チベット文字転写から見た西夏語の声調
−死言語の声調研究とその問題点−

荒川 慎太郎



 11世紀から13世紀、中国西北部で栄えた西夏王国の言語、西夏語の声調を考察の対象とした。西夏語文献にはチベット文字による音転写資料(夏藏対音資料)が少なからず存在する。発表者は、サンクトペテルブルグ東方学研究所所蔵の夏藏対音資料を中心に、チベット文字による音転写から判明する西夏語の声調を考察した。

 西夏語の声調には平声と上声があると、韻書にも区別されて記されていたが、発音・調値に関する西夏人自身の具体的な記述は見つかっていない。また従来の研究では、声調の具体的な調値は十分検討されてこなかった。

 発表者の調査によれば、夏藏対音資料では、西夏語の初頭子音がチベット文字C1C2-で転写されることがある。しかし、このC1-が西夏語の子音結合を転写したとは考えられない。

 チベット語の諸方言は、通時的変化のある段階で、先行子音C1-の音価を失い、代わりに声調の対立が生じたことが知られている。夏藏対音資料を記した当時のチベット語方言で、先行子音の音価が失われ、声調の区別が生じたことは十分考えられる。ゆえに、チベット文字C1-は西夏語音節の声調の相違を表したと推測できる。

 チベット語ではC1-が付加された際、鼻音・流音は高声調になるため、チベット語の鼻音・流音系列の文字で転写される西夏語音節を調査した。

 西夏語の鼻音・流音を初頭子音に持つ音節に関しては、転写するチベット文字にC1-が付加される場合は平声であり、付加されない場合は上声である場合が多い。すなわち、西夏語の平声音節は高声調で、上声音節は低声調で表されているということになる。さらに西夏文字の平・上の意味から考えれば、平声は高声調で始まりそのまま平板な型の高平調、上声は低声調で始まり上昇する型の低昇調と推定できる。

 以上の考察により、西夏語の平声は高平調であり、上声は低昇調であることを主張した。