1. 電気
     電力水力公社JIRAMAによって供給されている。220V/50hz。ソケットは、フランス式二又C型が標準であるが、まれに三つ又型もある。日本から家電製品を直接持ち込む時は、変圧器と交換プラグソケットが必要。日本のPCの多くは240Vまで対応しているが、アダプターからコンセントまでのコードソケットが対応していないので、PCを日本から持ち込む人は同時にフランスC型ソケットも用意すること。時々突然の停電や電圧の低下があるので、PC使用者は注意。雨季には落雷による停電もあるが、割合短時間で復旧する。とは言え、懐中電灯とロウソクの常備が必要。サイクロン襲来時は、電線や電柱の損壊による1週間以上停電の続くこともあることを覚悟のこと。マジュンガ市内の電力は比較的安定供給されてはいるものの、JIRAMAが石油販売会社に対して抱える負債が巨額なものにのぼったため、石油販売会社が発電用の軽油や重油の供給を停止する騒動が2005年に発生したり、あるいはマジュンガの火力発電所の発電機の老朽化による電力供給と需要のアンバランスによって、地区毎の計画停電が実施されたりしていた。2006年9月から安定供給状態にもどったものの、2007年4月に入ってまた電力供給の不安定やJIRAMA労働者のストライキ問題などが生じた。さまざまな要因によって停電が起きることを想定し、常日頃その対策を講じておくことが必要。

  2. 水道
     JIRAMAによって安定供給されている。マジュンガの水道の水源は井戸で、塩素消毒もなされているため、直接の飲料も可。ただし、マジュンガは海岸地域のため、水道水も微量の塩分を含んでおり、洗濯や石鹸の泡立ちが悪い。細菌感染などが気になる人は、煮沸消毒するか、<Sur l'Eau> の商品名で浄水剤が雑貨店・食料品店でも売られていて簡単に入手できるので、これを添加する。また、マダガスカル産を含めミネラルウォーターは、市内の各雑貨店・スーパーに豊富に出回っている。水道工事等により時々半日くらいの断水があるが、そのような時断水のお知らせは世帯毎に事前にはなされないため、1樽くらいの水を常日頃から汲み置きしておくと便利。マジュンガ市内のFMラジオ局では、水道工事による断水の際には、そのお知らせを放送している。サイクロンが襲来した時は、何日か断水することも珍しくないので、サイクロン襲来の情報が入った時は、水の汲み置きを用意しておくこと。汲み置きのためには、プラスチックの樽(bidon)をツァラマンドゥルス(Tsaramandroso)の市場やインド人の商店などで売っているので、これが便利。

  3. 燃料
     プロパンガス、電気、炭が、料理用の燃料。どの燃料とそのコンロも、入手は容易。都市ガスはなし。電気釜、電子レンジも電気店で入手可。炭と七輪も、プロパンガスが切れた時や、煮込みや焼き物には最適なので、用意しておくと重宝。マジュンガは南緯16度の海岸部のため、暖房器具は一年を通して必要なし。乾季は湿度が低いため、日なたでは35度でも室内に入ってしまえば必ずしもクーラーを必要とするわけではない。しかし、12月から3月の雨季は、最高気温こそ30度から33度の間でさほどではないものの、湿度が高いため、昼夜を通してクーラーがあれば快適。クーラーは家電製品の店で、入手可。扇風機は、安価な中国製品が大量にでまわっている。

  4. 医療
     国公立病院や大学の付属医院が町の中心部Androva地区とMahabibo地区に、キリスト教ルーテル派の医院が町の東はずれのAntanimalandy地区にある。マジュンガ大学歯学部の病院は、マジュンガベ(Majungabe)地区にある。処置料は安いが、研修医が処置するため技術は高くない。歯は日本でしっかりとケアしておくか、万が一の時は首都のアンタナナリヴで処置することがお勧め。内科と歯科の個人医院は多数あるが、対処できる事柄は自ずと限られている。電話で救急車による搬送を要請することが可能。日本をはじめ外国からの援助で改良されつつあるとは言え、マジュンガにおける医療水準は、首都に比べると全般に落ちる。入院・外科手術は可能でも、完全看護体制の病院はない。

  5. 衛生
     マジュンガは市内でも蚊が多いため、マラリア罹患の危険性は高い。しかし、マジュンガ市内の病院や薬局ではマラリア治療の体制が整っているので、市内だけに居住しているならば、蚊帳の使用や防虫剤の塗布など蚊を防ぐ手段だけを講じ、マラリア予防薬の定期服用をしなくても構わない。2006年6月から7月にかけ、レユニオンから伝染が広がったデング熱とチクングンヤ熱(あるいはチクングニヤ熱)が、マジュンガ市内でも流行したので要注意!!!デング熱とチクングンヤ熱には、予防薬も治療薬もなく、蚊による吸血を防ぐ以外に対策がない。デング熱、とりわけ出血性デング熱には、サリチル酸系鎮痛解熱剤(商品名アスピリン等)の服用が禁忌であり、マダガスカル滞在中およびマダガスカルから帰国した際の発熱や頭痛に鎮痛解熱剤を用いる時は、アセトアミノフェン系鎮痛解熱剤(商品名パレスタモール等)を服用すること。マラリアとデング熱を初期症状で区別することは専門医でも不可能であり、血液検査を行う以外に判別方法はない。マラリアとデング熱両者の汚染地帯では、マラリア罹患の可能性を消去することが大事であり、いずれにせよ専門医の診察を速やかに受けること。現在マジュンガ市内では、デング熱とチクングンヤ熱の流行期を脱しているが、これらの感染症の基になるウィルスが消滅したとは考えられないので、今後常に警戒が必要である。マジュンガ市内ではこの他にも、1997年から1998年にかけてコレラ、1993年頃にペストの発生と流行が生じたが、現在では沈静化しており、それについてことさら神経質になる必要はない。
     薬局は市内に多数ある。品揃えも、首都アンタナナリヴに準ずる。
     野菜や果実が豊富に出回っているが、回虫・蟯虫・嚢尾虫・ランブル繊毛虫・アメーバ赤痢やA型肝炎ウィルス・病原性大腸菌・細菌性赤痢による汚染、また残留農薬の心配があるので、生食する際は中性洗剤で良く洗うことを心がけること。特に、皮を剥かずに生食することが基本のイチゴ(マジュンガでは栽培されていないため、首都のアンタナナリヴなどから搬送されてくる)は、要注意!ゴキブリとネズミが多いので、日本からゴキブリ用薬剤と殺鼠剤を持参すると役に立つ。市内でその被害にあったことはないが、農村部にはノミや南京虫が多い。噴霧式や粉状の殺虫剤は市販されているが、燻蒸用にバルサ剤を持ってゆくと多少はその被害を防止できる。また、皮膚に塗る虫の忌避剤やかゆみ止めは自分の肌にあったものを日本から持ってゆく方がベター。ノミに咬まれた時は掻かないこと!!!炎症がひどい時は、抗ヒスタミン剤を服用するか抗ヒスタミン剤の入った塗布クリームが有効。一年くらい咬まれまくるとだんだん身体が慣れてくる。
     石鹸・歯磨き・歯ブラシ・カミソリ・爪切り・石鹸・シャンプー・リンス・クリーム・基礎化粧品・洗濯洗剤・中性洗剤・トイレットペーパー・ティッシュ・生理用品・コンドーム等は、<こだわり>がなければ時々品切れの事があるにしても何とか入手可能。また、マジュンガを含め海岸部の都市は紫外線が強いので、サングラスと共に日焼け止めクリームを持って行った方が良い。それから、水虫もあなどることができず、また治療薬は日本の方が種類豊富なので最新の物を持ってゆくことがお勧め。
     トイレは簡易浄化槽を伴った水洗式が多いが、民家では溜め坪式も普通。マジュンガ市内でも、南部からの出稼ぎの人たちは、トイレを作らない場合もある。マジュンガでは、水浴室での水シャワーか水浴びが一般的。6月から8月は、冷水でのシャワーが冷たく感じられることもある。
     2005年、マダガスカル政府機関から狂犬病流行に対する注意喚起が出された。狂犬病の予防注射を行ってゆくことが望ましい。それでも犬はもちろんのこと猫や野生動物にむやみに近づいたり手を出したりしないこと。万が一動物に咬まれた時は、咬んだ動物を捕獲し(生きていても死んでいてもいずれでも構わない)、その動物と共に即刻医師の許に行き手当を受けるか指示を受けること。動物の死体にも触らないこと。
     性病はマダガスカル全土において都市部および農村部を問わず、HIV・梅毒・淋病・軟性下疳・鼠径リンパ肉芽腫等および毛虱があるため、十分にその危険性を考慮の上、行動すること。
     眼鏡専門店は、マジュンガベ(Majungabe)地区に一軒。したがって、眼鏡やコンタクトの入手と調整は、日本もしくは首都アンタナナリヴで行うこと。日本でコンタクトを常用する人は、万が一の時や乾季に埃が多いことを考え、眼鏡を必ず持ってゆくこと。

