そうなってはじめて、プラノーム先生は賭事を止めることができた。それまでは妻が泣いて頼んでも、誰が何を言っても聞き入れることができなかったのだ。借金を返すため、プラノーム先生一家は勤務先の村の小学校からは2時間もかかる親元に引っ越した。先生は朝3時に起きてゴムのタッピングを済ませて出勤し、妻のペンはお菓子を作っては1個1バーツで近所に天秤棒でかごをかついで売り歩いた。長女にも、お菓子を学校へ持っていかせて売らせた。その後、無事に借金を返し終えて一家は再び村に帰ってきた。プラノーム先生はもう賭事はこりごり、絶対にしないという。
 1994年に再び私が村を訪れた時には、プラノ・[ム先生は村にはいなかった。10キロほど離れた別の村に、エビの養殖をするために転任願いを出して移住していた。南タイでは、1990年前後にエビの養殖ブームが始まった。日本が主な輸出先であるブラック・タイガーである。エビの養殖は大量の栄養剤や飼料、病気を防ぐための化学物資を投入するため、それらがヘドロ状に堆積し、土地は5年から10年で使い物にならなくなる。しかし、今までにない莫大な収入を得られる可能性があるため、村でも土地をもっている人や、借金ができる小学校の先生のような公務員や村長はいち早くエビの養殖事業に乗り出した。調査村の小学校教員10人のうち3人がエビの養殖をしていたが、プラノーム先生の移住先の小学校では半数以上にのぼるという。1994年には、村近辺の景観も劇的に変わっていた。かつて田圃であったり、ゴム園であったりしたところは、ことごとく掘り返されてエビの養殖池になっていた。以前は街頭など無いため夜は真っ暗だった村が、養殖池の電灯で皎々と一晩中明るくなった。しかし、村人にとってはエビの養殖は環境破壊の心配よりも、人生をステップアップする大きなチャンスと映る。しかし、これは逆にいうと、莫大な借金(公務員の給料では100年かかっても払いきれないほどの)を抱えるかも知れない危険を伴う賭でもある。エビの養殖のための飼料、水を入れ替えるモーターのガソリン代などすべて前借りで、エビを売ったときに返済することになっているのだが、エビが病気などで大量に死んでしまったりすると、借金だけがそのまま残ってしまう。
 プラノーム先生を移住先の村に訪ねていくと、養殖池の側に小屋を造って住み、ペンと共に見回りをしたり、餌をやったりしながら、もうすぐ水揚げだと生き生きと働いていた。(タイでは、給料の少ない公務員の内職は当然のことである。)プラノーム先生はすでに2回水揚げをしたが、いずれも赤字で、借金は100万バーツを超えているという。それでも、今はかつて賭事で10万バーツの借金をした時のように怖くはないという。上手く行けば、1回の水上げて借金を返済できる希望がある。「もし100万バーツ儲かったら、ペンと日本へ遊びに行くから」と言う。プラノーム先生は、エビの養殖ブームに翻弄されつつも、新しいことにどんどん挑戦していく、村の企業家なのである。あれから1年。私は、1週間後には再び南タイの村にいることだろう。そして、またプラノーム先生にも会えるだろう。願わくば、プラノーム先生の借金が減っていますように。自分の無力さを感じながら、せめていつか日本を案内してあげることができることを心から祈っているのである。