東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所
共同研究プロジェクト

修辞学の情報学的再考

last updated 2006/04/03

研究計画概要

 古典修辞学の諸部門の中で19世紀まで存続したのは「表現法(elocutio)」のみであるが,20世紀半ばから始まった修辞学の復権は表現法を,テクストを構成する諸要素間の範列的及び連辞的関係におけるコード変換技法として,実体的な要素単位に対して直接作用する操作であると見なすに至っている。
 本プロジェクトは言語表現,音楽表現,映像表現,身体表現等の作り手,またそれらの表現を分析している研究者を共同研究員及び研究協力者に加え,芸術の美的価値をある構造の関数として記述するという,一元的な芸術=形式論に基づく「形式的構造の研究」としての一般修辞学を情報学的に考察することによって,様々な形式を持つ言語文化情報に遍在する修辞学的技法のレパートリーに関する実践的かつ汎用的な計算モデルの構築を目的とする。

共同研究員

    青柳 悦子: 筑波大学現代語・現代文化学系・助教授
    石井 満: 尚美学園大学・芸術情報学部・助教授
    宇佐美 隆憲: 東洋大学・社会学部・教授
    内海 彰: 電気通信大学・電気通信学部・助教授
    小方 孝: 岩手県立大学・ソフトウェア情報学部・教授
    金井 明人: 法政大学・社会学部・専任講師
    上村 龍太郎: 東海大学・総合情報センター情報処理研究教育施設・教授
    佐藤 みどり: 電気通信大学・電気通信学部・非常勤講師
    徃住 彰文: 東京工業大学大学院社会理工学研究科・助教授
    永崎 研宣: 山口県立大学・大学本部情報化推進室・助教授
    永野 光浩: 作曲家・名古屋芸術大学・音楽学部・非常勤講師
    難波 雅紀: 実践女子大学・文学部・教授
    西尾 哲夫: 国立民族学博物館・研究戦略センター・助教授
    平井 覚: 鳥取大学教育・地域学部・助教授
    堀内 正樹: 成蹊大学・文学部・教授
    松本 みどり: 番組制作フリーディレクター
    水野 信男: 兵庫教育大学名誉教授
    良峯 徳和: 湘南国際女子短期大学・国際ビジネス学科・助教授

研究会履歴

平成13年度第1回研究会(平成13年7月1日)

報告1「プロジェクトの趣旨について」小田淳一(AA研所員)

 本プロジェクトは限定された地域あるいは特定の学問分野を取り扱うのではなく「修辞学」という,現在では文体論や記号論にその痕跡を残す巨大で豊穣なシステムの再考を情報科学の援用によって行うことを目的とし,今年度より5年間継続して行う予定である。
 アリストテレース以降の西洋古典修辞学の諸部門は,修辞学の力点が説得の術から美的価値へと移動したことにより,発声,記憶,発想,配置の順に消失し,19世紀まで辛うじて残ったのが表現法(elocutio)である。 表現法が生き残った理由の一つは,対象の過剰拡大(修辞的技法に対する修辞学者たちの命名癖や分類癖)という時代の嗜好に合致したことであるが,これもまた修辞学の全般的な衰退に寄与することとなる。修辞学衰退の他の理由としては,芸術作品とは天賦の才能によって不合理に産み出されるものであってあらゆる「規則」を超えているとするロマン主義の台頭も勿論含められるべきであろう。一方で20世紀後半から始まった修辞学の「復権」とは,修辞学の対象であったものを現代言語学が再び取り上げたことによって見出された,種々の資産についての再利用可能性の総体を指すものであり,グループμの『一般修辞学』はその成果の一つであると言えよう。
 本プロジェクトが修辞学の正統的な後継者である文体論ではなく敢えて「修辞学」を扱うのは,まずジェラール・ジュネットによる次のような修辞学の定義が持つ,対象としての展性の高さに着目するからである。「一般に修辞学と言えば,慣用では軽蔑的な共示をとり,現実態では空虚で誇張した饒舌の類義語,言説の理論では衒学的な規則の厳密なシステムの類義語と見なされる」。これに加えて,文体論は「話者/受信者/指向対象」の間の関係も当然扱うが,本プロジェクトはそれらは扱わず,実際上は「文彩」 figure と呼ばれる技法(の言わば情報学的側面)のみを扱うため,旧修辞学と取り扱い対象がほぼ一致していることにもよる。
 本プロジェクトの具体的な目標は,文学,音楽,映像,身体,その他,媒体を超えたテクストにおいて用いられている文彩を集積・対照・分類・還元し,言わば汎−修辞技法のレパートリーを作成することに他ならない。そのための現実的な作業行程としては,まずテクスト構成要素の画定から始め(例えば通常の言語テクストの場合,大きな単位から順に,文,連辞,形態素や語,孤立した音や文字という次元に区別される),次いで要素間の相互関係(二項関係)の同定(例えばジャック・デュランによる同一性,類似,差異,対立),さらにそれらの相互関係を成立させる操作の種類(例えばジャック・デュボワによる付加,削除,置換,換位)を規定することとなる。要素単位間の「結合関係の所産」としての文彩は一般に「距たり」,規範に対する「偏差」,正常な基本表現の変形と定義されるが,どれが規範=常態で,どれが偏差=非常態であるかを捉えるのは困難であり,規範(ゼロ・レベル)の定義は現段階では保留せざるを得ず,本プロジェクトは実体的な要素単位に対して直接作用する操作としての技法を,情報科学を援用して走査することを当面の作業とする。
 ここでの情報科学の援用は,テクストの媒体が何であろうと要素単位の位置と大きさが画定できれば(切片化可能性)文彩が範列軸び連辞軸によるマトリクス構造で記述することが可能であること,また,二項関係がある程度までは計量的に測定可能であることによるものであるが,さらには, 種々の操作(付加,削除,置換,換位)を関数と見なした場合,美的価値がある構造の関数として擬似的にせよ記述できることにもよる。従って情報学的修辞学の最終目標は,テクストの要素単位に対して行われる操作から特定の機能[=関数]を予測することに他ならず,またその一方で要素単位を究極まで分節した地点から文彩再構成の模倣的再現を試みるという詩的機能をも視野に入れたものであり,そのために本プロジェクトでは様々な表現の送り手も共同研究員に加えている。

報告2「スポーツする身体の獲得−技術から技能への循環過程−」宇佐美隆憲(AA研共同研究員・東洋大学社会学部)

 本報告は,スポーツができる「身体」を取り上げ,どのような過程を経てスポーツする身体を獲得するに至るのかを「技術」と「技能」に注目することで明らかにしようとするものである。そもそも「スポーツする身体」とは,あるスポーツの共同体内部に参入し,一定のコミュニケーションによって,スポーツができるための身体の知識を能動的に獲得することで構築された身体のことを言う。この身体の獲得にあたっては「技術の伝承」という行為が中心となるが,そこには非−言語的な「身体知」と言語化可能な「知識」といった質の異なる技術情報が存在し,技術の伝承はこの両者の情報伝達を通して形成されていく。しかしその一方で,技術を伝承していく実際の場では,必ずしもこれらの技術情報が速やかに伝達されているわけではなく,例えば,武術などの伝統的なスポーツの教授場面では,事細かに学習者に指導をせず,また,学習プログラムもいわゆる難易度を考慮することなくまず模倣から始まる。この点は,指導者の与える技術が学習者に定着するという近代スポーツの教授場面とは明らかに異なっており,伝統的なスポーツ場面では技術の習得が学習者の積極的な解釈によって創り上げられてゆくという特徴を持っている。
 このように技術が定着していく身体の動きは,その後,合理的で経済的な滑らかな動きとなっていくが,その中で本人に最も適した動きが模索され,獲得され,徐々に個人独自の技能が創り上げられていくのである。しかしながら,獲得された技能が今度は他者に伝達される過程においては,その動きの核となる基本的な動き,つまり「技術」のみが伝授されていくことになる。以上述べてきたように,スポーツする身体は,技術から技能への循環過程を経て構築されていくことは明らかであるが,身体の動きを獲得しそれを自己の中に定着させていく中では,同じものが伝承されても学習者の積極的な解釈によって,自らに適合させるためにまったく異なる動きが生み出されることもしばしば起こり得る。また,共同体内部において,動きを想起させると共に動きの背後に存在する技を指示するための共同体特有の「技言語」が,高次のコード解読者,つまり共同体内部により深く関わっている者の間でより具体性を帯びる傾向にあることは,技術情報の伝達における修辞的側面の一つとして注目に値する。


平成13年度第2回研究会(平成13年11月10日〜11日)

報告1「修辞的技法体系としての物語生成」小方孝(AA研共同研究員・山梨大学工学部)

 本報告は,認知・計算科学と文学研究その他を融合した「物語生成」の体系的な研究についての方法と試みについて述べたものである。物語内容と物語言説はその両者とも計算的なシステム構成の見地から,関数的な技法の体系として把握・モデル化することができる。この技法のことを修辞若しくは修辞的技法と呼ぶことが可能であり,物語生成のモデル化をこの修辞的技法体系の構築の問題と見なして研究を進めている。従来,物語の理論的研究は,文学,社会学,民俗学,文化人類学,認知科学,人工知能,マーケティング論等の領域で個々ばらばらに行われていたが,本研究が立つ修辞(的技法)中心的な物語編成原理を立脚点とすることによって,新しい統合的且つモデル論的な物語論(ナラトロジー)が可能になる。
 物語生成研究を進めるに際しての幾つかの基本的方法の中でまず挙げられるのは,物語構造の表現方法に関して,物語を,事象節点を末端とし事象結合関係節点をその他の節点とする構造表現として記述できること,また,その生成と変形によって物語生成過程を定式化できることである。次いで,文学理論において提唱されてきた様々なアイデアを,文学現象の諸側面をそれぞれの観点から考察する融和可能なものとして物語の修辞的技法モデルの中に生産的統合を図るための概念としての「拡張文学理論」,また,様々なジャンルに渡る物語を単に様々なジャンルがあると言うだけでなく,ジャンル間の相互関係を一つのモデルとして表現することをめざす「多重物語構造モデル」である。
 これらの理論及びモデルから導き出される実践的な作業には,Proppの研究に基づく物語生成システムにおける物語内容生成部分の実験として既にLispプログラムを実装した物語内容自動生成システムのさらなる拡張,また,Genetteによる物語言説に関する体系的研究に基づき,物語内容の部分を引数とする関数と見なし得る修辞的技法の体系として形式的再編を行う物語言説自動編集システムの開発などがある。