  6. 治安
     マジュンガ市内におけるスリやひったくりは、首都アンタナナリヴに比べずっと少ないが、空き巣泥棒は多い。多額の現金を持ち歩かないこと、ポケット特にズボンやパンタロンの後ろポケットやバックに多額の現金を入れないこと、パスポートや身分証明書、それにクレジット・カード類は、現金と別にし、肌身に直接携えることは、マジュンガ市内でも心がけた方がベター。銀行で多額の現金をおろしたり、換金したりする時は、とりわけ女性の場合は複数で行き、その場からすぐにタクシーを拾って帰宅することが望ましいことは、首都アンタナナリヴと同じ。市場等に買い物に行く時は、必要最小限の現金だけを財布に入れること。Mhabiboの市場にはスリが居るので、財布や携帯電話などには十分に注意すること。戸締まりは、扉に複数の鍵をつけること。外出時は、こまめに施錠すること。犬を飼うことができれば、ベター。それから、あまり親しくもない人に、自分が家に不在である時間帯や期間を言わないこと。夜間外出の際は、憲兵隊員による身分証明書の検査も時としてあるので、携帯を忘れないこと(アンタナナリヴの夜の外出の際には、必携 最近、中国人の不法滞在に対する取り締まりが強化されており、中国人と間違われやすい日本人に対して昼間でもパスポート等の提示を警察官が求めてくることがあるため、パスポートのコピーないし身分証明書をいつも身につけておいた方が良い)。マジュンガは、マダガスカルの大都市の中では、例外的に夜の治安が良い。午後11時くらいまでならば、街灯の明るい大通りを歩いている限りは、さほどの心配はない。一般の市民が散歩している時間帯までは、外国人が夜間出歩くことも可。ただし、人通りの少ないマジュンガべ地区では、プスに乗ったり、徒歩で移動中の外国人が強盗に襲われた事件も発生しているので、注意が必要。午前0時から午前4時くらいまでの移動は、タクシーないし車を用いること。
     電話による緊急連絡を警察署や憲兵隊駐屯所で受け付けている。電話番号は、新聞やテレビに出ている。ただし、警察官の出動を要請するとガイジンの場合には、チップないし特別報酬を要求される事が多いので、その覚悟と心づもりが必要。とりわけ犯罪被害証明書の作成は、<有料>。市内には警察署(comissariat)と憲兵隊駐屯所(gendarmerie)の二つがある。フランスの治安方式に倣っているため、警察は市街地の管轄、憲兵隊は田舎や地方を管轄することになっている。

  7. 通信・コミュニュケーション
    1. 郵便
       郵便局は、カトリック大聖堂前の中央郵便局とSOMAPECHEのある港に近い後述する小包局の二局。日本との間の航空便の所用日数は、10日から二週間。不着で困る郵便物については、日本から送る時も、逆にマジュンガから送る時も<書留>(recomandé)扱いにすること。航空書簡や定額航空便封筒もあり、それらは切手を貼る必要がないので、地方から日本宛てに通信文だけを送る時は便利。マダガスカルの切手には、マダガスカルの動植物を図案したものがあり、日本での評判が良い。マジュンガ市内だけに限って言えば、航空郵便物や小包の不着事故は、少ない。

    2. 電話
       家庭内の固定電話を除くと、公衆電話ボックスや郵便局にカード式電話器が設置されている。公衆電話から日本までの国際電話をダイヤル直通でかけることが、可能。ただし、その時は度数の大きいテレフォンカードを複数用意すること。公衆電話ボックスも、稼働率は高い。携帯電話は、ZEIN(旧CELLTEL)、ORANGE、TELMAの三社がサービスネットワークを展開。日本で言うプリペイド方式携帯電話。身分証明書(外国人登録証 パスポートは不可)があれば、その場で簡単に購入することができる。携帯電話からの国際電話の発信と受信の双方が、可能。日本の携帯電話は、NTTDOCOMOおよびソフトバンクの海外ローミングモデル機種以外、使用できない。携帯電話の通話可能エリアは、市街地に限定されている。2006年から、TELMAが無線式固定電話を通話時間に関係なく国内通話月額59000ariaryの定額パック料金とするサービスを開始し、インターネット接続を自宅で行うには便利。ただし、回線速度が遅く、接続の安定性にも問題があり、現在のところは、メールの送受信用と考えた方が良い。2008年、インターネット接続会社MOOVから、モバイル用カード式キットが販売され始めた(通信速度 384kbps)。今後、この方式のインターネット接続サービスが、増えるものと予想される。

    3. FAX
       一部商店に設置されていて、有料で利用可。

    4. 小包
       日本と異なり、どこの郵便局ででも小包の発送や受け取りができるわけではない。港の近くに小包郵便局(Colis Postaux)が一局あり、そこが窓口となる。日本から住所宛てに小包を発送しても、送達状が住所に届くだけで、受取人はその送達状を持って、小包郵便局に出向いて受け取らなければならない。小包郵便局には税関の窓口支所があり、ここで受け取り・発送双方の際に内容物の検査を受ける。小包受け取りの際には、引き渡し手数料が徴収され、また内用品によっては関税を徴収される。所用日数は、航空郵便とほぼ同じ。ただし、EMS便を使うと一週間前後で到着する。日本から送ったEMS便はマジュンガ市内に届くが、マジュンガ市内の郵便局ではEMS便の取り扱いを行っていない。航空便で日本まで限度いっぱいの20kgで、ほぼ40万ariary、すなわち2万円ちょっと。またDHLも、小包と書類の運送サービスをマダガスカルと海外の間で行っている。20kgを日本に送った場合、およそ6万円から7万円。マジュンガのDHL事務所は、BNI Madagascar銀行の斜め向かい近くにある。

    5. インターネット
       マジュンガベ(Majungabe)地区のWanadoo.mgなどプロバイダーが市内にあり、サイバーカフェも出来始めてはいるものの、インターネット・アクセスの利便性は、首都アンタナナリヴに比べだいぶ劣る。ADSL回線の導入が、始まっている。また、2008年からカード式モバイルキットが、インターネット接続会社の最大手MOOVから販売されるようになった。

    6. テレビ
       地上波放送局は、RTA、TVM、MBSの全国放送ネット系とローカル局M3TVの4局がある。フランス語番組が多い。ニュースや天気予報は、フランス語とマダガスカル語の二つ。M3TVのニュースはマジュンガ市内の話題を伝えるので身近な上、方言による番組を製作することもある。受像方式は、フランスと同じSECAM方式。衛星放送会社には、CANAL SATELITEとPARABOLEの二局がある。パラボラ・アンテナを装備すれば、マダガスカルでもNHKの衛星放送が受信できるようになった。

    7. ラジオ
       FMと短波放送がある。FM放送局は市内だけでも複数ある。音楽番組が主体だが、地元のニュースやお知らせ(病人、葬式、改葬、人捜し、落とし物、催し物など)を伝えるので、情報発信源としての役割は大きい。ただし、ローカルなFM局は、マダガスカル語放送が多い。RM(ラジオ・マダガスカル)の短波放送は、フランス語番組とマダガスカル語番組の混交。中国製などのラジカセが、安価に出回っている。田舎では短波放送しか受信できないので、田舎に行く予定のある時は、日本で高性能の短波ラジオを購入したほうが良い。NHK海外向け短波放送は、電波の状態が良ければ、受信可能。

    8. 新聞
       首都アンタナナリヴで発刊された新聞が、飛行機やタクシ・ブルースで運ばれてくるため、一日遅れで書店や文房具店などに届く。またマジュンガ市内で売られている新聞の種類は、首都に比べ少ない。マダガスカルの新聞には、フランス語のみ、フランス語とマダガスカル語の混交、マダガスカル語のみの三種類がある。

    9. 本屋・図書館等
       本屋は、MajungabeのLibrairie de Madagascarをはじめ市内に数軒。雑誌と小中高生の学習書中心で、品揃えは良くない。図書館は、公共図書館があるだけで、本の種類も限られている。古書店は、無いに等しい。本、辞書、地図などの入手は、首都アンタナナリヴで済ませたほうが良い。

  8. 交通
    1. バス
       固定料金の300ariary/1500FMG(約20円)。降車時などに車掌に直接現金払い。回数券・カードなし。車輌の種類は、荷車タイプからマイクロバスタイプまで様々。およそ午前6時頃から午後9時頃までの路線運行。夜間は、運行されていない。時刻表なし。系統番号と行き先と経由地が表示されている。ブザーボタンなどは無いので、途中の停留所で降車する時は、“Misy miala!”(ミシ・ミアーラ)「降ります!」とマダガスカル語で降車の意志を表明すること。マジュンガ市内のバス路線は、およそ12系統。首都のアンタナナリヴほどには系統が複雑ではない上、本数も多いので、路線番号と行き先、途中経由地を覚えると安く市内を動くことができる。市内には路線番号を書いたバス停の標識もあるが、標識の無い所も多いため何処がバス停かは、人に訊くと良い。バスの室内と椅子、清潔で快適とは言い難いが、マジュンガ市内は交通渋滞がほとんどないため、長時間室内に閉じこめられることがない上、首都アンタナナリヴに比べれば室内でのスリなどの物盗りがはるかに少ないので、安価な公共交通として積極的に利用して欲しい。

    2. タクシー
       メーター制タクシーは走っていない。首都アンタナナリヴと異なり、昼間市内を走るだけならば、3000ariaryの定額のため、乗る前の料金交渉は必要なし。ごく近場ならば、2500ariaryでも可。空港やZAHAMOTELあるいはGrands Pavoisなどの海岸に行く時などと夜間だけは、運転手との交渉が必要となる。5000ariary札や10000ariaryなどの高額紙幣しか手持ちがない時は、運転手にその旨を乗ってから伝えること。そうしないと、運転手に釣り銭の準備がない場合が、よくある。マジュンガは、タクシー1台につきいくらと言う料金システムなので、定員内であれば一度に何人乗っても同一料金。Antsohihyなど、地方では、乗客一人につきいくらと言う料金システムなので、他の町に行った時は、運転手に確認のこと。現在では、携帯電話を持ったタクシーの運転手が増えたので、気に入った運転手と出会った時は、彼の携帯電話番号を教えてもらうと後々いろいろと便利。

