民話研究と情報生物学

(このページは工事中につき完成稿ではありません)


<民話研究になぜ「生物学」なのか>

かなり昔から「物語」は様々な表現で「生き物」になぞらえられてきました。まずは、隠喩としての「物語=生物」論の系譜を辿ってみます。個々の文献の詳細な情報は割愛しますが、探せばもっとたくさんあるはずです。

アリストテレース『詩学』(1459a)

[…]それ[ミュートス]は,初めと中間と終わりをそなえ完結した一つの全体としての行為を中心に,組みたてられなければならない。そうすることによって,それは一つの完全な生きもののように,それに固有のよろこびをつくり出すことができるだろう。

因みに松本仁助,岡道男による訳注にはこうあります。
「アリストテレースは,この語を一般的な意味(物語,フィクション,伝説,神話)で使用しているほか,さらにこの意味を深める形で,[中略](物語などの)構造とその原理という彼独自の意味で用いている。」

V.プロップ『民話の形態学』(第2版仏訳)

形態学という語が意味するのは型の研究である。植物学において,形態学として理解されているのは,ある植物の構成部分,構成部分相互の諸関係,そして構成部分と全体との諸関係の研究である。
物語の形態学という概念や用語があり得るとは誰も考えなかった。しかしながら,民話,民間伝承の領域においても,有機的組織に関する形態学と同じほどの精確さを以て,型の研究及び構造を支配している法則の確立が可能なのである。

S.トンプソン『民間説話』

[モティーフとは]口承伝統において生き続ける力を持つ物語の最小構成要素である。

関敬吾『昔話の構造』(関敬吾著作集5)

しかし,真の昔話は死物ではなく,それ自体一個の有機体として民衆の口と頭のなかで生きているのである。この意味で昔話は生物に比較される。昔話が,いつどこで,誰によって,何のために語られ,いかにして生きているかを問題にするのを,昔話生態学・昔話生物学と呼ぶ。昔話の機能・形態がその課題である。

N.ボーガールド「ファブリオーの定義」(第4回国際ルナール学会会議録)

私がここで概括している問題[ファブリオーという説話のジャンル問題]は、類似したものを分類するという問題を抱える生物学者にはお馴染みのものである。

R.アーウィン『必携アラビアン・ナイト 物語の迷宮へ』

文学を生物学用語で解釈するというのは、無論のこと、ただのメタファーにすぎない。しかしながらこのメタファーからは、豊かな実りが期待できるだろう。

とまぁ、理由付けは一応できるとは言うものの、人間の営為の産物は何であれ、産み出した当事者が生き物なのでそのかたちや振る舞いに生き物の臭いがするというのは当たり前と言えば当たり前ではありますが。

これらの「物語=生物」論という隠喩群は言わば分析手続き上のマクロなアナロジーと見ることが出来ます。 秋波を送られた当の生物学はと言えば、遺伝子や遺伝子産物(タンパク質及びRNA)のカタログ資産をもとに情報科学と結びつくことによって飛躍的に発展を遂げたことは周知の事実です。それらの分野は現在情報生物学=ゲノム情報学と呼ばれています。

ところが物語学の方では部分的に情報科学を援用してきたものの、それはあくまでも分析上の補助手段に留まっており、情報科学と必然的に結びつくための理論武装にまで至っていないというのが現状です。 話型、モティーフなどの実体的な「物語内容」はカタログ資産として有用であるにもかかわらず、現在の物語分析では実効性の点から物語内容よりも「物語表現」重視の傾向が主流とまで言われています。構造主義の揺り戻しが遅れてやって来たようなものです。

ここで分析対象としての物語内容の有用性の復権と「物語=生物」論を隠喩から解き放つには尋常なやり方ではどうも面倒臭いので

ゲノム情報学のツールを実際に民話の分析に用いる

ことから始めてみようというのが筆者の策略です。

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