コメント:青柳悦子(AA研共同研究員・筑波大学現代語・現代文化学系)

 文学研究史上,この種の研究は所謂構造主義的文学理論の延長線上に位置するものである。これらの研究が作品解釈という文学批評の至上命題によって発展を妨げられてしまったのに対し,既存の諸文学理論を文学生産の理論として位置付け直す小方研究は,一般文学理論本来の可能性を追求する道を実践的に切り開くものであろう。認知科学とコンピュータを導入した文学の生産メカニズムの研究は,古代ギリシアのアリストテレースの試みを現代において実現する最も適切な方法であると考えることもできる。その古代ギリシアにおいて修辞学が元来は弁論術であったように,修辞学とはまさに,言語活動のメカニズムを生産と効果の理論として定式化する試みであり,この観点からすれば,物語の「修辞学的」研究とは,テクストに現れる個々の技法や表現の美質について論じる研究ではなく,人間の物語能力を原理的に解き明かし,物語認知及び物語効果の基本条件を確立する試みのことであると言えよう。
 こうした原理的・一般的物語理論の探求とその実践的応用によって,人間の多分野にわたる物語活動が横断的に接続される可能性がある。何故ならば,小説や文学といった概念に比して,「物語」は圧倒的に高い越境的性質を内包しているからである。人間にとって不可欠であり,また強力に機能するこの生産装置(=物語)についてその本質的特徴を規定する試みである小方研究は,人文学研究の領野から見ても,領域横断的な新次元を切り拓くものとして期待される。

報告2「映像修辞と認知」金井明人(AA研共同研究員・日本学術振興会特別研究員/山梨大学工学部)

 映像の分析に際しては,送り手/受け手のどちらの視座に立つかという選択に加えて,映像のメディアとしての性質自体を重視する立場もある。また,映像を媒介とする送り手と受け手のコミュニケーションは認知的効果に基づいて成立することから,映像分析では認知過程に基づく議論が不可欠であり,本報告はこの観点から,上記の三つの立場のそれぞれについて,映像修辞と認知との関係を,広告映像やEisensteinGodardなどの作品を例として取り上げ,論じたものである。映像の修辞とは一般に,送り手のある目的に基づく映像技法の組み合わせを指し,送り手は, ある認知的効果を達成するために映像の修辞を構築する。従って映像修辞はまず,認知的効果の発生要因の差異によって分類されることになる。特に,映像修辞と物語内容(顕在的または潜在的な作品上の出来事の全て)との関係が編集の観点から分類され,次いでそれぞれの修辞における受け手の認知の傾向を論じることが可能となる。一方,認知においては,物語内容から意図的に離れると適切にアクセスできない映像が一般に多いため,受け手が映像にアクセスする際に行う,物語内容に関連する「事象」への「視点設定」,また物語内容の表象を目的としない修辞に対応した認知を行うための,映像認知プロセスにおける「物語内容理解に関する制約」の緩和,という2点が注目される。

コメント:松本みどり(AA研共同研究員・番組制作ディレクター)

 ドキュメンタリーや報道番組の制作ディレクターとして,現場での作業を見直してみると,映像における修辞と認知という観点は余り意識されておらず,無意識に作業が進められている場合が多いようである。「観てもらえる」番組になるかどうかの判断基準には,テーマ,登場人物や対象・事象の性質,また映像としてどのような事象が撮れるか等々があり,本来ならば個々の基準について認知的効果を考慮すべきであるが,映像として如何に効果的に見せるかが作り手にとって最も重要である。
 例えば,取材方法によって認知的効果は大きく異なるし,タイミングや場所によっても印象は違ってくる。一方ドキュメンタリーや報道のように,作り手の意図とかけ離れたところで様々な出来事が進行することが多い場合は偶然性に頼る部分がかなり大きく,偶然の出来事が受け手に効果的に認知されるかどうかは,カメラワークや編集次第であると言えよう。カメラワークに関しては,ドラマやコマーシャルのように全てが作り手の制御下にある場合以外は瞬時の判断が求められるため,カメラマンの感性に頼る部分がどうしても大きくなる。取材方法や撮り方以上に認知的効果を左右するのはやはり編集であろう。金井報告で挙げられた修辞タイプの様々な組み合わせによって,同じ内容でも全く違った認知的効果を与える作品を産み出す可能性があるものと思われる。

報告3「運指法の修辞的側面について」小田淳一(AA研所員)

 演奏に指を用いる楽器(本報告は鍵盤楽器のみを対象とする)の奏法における「指の運び」である運指法(通常は数字を用いて指示される)は,基本的にはフレージング(旋律をフレーズに分けること)及びアーティキュレーション(各音の切り方,次音との続け方等,フレーズより小さな単位の扱い)によって決定される。但し,両者は対象となる要素単位の次元が異なるものの,実際の演奏解釈上は当然不可分の関係にある。16〜17世紀の運指法は楽器構造の違いから現代とはかなり異なるものであったが,その後様々な運指法が考案され,ハンマー・アクション・ピアノの出現を経て,現代の運指法の基本は「5本すべての指の均斉性」である。つまり,楽曲の複雑化が運指法の単純化を引き起こすのであり,これは【「単純/複雑」なデータに対する「複雑/単純」な処理】という情報科学の基本的概念と共通するものである。
 一方で,同一楽曲の運指法が,指の均斉度が最適化されている専門的演奏家によって異なるという現象が存在する。これは,どれが規範=常態で,どれが偏差=非常態であるかという修辞学的アプローチを可能にさせる課題でもある。本報告ではBeethovenのピアノ奏鳴曲No.23(Op.57)第3楽章第20-21小節における右手フレーズ(15音)の運指法を,様々な校訂者及び演奏家の実際の運指データ11種の比較から分析することを試みた。
 分析に際しては,運指データを文字配列に読み替え,タンパク質配列を解析するゲノム情報学のツール(アライメント[整列]と木構造可視化)を用いた。アライメントの解及びグルーピングの過程を表す系統樹,進化系統樹,系統樹の根=祖先を特定しない無根系統樹等の出力結果の分析から幾つかの有用な情報を得ると共に,要素単位の画定を多次元化する必要性,運指とペダリングとの密接な関連,主題の敷衍過程の解釈が運指に与える影響等,計量的分析の限界を越えた相補的分析の必要性が確認された。

コメント:永野光浩(作曲家)

 本コメントは,鍵盤楽器の運指法とある意味では対照的な,撥弦楽器(ギター)のコードの抑え方と作曲との関連について,ビートルズのYesterday を対象とする事例報告である。曲冒頭の転調部分(ヘ長調からニ短調)に介在するコードEmは和声進行上極めて異質な和音である。何故ならば,ヘ長調及びその平行調ニ短調においてEを根音とする固有和音はコードEm(♭5)であり,用いられているEmは和声法においては,ヘ長調では変位VII,ニ短調では同主IIという高度で複雑な和音である。一方,Em(♭5)そのものはギターではごく稀にしか使われないコードであり,これに対してEmはごく普通のコードである。このことより,名曲とされるYesterday 冒頭の印象的な転調における,唐突とも言えるEmの出現は,Em(♭5)を知らない作曲家がギターを用いて作曲した際に,コードFに「位置的」に最も近いEmに無意図的に連結させたという,コードの「抑えぐせ」によるものと結論づけられる。


平成13年度第3回研究会(平成14年3月3日)

報告1「修辞理解機構を構成する審美感情群」徃住彰文(AA研共同研究員・東京工業大学社会理工学研究科)

 認知パラダイムと文学/芸術研究の関わりにおいて「修辞」は文学を語るための諸概念の一つである。例えば,審美的人工物の下位階層としての文学に対する感情群には,物語内容の認知によって喚起される感情(物語的感動)である内容駆動的感情の他に,作品オブジェクトの質によって喚起される感情=審美的感情(aesthetic emotions/審美的感動)である修辞駆動的感情が明らかに存在する。  ここで,審美的感情の諸部門には評価と行為の二つのレベルが考えられる。まず,審美的感情の認知評価(appraisal)に関わる部門としては,質の認知/記憶/能力認知/主体性の認知,のそれぞれに関わる要因,また,審美的感情の行為準備(action)に関わる部門としては,所有/再体験/創造/伝道,のそれぞれの動機性,並びに,秘密維持性/認知停止性が挙げられる。この認知評価部門において,例えば質の認知に関わる要因のうち鑑賞者が持つ完全基準や,挑戦/破壊基準への到達度によって,審美的感情を「完全性価値」や「新奇性価値」の記号計算へと分解し得るのである。
 認知脳科学では構造レベルの変動が機能レベルのそれと等しいとされるが,人工脳の設計原理である,機能単位と脳の構造の一致を斟酌すれば,機能を扱う側(心の科学)から構造を扱う側(脳の科学)への脳の仕様の記述を提出するというアプローチも考えられる。一次感情である情動システム(報酬系,罰系,覚醒系,怒り系)及び二次感情である感情システム(情動システム+認知系(対人認知,目標認知等))という機能レベルから構成される,感情のための人工脳における設計原理に対し,修辞理解を包含する審美感情を並存させることにより,文学的高次感性(理解/鑑賞/審美)のための人工脳の設計原理への拡張が可能となろう。

報告2「テレビ音楽番組の撮影技法考察−軽音楽演奏のカメラワークとスイッチングを修辞的観点から−」石井満(AA研共同研究員・尚美学園大学芸術情報学部)