    3. 車とレンタカー
       車輌本体だけの貸し出しも、運転手付きの貸し出しもある。日借り料金システムと走行距離料金システムの二つがある。保険料とガソリン・軽油代も借り手負担のため、レンタカー代は、日本で借りるのと大差がないほど、高い。車種は、四輪駆動車・通常乗用車・ミニバンなど。ガソリンスタンドは市内に5ヶ所あり、ガソリン・軽油・灯油の入手に苦労はない。トヨタの販売代理店、ニッサンの販売代理店、三菱の販売代理店が、市内にある。車の修理工場は多いが、自動車部品は在庫が少ないため、部品交換の修理には時間がかかる。道が良いところならば、タクシーを交渉して借り上げた方がレンタカーよりも安いことが多い。2006年からアルコール検知器の導入が始まったため、夜間の運転時には酔っぱらい運転に注意のこと。また、ドライバーのシートベルト装着が義務化され、まだ一般車両に対してはさほど厳しくはないものの、追々取り締まりが強化される恐れがある。

    4. スクーター・オートバイ
       スクーターとオートバイは、中国製の新車が市内で購入できる。特に、原動機付き自転車は免許が要らない上、価格も6万円から7万円で買うことができる。ただし、首都よりも運送費がかかっている分、値段は高い。中古車は、個人的なつてないしバーなどに掲示を出して捜すしかない。2006年から、スクーターとオートバイの運転者には、ヘルメットの着用が義務化されたが、暑い土地のため、雨季には装着の取り締まりが緩和されている。

    5. 自転車
       5000円から1万円で中国製などの新品を購入することができる。マジュンガの町は概ね平坦なため、自転車があると便利。

    6. プス、プスプス(Poso, Posiposy)
       人力車のこと。二人乗り。庶民の手軽な足として利用されている。料金は人力車の車夫との交渉。料金は、距離・乗車人数・時間帯・目的地までの道の状態などによって異なる上、<ガイジン>の場合はかなりふっかけてくるので要注意!タクシー料金の三分の一が目安。ちなみに、マジュンガのタクシー料金は、昼間が3000ariary。プスは夜間・深夜でも営業している。

    7. タクシ・ブルース(Taxi-Brousse)
       陸路を長距離移動する時の最もポピュラーな移動手段。市庁舎前のロータリーより南側の大通りが、マジュンガ市のタクシ・ブルースの発着所。タクシ・ブルースの利用方法の詳細については、私のHPの「その名はタクシ・ブルース マダガスカルを疾走中」を参照ださい。首都アンタナナリヴまでは、約10時間から12時間の走行時間である。また、アンブンドゥルマーミ(Ambondromamy)からディエゴ・スワレスに向かう国道6号線も最近整備が急速に進み、来年2007年頃には全線再舗装が完成すると思われ、タクシ・ブルースでの移動も楽となった。Air Madagascarが、採算のとれない地方路線便の廃止を進めているため、自家用自動車を持たない人はタクシ・ブルースを利用する必要性が高まっている。マルヴアイ(Marovoay)やアンブルマランディ(Amboaromalandy)などの近郊から、ディエゴ・スワレス、あるいはチュレアールやフォードーファンなどの超長距離便まで様々な行き先のタクシ・ブルースが乗り入れている。現在のタクシ・ブルースの発着所は会社および車輌共に飽和状態であり、町の東に新しい発着所を建設する計画があるが、まだ着手されていない。またこの発着所においてタクシ・ブルースを乗降する際には、荷物や所持品を盗られたり、財布や携帯電話を摺られたりしないよう注意をすること!

    8. 空港
       マジュンガ市の空港は、市内から7km北に行ったアンブルヴィ(Amborovy)地区にある。初代大統領の名前をとって、フィリベール・ツィラナナ空港と名付けられている。小さな空港だが、西側が国内線専用ゾーン、東側が国際線専用ゾーンとなっている。国際線には、レユニオン島からマヨッテ島を経由してマジュンガに至る路線のAir Austral、アンタナナリヴを出発しマジュンガとグラン・コモロ島を経由してナイロビに至る路線およびマジュンガを経由してマヨット島に到る路線のAir Madagascar、そしてコモロの各島とマジュンガを結ぶComore AviationとRoyal Aviationがある。国内線は、アンタナナリヴとの間で毎日便がある他、ディエゴ・スワレス、ヌシ・ベ行きの便、ムルンダヴァ行きの便、アンツヒヒー(Antsohihy)、ベサランピ(Besalampy)、スアララ(Soalala)、マンドゥリツァーラ(Mandritsara)などの地方都市に行く便が就航している。

  9. 衣料
     中国製・マダガスカル製の衣料やマダガスカル製・タイ製・インドネシア製・インド製の布地が出回っており、安価で実用には問題なし。仕立屋さんやお針子さんもいるので、オーダーも可能。ただし、首都アンタナナリヴに比べると衣料品は値段が高く、またチョイスの幅も限られる。マジュンガでは、6月から9月の間でも、日中は30度に達するため防寒のための衣料は必要ない。公務員も軽装であり、政府上層部が出席するセレモニーや結婚式やスワレ(夜会)などよほどの機会でもない限り、スーツやドレスを着用することはない。ただし、乾季は一日の気温の差が10度以上あるので、重ね着をして体温の調節をはかる事が大切。寝具として、5月から8月頃までの朝の最低気温が20度を割る際には、毛布が必要となることもある。逆に雨季は、シーツないしバスタオル1枚で十分。

  10. 娯楽
    1. レンタルビデオ店
       レンタルビデオやDVD・VCD店が、マハビーブ(Mahabibo)地区やツァラマンドゥルス(Tsaramandroso)地区に何軒かあり。

    2. 映画館
       現在はなし。映画は、テレビで放送されるものを見るしかない。午前、午後、夜と映画は、テレビでよく放映されている。DVDやVCDのソフトが安く売られているので、それらのプレーヤーを買い求め、楽しむこともできる。

    3. 催し物
       催し物の情報は、地元FM局のお知らせのコーナー、町に貼られているポスターから得ることができる。7月から8月のバカンスのシーズン、12月の年末、4月の復活祭の頃に有名ミュージッシャンのコンサートが開催されることが多い。マンガリーヴチャ(Mangarivotra)地区にある<文化会館>(Maison de la Culture)もしくはその敷地のバンザ・トゥアラーザ(Banja Toalaza)で、音楽の催しものが開催されることが多い。他には、ソワレ(soirée)として、後述する ZAHAMOTEL, Hotel Boina Beachなどのホテルで、ライブが開催されることが、時々ある。

    4. ディスコ
       マジュンガ市内には、ラヴィナラ(RAVINALA), サン・アントニオ(Saint Antonio)など、常設のディスコあり(サン・アントニオは、バカンス・シーズンなどを除き最近は週末のみの営業になっている)。2008年にマジュンガベ地区に新しくシャキラ(Shakila)が開店し、今はここが一番の人気。新装のため、室内も調度も清潔である。マダガスカル全体の傾向として、生バンド演奏の行われるディスコはごく少数。マジュンガにも、生バンド演奏の常設ディスコはない。ディスコで流される曲は、アメリカやヨーロッパのポップ、アメリカの黒人ヒップホップ、カリブのレゲエ、アフリカのリンガラ、マダガスカルのダンス音楽と幅が広い。入り口でチケットを買い、それがワンドリンクとセットになっているシステムが多い。ディスコの開場は午後10時、人が集まってくるのは11時以降、最盛期は午前2時頃。週末の金曜日と土曜日以外は、バカンス・シーズンでもない限り閑散としていることも多い。ディスコの周囲には、深夜でも必ずタクシーが待っているので、帰りの足を心配する必要はない。服装コードはなし。サン・アントニオは、海のすぐそばにあってロケーションが良いため、天気が良く月の明るい夜は、踊らずともそこで時を過ごすだけでも楽しい。最近市内のBARでは、生バンド演奏(cabaret カバレーと呼ぶ)を入れる店が急増している。特に金曜日と土曜日の夜は、カバレー目当ての客で混むBARが多い。このようなBARでのカバレーでは、そのための料金を支払う必要はなく、ドリンクをとるだけで席に座ることができる。

    5. ジム・スポーツクラブ等
       ジムやフィットネスクラブが、ぼつぼつとでき始めている。プールについては、Hotel La Piscine、ZAHAMOTEL、Sunny Hotelなどホテル併設のプールを、料金を払って利用するしかない。空手の道場やクラブが、市内に何ヶ所かある。柔道のクラブもある。公共のスポーツ施設の利用については、市内陸上競技場の東隣にあるスポーツ・青年省(Ministere des Sports et Jeunesses)の支所に問い合わせてみると良い。マジュンガ市内の西側の海でも海水浴することは可能だが、潮の流れが複雑なこととサメがいるので、控えたほうが無難。市内から北に10km行った、グラン・パヴワ(Grand Pavoi)やセルク・ルージュ(Cerque Rouge)辺りの海は、海水浴場として整備されている上、ベツィブカ(Betsiboka)河から離れているので、海の水も比較的きれいで安全。さらに北に20kmのアンツァニティア(Antsanitia)にまで行くと白砂のビーチがある。そこには2006年にオープンしたばかりの、バンガロー形式のAntsanitia Resortホテルがある。

    6. 音楽ソフト販売店
       専門店は、マハビーブ(Mahabibo)とツァラマンドゥルス(Tsaramandroso)地区にある。他は、マハビーブ近辺の路肩の露店。ソフトの数は、首都アンタナナリヴに比べると少ない。ビデオやVCDと一緒に違法コピーないし中古のCDやカセットを売る露店も多い。オリジナルのVCDは4000ariaryから5000 ariary、コピーの海賊版は2000 ariary から2500ariaryの値段。

