民話研究と情報科学

(このページは工事中につき完成稿ではありません)


<人文科学と情報科学>

民話研究は学問領域としては一応人文科学に属します。人文科学における情報科学の援用,平たく言えばコンピュータの利用は,テクストの実体的な構成要素であるを数値データと同じように切りだしてカウントし並べ替えるといったものから始まりました。つまり,具体的な作業としては語索引や辞典類の編纂,そして語彙統計などです。人文科学者はこれらの出力結果に対して昔ながらの分析を行うというのが通例であり,コンピュータ利用とはつまるところ補助的手段の一つだったわけです。より高度な分析(コンピュータを補助的なものではなく分析手法と不可分の関係にあるものとして用いる)を行おうとする試みもあったのですが,何故か(全般的には)低調に終わってしまった感があります。その理由としては,人文科学者側の要求とハードウェアの能力との乖離,人文科学者の数理的分析センスの欠如,人文科学に介入してきたコンピュータ専門家のユマニスト的教養の欠如などが挙げられるでしょう。

メインフレーム信仰が霧散してPC全盛時代になるとハードウェアの使い勝手の問題はある程度解消されましたが,ハードウェアの発達に気を取られすぎたせいか,大局的に見ればコンピュータの利用は相変わらず補助的手段に留まっているようです。扱う対象が,語から画像や音声に拡張されたり,処理速度が格段に速くなり,処理できるデータ量が格段に増えたとは言え(尤も,これだけでも寄与するところ大ですが)その分だけ,人文科学におけるコンピュータの利用が実学的方向に向かっている感は否めません。本来的に虚学である人文科学(科学と言ってしまうのがよくないんでしょう)が種々の都合で実学に向かうのは致し方のないことではありますが。

虚学の徒がコンピュータをマジに用いるならば,究極的にはその利用を分析手法と不可分の関係にあらしめ,しかも実学に向かうものではないことを常に念頭に置く必要があると言うのが筆者の私見です。もちろんその成果が実学で応用されても一向に構わないのですが。


<民話研究とコンピュータの相性>

民話研究と情報科学の結びつきを考える時,マクロ/ミクロ双方の観点から幾つかの相性が見られます。

データベースの一般的な利用形態の一つに,研究者自らが分析対象とする特定のデータを集めてデータベースを構築し,様々な検索結果から(あるいは結果に対してさらに他の処理を行うことによって),収録されたデータ全体に関わる何かしらの(マクロな)情報を得るというものがあります。要するに閉じた系=[重箱]の隅をつつきまわすことによって全体の形を知るわけです。
このような研究方法が最も有効なのは,データベースにおける一つのレコード単位が比較的小さく,データ項目の設定に工夫が凝らされている(つまりマクロな情報を引き出しやすいようなデータ項目が設定されている)場合です。
例えば,ある限定された(時代的にも地域的にも)ジャンルに含まれる物語を可能な限り網羅したデータをもとにデータベースを作るといった場合がそうです。これによって,ある特定のデータ項目の値に基づいてレコード単位同士の距離を測定することができ(無論その逆もできます,つまりレコード単位同士の距離からデータ項目間の関係性を探るというようなことです)幾つかの雄弁な出力を得ることになります。

次にミクロの観点ですが,これはデータ項目としてテクストそのものを 構成要素に切り出して格納する作業と関係します。
建前上は,テクストをある物理的な大きさを持つ要素単位に分解さえ出来ればそのあとは,テクストの構造解析をデータ構造のモデル化と処理アルゴリズムの問題に還元できるはずなのですが,本家本元のテクスト理論はそうは簡単にはテクストを要素単位にはしてくれません。取り分け意味レヴェルにおいてはテクストの理論は未だに科学性を得たかどうか定かではありません。要はどこから踏み出すかなのです。


<Narratometrics>

実を言うと,以上のような民話あるいは物語全般とコンピュータとの相性はプロップ,ベディエ,ヴェルセロフスキーらの萌芽的な理論からある明確な軌跡を描いて様々な研究領域と関連付けられているというのが筆者の見地です。
最初に物語とコンピュータについて言及したのは(間接的にですが)レヴィ=ストロース(『構造人類学』)だと思いますが,相前後して文学プロパーの方ではモティーフという(やや埃をかぶっていた)概念が再び脚光を浴びてきました。詳しくは別稿に譲るとして,そのモティーフを得るための読み行為の諸レベル(テクスト共同作業諸レベル)を体系づけたエーコのテクスト理論(『物語における読者』)においてはフィルモアの格文法グレマスの行為項概念が重要な契機となっています(エーコは触れていないもののテニエールの構造統辞論こそがフィルモアとグレマスに直接的な影響を与えています)。
言語学/記号学寄りのこれらの領域からいよいよ情報科学領域の方向へ向かうと,ノードとしてのテニエールから二つの分岐が見られます。その一つはフィルモアの格文法から人工知能研究による構文解析モデルへと向かうものです。フィルモアの理論は深いレベルでの意味論的関係を扱ったもので構文解析に用いられる文法としては最も有効であるとされています。しかしその一方で,意味解釈を表層構造においても行い得るとするいわゆる拡大標準理論を受け継いだジャッケンドフの解釈意味論は構文解析のもう一つの重要課題である,動詞群の基本的な概念(意味素)への還元という相において,より密接に構文解析と関わっているのです。
分岐の他の一つとしてはテニエールの図系とデータ構造としてのリスト構造との類縁関係が,知識情報処理におけるリスト構造の適用可能性へと向かっています。ここで注目すべきは,リスト構造における関数表記が意味論的ネットとしての述辞と他要素との依存関係を表現するのに適していること(ジャッケンドフ),そしてその述辞だけを取り上げるならばそれは民話の形態論における機能=関数モデル(プロップ他)ととほぼ同じものであるということであり,記述形式に関わるこの分岐はジャッケンドフやプロップにまで網状に延びていると言えるでしょう。

この俯瞰図から導き出される今後行うべき作業は,フィルモアの格からジャッケンドフの存在論的範疇に至る「スロット」の問題について,より知識情報処理分野に近いモデルを求めることに尽きるのです。

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