 テレビジョン放送における歌謡番組の撮影技法では,歌手などがスタジオで演奏,歌唱する様子を様々なカメラワークを駆使して撮影する独特の表現方法が採られている。これらの撮影技法は主として,複数のカメラが捉える個々のショットとそれらを連続的に切り替えるスイッチングによるものであるが,特徴的なカメラワークとしては,移動撮影やフォーカステクニックなどの多用が挙げられる。また,構図のバリエーションについても,被写体の大写しであるアップから空間の方を強調した遠景まで,アングルと被写体の画面配置によって変化がつけられている。さらに,画面切り替えについては,ディゾルブ(オーバーラップ)が頻繁に用いられることや,短いカットが連続するケースなど印象の強いショットの接続が特徴である。これらのカメラワークが持つ個別的な機能は,単純な視覚的変化や被写体の美化,あるいは緊張や情緒の高揚など心理的な変化の表現であるが,いずれも要所で変化や強調を行うための技法とされており,通常ドラマなどの撮影では,安易に繰り返して用いられることはない。歌謡番組の撮影技法として何故このような映像のコンテが採られているのであろうか。
 一般に,映像におけるショットとその連なりであるコンテは,制作者の意図に適うと同時に被写体を積極的に見たいと欲する視聴者を満足させるべきものであるが,独特の撮影技法が用いられる音楽番組においてもそのことは当然あてはまる。音楽番組における一連の映像表現の核は,素材である音楽の進行をベースに,主たる被写体である歌手及び歌手によって音楽に込められた感情を効果的に捉えることであり,その効果は用いられる個々の技法の機能や構図の意味を楽曲の分析と対比させることによってより的確に把握出来ると言えよう。
 本報告は,音楽番組の一つの楽曲を事例として楽曲分析と撮影技法の分析を試みたものである。その結果,音楽の進行と歌手の心情の表現に同期した形で,以下のような撮影技法が用いられていることが分かった。まず,楽曲の序奏部のカメラワーク,特にファーストカットでは,音楽の非在状態を遮断して歌の世界に導入できるように,情緒的なイメージを喚起したり,逆に錯覚を引き起こす目的で,構図などにある種の非日常性が強調されている。Aメロ(第一旋律)部分では,比較的単調な音楽の展開にトラック(カメラの横方向の移動)を中心としたカメラワークが緩やかな視点変化を伴わせ,その後音楽が徐々に高まるにつれて速度のある移動ショットを用いながら,クライマックスでは歌唱する被写体の表情をアップショットによって十分に見せるに至る。
 音楽番組はメインとなる被写体が明示されており,その高揚した表情を捉えるために「寄り」のショットの多用が求められている。また,緊張感の高まりや心情の高揚など音楽の情緒をカメラワークで表現する際,対象への接近スピードが重要な要素となっており,ロングからその最高潮であるクローズアップへと向かう動きが繰り返される。これらの単調な反復の冗長性を緩和させているのは,異なったレベルの技法である,多彩なアングルの活用と印象的なショットの接続であると考えられる。

 


平成14年度第1回研究会(平成14年7月13日)

報告1「Blues "Feeling" and Blues Form: Social Experience and Musical Affect as Components of Musical Structure」Susan Oehler(研究協力者・日本学術振興会外国人特別研究員・AA研)

 本研究の目的は,社会的体験が音楽形式の中心を成すという前提から,ブルースの「フィーリング」を民族音楽学的アプローチによって分析することにより,形式構造の学術的定義を導き出すことにある。ブルース・フィーリングとは幾つかの先行研究においては,苛酷な社会的コンテクストに対する黒人の反応=隠喩,あるいは,カタルシスをもたらす情動的感情,さらには黒人の共有体験及び文化的美学への反応に組み込まれたアフリカ系アメリカン人のエートス,等々とされてきた。
 ブルースの歴史は,1890年頃合衆国南部の地方でアフリカ系アメリカ人たちによって演奏された,人種差別時代の労働者の口承伝統に起源を持つ音楽がその始まりとされている。1900年代初頭には地方巡業を行う職業演奏家が現れ,1912年の「メンフィス・ブルース」による商業化を経て以後,1945年までアメリカ黒人にとって最も人気のある音楽として隆盛を誇り,1960年代には多くの白人やヨーロッパ人の聴衆を得るに至る。それらの経緯を経た現在の「ブルースとはフィーリングである」という言説は必然的に多義性を持ち,黒人の生活様式や正統派ブルースの本質を表すこともあれば,あるいは商業的スローガンでさえあり得る。そのような多義性にもかかわらず(あるいは多義性ゆえに),スタイル上の嗜好にはマーケティングのカテゴリーとレパートリーが反映しており,例えば「ソウル・ブルース」は黒人の聴衆,「ブルースロック」は白人の聴衆に好まれる傾向がある。
 アフリカン・アメリカン文化の表演芸術一般には幾つかの共通した特徴が見られる。それは,居合わせたすべての人々が表演に参加すること,表演者が「体験」を強烈なものとさせるために劇化や歌唱と踊りの統合,拍子と音色の操作,諸要素の反復・分節・並置などを有効に用いること,そしてそれによって,表演の現前性,リアリティー,真実性といった特質が明確に示されることなどである。例えば,ボビー・ブルー・ブランドの演奏では,言葉,歌,ジェスチャーによる多彩な表現が用いられ,伝統的なブルースの主題とその即興的な敷衍,歌唱とうなり声の対比,音楽に合わせた劇的な身体表現,等々が見られる。つまり,ブルース・フィーリングとは,表演に関わるあらゆる要素が一緒に機能することによって生み出されるものなのである。そのようなブルース・フィーリングの「体験」とは,癒し,解放,肯定,他者との繋がりなどの「感覚の具現化」に他ならず,さらにこれに身体のリアリティーが加わるものである。
 以上のように,ブルース・フィーリングが情緒の解放以上のものをブルース形式を通じて聴衆にもたらすことは明らかであり,このことは「形式」の学術的概念において「体験」の社会的側面を考慮する根拠になり得ると思われる。また,他のアフリカン・アメリカン及び西アフリカの表演芸術に関する最近の民族音楽学的研究がこの点を踏まえていることも示唆的であると言えよう。

報告2「Semantics and Structure as Aspects of "Folkloric Behavior"」 Hasan El-shamy(研究協力者・国立民族学博物館客員教授・インディアナ大学)

 アラブ社会の家族構成における「兄妹/姉弟」という関係は従来ほとんど注目されることがなかったが,この関係はアラブ文化では家族構造の形成・発展などにおいて決定的な役割を果たすものであり,この多次元的かつ顕著な現象を「兄弟姉妹シンドローム」と名付けることが出来る。報告者の参与調査によれば,兄妹/姉弟関係を中心とする家族間の相互関係パターンとして次のものが指摘される:兄弟−姉妹間の愛情,エゴ(即ち兄弟本人あるいは姉妹本人)−両親間の敵意,配偶者間の尊敬と敵意,エゴ−母方の叔/伯父間の愛情,エゴ−父方の叔/伯父間の敵意。
 兄弟姉妹シンドロームがどの程度顕現されるかは,家族内でのエゴの位置,年齢,性別,兄弟姉妹間の年齢差などの諸要因によって左右される。このシンドロームに結び付けられる表現は,過去の女家長制の名残でも,古代の儀式の残滓でもなく,アラブの社会,文化,そしてその特徴的な感情構造等のあらゆるカテゴリーにおいて空間的・時間的有効性を持つのである。
 民話におけるこのシンドロームの発現は,物語=認知システムというモデルから心理学的に考察することができる。物語とは,語や意味や叙述などの構成要素群(概ね物語内容や物語言説と言えよう)と,それらが語り手と聴き手の中に生じさせる感情群という二種の構成要素集合から成るものであるが,語り手と聴き手の双方ともに,物語構成要素である諸々の語や行為,そしてそれらによって生じる感情群を十分に認知しており,そのことから,物語とは一つの認知システムと見なすことができる(非認知的な構成要素が存在するにせよ)。物語=認知システムは,システムを構成する要素の数や他のシステムと相互連絡しているか孤立しているか,また,システムの部分間の内的調和や他のシステムとの外的調和の程度によって様々に変化する。
 物語はまた,取り分けプロットに必要な親族グループの中での幾つかの「態度 attitude」を表している。態度は,認知,感情,そして行動傾向という三つの主要な認知的要素から成るものと見なされる。例えば「母方の叔父である」といった親族関係は,ある個人についての「認知」であり,その認知についてある人物がどのように感じるか(憎悪や愛情など)は「感情」要素を表し,その人物が対象に対して取る傾向のある行動が,「行動傾向」要素を表す。態度もシステム化されており,要素の複合性やシステム自体の相互連絡性によって特徴づけられる。また,人物間の心理的反応特性としての,態度の感情要素は整合性の質,あるいは整合性そのものの欠如を状況に応じて明示し得るのである。そして,ある民話の中で強く表出された感情は他のタイプの表現文化においても出現したり,あるいは関与的な状況であっても現れなかったりする。態度が複合性,相互連絡性,そして調和と整合性を示す時,一つの安定した心理状態を表し,この心理状態がある社会的グループの大多数の人間によって共有される時,それはさらに一つの様式的な人格特性に帰される。アラブ民話に頻出する兄弟姉妹間の愛情とは,この意味において心理学的人格特性の一つである。


平成14年度第2回研究会(平成14年11月17日)

報告1「日本語の心的語彙:漢字二字熟語の語彙検索と語彙表象 −形態素論の視点から−」 Terry Joyce(研究協力者・日本学術振興会外国人特別研究員・AA研)