    7. 美容院・理容室
       美容院はたくさんあり、理容室と兼用の美容院もあるが、男性用理容室だけの店は少ない。首都アンタナナリヴに比べ、技術はいま一つ。特に美容院の料金は使う用具や素材が首都で調達されるため、首都アンタナナリヴよりも高い。

    8. 行楽地
       カツェピ(Katsepy):ベツィブカ河(Betsiboka)を渡ったマジュンガの対岸の町。シェ・マダム・シャボー(chez Madame Chabaud)の支店のレストランやホテルもある。一日2回、朝と夕方、フェリーが往復する。マジュンガの町の人たちの手頃なピクニックなどの場所。乾季ならば、この町からさらにミツィンズ(Mitsinjo)に行くタクシ・ブルースがある。
       キンクーニ湖(Kinkony):6月から10月頃までの乾季しか行くことができないが、カツェピの町から63km離れたミツィンズ(Mitsinjo)の町に出て、そこから20kmほど南に行ったところにある、アラウチャ湖(Alaotra)に次ぐマダガスカル第二の内水域面積を持つ湖。水鳥の宝庫であり、またその周辺にはキツネザルなども多数生息している。
       マンガツァ池(Mangatsa):空港から12km北東に行ったところにある池。それほど大きな池ではないが、池の水はマダガスカルにしては珍しくたいへんに透明度が高く、大小さまざまな魚が生息している。この池は、この池を造った初代大統領ツィラナナ(Tsiranana)に因んで「ツィラナナの池」(dobo Tsiranana)とも呼ばれている。この池は、マジュンガの町の人びとが願をかける場所となっており、池の周囲のマンゴーの樹には、願をかけたことを示す赤や白の布が巻かれており、また願がかなった供犠を行ったことを示す牛の頭蓋骨が枝にかけてあったりする。そのため、この池を汚したり、あるいはこの池の魚を獲ることは、禁忌となっている。
       セルク・ルージュ(Cirque Rouge):空港から北に4kmほど行った海岸の近くにある。自然に雨水によって浸食された土地が、赤・白・青・黄色などカラフルな色の地層を露呈している。この近辺の海岸(Grand Pavois)は、ベツィブカ河の赤い水の影響も少なくきれいであり、マジュンガ町の人びとのポピュラーな海水浴場となっている。8月のバカンス・シーズンには、首都アンタナナリヴからやって来た海水浴客で、ごったがえす。
       アンズヒベ洞窟(Anjohibe):アンタナナリヴに向かう国道4号線をマジュンガの町から19km行ったところを左折、そこからさらに63km行った所にある鍾乳洞。道が悪いため、5月から10月頃の間に、四輪駆動車をチャーターして行かなければならない。現地にガイドは居るものの、洞窟内の設備は整っていないので、懐中電灯はもちろんのこと、汚れても良い服装やヘルメット、しっかりとした靴などを用意した方が良い。
       アンツァニティア海岸リゾート(Antsanitia):空港から北に18km行った海岸に2006年にオープンしたばかりのリゾート・ホテル。バンガロー形式。プール、レストラン完備。マジュンガの町からは送迎のための、四輪駆動車とヨットが出ている。白砂の海岸。雨季は閉鎖。
       アンカラファンツィキャ国立公園(Ankarafantsika):マジュンガの町から首都アンタナナリヴに向かう国道4号線を100kmから110km行った辺りに広がる、13万ヘクタールの国立公園。マジュンガの町から110kmほど行った森の中のアンピズルア(Ampijoroa)にANGAPの事務所があり、ここで入園の手続きをとった上、ガイドを雇う。アンピズルアまでは完全舗装であり、マジュンガからは1時間半から2時間の道のりである。ワニの生息する池をはじめ、動物・植物が豊富である。ドイツの援助で公園の整備が行われ、アンピズルアには宿泊施設、キャンプ施設が完備している。京都大学を中心とした鳥や爬虫類などの若手研究者たちが、ここで研究調査を行っている。雨季のほうが、植物が開花し、動物も活発に動くためウヲッチングには適しているが、公園内はメフロキン耐性のマラリアが流行しているので要注意!

  11. 宿泊
     マジュンガ市内には、上から下まで各種のホテルあり。安いホテルは、トイレとシャワーが共同。一泊15000ariaryくらいのホテルから、室内にトイレとシャワーが完備する。30000ariaryくらい出すと、クーラー付きの部屋になる。VISAカードで支払いのできるホテルもある。

     専門家向けホテル
     ZAHA MOTEL:JICAが造ったエビ種苗センター近くの海岸沿いにある。トイレ、シャワー、冷房、テレビ完備の個別ペンション形式。プール、レストラン等も完備するが、レストランは美味とは言い難い。エビ種苗センターを手がけた派遣専門家の数名は、ここに長期宿泊していた。ただし、市内までは自動車で20分くらいかかる。
    Sunny Hotel:市内から空港に行く道沿いにある。レストラン、25mプールやテニスコート完備。部屋は、クーラー・テレビ付き。日本大使館関係者がよく利用。トヨタ自動車の代理店RASETAが、同じ敷地内にある。バス通り沿いだが、市内からは少し遠い。
    Anjary Hotel:マジュンガベ(Majungabe)のBOA銀行の東100mほどに位置する。レストランはないが、真向かいに中華料理店のサンパン・ドゥ・オール(Sanpan d'Or)がある他、歩いてゆける範囲内にパン屋やレストランがあって便利。6階建てで、エレベーター付き。クーラー・テレビ完備。上層階は、眺めが良い。部屋も広い。利便性、清潔さ、部屋の広さ、室内装備、値段を総合すると、個人的にはお勧めのホテル。
    Akbar Hotel:マジュンガベ(Majungabe)地区のマジュンガ大学歯学部病院の前に位置する。クーラー完備の部屋と扇風機付きの部屋の2種類。レストランはないが、Hotel de FranceやBNIなどの銀行に近く、便利。4階建て。部屋は割合に広い。
    MADA Hotel:2005年オープン。ツァラマンドゥルス(Tsaramandroso)市場とマハビーブ(Mahabibo)市場の中間にある。レストラン、バーあり。クーラー・テレビ完備。8階建てで、眺めが良い。部屋は新しく清潔だが、あまり広くはない。
    Hotel New Continental:マジュンガベ(Majungabe)のバザーリ・ベの大通りに面している。レストランはないが、レストランPakizaなどに近く便利。4階建て。クーラー完備。部屋は、あまり広くはない。欧米のビジネスマンや協力関係者が、よく利用する。
    Hotel du Vieux Baobab:マジュンガベ(Majungabe)のバザーリ・ベの大通りに面している。レストランはないが、隣りがレストランPakiza。4階だて。冷房完備の部屋と扇風機付きの部屋の2種類がある。利便性が高く、衛星テレビもついた機能的な部屋だが、狭い。
    Hotel La Piscine:海岸に面したマジュンガを代表するホテル。50mプール、レストラン、ディスコ、バー、カジノなど全てが備わっている。全室クーラー・テレビ完備。3階建てだが、マジュンガの湾を一望するロケーション。ただし、海側の部屋と陸側の部屋とでは値段が大きく違う上、レストランは値段ほどには美味しくはない。ホテルの真向かいにフランス料理店があり、こちらのほうが食事はお勧め。日本大使館関係者やJICA関係者もよく宿泊する。
    Hotel Coco Lodge:マジュンガベ(Majungabe)地区のマジュンガ地方裁判所の並びにある。2階建てのこじんまりしたホテルだが、部屋はクーラー・テレビ完備で、落ち着いた雰囲気。レストランはないが、レストラン・パキザ(Pakiza)やHotel de Franceへも歩いてそう遠くはない。
    Nouvel Hotel:マジュンガベ(Majungabe)に位置し、すぐ近くにスーパーのSCOREがあるなど利便性は良い。4階建て。レストラン、バー付き。全室クーラー・テレビ付き。ただし、部屋は狭く、町中のため眺めも良くはない。マルハ関係者や一部JICA派遣専門家が宿泊。
    Hotel Les Roches Rouges:モザンビーク海峡を望む、小高い丘の中腹に位置する。静かな地区にあるが、少し町の中心街からは遠い。レストラン完備。部屋もクーラー・テレビ付き。2004年に改装したばかりなので、室内はきれい。マジュンガに来る日本大使館関係者の多くは、Sunny HotelかHotel la Piscineもしくはここに宿泊する。ミュージッシャンを呼んでスワレが、行われることもある。
    Hotel Boina Beach:道路をはさんで上記のHotel Les Roches Rougesの西斜め下に位置する。2階建て。レストラン完備。クーラー・テレビ付きの部屋もある。部屋は、あまり広くはない。町の中心街からは、少し遠い。
    Hotel de la Plage chez Karon:マジュンガの町の石油貯蔵施設の近くの海岸沿いに位置する。町の中心部からは少し遠い。部屋はシンプルだが、レストランは、マジュンガでも一二を争う中華料理を出す。
     Hotel Le Tropicana:中央郵便局の前の通りをまっすぐ北に上がったマンガリーヴチャ(Mangarivotra)地区にあるバンガロー形式のプチ・ホテル。眺めはよくはないが、奥まっていて落ち着いた雰囲気。レストランはプールサイドにあり、料理は<本日のお勧め>(Plat de Jour)しかないものの、かなり上等。郵便局など町の中心街に近く、便利。 Hotel Sofia Satrana:ツァラマンドゥルス・アンブーニ(Tsaramandroso Ambony)にある3階建てのホテル。部屋はテレビ付きだが、クーラー付きか扇風機付きかの2種類。ツァラマンドゥルス(Tsaramandroso)の市場には近いが、町の中心街からは少し遠い。欧米のビジネスマンやミッション関係者が、割合よく利用。