 日本語の心的語彙を説明するためのモデルが幾つか提案されてきたが,漢字二字熟語の語彙検索(Lexical Retrieval:視覚単語から意味の検索までの処理)と語彙表象(Lexical Representation:心的語彙内での単語の整理)については二つのモデルがある。その一つは,語彙表象が共通の特徴によって整理されているとする検索モデル(Serial Search Model)であり,このモデルは熟語の検索が文字列の前から順に処理されていること,そして漢字二字熟語の心的語彙においては,同じ漢字を「前」で共有している熟語は関連されて整理されているが,「後」で共有している熟語はそうではないという仮説に基づいている。もう一つのモデルは,熟語間の関係を語彙表象間の「つなぎ」によって説明する活性化モデル(Interactive-activation Model)であり,報告者はこれに,意味ユニットとアクセス表象間のリンクを介するレンマ・ユニットを組み入れたレンマ・ユニット・モデル(Lemma Unit Model)を提唱する。
 これら二つのモデルの妥当性を検証するために,視覚単語認知研究において最も多く用いられている構成要素形態素プライミング法による語彙判断実験が行われた。この実験は被験者に対して,プライムとして漢字二字熟語の「前の漢字」あるいは「後の漢字」,その後にターゲットとして「熟語」をそれぞれ一定の時間間隔を置いて呈示し(プライムとターゲットが無関係のセットも含む),呈示された文字列が正しい単語か否かの判断を要求するものである。これは,非単語が呈示された場合でもそれが表記法に従っている限り,被験者はその文字列を判別するために心的語彙にアクセスする必要があることによる。実験では漢字二字熟語の造語原則を統制して,「修飾語+被修飾語」「動詞+補足語」「補足語+動詞」「並列」「類義語」の5つの原則が選択された。実験の結果,「動詞+補足語」原則を除いて「前の漢字」と「後の漢字」の間に反応時間の有意差は認められず,このことはレンマ・ユニット・モデルの予測と一致している。
 また,この実験で「動詞+補足語」原則の場合のみ「前の漢字」が「後の漢字」より反応時間が短いという結果の原因を探るために,「動詞+補足語」とその逆の「補足語+動詞」について,「動詞」の使用頻度を統制した上で,前後それぞれの位置における頻度も考慮して再実験を行った。この結果,「動詞」の位置的頻度が高い場合,前後の位置に関係無く「補足語」に比べて反応時間が有意に短いことが認められた。
 これらの実験結果からその妥当性が証明されたレンマ・ユニット・モデルを今後さらに練り上げることによって,日本語文字体系における意味,表記,音韻の間の諸関係,また,日本語における造語の基礎となる形態素論的,意味的,統語的情報の様々な結合関係をモデル化することが可能になるものと思われる。

報告2「発声における身体作用について〜Bel canto 声の芸術〜」 豊島雄一(研究協力者・武蔵野音楽大学非常勤講師・藤原歌劇団団員)

 身体を楽器として音楽を伝える声楽家にとって,最も重要かつ基礎的な技術は発声法である。本報告はオペラ歌手である報告者がイタリアで学んだ発声法及び関連する技術において身体をどのように制御するかについての概要である。
 発声とは端的に言えば「呼吸によって得られた息を声帯を通し声として発し,それを響かせる」ことであるが,発声法を習得する過程の70%は正しい呼吸法の獲得にあり,その基本は腹式呼吸である。より具体的には,吸った息を保持し,スピードを与えて声を遠くへ飛ばすために三種類の筋肉が意識的に用いられる。まず,息を吸う時に横隔膜を意識して前鋸筋を緊張させることで充分な量の息が得られ,保持される。広背筋の緊張は,高音を出したり(跳躍音程を含む),あるいは下降型旋律を最後まで保持するための,言わばモーターのような機能を持つ。腹直筋は通常は息を吐く時に弛緩するが,発声時にそれを緊張させることによって声を支えることができる。このように,前鋸筋,広背筋,腹直筋という日常生活ではほとんど意識して用いられない筋肉を制御できることが正しい呼吸法にとって不可欠である。
 次いで,呼吸によって得られた息を声として発する際の喉頭部の基本操作は,咽喉を常に開放し,声帯を閉めることである。声帯は息を吸う時に開くが,声帯を閉めて薄くさせ,勢いのある息を当てることで正しい発声が可能になる。声帯が適切に閉められているかどうかを確認する一つの指標はファルセット(頭声)である。また,咽頭部を喉頭部とは別に意識して開放するために,鼻腔口の調整や軟口蓋の上げ方,舌根の下げ方を正しく行わなければならない。
 欧米人と日本人の言語の違いによる発声法の差異は,日本語の周波数帯域が低いことに専ら起因している。イタリア・オペラで要求されるアタックのある声を出すには,響かせるポイントをどこに置き,またどのように響かせるかが問題となる。日常的に横隔膜を使って会話を行っているイタリア人は腹式呼吸に慣れているので,息のスピードと横隔膜の制御によって声を上方に飛ばすことが出来るが,日本語はテンションの低さから発声が下方に向かう傾向があるので,意識的に鼻腔口上部と頬骨上部に抜ける発音及び発声を行う必要がある。
 その他の様々な唱法(高音・低音,装飾音,強弱や音色の変化)においても,広背筋と腹直筋の意識的な作用によって得られる持久力と瞬発力を用いて息のスピードを常に一定に保ち,それぞれの唱法に応じて声帯の閉め方,喉頭部の開き方,息の通り道と角度,共鳴箇所等々を調整することが求められる。ただ,身体を楽器とする演奏家の宿命として,技術の習得に際して頭では理解不可能な部分が多くあり,実際に楽器(身体)を操作するには様々なイメージに依拠することが多い。このことは,伝統的なスポーツの教授場面において,動きを想起させると共に動きの背後に存在する技を指示するために用いられる,具体性を帯びた「技言語」と類似していると言えよう。


平成14年度第3回研究会(平成15年3月1日)

報告1「レトリックの認知・計算モデル:メタファーとアイロニーを中心に」 内海彰(研究協力者・電気通信大学)

 古典修辞学のうち現在では「表現法 elocutio」のみを示す「レトリック rhetoric」に関する研究は,表現形式と意味内容のどちらを重視するかによって二極化してきた。即ち,ヤーコブソン詩学では意味を捨象した形式と詩的効果の関係を,一方,言語学や心理学は意味内容の方を重視し,形式や詩的効果は副次的であるとしている。しかし,形式と意味は必ずしも切り離して考えることはできないことから,意味解釈と詩的効果の相互的研究が求められる。本報告は,レトリックが解釈される過程の認知モデルの構築,また詩的効果がどのようなメカニズムによって喚起されるかの解明を試みるものである。
 メタファーとは,ある概念T(目標概念)を別の概念S(基底概念)で喩えることによって,比喩の意味である新たな概念T/S を生成し,その際ある種の認知活動を喚起することで,結果として詩的効果を生じさせる表現と定義される。メタファーの理解過程には,目標概念Tと基底概念Sから比喩の意味を生成する過程及び,比喩の意味の生成過程から詩的効果・審美的効果を得る過程が考えられるが,現在のメタファー論ではメタファーそのものによって,二つの概念間に類似性が動的かつ瞬時に創造され,それが認知されるという「類似性創造」の考え方が主流となっている。その代表である相互作用理論は,二つの概念間の相互作用によって新たな類似性が創造されるとし,類似性創造の結果,基底概念や目標概念においては顕現的ではないが,再構成された比喩の意味では顕現的である「創発特徴」が観察されることになる。創発特徴はメタファー理解の認知モデル構築において重要であるが未だ解明されていない部分が多くあり,創発特徴に関する心理実験を実施した。
 心理実験は,2個の目標概念と2個の基底概念を繋辞で結合した4個のメタファー表現10グループを材料として,CGIを用いて作成されたWebページを通じて行われた。実験の手続きとしては,まず与えられた基底概念及び目標概念に典型的であると感じる特徴を記述させ,それらの特徴の典型度を3段階によって評価させる。続いてメタファーの目標概念についても同様の記述・評価を行わせると共に,メタファーの理解容易度,詩的らしさを7段階で評定させる。実験結果のうち,4つの特徴タイプ(目標特徴,基底特徴,共通特徴,創発特徴)の各分布は従来の実験研究による経験的知見と合致し,また多くの創発特徴がメタファー解釈で生成されるが解釈者間の一致は小さいこと,共有特徴がメタファー解釈に占める割合は小さいが解釈者間の一致は大きいこと,基底特徴と目標特徴の間には違いが見られないことが認められた。次に,基底・目標概念間の類似度(共通特徴の総記述数を基底概念と目標概念の総記述数の和で除した値)を測定することにより,概念間の類似度が大きいメタファーは共有特徴によってメタファーの意味が理解されること,そして概念間の類似度が小さいメタファーは数多くの創発特徴を考えることによってメタファーの意味が理解されることが観察された。最後に,創発特徴の出処を探るためにメタファー対における創発特徴の重複割合を比較したところ,目標概念が同じメタファー対と基底概念が同じメタファー対との間に有意差は認めらなかった。
 これらの実験結果から得られた知見によって,類似性創造(取り分け情緒的類似による創発特徴を重視した)に基づく比喩の意味生成の認知モデルを提案・評価した結果,人間の解釈によって得られた特徴の約70%を出力すると共に,システムによる解釈と人間の解釈との一致が統計的に有意であると認められた。
 アイロニーについては,字義的な意味の反対を表現する語法という従来の素朴な考え方に対して幾つかの理論が提出されてきたが,本報告ではそれらの理論の問題点を包括的に解決するために「暗黙的提示理論」を提案している。この理論においては,アイロニーとは「現在の発話状況がアイロニー環境であることを聞き手に暗黙的に提示する発話・言語表現」であり,アイロニー環境の3事象(話し手の期待,期待と現実の不一致,否定的態度)の成立と,それらの事象を暗黙的に提示する3条件(婉曲的言及,語用論的不誠実性,心的態度の暗示)のうちの2つ以上の成立を条件とする一種のプロトタイプ概念である。本報告はこれらの考え方に基づいてアイロニー解釈の認知モデルを提示し,アイロニーの可能性のある48個のテキストを用いてモデルの評価を行ったところ,アイロニー環境・暗黙的提示両条件の成立/不成立間に有意差が認められた一方で,暗黙的提示の3要素成立/不成立間に有意差は認められず,またテキスト中の72.9%について,識別条件による識別と皮肉性評定による識別が一致した。

報告2「ウンム・クルス−ム研究」水野信夫(共同研究員・兵庫教育大学)