     学生旅行者・協力隊員向けホテル
     安価なホテルは、ラブ・ホテルや売春婦の連れ込みとして使われることが多いので、そのことを覚悟すること。
    Hotel Kanto:アンドゥルーヴァ(Androva)の丘の麓にあり、海を見渡し眺めが良い。個別ペンション形式。レストランあり。ただし、部屋は扇風機のみ。
     Hotel Voanio:マハヴーキ・アツィム(Mahavoky Atsimo)に位置する2階建てのホテル。部屋は、扇風機のみ。レストランなし。町の中心街から少し遠いが、バス停が近くにあり、またバス通りから奥まっているので、静か。
    Hotel Le Kismat:マジュンガベ(Majungabe)の市場バザーリ・ベの東側にあるため、利便性は良い。ホテルと道をはさんで南側にレストランがある。4階建て。5階部分を現在、増築中。クーラー付きの部屋と扇風機付きの部屋の2種類がある。安いため、インド系の人びとがよく利用する。
    Hotel Rahate:マジュンガベ(Majungabe)に位置する。2階建てだが、現在3階部分を増築中。部屋は、扇風機のみ。温水シャワーとトイレは、室内に完備。レストランはないが、少し歩けばバザーリ・ベ地区に出るため、利便性は良い。
    Hotel 7/7:アンパシキャ(Ampasika)地区にある4階建てのホテル。クーラー付きの部屋と扇風機付きの部屋がある。レストランはないが、少し歩けば郵便局、スーパー、レストランがあるので、不自由はない。
    Hotel Patel:ツァラマンドゥルス(Tsaramandroso)地区に位置する。3階建ての安めのホテルだが、室内にシャワーとトイレ完備、クーラー付きの部屋もある。レストランはないが、市場や商店街に近いため、不自由はない。協力隊員が長期宿泊している。
     Hotel chez Madame Chabaud:マンガ(Manga)地区の少し裏通りにある。旧館と新館があるが、部屋はシンプル。旧館の東隣にRestaurant Madame Chabaudがあるが、ここはマダガスカルでも指折りのフランス料理のレストラン。団扇エビ、魚のカルパッチオなど、マジュンガならではのメニューもある。
     Hotel Tropique:マジュンガベのBOA銀行の南にある安ホテル。部屋には冷水シャワーがあるが、トイレは共同。1階は食堂となっており、そこのキモ(挽肉料理)はお勧め。
     Hotel Nassib:マジュンガベのBOA銀行の西南にある安ホテル。室内に冷水シャワーがあるが、トイレは共同。部屋だけで食堂などはない。

  12. 買い物

       【マダガスカルの通貨表示について】
     マダガスカルでは、これまでマダガスカル・フラン(Franc Malgache、FMGと省略表記)とアリアーリ(ariary)、二つの通貨表示がなされていたが、2005年1月1日から、アリアーリに統一された。けれども、町中の生活では、二つの通貨表示が併用されているため、両者について説明する。マダガスカル・フランとアリアーリの表示は等価ではなく、5FMG=1ariary のレートになっている。アリアーリとは、19世紀までマダガスカルの大半の国土を支配していたイメリナ王国(Imerina)の通貨単位である(ちなみに西のSakalava王国の通貨単位はparata)。1960年の独立後、1アリアーリが5CFAの固定為替レートに設定され、その名残で昨年まで、5FMG=1ariaryと言う換算での二つの通貨表示が行われていた。そのため、硬貨にはアリアーリ表示が刻印され、札にはマダガスカル・フランとアリアーリの両表示が印字されている。硬貨に刻印されている数字の10は 10ariary=50FMG、刻印されている数字の20は 20ariary=100FMG、刻印されている数字の50は 50ariary=250FMG を表す。札は、現在新札への交換が進んではいるものの、まだ旧札も流通しているため、ややこしい状況がまだ続いている(50000FMG、25000FMG、10000FMGの旧札は、流通停止になっているため、旧札と新札とが併用されているのは、1000ariary[5000FMG]、500ariary[2500FMG]、200ariary[1000FMG]、100ariary[500FMG]の4種類についてである)。 旧札には、マダガスカル・フラン(FMG)の数字が印字されているが、新札には ariary の数字が印字されている。新札に印字されている数字の1000は 1000ariary=5000FMG、印字されている数字の2000は 2000ariary=10000FMG、印字されている数字の5000は 5000ariary=25000FMG、印字されている数字の10000は 10000ariary=50000FMG を表す。旧札に印字されている数字の500は、そのまま500FMGを表し、ariaryの表示は、札の下部に ariary zato とマダガスカル語で書かれている。また、旧札に印字されている数字の1000は、そのまま1000FMGを表し、ariaryの表示は、札の下部に roan-jato ariary とマダガスカル語で書かれている。銀行、新聞など公的機関における為替表示は、アリアーリだけで行われている。現在はスーパーマーケットでも、品物の店頭表示価格はアリアーリの表示が大きく書かれ、その下に小さくFMGによる表示がなされているため注意が必要。マダガスカル人が主として利用するような食料品店や雑貨店では、アリアーリだけの価格表示も珍しくありません。市内の日常の口頭売買やタクシーの値段交渉では、FMGとariary二つの通貨単位がごちゃまぜで使用されているので、相手がどちらの通貨単位でものを言っているのか注意して聞き取ること。
    1. 市場( bazary)
       マジュンガ市内には、マジュンガベ(Majungabe )、マハビーブ(Mahabibo )、ツァラマンドゥルス(Tsaramandroso)、通称アナラケーリ(Analakely)[正確にはマルラカ(Marolaka)]、四つの大きな常設市場<バザーリ>(bazary)がある。マジュンガベの市場が<大きな市場>(バザーリ・ベ Bazary be)、マハビーブの市場が<小さな市場>(バザーリ・ケーリ Bazary kely)と呼ばれている。これは、フランス統治時代の名残に他ならない。すなわち<大きな市場>がフランス人および外国籍の人間のための市場、<小さな市場>がマダガスカル人のための市場だったことによる。そのため、<大きな市場>は町の繁華街の中心に位置するものの、あまり品数は豊富ではなく値段も<小さな市場>に比べて高め。<小さな市場>は庶民街の近くにあり、何処の町でも、こちらのほうが品数も多く賑わっており、また値段も安い。日常の食料品は、ここで入手可。ツァラマンドゥルス、アナラケーリ、マハビーブは、どれも庶民市場でありこの三つの市場に大きな品揃えの差があるわけではないが、米の大量購入・マダガスカル産の果物・マダガスカル料理に使う野菜(葉野菜、トマト、キュウリなど)・家禽などの購入はツァラマンドゥルス市場、魚介類・肉類・州外からの果実・西洋野菜類などの購入はマハビーブ市場、米を含む穀物類や食料品以外の家庭用品などの購入はアナラケーリ市場と、多少それぞれの市場に特徴がないわけでもない。また、同じ品物でもそれぞれの市場で値段が違う場合も多いので、よく値段を比べてみる必要がある。現金取引。マジュンガの市場では「値切り交渉」<ミアディ・ヴァルチャ>(miady varotra)をするよりも、言い値で買う場合、とりわけ食料品を多く買った時には、cadeau(ほとんど ガドゥ と発音する)すなわち<おまけ>をもらうことが一般的。<ガイジン>であっても、市場ではふっかけた値段の提示をしたりしないが、インド系の店主が多い一般の商店では、日本人とみると高い値段を提示することがままある(マジュンガの町にはSOMAPECHEの船員さんたちがたくさん住んでいた頃の記憶から、日本人=お金持ちと言うイメージがまだ残っている)。首都アンタナナリヴほどではないにしても、スリも居ないわけではないので、お金や携帯電話などには要注意!Mahabibo 、Tsaramandroso、 Analakely、いずれの市場とも老朽化した建物の建築と改装が2005年以来行われていたが、2007年11月23日にラヴァルマナナ大統領が落成式典を行い、新規営業を始めたため、清潔である。

    2. 店舗
       市内の各所に食料品店や雑貨店があるので、塩・砂糖・食用油・マッチ・ロウソク・灯油・パン・チーズ・コンデスミルク・中華乾麺・マカロニ・トイレットペーパー・ミネラルウオーター・清涼飲料・ビール・ラム酒・電球・蚊取り線香・乾電池・封筒・学用ノート・ボールペンなどの日常用品を手軽に買うことができる。また、ガソリンスタンドに併設されている店も日本のコンビニほどまではゆかないにせよ飲料と食品を中心に生活必需品を揃えている。衣料品の専門店もあるが、既製品は市場の周囲の露店や仮店舗の方が品数豊富。電気店もあるが、冷蔵庫やテレビ・ラジカセ・ミニコンポなどが主要商品で、小物の電化製品の品揃えが悪い。寝具については、ベッドを家具店か市場で、マットレスや毛布等を衣料品店か雑貨店で購入可能。最近、マジュンガ市内に住む外国人やインド系の人びとを対象とした、高級な家具屋がマハヴーキ(Mahavoky)地区やマジュンガベ(Majungabe)地区などに数軒開店した。マジュンガ市内の商店におけるクレジット・カードの普及率は、たいへんに低い。Air Madagascarの事務所、一部ホテル、一部高級家具店、一部宝石店、それから下記のスーパーSCOREで、VISAカードが、ごく一部でMASTERカードが使えるくらい。ただし、これから次第にクレジット・カードが使える店舗が、増えてゆくものと思われる。バイク、家具、宝石、冷蔵庫、ガスレンジなどの高価な物品については、固定店舗でも値引きに応じるので、トライしてみること。