 人間の生活を取り巻く響きの総合を文化レベルで捉えた音文化の中で,人の声はそれぞれの音風土で各個別言語の言語音を伴いつつ,朗誦そして歌へと発展してゆく。イスラーム世界の音文化においては,前イスラーム時代ではアラビア語によるカスィーダなどの即興称賛詩,イスラーム以降はコーランの朗唱やアザーンなどの旋律的な朗唱というように,声と言語音との融合・発展過程は取り分け特徴的である。本報告は,エジプトが産んだ不世出の大歌手ウンム・クルス−ム(c.1904〜1975)が,エジプト近代歌謡というジャンルにおいて,イスラーム世界の音文化,さらには他のアラブ芸術表現に見られる多様な伝統をその歌唱に集約させていることを幾つかの点から考察するものである。
 ウンム・クルス−ムの歌手としての活動は,前イスラーム時代のアラブ伝統詩であるカスィーダから始まり,タクトゥーカやダウルなどの古典的形式,また民謡から芸術歌曲に取り入れられた自由リズムの即興歌であるマワール,そしてオマル・ハイヤーム『ルバイヤート』のアラビア語訳による作品やカスィーダ形式による新作品等の新古典主義的歌曲までの広い範囲をカバーしており,アラブ音楽の歴史的な流れの集大成とも言うべきものである。これらの曲はすべて,アラブ音楽特有の旋法に基づく多くの種類のマカーム(旋律型)によっており,また演奏における伴奏楽器群の構成は,数種類の楽器からなる小編成(タフト)から,徐々に楽器数を増やしたその発展型である楽団(フィルカ)まで様々である。実際にステージ上で行われたウンム・クルス−ムの演奏で特徴的なのは,歌詞が原詩の通りに歌われるのではなく,詩句が細かく区切られて複雑に幾度も反復されるということである(器楽による前奏部分も同様に奏されている)。そのために,コンサートでは一曲の演奏時間が優に一時間を超える長さとなっている。
 このような演奏の様式は,同じアラブ芸術の平面芸術におけるアラベスク arabesque の手法に喩えることができよう。アラベスクの形式面での特質は,抽象性,反復性,非展開性,頂点の欠落,常動性,対称性などであるが,これらはウンム・クルス−ムの演奏様式における特徴とほぼ合致している。また,アラベスクの性格面における特質である唯一性,永遠性などはイスラーム教義と特に高い親和性を持っていると言えよう。現在でもベドウィンは手作りのラバーブなどでカスィーダを歌うことがあるが,比較的狭い音域内での短い旋律が反復されながらパラフレーズされてゆくその様も,まさにアラベスクを想起させるものである。
 比較芸術の分野から発展した,異なる表現形態を持つ芸術間の共通様式を探るインターアーツ(諸芸術間)の理論では詩と絵画の関係がよく論じられるが,ウンム・クルス−ムの演奏は,音楽の演奏様式と平面装飾芸術との関係,すなわち平面芸術の技法が時間芸術である音楽に写像された興味深い事例として見ることができるであろう。


平成15年度第1回研究会(平成15年6月21日)

報告1 「モンゴルの葬祭儀礼から社会の近代化を考える」嶋根克己(研究協力者・専修大学文学部)

 本報告ではモンゴル社会で行われてきた葬儀について,歴史的な葬送儀礼と今日のそれとを文献資料及び現地での調査に基づいて比較することにより,葬送儀礼が社会の近代化によってどのように変貌してきたかを考察する。
 モンゴルの葬儀は風葬が主であると言われてきたが,現地で参照した文献などによれば,社会階層や地方によって葬法の違いが存在する。例えば,王族や貴族などの伝統的な葬儀では土葬が一般的であり,それ以外では風葬,さらに火葬,ミイラ化など多様な葬儀が行われていた。また,モンゴル文化は昔から伝えられているシャーマニズムの基層文化にチベット仏教が混交していることから,混交の度合いによって葬儀の方法も異なっており,北部ではシャーマニズムの影響が強く残り,チベットに近い地方では風葬(特に鳥葬)が行われている。しかし,Nyambuu and Aryasuren の『モンゴル慣習大事典』(1991)に見られる伝統的な葬儀に関する記述や,都市住民からの聞き取りによる現在の葬儀の様子などを比較すると,時代や地域による差はあるものの,葬祭儀礼の言わば底流にある基本的な構造はほぼ同じであると言えよう。
 まず,伝統的な葬儀においては大まかには次のような儀式が行われた。人が亡くなると,ゲル中の家具をすべて外に出して整理をした後,僧侶による読経が行われ,埋葬場所を決めてハダック(聖なる布)を埋葬予定地に置く。次に「金の箱を開ける」と呼ばれる儀式を行う。これは僧侶と共に葬儀の段取りを決めたり(葬儀は亡くなってから通常3日から一週間後以内の月,水,金のいずれかに行われる),故人が誰を最も愛していたか,どのように生まれ変わるかなど故人の生前や転生が僧侶によって占われるものである。それから「骨に触る人」が決められる。これは最初に遺体に触れる人のことで,厄年の人,故人との干支の関係が悪い人が選ばれ,帽子を前後逆に被ったり,袖をまくったり,襟を内側に折るなどしてから(これらは死者の祟りを避けるためである)遺体を整える。その後納棺を行い,埋葬地まで赴いて葬儀を行う。その間,ゲルに残った人々は遺体を安置した場所とは別のところにゲルを移動させて建て直しておく。葬儀の後,参列者はゲルまで戻り会食を行う。その後も2,3度ゲルを分解して建て直すが,これは死者の魂が戻って来ないようにするためである。これらの葬祭の後,四十九日が服喪期間となる。子供が亡くなった時は特別の葬儀は行わず,袋に入れて道路端に口を開けたまま置いておく。
 同じく『モンゴル慣習大事典』に記載された,現代における一般人の葬儀の形態は,1921年の社会議主義革命や1990年以降の自由主義化の中で,伝統的な葬祭礼から幾つかの点で変化した部分がある。例えば,遊牧生活から定住生活への移行は必然的に風葬から土葬への転換を生み,墓石を作ったり花やリボンを供えるといった旧ソ連の影響も見られる。その一方で伝統的葬儀と共通する部分も残っており,それは,埋葬地を選択した後(現在では役所から埋葬許可を得る)そこにハダックを置いておくことや,遺体を安置する際に,男性はゲル入り口から見て左側(西側),女性は右側(東側)に安置する(住居がアパートなどの時は部屋の方位から東西を決める)ことなどである。都市住民からの聞き取り調査による現代の葬儀についても,基本的に『モンゴル慣習大事典』の記述とほとんど変わるところはないが,幾つかの点でより詳細な内容が確認された。例えば,副葬品として9種類の宝石を入れることや,棺の一番下に緑の絹を敷き,蓋の内側に青の絹を貼ること(大地と天空を表す)などである。
 以上の考察から,モンゴルの葬祭儀礼はファン・ヘネップによる儀礼の三段階の構造,すなわち分離,リミネール(過渡期),統合のそれぞれに準拠した,報告者が提唱する葬前儀礼,葬中儀礼,葬後儀礼という構造を有していると言えよう。つまり,風葬や土葬という実際の遺体の処理を葬中儀礼とする前後三段階の構造である。また,社会主義革命後の宗教弾圧政策下でも伝統的な儀礼の一部が庶民の間で受け継がれてきたことは興味深い。
 最後に,葬祭儀礼の近代化という点から見ると,モンゴルでは棺や墓石の製造者を除いては,サービス業としての葬祭業が成立しておらず,これは葬祭礼が親族を中心とした共同体によって担われているためであると思われる。このような状況下でウランバートルでは人口の急増に伴って,葬儀を巡る様々な問題が起こりつつある。例えば,ゲル住民の一部は墓地域の近くにまで居住するようになっており,土葬中心の現在では深刻な衛生問題が生じる可能性がある。また火葬への転換も図られてはいるが,火葬場建設には環境問題が絡んでおり,現実化には程遠いのが現状である。今後さらに続くであろう生活様式の変化がモンゴルにおける葬祭儀礼にどのような影響を与えるかが注目される。

コメント:富川力道(バー・ボルドー)(研究協力者・和光大学非常勤講師)

 中国内モンゴル自治区の出身者として,嶋根報告で述べられたモンゴルの伝統的な葬祭儀礼は内モンゴルのそれと似通っており,ほとんど変わらないものに思える。但し,内モンゴルの都会における葬儀の性質に関しては,中国社会と基本的に同質であると言える。
 嶋根報告はモンゴルにおける葬祭儀礼の「社会的事実」としての側面を中心に捉えたものであるが,死を巡る儀礼の背後に存在するモンゴル人特有の霊魂観や,より一般的な宗教観などを視野に入れて再検討することによってさらに優れた論考となるであろう。例えば,葬祭儀礼における動物の役割はモンゴルでは取り分け重要である。遺体を運ぶ家畜(ラクダ,馬,牛など)を選ぶ際には,故人が生前に最も愛着を示した家畜が選ばれ,その家畜は遺体の運搬が終わった後も,聖なる布などを身につけることで神聖視され,自然死するまで大切に扱われる。また埋葬場所を選ぶ時にも,親族や本人が馬で下見に行って,馬が小便をした場所に旗を立て,宝物を地中に埋める所作をすることでその場所を埋葬地として確定する。なお,このような土葬が行われたのは貴族などの階層が主で,一般人は風葬が多かった。埋葬地が決められた場合も,遺体に霊魂が残っていると考えられていたので,墓荒らしから守るために偽の墓を作ることもある。逆に敵対する部族の墓を探して破壊することがあり,それに対抗して墓を守ることを職務とする部族もあった。
 子供を葬る時の補足として,モンゴルでは9歳未満の子供は「神のもの」であり,成人の葬儀とはまったく異なるものである。「子供を葬る」という場合の「葬る」という語は「落とす」あるいは「捨てる」という意味を持っている。葬る場所や方角は干支で決まっており,例えば春に亡くなれば春の方角に葬る。また,遺体に「しるし」をつけたり(墨で名前を書くこともある),葬った場所から馬で戻るときに手綱を垂らして,子供が帰って来られるようにする。これは,通常の葬儀では死者が戻って来ることを頑なに忌避する(遺体を安置したゲルを別の場所に移動させる,埋葬した場所から振り返らずに戻る,墓の回りを3周して帰りは別の道を通る等々)のとは正反対である。(カトリック教会でも8歳までの子供の葬儀ミサは「喜び」を意味する白の法衣で行われる)
 一方,葬祭儀礼が近代化してゆく過程についてはモンゴルと内モンゴルとでは事情が異なるが,ポイントはいつから土葬が主流になったかという点であると思われる。例えば,モンゴルでは1921年の人民革命後に伝染病が広まって一部の地域では風葬が禁止され,すべて土葬になったことがある。火葬については,1980年代半ばに火葬場が建てられたものの,モンゴル人はほとんど利用せず,ロシア人だけが使ったようである。ウランバートル周辺の墓地も旧ソ連軍によって建設されたものが多かったと聞いている。その後,1990年に民主化された後,伝統文化の復活,具体的にはモンゴル文字やシャーマニズムの復活と共に,西の地域では風葬を復活させる運動が起こったものの一般にはあまり歓迎されなかった。