    3. スーパーマーケット
       マジュンガ市内のスーパーマーケットは、CIAM、TIKOグループのMAGRO、SCOREの三軒。三軒ともマジュンガベ(Majugabe)地区にある。CIAMは一般の商店が、スーパー形式の販売方法をとっていると言った感じ。肉や魚や野菜は置いていない。BNI銀行の西に位置するMAGROは、TIKO社関連製品の大量販売の性格の強いスーパーであり、生鮮食品は置いていない。また、入店した際の最低買い物価格の設定があり、ヨーグルト1個だけやガム1個だけの購入などはできない。TIKO社の製品、牛乳、ヨーグルト、バター、チーズ、アイスクリーム、食用油等々は、だいたいMAGROが一番安い。SCOREはマジュンガ市内唯一の総合スーパーである上、VISAカードでの支払いが可能。駐車場も完備。とは言っても、SCOREもアンタナナリヴのスーパーに比べればはるかに小さく、そこで全ての食品等を揃えることは難しい。

  13. 食生活
    1. レストラン
       フランス料理(La Piscineホテルの裏のレストランなど)・中華料理(Sanpan d'Or、Chez Karon、MIKAなど)・イタリア料理(Le Pizzeria、など)・インド料理等(PAKIZA,MADA Hotelのレストランなど)・ベトナム料理(Tilan)・マダガスカル料理(KANTOなど)、5種類のレストランがある。マジュンガは海の幸の入手が容易なため、内陸のアンタナナリヴでは入手の難しい新鮮な海産物を上手に使ったマンガ地区にあるレストラン・シェ・マダム・シャボー(Restaurant chez Madame Chabaud)のように、マダガスカルでも指折りの美味しいレストランもある。レストランでの食事の際には地方でも、チップが必要。レストランの料理の値段は、地方だからと言って、首都アンタナナリヴよりも安いとは限らない。ツァラマンドゥルス(Tsaramandroso)市場内にあるピザ専門店のピザ・マルコ(Pizza Marco)のように、ざっかけない店だが、とても美味しいところもある(2007年にオーナーが変わり、味は落ちたかも?)。パン屋は複数あるが、バケットはまあまあなものの、全般にアンタナナリヴほどパンは美味しくない。またケーキ専門店はなく、パン屋のZAPANDIS、サロン・ドゥ・カフェのSAIFYなどがケーキ屋として名が知られているが、アンタナナリヴに比べ、ケーキの味は格段に落ちる。

    2. 現地食堂(hotely)
       Hotelyはあるが、首都アンタナナリヴほど多くはない。マハビーブ(Mahabibo)地区のバザーリ・ケーリの中とタクシ・ブルースのステーションの近辺に多い。BOA銀行を南に50mほど行ったHotel Tropique(ホテルと言っても安宿)の食堂、キモ(kihmo)と呼ばれる香辛料を効かした挽肉のスープしか料理メニューがないが、これがたいへんに美味しい。マジュンガ市内には、キモを出すインド系の食堂はたくさんあるが、このホテルの食堂のそれは、市内でも一二を争う味。

    3. 露店
       ムフを中心とした軽食系、ご飯とおかずの定食系、串焼き肉系の三に大別されることは、首都アンタナナリヴとほぼ同じ。海岸部のマジュンガでは夜間の気温が一年中高いため、串焼き肉(tsaky ,tsakitsaky)の露店が夕方から夜半にかけて賑わう。肉は、牛肉かニワトリ。市庁舎前の通り、海岸通りに串焼き肉の店がたくさん夕方から並び、庶民の憩いの場。近くにあるバーから飲み物をとることもできる。気温が高く治安が良いマジュンガならではの夕方から夜の楽しみだが、露店のため一年を通して蚊がいるので防蚊対策を忘れないこと。

    4. 自炊
       市内でのプロパンガスコンロや電気コンロあるいは灯油コンロ、七輪(fatam-pera)の購入は可能であり、また電気釜も電気店や雑貨店で売られているので、炊事道具を揃える上での問題はあまりない。材料は、上述の市場あるいは各地区の小さな青空市場で調達。日本米(ジャポニカ)は、マジュンガ市内ではSOMAPECHEの駐在員の方から分けてもらう以外には、ほぼ入手不可能。米は、市場でも露店でも雑貨店でも売られている。国際稲作研究所が開発した高収穫品種系統(IR-8号やIR-16号など)はあまり味はないものの短粒の白米で、疑似日本米食感な上、入手が容易。米の食感を良くするには、洗米の前に選別を入念にすることが効果大。石や籾などの異物を取り除くことはもちろん、欠けた米などを取り除いて、粒を揃えるとぐっと食感が良くなる。ただし、インディカ米は冷えると食味が落ちるので、冷や飯の好きな人は、注意。日本から材料を送ってもらわないと、マジュンガで和食を作ることは調味料やだしなどの調達の関係で難しい。それでも、スーパーや中国人商店で中国醤油や中華素材(キクラゲ、モヤシ、フクロダケ、ビーフン、中華麺)などを入手することができるようになった。魚は豊富で、タイ科の魚、キハダマグロ、シイラ、サヨリ、サワラそれにエビはもちろんのこと、イカやウナギもマハビーヴの市場では売られている。魚は、午後4時か5時頃から市内から空港に行く道のマザーヴァ・ユイル(Mazava Huile)の交差点でも、アンツァハヴィング(Antsahavingo)地区の漁師の獲った新鮮なものが売られている。

  14. 金融機関
     BNI Madagascar (略称BNI) , BFV-SG 、Bank of Africa(略称BOA 以前の BTM)、Banque Malgache de l'Ocean Indien (略称BMOI) 、Mauritius Commercial Bank(略称MCB)の五行の支店がマジュンガ市の中心部マジュンガベ(Majungabe)にある。各金融機関では外貨の換金ができるが、円札の換金は、SOMAPECHEがあることと港町であることのため首都よりもむしろ容易。TCの換金に際しての、発行時の番号控え書の提示要求も首都ほど厳格ではない。24時間稼動現金自動支払機が、BNI、BFV-SG, BOA, BMOIの四行に設置されている。BFV-SGとBNIの場合には銀行カードによる引き下ろしができる他、VISAカードでのキャッシングが可能。また、これらの銀行では、窓口でも身分証明書とVISAカードを添えて出せば、同じようにキャッシングができる。BFV-SG、 BOA、MCBでは、身分証明書とMASTERカードを添えて出せば、窓口でキャッシングを受けることができる。
     日本からお金を緊急に振り込み受け取る必要がある時は、送金専門会社Western Unionを利用すると安全・確実・迅速。日本でWestern Unionの業務は、スルガ銀行が代行しているので、スルガ銀行のHPを参照のこと。東京では日本橋と渋谷に、支所がある(スルガ銀行がWestern Unionの業務を代行するのは2009年1月末までなので、注意!)。Western Unionを用いてマダガスカルに送金すると、数十分後にはマダガスカルで現金を受け取ることができる。送金は邦貨になるが、受け取りはマダガスカル・アリアーリ(MGA)でしかできない。Western Unionのマダガスカルにおける窓口は、BFV-SG・BNIおよびCaisse d'Epargne Madagascar(マダガスカル貯蓄銀行)などにある。マダガスカル向けに送金されたお金は、マダガスカルのWestern Union の何処の支所や窓口でも受け取ることができる。送金を受け取る際には、身分証明書・送金番号(送金した時に払い込み人に渡される書類に記載されている)・質問と答え(自分の名前でも送金人の名前でも何でも良い)の三つが必要となる。ただし、送金手数料は通常の銀行口座宛て振り込みよりも高い。
     また日本の各郵便局から国際送金為替を使って、住所宛ての送金も行うことができる。口座宛て送金はできない。送金から受け取るまでの日数は航空便の所用日数と同じ。マジュンガ市内で、だいたい2週間から3週間を必要とする。

  15. 学校教育
     首都アンタナナリヴには外国人向け教育機関としてアメリカン・スクールもあるが、マジュンガ市内には、マダガスカル人の教育を目的とする公立・私立の小中高等学校を別にすると、アンドゥヴィンズ(Andovinjo)地区にリセ・フランセーズ(Lycee Francais)があるだけである。アンブンドゥルナ(Ambondrona)地区にマジュンガ大学があるが、医学・歯学部、理学部だけで、文科系学部はない。マジュンガベ(Majungabe)の海岸のすぐそばにあるアーリアンス・フランセーズ(Alliance Francaise)では、安い授業料で能力別にフランス語を教えてくれる。また、外国人に対してはマダガスカル語を教授してくれる。

  16. 在留邦人
     かつては、大洋漁業(現在のニチロマルハ・ホールディングス)がSOMAPECHEとSOPEBO、二つの合弁水産会社を経営し、それぞれの会社の漁船の船長と機関長および事務職の人たちが働いていたため、1980年代にはマジュンガ市内だけで70名くらいの邦人が居住していた。その後、エビ採り漁船は、マダガスカル人やインドネシア人の手で操業されるようになり、さらに最近はエビ獲り漁船も売却され、SOMAPECHEで働く邦人の数は、激減した。現在では、SOMAPECHE関係者、JICAの派遣専門家、協力隊員、マダガスカル人の女性と結婚された元SOMAPECHEの船長さんのご一家など、マジュンガ市内には10名くらいしか邦人は、居住していない。そのため、1980年代にマジュンガ市内を歩いていると「ジャポネ!」とよく声をかけられたが、最近では進出著しい中国人と見なされ「シノワ!」と呼ばれる。マルハの船員さんたちとマジュンガの女性との間にできた混血の子女(JICA専門家との間にできた子供も1名知っている)も、十数名ほど居ると思われるが、邦人との交流はほとんどない。

  17. マジュンガ 町の歴史と人びと
     マジュンガと言う町の名前は、スワヒリ語もしくはアラビア語のMiji angaia 「花の町」に由来するとする説が多いが、Mozangaye「約束の土地」に由来するとする説もある。19世紀頃からマジュンガMajungaと表記されてきたが、1973年から1975年の民族主義化と社会主義化の時代に、よりマダガスカル語的な表記としてMahajangaマハザンガが、用いられるようになった。地元の人たちはマジュンガと呼び習わしているが、新聞や雑誌や地図上では、マジュンガともマハザンガとも表記されている。
     マジュンガの町は、16世紀から17世紀にかけ、サカラヴァ族(Sakalava)のブイナ王国 (Boina 西海岸に広がったサカラヴァの王国の南部をメナベ Menabe、北部をブイナと呼ぶ)の王によって造られた。アラビア沿岸から東アフリカ沿岸、そしてコモロ諸島からマダガスカル沿岸に広がったスワヒリの交易網に連なることによって、その後マジュンガの町は発展した。その当時マジュンガの町を統治していたサカラヴァの王の居所は、現在のアンドゥルーヴァ(Androva)国立病院の入り口を東に行ったJIRAMAのポンプ中継所の脇に生えている気根を出した大樹のある辺りと言われている。このため、マジュンガの町は今でも、ブイナ王国の町あるいはブイナ王国の都と呼ばれている。マジュンガの町から南西に90km行ったマルヴアイの町( Marovoay)も、このブイナ王国に属する王国の一つである。
     マジュンガの町の中には、幹周りの太さではマダガスカル一二を争う海岸沿いの大バオバブをはじめ、バオバブが多数生えている。しかしながらマジュンガのバオバブは、他の地域にあるマダガスカル原産のものとは異なり、ディギタータと呼ばれる通称アフリカ・バオバブ、すなわちアフリカ原産のものである。バオバブ研究者によると、アフリカから移住してきた人々が、アフリカ・バオバブを携え、自分たちの移住先の土地に植えたと言う。バオバブからも、マジュンガの町がスワヒリ交易網を介してアフリカと連なっていたことが、わかる。
     またマジュンガの町では、毎年7月の満月の次ぎの月曜日から金曜日まで例大祭ファヌンプアンベ(Fanompoambe)が行われる。この祭りでは、このマジュンガの町を造りそこを統治してきた歴代のサカラヴァ王国の王たちの遺骨が祭祀の対象である。柵に囲まれたこれらの歴代王たちの遺骨を納めた家をズンバ(zomba)、その家がある一帯の王墓をドゥアーニ(doany)と呼ぶ。このドゥアーニ、現在はCOTONAの工場から北に行ったツァララヌ・アンブーニ(Tsararano Ambony)地区にあり、王墓の周りには墓守の人たちの質素な小屋が建ち並んでいる。毎年この例大祭には、多くのマジュンガの町の人々が集まり、たいへんなにぎわいを見せる(大祭中は誰でもドゥアーニを訪れることができるが、その際には、男女とも巻き布を用意すること また大祭以外の日は、ドゥアーニを訪れることのできない曜日もあるので、マジュンガの地元の人に確認をすること)。その際には、亡くなった王などの霊を憑依させる集まりトゥルンバ(tromba)が、ズンバの周囲にある王墓の墓守たちの家で盛んに行われる。この祭りの主役は、サカラヴァの王族の子孫の人びとである。マダガスカルの西海岸には、南はムルンダヴァ辺りから北はディエゴ・スワレスまで現在でも点々とこのサカラヴァの王族に連なる人々が居住している。しかしながら、これらの王族の子孫が持っているのは、このような祭りにおける威信や権威だけであり、政治的な支配権を行使しているわけではない。たとえば北西部のアナララヴァ(Analalava)の町の女王様は郵便局員、北部のアンタカラナ(Antakarana)王国の王様はアンビルベ(Ambilobe)の町の憲兵隊員として働いており、日常生活の中では一市民でしかない。
     サカラヴァの人びとと並んで、マジュンガの町を造ってきたのが、インド洋交易にたずさわってきた、アラビア系、インド−パキスタン系、コモロ系の人びとである。有名な海岸通りの大バオバブから100m近く国道を東に行くと、Y地路の真ん中に二基の墓がある。19世紀末に亡くなったインド−パキスタン系の人の墓であり、マジュンガ市内にある没年のわかる墓としては最も古いものであると言う。サカラヴァの人々はイスラーム教徒ではないが、インド洋交易にたずさわった人々には、コモロ人、アラブ人、インド−パキスタン系などイスラーム教徒が多い。そのため、マジュンガ市内には数多くのモスクがあり、毎朝午前5時にはモスクのスピーカーから礼拝を呼びかける祈祷者の声が流れる。ただし、これらのモスクは、コモロ人もしくはインド−パキスタンの人々のためのものであり、マダガスカル人のイスラーム教徒はごく少数である。マジュンガの町に居住し商店や会社を営むインド−パキスタン系の人びとは、態度が横柄だったり尊大だったりして、マダガスカル人からもあるいは邦人からもあまり評判は良くないが、それでも、イスラームの教えに則り、パン切れや小銭を店や会社に用意し、貧しいマダガスカル人が物乞いに訪れると喜捨を与えている。マジュンガ港の一番西の端に<古い港>があり、ここはダウ船やスクーナー船の船溜まりとなっている。現在では、マダガスカル国内、とりわけ西海岸の村々の間で物資を輸送したり、旅客を運送したりするだけであるが、かつてはここがインド洋交易の港であり、ここからダウ船が、コモロや東アフリカ沿岸へと航海していた。かなり減ってはしまったものの、この<古い港>周辺の建物をよく見てみると、珊瑚を積み上げて漆喰で固め、装飾のついた厚い木製の扉を備えた、スワヒリ文化の建築様式を受け継ぐ家屋が現在でも散見される。モスクの多さ、道を行く男女のイスラーム的な服装、おそらくマダガスカルの都市の中では、マジュンガが一番インド洋臭い町の雰囲気を漂わせている。
     1824年、アンタナナリヴを都とするイメリナ王国(Imerina)の王ラダマI世(Radama)は奴隷交易禁止の見返りにイギリスから贈られた小銃を装備した常備軍をマジュンガに差し向け、これを占領した。降伏を拒んだマジュンガの町の長が殺されたくらいで、占領そのものはたいした抵抗も受けずに行われた。マジュンガを占領したラダマI世は、町を統治するために、イメリナ王国から長官を派遣し、また軍隊を常駐させた。この、イメリナ王国の派遣したマジュンガ地方長官と駐屯軍が居住していた場所が、Hotel de France前の道をまっすぐ北にあがった丘の上にあるアンドゥルーヴァ(Androva)である。アンドゥルーヴァとは、「ルーヴァ(rova)のある所」と言う意味であり、ルーヴァ(rova)とは柵に囲われた場所、あるいは砦、王などの居所を指す。現在では、復元された門と塀の一部がそこにあるだけであるが、かつては円形の石積みの砦に青銅砲を装備し、町に睨みをきかせていた。マジュンガベにある織物会社COTONAのショールームの前にある小公園に並べられている青銅砲は、かつてこのアンドゥルーヴァの砦に据えられていたものである。
     1895年1月14日、フランス海軍艦隊が、マジュンガの町にあるイメリナ王国の要塞、上記のアンドゥルーヴァを砲撃、翌15日早朝、ディエゴ・スワレスに駐屯していた海軍歩兵部隊が上陸、無抵抗のまま町を完全占領、ここに主力部隊揚陸のための橋頭堡を確保した。マダガスカル全島のフランス植民地化を可能にした軍事作戦行動である第二次フランス−イメリナ王国戦争は、マジュンガの町に上陸したフランス軍部隊1万7000名が、陸路アンタナナリヴまで進軍、9月30日にアンタナナリヴを占領したことで完了する。途中、マルヴアイ(Marovoay)の町とその周辺の村々では、フランス軍と陣地を構築して待ち構えたイメリナ王国軍との間で3日間の激しい争奪戦が行われた。マジュンガからアンタナナリヴに向かう国道4号線沿いの町、マエヴァタナナ(Maevatanana)のガソリンスタンドの脇には、この1895年の戦いの顕彰碑が建っている。ちなみに1895年6月28日から30日にかけ、このマエヴァタナナの町の近郊のツァーラサウチャ村(Tsarasaotra)において、第二次フランス−イメリナ王国戦争の中で最も激しい戦闘が行われ、フランス軍側に2名の戦死者、イメリナ王国側に200名以上の戦死者が出ている。
     マジュンガの町は、第二次世界大戦の中でも、再度、上陸作戦の舞台となっている。ビシー対独協力政府の側に立ったマダガスカル総督府に対し、日本海軍への便宜提供を恐れたイギリス軍は、1945年5月7日から10日にかけての3日間の作戦により、良好な港湾施設のあるディエゴ・スワレスの町を武力占領した。さらに、イギリス軍は、9月14日にマジュンガに陸軍部隊を再上陸させ、首都アンタナナリヴを制圧し、残存するフランス軍部隊の掃討作戦を行い、マダガスカル全島を一時占領した。  マジュンガの町に残る1896年から1960年までのフランス植民地統治時代を現代に物語る物とは、町そのものの姿であろう。マジュンガの市街地図ないし、Google Earthによる衛星写真を見るとよくわかるが、現在のマジュンガの町は、市庁舎(Hotel de Ville)の前を南北に走る大通りによって、東西に二分されている。大通りの西側の地区は、比較的広い道が走りゆったりした街区になっているが、大通りの東側のアンブヴアラーナナ地区(Ambovoalanana)、ラバトワール地区(Labatoire)、マンガ地区(Manga)、ムーラフェヌ地区(Morafeno)、アンバラヴーラ地区(Ambalavola)、マハビーブ・ケーリ地区(Mahabibokely)、アンバラヴァトゥ地区(Ambalavato)などでは、狭い道が碁盤の目のように走り、細かい街区割りになっている。すなわち、フランス植民地統治時代、大通りより西側の地区は、フランス共和国市民(フランスの白人)およびそれ以外のイギリス国籍などを持つ<外国人>(インド−パキスタン系の人びとなど)の居住区であった。一方、東側の地区は、マダガスカル人(フランス共和国市民ではなく、フランス共和国内の臣民身分であった)の居住区であり、マダガスカル人は、夜間は特別な許可が無い限り、西側の地区への出入りを許されなかった。さらに、マジュンガベにある市場バザーリ・ベは、植民地時代はそれらの<外国人>のためのものであり、一方マハビーブ(Mahabibo)にある市場バザーリ・ケーリは、<マダガスカル人>のためのものであった。そして、<外国人>居住区の一番西端、マジュンガの海を一望する海沿いに、現在はマジュンガ州知事公邸、植民地時代にはマジュンガ州長官の公邸が、立地している。