平成15年度第2回研究会(平成15年11月29日)

報告1「牧畜的世界と比喩的置換−ケニア中北部サンブルの事例」 湖中真哉(研究協力者・静岡県立大学国際関係学部)

 ケニア中北部の牧畜民サンブルの文化では,日常会話における直喩的表現の多用を始めとして,自然認識や命名技法,物質文化,貨幣観等々における隠喩的表現など,文化の至る処で比喩が偏在している。
 まず言語表現では,植物や野生動物などが直喩「XはYのようだ」におけるY項に用いられる例が多く見られると共に,より一般的な自然認識においては特に家畜を巡る隠喩表現が多い。例えば,家畜を表す語が人間の呼称に用いられたり,人間の「抜歯」と家畜の「耳切」,人間の「割礼」と家畜の「去勢」が類比的に捉えられている。また家畜を基準とする自然認識としては「野生動物とは家畜が野生動物化したものである」という伝承に基づく,野生動物の擬家畜化による分類(イノシシはヤギの種類,ガゼルはヤギの種類とされる等々)や,形態的に家畜に似ていない野生動物は忌避され,似ているものは神聖化される(体色や行動特性,部分的類比もそれらの価値付与に含まれる)など,野生動物を家畜の範疇に当てはめる例が数多く存在する。更に命名技法の調査においても,身体的特徴や産まれた時の状況による命名が人間の場合では40%,家畜では殆ど全ての場合に該当した。これらの例はいずれも,牧畜的世界が隠喩的に投影された事例であると言うことが出来よう。
 一方,動植物から作られる手製品と外からの工業製品が併存しているサンブルの物質文化においては廃物利用が盛んに行われており,その特徴は,元来自然資源によって作られていたものを新しい材料によって作る(家畜の皮の代わりとしての古着など)という言わば「置換」である。さらに,自転車の解体によって各部分を様々な用途に利用するという正に家畜の解体作業との隠喩的関係や,穀物用の袋を解きほぐして他の用途(束子やロープ)に充てるという繊維抽出技術の隠喩的置き換えなども含め,これらは物質文化における隠喩的な置換操作の事例と解釈できよう。
 貨幣と家畜との関係においてもまた,家畜市で家畜を売却した資金で新たに購入するものの22%が家畜(その約半数が未経産ウシ)であるという事例や,サンブル語で「買う」と「(家畜を)交換する」とが同一語で表されることなど,両者の間には明らかに比喩的関係が見出される。
 以上の様々な事例を総括すると,サンブルの文化における直喩や隠喩の顕著さ(換喩,提喩は稀少である)に基づいて文化自体を比喩体系として構築出来るのではないかと思われる。つまり,認知科学的に捉えれば,ベース領域である家畜認識[牧畜的世界]の隠喩的投影による,ターゲット領域(人間や野生生物の世界[牧畜的世界の外部])の理解形成がなされる思考様式であると言えよう。

コメント:森山工(研究協力者・東京大学大学院総合文化研究科)

 比喩とは社会的文脈の中で場を与えられるものであることから,ある事物が比喩的に捉えられる文脈の明示化,つまり類比的に捉えられる場面と捉えられない場面との峻別がまず必要であろう。これと関連して最も大きな問題と言えるのが,事例解釈の妥当性の問題である。つまり,観察者がある現象を比喩的なものであると読み込んでしまうことがあり得るのではないだろうか。例えば,解体される自転車/牛の関係が「隠喩的」であるとするのはあくまでも観察者側の説明原理としての隠喩ではないだろうか。更に,自転車を解体してベルを家畜の木鈴に転用するという事例に対して,それを隠喩的理解と置換操作という「段階的な」プロセスとして解釈することが果たして可能であろうか。その場合,ベルが隠喩的に理解されたから転用できるのではなく,実際には転用可能性が先に存在するのであり(しかも瞬時に把握され),隠喩とは結局のところ観察者側が行う後付けではないのか。
 また,比喩そのものがサンブルで大きな役割を持つと言えるならば,新しい比喩の生成,つまりターゲット理解を容易にする目的だけではなく,比喩そのものが目指されている芸術的な比喩表現の存在の有無も重要であろう。

コメント:内海彰(AA研共同研究員・電気通信大学電気通信学部)

 レイコフなどの認知科学の一般的な見地では,言語表現としての比喩は人間の思考過程に既に存在している認識としての比喩が言語に表出したものと捉えられる。例えば,ある数学的概念や政治的概念を理解するには,既知の概念(人間が直接的に経験出来るような,例えば身体的動作に基づく概念)をベースとして新たな概念,より抽象的な概念を捉えるために隠喩が用いられる。この点でサンブルの事例はレイコフの主張に合致していると言えよう。但し,ベース領域に関してはそれが果たして実際に牧畜的世界であると言えるかどうかは疑問である。何故ならば,サンブルの場合でも牧畜的世界よりも人間関係や属性,人間認識などの方が経験的概念として先に存在し,それらが別のものに写像されるという方向性がより一般的ではないかと思われるからである。従って,ベース領域としてはむしろ,より普遍的な「世界認識」の方が妥当ではないかと思われる。その例証のために,家畜を基点として他のものを表現する例とは逆の方向性,即ち人間を基に家畜を表現するような事例が見つかることを期待したい。
 また,換喩的発想自体は見受けられるものの,実際の換喩的表現は余り見られなかったが,それは果たしてサンブルの特徴なのであろうか。あるものを「隣接した」もので置き換えるというのは明らかに換喩であると見做され得るので,そのような事例が見つかれば比喩体系としての文化をより的確に記述することが可能となるであろう。
 最後に,比喩的思考・表現がサンブルにおいて本当に特徴的であると言えるかどうかについて,民族間の差異を視野に入れた調査が行われれば更に興味深い結果が得られるものと思われる。


平成15年度第3回研究会(平成16年2月14日)

報告1「テレビ映像のカット割り―その構造と機能について―」 石井満(AA研共同研究員・尚美学園大学)

 本報告は歌謡番組とドラマというテレビ映像の二つのジャンルを取り上げ,それぞれのカット割りに特有の撮影技法とその機能について,事例に基づく考察を行ったものである。
 歌謡番組の撮影における基本構造は,相対的に動きの少ない被写体を,音楽の流れに沿った変化に応じて見せることの繰り返しである。そのような反復によって映像が冗長になるのを避けるために,移動撮影やフォーカステクニック等のカメラワーク,アップから遠景までの多様な構図,更にはディゾルヴや短いカットの連続等,通常のドラマ撮影では余り用いられない技法が多用されている。それらの技法が持つ機能を分析するために,冗長性が強調されやすい状況の典型として,フジテレビ放送『夜のヒットスタジオSPECIAL』(平成3年7月3日放映)における中森明菜の「二人静」を事例に,楽曲構造と撮影技法の分析を行った。その結果明らかになったのは,要所では必ずアップショットが提示され,他の殆ど全ての技法はアップショットに至る過程のヴァリエーションを構成しているということである。また,そのヴァリエーションの数自体はそれ程多くなく,カメラを引く方向やスピードに変化をつけたり,本来は画面を弛緩させる後退運動やロングショットを,アップショットをより強調するために用いる等の工夫が見られた。
 一方,ドラマのカット割りについては,その基本パターンを読み込んだ歌が業界に伝えられており,そのパターンは概ね次のようなものである。フルショット(FS)→バストショット(BS)→アップショット(UP)→切り換えしてFS→移動ショット→引き→寄り...。 このパターンは,ことばによる叙述と極めて類似しており,まずFSによって,場全体を写して状況の説明を行い(エスタブリッシュショット),BSで人物を特定し,UPで表情を詳述するといった流れになっている。このパターンに加えて重要なものがイマジナリーラインとエスタブリッシュショットである。
 イマジナリーラインは被写体の方向を決めるための線のことで,典型的な例としては会話の場面等で向かい合った二人の間を結ぶ線分及びその延長線である。これを超えたショットでは人物の向いている方向が最初の映像とは逆になって混乱を与えるので,一般にイマジナリーラインは超えてはならないとされている。しかし,一定の時間経過を表したり,二人の関係を強調するために敢えてイマジナリーラインを超えたショットを用いる場合もある。
 FSの一種として場全体の状況を示すエスタブリッシュショットには用い方によって様々な機能を付与することが出来る。例えば,状況が変化する度に提示して視聴者に理解促進のための情報を与えたり,場所の移動(シーン変わり)をスムースに行うための部分ショットとして用いる等がその典型例である。また,提示を遅らせて次画面への期待を高めたり,「引き」によって逆に弛緩させたりという風に,FSのタイミングで盛り上がりをコントロールする機能も与え得る。

コメント:「撮影技法と文彩」小田淳一(AA研所員)

 映像の修辞学において,記号表現の性質を取り扱う際にまず問題となるのは,カメラワークやスイッチング等の技法を文彩と呼ぶことの妥当性である。文彩の多くが技法であるのは当然であるにせよ,重要なのは文彩の一般的定義である,基本表現の変形,規範からの逸脱等が撮影技法(の幾つか)に該当するか否かである。これについては,J.ミトリによるクロースアップの定義や,R.バルトがクロースアップや移動撮影を,古典演劇の舞台装置と比較して,記号表現の流動性を可能にさせるものとしていることから,撮影技法が文彩であることは明らかである。
 次に,映像テクストにおける文彩を扱う際,要素単位の画定のためにテクストは必然的に切片化される。最も標準的な切片化は句読法によるそれであるが,H.アジェルはワイプが「ピリオド。改行」であるとし,C.メッツはフェイドアウトを句読法,ディゾルヴを移行法的句読法とするなど,幾つかの考え方がある。
 技法の規範/逸脱に関しては,幾つかの検討すべき課題が残っている。まず,基本的な撮影技法の幾つかについて経験的に知られている諸効果,即ち記号内容との関係が真に有縁的であるか否かを心理実験等によって確認する必要があろう。また,例えば細部ショットやハイライティングが提喩的であり,更にはズーム+ドリーインのような技法が逸脱であると言えるかなどの例について,フォンタニエの文彩カタログとの照応関係を仔細に検討することによって,新たな映像修辞学の可能性が拓けるものと思われる。

報告2「Index development for editions and illustrations of the Thousand and One Nights」マルガレート・シロンヴァル(研究協力者・国立民族学博物館客員研究員/CNRS)

 『千一夜物語』は10世紀頃にイラクで最初に編まれた後,書承及び口承を通して拡充・再編され続けてきた。この物語が世界中に広まるきっかけとなったのは,14世紀のアラビア語写本からフランスの碩学アントワーヌ・ガランによって,今から丁度300年前の1704年に訳された版である。その後,西洋や東洋の様々な言語に訳された『千一夜物語』はその起源に関する多くの研究の対象となったが,全世界の民話目録を編纂していたフィンランド学派が1835年以来作り上げてきた叙事詩や民話のテーマ索引目録,或いはアアルネとトンプソンの民話伝承索引において考慮されることはなかった。『千一夜物語』のテーマやモティーフの索引化を最初に試みたのはヴィクトル・ショーヴァンであり,その後ニキータ・エリセーエフが続き,最近ではアメリカの研究者ハサン・エル=シャミーがフィンランド学派の意図に基づいてアラブ民話の索引化を引き継いでいる(注:エル=シャミー教授は本共同研究プロジェクトの2002年第1回研究会においてアラブ民話について報告を行った)。
 報告者は,クロード・ブレモンと共に行った『千一夜物語』のモティーフ索引についての研究を契機として,『千一夜物語』の諸版と挿絵との関わりについて分析を行うためにその索引化を試みた。文化史におけるイマージュの重要性を斟酌し,物語において挿絵が持つ役割に着目したことがその主たる理由である。挿絵とは,それを見る読み手に対して,物語解釈を引き受けた挿絵画家が,媒体として供せられた各々の版に適合させたものであることから,正しくコミュニケーション作用の一つなのである。
 イマージュ分析においては数多くの問題が提起される。例えば,イマージュによって導き出されるテクストの異なる読みの比較,イマージュを通して変化する「驚異」という概念の捉え方,或いはよりマクロな視点に基づく,文化伝達機能の一つとしてのイマージュ等々である。これらの分析を『千一夜物語』について行うには,各版の挿絵を多様な指標に基づいて分類するために,様々な版及び挿絵のデータベース構築が最も有効な手法である。報告者はまず「アラディンと魔法のランプ」について,次のようなデータ項目に基づくデータベースを構築した。
  • 書誌情報:通常の書誌情報及びショーヴァンによる物語参照番号等。
  • 挿絵情報:挿絵家/版画家名;版画位置(表紙,口絵,花飾り,テクスト中等々);物語シークエンスと挿絵の位置関係
 この結果,挿絵の配置がブレモンによる,報奨/懲罰という物語構造の原則に概ね従っていることが明らかになった。このデータベースは,比較文学や美術史のみならず,物語とイマージュの関与性を扱う他の研究分野にも供し得るものと思われる。

コメント:「On Word and Image」鷲見朗子(研究協力者・京都ノートルダム女子大学)

 シロンヴァル報告で考察された挿絵とテクストの関係は,例えばミッチェル(Mitchell, W. J. T. Iconology: Image, Text, Ideology: 1986)らの理論的研究においてしばしば言及される,絵画と詩の間における次のような対比を用いて検討することが出来る。即ち,絵画/詩の関係は,空間/時間,記号の有縁性/恣意性,指示範囲の広狭,現実再現/表現,身体/精神,外的/内的,沈黙/雄弁,美/精緻,女性/男性,といった対立項によって比較され得る。このような対比はイメージと言語の間の対照を強調し過ぎる嫌いはあるものの,両者の関係を論じる際にはある程度有効な視座であると言えよう。
 一方,絵画と詩の関係におけるこれらの対比と関連し,なおかつそれらとは異なる興味深い事例がアルハンブラ宮殿における建築と詩の関係である。イスラームの代表的建築であるアルハンブラ宮殿の建築物の多くには,14世紀の詩人イブン・ザムラクによる碑銘詩が壮麗なクーフィー書体によって刻まれているが,その内容はアッラーを称えるものや宗教的祈願に加えて,建築物そのものについて書かれたものが多く見られる。『千一夜物語』における挿絵が,読み手の内容理解を促進するために想像力を喚起するという,言わば補助的機能を合わせ持つのに対して,アルハンブラの事例では,視覚的に受容される建築を詩テクストが伝え,コメントするという全く逆の関係にあるのである。


平成16年度第1回研究会(平成16年6月27日)

報告1「アラブ=アンダルシア音楽(モロッコ)のしくみ:言葉のリズムは音楽のリズムを拘束するか」堀内正樹(AA研共同研究員,成蹊大学文学部)

 本報告は,モロッコのアンダルシア音楽における音楽と詩の関係をリズムの観点から分析することにより,詩=言葉のリズム・韻律が音楽のリズムを規定しているという仮説の検証を目的とするものである。
 一般にアンダルシア音楽とは,器楽の演奏と歌唱から成るヌーバ(組歌)のことを指し,モロッコのヌーバは,26種類のタブウ(旋法のことで,東アラブではマカームと呼ばれているもの)が11グループに分かれた各々の旋法群が,5種類の基本リズムによって演奏単位としてのリズム楽章(ミーザーン)を構成するという全体構造を持つ。即ち,11グループの旋法群のそれぞれにリズム5種類を乗じた55楽章から2つの欠如楽章を除いた53楽章が演奏単位の全てである。
 26旋法は,その名称(地名や旋法構成音の名前などに由来する)や終止音(主音=トニック),更にまた,基本旋法群とそこから分岐した旋法という言わば系統樹的観点などによって分類されており,基本リズムの方は拍子の数やアクセントが置かれる箇所によって5種類に分かれている。  演奏のプロセスから見た一つのリズム楽章は,演奏の主体(オーケストラ/楽器/歌手/合唱)やテンポの緩急によってそれぞれ異なる導入部(3部分)及び本体部(4部分)から構成されているが,実際の演奏においてはこの構成が臨機応変に変化する。
 ヌーバにおいて音楽のリズムが詩の韻律に影響を受けているか否かを検証するためには,まずアラビア語詩(シウル)のリズム規則(アールド)を詳細に検討する必要がある。シウルは,バイト(=家,テントの意)と呼ばれる1行を単位としており,シウルのリズム規則とは,1バイトを形成する母音と子音の組み合わせパターンである。このパターンの最小構成単位は次の2種である。
    /:子音+短母音の組み合わせ
    O:子音のみ,長母音,二重母音,促音
 前者は,バランスのよい「完全音」あるいは「健康音」とされ,後者はアンバランスな「不完全音」あるいは「不健康音」とされている。この単位を組み合わせた次の6種類のパターンがアールドの基本単位となる。
    (1) /o,(2) //,(3) //o,(4) /o/,(5) ///o,(6) ////o
 次いでこれらの基本単位を更に組み合わせることによって8種類のタフィーラが次のように作られる。
    [1] //o/o,(上記の(3)+(1))
    [2] //o/o/o,(上記の(3)+(1)+(1))
    (中略)
    [8] ///o//o,(上記の(2)+(1)+(3)あるいは(5)+(3))
 更に,タフィーラの組み合わせから16種類のバハルが次のように作られる。
    [A] タフィーラの[1]+[2]+[1]+[2']〜[1]+[2]+[1]+[2']
    [B] タフィーラの[8]+[8]+[8]〜[8]+[8]+[8]
    (以下略)
 この過程を,上位レベルの単位が分節される向きで見ると,シウル(詩)はバイト(行)から,バイトはバハルから,バハルはタフィーラから,そしてタフィーラは言わば「原子」のような基本単位から,それぞれ構成されることになる。
 これらの法則に基づいて,言葉と音楽のリズムの関連を分析するに際しては「拍数」を手掛かりとすることが考えられる。尤も,言語音としての言葉のリズムは音価には置換出来ないが,仮に完全音(健康音:/)を2拍,不完全音(不健康音:o)を1拍とすることにより,リズム規則の基本単位における拍数を次のように換算出来る。
    韻律:(1) /o,(2) //,(3) //o,(4) /o/,(5) ///o,(6) ////o
    拍数:(1) 3, (2) 4, (3) 5, (4) 5, (5) 7, (6) 9
 同様にタフィーラは,[1] 5+3,[2] 5+3+3...のように,またバハルについても同じように換算出来ることになる。
 そして,リズムグループについては緩急それぞれの場合の拍数を考慮した上で,5つのリズムグループと,詩のリズムである16種類のバハルの関連を分析した。
 その結果,すべてのバハルで最も多く使われている拍数は3であり,ミーザーン5種類の中で奇数拍を持つものが3種類あるのに対して,偶数拍のリズムに使われるバハルが少ないことなどから,音楽のリズムにおいては奇数拍,かつ短いリズムが多用されていることが明らかになった。これらの結果から,詩のリズム規則における完全音/不完全音の対立が音楽のリズムにおける偶数拍/奇数拍という対立に変換されている可能性があると言えよう。更に,普通のテンポにおいては,言葉と音楽のリズムの不一致を埋め合わせる技術(例えばメリスマのような意味を伴わない音節)があるものの,速いテンポの楽曲ではそれらが機能しないことから,言葉のリズムによる音楽のリズムの拘束にはテンポが関係しているものと結論付けられる。

コメント:水野信男(AA研共同研究員,兵庫教育大学)

 モロッコのアンダルシア音楽の特徴の一つは,オスマン帝国に占領されなかったことから東アラブ音楽特有の四分音が存在しないことである。そのことを含め,アンダルシア音楽の本来の姿がモロッコのヌーバにおいて最もよく保たれていると言うことが出来る。また,一般にアンダルシア音楽の演奏家は,ある旋法による旋律は弾けても,旋法自体を取り出して弾くことは出来ない。これは,ヌーバの音楽家が旋法を音の階梯としては把握していないことを示すものであろう。
 言葉と音楽のリズムに関しては,詩のリズムが音楽のリズムを規制するとすれば,それは奇数拍がアラビア語の口語に特徴的であることに起因するのではないかと思われる。更に,その「規制」にテンポが関連しているとの指摘は非常に興味深いものの,その例証のためには,実際にヌーバが録音された音源から詳細な分析を行うことが必要であろう。

コメント:松田嘉子(研究協力者,多摩美術大学美術学部・ウード奏者)

 チュニジアでウードを学んだ経験からモロッコとチュニジアにおける音楽の相違点を挙げるならば,両者共に同じマグレブではあるが,後者には東アラブとマグレブ双方の影響が認められることである。従って,両者のアンダルシア音楽はルーツは同じはであるが個別に発達した時期が長いことから,一見似ているものの異なる点が幾つかある。例えば,共通する旋法名の構成音が異なること,同じ名称のリズムであっても内容が異なること,また同一の詩に異なるヌーバが充てられている場合などである。
 言葉と音楽のリズムが関連している可能性は演奏家として常々感じているが(シンコペーションとアラビア語自体が持つリズムの類似性等々),それらを分析的に捉えることは試みたことがない。ただ,ゆったりしたテンポの曲では,その中に複数のリズムを含めることが出来るのに対して,速いテンポではリズムの種類が限定されることから言葉のリズムにより近くなることは感覚的にも把握し得る現象であり,言葉と音楽のリズムの関連性にテンポが関与している可能性は大いにあるものと思われる。


平成16年度第2回研究会(平成16年12月11日)

報告1「遺伝情報の発現」伊藤 克彦(研究協力者・京都大学大学院医学研究科遺伝医学講座分子病診察学)

 本報告は,遺伝情報の発現過程に見られる一連の要素変換(DNA → RNA → 蛋白)が,一般修辞学における変換操作の基本概念である挿入(添加),欠損(削除・除外),置換によって成されているという点に着目し,遺伝学の専門家に修辞学的視点を考慮してそれらの過程の概説を依頼したものであり,一般修辞学の生命系への拡張適用性を探る試みの一つである。
 生物の表象(表現形質)の裏側に何らかの実体(遺伝形質)が存在し,その振る舞いによって特定の形質が表出したりしなかったりすることを明らかにしたのがメンデルの法則(1865年)であり,その50年後にメンデルの法則が再発見された時に遺伝学が成立したと言える。更にその約50年後の1953年に,DNAが遺伝形質の実体を担うことがワトソンらによって発見された。この発見はDNAの核酸配列情報を扱う分子生物学を生み出し,それによって遺伝学が飛躍的に発展した。今日ではweb上で,様々な遺伝病とその病因である遺伝子の異常な配列とを検索によって一覧表示出来るようにまでなっている。
 分子生物学は,生物個体をその構成要素である分子(蛋白質,核酸等)及びその分子間相互作用の総和(システム)と理解し,生物学的表現形式の分子レベルでの解明を命題としている。真核生物ではこのシステム(生物個体)の基本情報である遺伝情報は,核の中にある染色体に存在する。染色体は4種類の核酸(A,T,C,G)が一本の紐の様に連なった構造を持ち,互いに相補的な2本の紐の二重螺旋構造により構成されている。これが遺伝子の実体でゲノムと呼ばれるものであり,遺伝情報は4つの核酸の配列情報に存在する。従って,現在の遺伝学の力点は生物学的表現形式を4つの核酸の配列情報から解読し,配列の変化を観測することにある。ここで,遺伝学と修辞学との最初の類似点が明らかになる。即ち,遺伝情報である核酸配列情報の変異パターンは,置換,欠失,挿入の3種類なのである。
 遺伝情報の発現は,セントラル・ドグマと呼ばれる以下の過程にある。即ち,DNAの核酸配列情報がRNAに転写(transcription)され,次いでRNAの核酸配列情報がアミノ酸の配列情報に翻訳(translation)され,蛋白質が生産される。この翻訳された蛋白質が細胞内での種々の機能を司り,生物学的表現形式を支配する。しかし,この発現過程も単純なものではなく,情報の流れという観点からは,以下の3点に注目する必要がある。まず,DNAの核酸配列の一部,RNAの核酸配列の一部のみが,それぞれRNAの核酸配列や蛋白質のアミノ酸配列へと変換される点である。つまり,DNAの核酸配列情報は,主に「より除外された情報」として伝達されるのである。次に,転写・翻訳過程がRNAや蛋白質などの挙動によって大きく修飾されるという点である。これは,遺伝情報の発現過程が単純な一方向性の機構ではなく複雑な相互作用によるネットワーク状構造を成していることを示すものである。最後に,少なくとも翻訳過程や翻訳後の蛋白質の機能発現過程においては,RNAや蛋白質の3次元構造による情報発現の修飾機構が存在する点である。即ち,これらの過程は,3次元構造に影響する因子(ファクター)によって情報が修飾可能であることを示す。
 このように,遺伝情報の発現(変換)は,DNA,RNA,蛋白による相互修飾,またそれ自身の3次元構造による修飾を受けるネットワーク状構造を成しているが,DNAのみが二重螺旋という相補的構造によって自己複製を支持する構造を持つことで特権的な地位にあると言える。しかし,免疫細胞が多様な外敵に対応するために自己のDNA情報を再編成し,DNAの特権的な地位を否定する機構を作り上げたことを考えれば,このネットワーク状構造は外部からのベクトルに「揺らぐ」存在であることが理解される。また,このネットワークは内部に「無意味」な領域を持っており,複雑な生物ほどゲノム内部に蛋白質になり得ない(無意味な)領域を含み,ヒトではそれが全DNA情報の98〜99%を占めている。また,哺乳動物ではRNAの約3分の1が蛋白質にはなり得ない(無意味な)構造を持っている。これらのことを考え合わせれば,遺伝情報の発現機構は,情報を捨てたり,意味の無いものを持ち込むことによって修飾可能性を増大させ,それによって多様性を獲得して来たと言えるであろう。しかもその多様性は多分に「いい加減」なものであると言えるかも知れない。

コメント:徃住 彰文(AA研共同研究員,東京工業大学大学院社会理工学研究科)

 伊藤報告の論旨を遺伝情報の構造と機能という観点から見直すと,DNA → RNA → 蛋白という過程に見られる遺伝情報の構造において,遺伝情報の機能として語られたものは,生物の「形態の決定」についてであった。その一方,語られなかったものは,記憶,学習,そして評価,感情,動機づけなど,生物の「機能」である。
 ここで,修辞の構造・機能を遺伝情報の構造・機能と対照すれば,線的言語における修辞の「構造」としての,反復法,倒置法などの統語論的,また隠喩,換喩などの意味論的,そして皮肉,嫌みなどの語用論的なそれぞれの「形態」に対して,心的操作(注意,焦点づけ),感情(審美感情),評価,価値,信念等々といった修辞の「機能」が措定出来る。それらの機能は複合体として感嘆や軽蔑(注意+評価+感情),また啓示や諧謔(評価+感情)などを表す。
 「人生は旅である」という隠喩は,「人生は旅」においては省略操作,「旅という人生」においては倒置操作が加えられることで,その認知的効果は多様なものとなる。従って,修辞について語る際には,形態の多様性だけではなく機能の多様性,延いては心的機能の多様性を考慮する必要がある。

コメント「修辞における変換操作と機能発現」小田 淳一(AA研所員)

 伊藤報告を修辞学と結びつけるのは偏に,グループμによる『一般修辞学』(1977年)が,実体を持つ(テクスト)要素単位に対する「削除・付加・置換」を修辞技法としての基本的な変換操作と見做している点にある。遺伝情報の流れにおけるこの3種の変異パターンは,V.プロップの生物形態学的物語論で論じられている「形態」が更にダイナミックに還元され得る可能性を示唆しており,この意味において物語論はゲノム情報学と直接的に接合可能となる。
 一方で,実体的要素全般の変異において人間が知覚し得るパターンが結局それらの3種に集約されるものなのかという新たな問題が生じて来るが,それについては,人間の「知」が数少ない(遺伝的)法則に基づいているとするE.ウィルソンの些かファナティックな説(1998: Consilience - The Unity of Knowledge)の有効性を再検討する必要があろう。但し,伊藤報告における蛋白質の3次元構造の例が如実に示しているように,要素の2次元配列のみが必ずしも特定の機能の発現と対応していないことは明らかであり,2次元の要素連続に加えられた変換操作が見掛け上は単純であっても,次元の数を増やすことによって変異パターンはより複雑なものとなる。
 要素の次元数は他所でも示唆的であり,例えば,蛋白質の3次元構造における特定のアミノ酸同士の「架橋」は,機能和声において,同一の音要素による結合体が異なる調性=コンテクストでは対位法的な連結関係に基づく異なる機能を持つことと対比される。このように,諸テクストの要素単位への変換操作を観察する際に多次元構造を考慮することによって,より包括的な分析が可能となるのである。


小田淳一
odaj@aa.tufs.ac.jp