     フランスによる植民地化は、上記のような現在のマジュンガの町そのものの姿形を与えただけではなく、現在に至る町の住民構成にも大きな影響を及ぼした。フランス植民地化以前のマジュンガの町は、町を作ったサカラヴァ族の人びとを中核に、中世から近世のインド洋交易に携わったコモロ系の人々、アラブ系の人々、インド−パキスタン系の人々、および19世紀から町を支配していたメリナ族の人びとが、住む場所であった。しかしながら、植民地支配は、「植民地の平和」の下で島内の人々の移動を促すと同時に、人頭税や牛頭税の支払いなどのため現金の獲得を求める人びとの動きをも生みだした。
     植民地化以降にマジュンガの町にやって来た人びとの第一は、同じマジュンガ州北部の稲作−牛牧民であったツィミヘティ族(Tsimihety)の人びとである。さまざな肉体労働者や兵士、あるいは外国人家庭におけるメイド、インド−パキスタン系の人びとの商店における使用人などとしてマジュンガの町に居住するようになり、現在では、サカラヴァ族の人びとを抜いてマジュンガの町で一番人口数の多い民族である可能性が高い。初中等教育を終えた人間が比較的多く、憲兵、警察、税関、郵便局などの下級公務員には、ツィミヘティ族出身が少なくない。また、市庁舎前のロータリーに胸像が立ち、公立高校にその名前を残す初代共和国大統領フィリベール・ツィラナナ(Philibert Tsiranana)は、マジュンガ州アンツヒヒー県(Antsohihy)生まれのツィミヘティ族の出身である。
     第二は、チュレアール州(Toliara)からやって来たタンドゥルイ族(Tandroy)、フィアナランツア州からやって来たアンタイサカ族(Antaisaka)やアンタイムル族(Antaimoro)などの人びとである。彼らも、ツィミヘティの人びとと同じように、マジュンガの町に現金を稼ぐことを目的にやって来ている。ツィミヘティ族と異なる点は、タンドゥルイ族が南部地域で起きた大旱魃とそれによる飢饉をきっかけに、アンタイサカ族やアンタイムル族は故地における人口圧によって、出稼ぎに来ている点であり、またマジュンガの町では、プスプス曳きなどツィミヘティ族よりもさらに肉体労働などに従事する割合が高い。タンドゥルイ族の人びとは、昼間は夫がプスを曳き、妻が路傍で子供を手近で遊ばせながら煎ったピーナッツや焼いたサツマイモや生のバナナあるいは炭を売り、夜は家や商店の軒先で警備員を兼ねながら一家で眠る生活スタイルをとる者が多い。サカラヴァ族やツィミヘティ族の人びとは、アンタイサカ族やアンタイムル族などのマダガスカル南東部から出稼ぎに来ている人びとを、<ベツィレーバカ>(Betsirebaka)と総称して呼び、自分たちよりも下に見る傾向が強い。そのため、売春を含めたあらゆる職種と職域に進出しているツィミヘティ族の人びとも、プスプス曳きだけは「牛がする仕事を人間がするのか」と嫌い、手を出していない。アンタイムル族やアンタイサカ族は、マダガスカルの中でも過去イスラーム教の影響の強い地域と民族であり、マジュンガ市内において6月から9月頃の金曜日をはさんだ週末、男子割礼のお祭りを賑やかに行っているのは、これらの人びとである。1997年から1998年にマジュンガ市内でコレラが流行した際に、当時のマジュンガ市長が、コレラの流行はタンドゥルイの人びとなどが町中で野糞するせいだと発言して、政治問題化したことがある。
     第三は、アンタナナリヴ地方を故郷とするメリナ族の人びとである。1895年のフランス軍のマジュンガ占領時に、マジュンガの町に住んでいた官吏や兵士のメリナ族は一旦退去したが、フランスが植民地統治のための下級官吏を教育程度の高いメリナ族(イメリナ王国内では、1880年から既に義務教育制度が採用されていた)から大量採用して以降、公務員、教員、会社員、商人として多くのメリナ族の人びとがマジュンガの町に居住するようになっている。しかしながら、かつての町の支配民族であると同時に、容貌、言葉、習慣の異なるメリナ族の人びとに対する反感や反撥は、マジュンガの町では根強く存在する。
     第四は、1908年にコモロ諸島が、マダガスカルのフランス総督府の支配下に置かれたことにより、マジュンガをはじめとするマダガスカル島への移民や出稼ぎが増大したコモロの人びとである。19世紀以前に既にコモロ諸島とマダガスカルの間には人の行き来があり、1828年にはイメリナ王国軍との戦争に敗れたサカラヴァ族の一団がコモロ諸島へと逃げ込み、最終的にはマヨット島に定住するまでに至っていた。そして1908年以降、島が小さく資源に乏しい上、奴隷を中心としたインド洋交易に従事できなくなったコモロ人たちは、次第にマダガスカルにその生活の場を求めるようになった。またフランス人側も、イスラーム教徒であるコモロ人を「正直、勤勉、倹約」であるとしてマダガスカル人に優先して、下級官吏や使用人に採用した。ところが、マダガスカル人の側は、イスラーム教徒でコモロ語を母語とするコモロ人を、<シラーモ>(silamo イスラームの訛)とも総称して蔑視する傾向が強い上(日本人の韓国・朝鮮人に対する感覚に似通ったものがある)、倹約や節約の観念を持ち家主などになって小金を溜めた事に対する妬み、フランス植民地時代に下級警察官吏として自分たちを直接的に取り締まったことに対する恨み、などなど複雑な感情を醸成していた。
     1976年12月20日マジュンガ市内のアンブヴアラーナナ地区(Ambovoalanana)において、子供同士の喧嘩をきっかけにマダガスカル人がコモロ人を襲撃し虐殺する事件が発生、政府発表でも120人を越す死者を出した。1972年のツィラナナ大統領辞職以降第一次共和制崩壊期に強まっていたマダガスカル人のナショナリズムと排外主義が事件の背景をなしているが、底流にはコモロ人に対する上記のような複雑な感情があったものと推測される。さらに、現在この事件についてマジュンガの町の人びとに話しを聞くと、サカラヴァ族やツィミヘティ族の人びとは、事件を引き起こしたのは自分たちではなく、南東部から出稼ぎにやって来ているベツィレーバカの人びとやタンドゥルイの人びとであったと語る傾向が顕著である。この事件の直後、それまでマジュンガ市内に居住していたコモロ人の多くが、コモロ諸島に脱出したり、あるいはマダガスカルの他の地域に移住したりして、その人口数が激減した。しかしながら、1990年代頃からマジュンガ市内に再びコモロ人が戻りはじめ、現在ではマジュンガが、事件以前と同様マダガスカル島内で最もコモロ人人口の多い町となっている。今でもなお、マダガスカル人の側からコモロ人に対する蔑視感は根強く存在するが、排斥感情は感じられない。
     2001年12月に行われた大統領選挙は、当時現職のラツィラカ(Ratsiraka)と当時アンタナナリヴ市長だったラヴァルマナナ(Ravalomanana)との激しい争いとなった。第一回め選挙で大統領就任に必要な過半数を獲得したと主張するラヴァルマナナ側に対し、ラヴァルマナナの得票数は過半数に達せず決選投票を行うべきだと主張するラツィラカ側は、アンタナナリヴに通じる国道を封鎖したり、途中の橋梁を破壊したりして、内陸首都アンタナナリヴを物流的に封じ込める作戦をとった。アンタナナリヴ市に基盤を置くラヴァルマナナ側、一方タマタヴ市(トゥアマシナ)に基盤を置くラツィラカ側との一連の対立は、「一つの国に二人の大統領と二つの首都」と呼ばれる事態にまで発展した。マジュンガ市においても、アンタナナリヴを結ぶ国道4号線にラツィラカ派のバリケードが設置され、物資の流通が遮断された。幸いマジュンガには港があり、石油をはじめ多くの物資が海上から運び込まれたため、アンタナナリヴ地方から輸送されてくる野菜やバターなどが入荷しないなどの品不足で済み、市民生活に大きなダメージを与えることはなかった。2002年6月12日にアンタナナリヴを出発したラヴァルマナナ側の軍隊が、マジュンガの町にほとんど抵抗を受けずに進駐したことをきっかけに、その後ディエゴ・スワレス、続いてタマタヴとラツィラカ側の押さえていた都市が制圧され、最終的にはラツィラカとその家族は飛行機で海外に脱出し、紛争は沈静化した。
     この紛争の過程においてラツィラカ陣営は、a.ラヴァルマナナはメリナ族であり、そのラヴァルマナナを支持しているのはメリナ族の都市アンタナナリヴの人びとだけである、 b.タマタヴをはじめメリナ族の領域ではない都市や地方では自分を支持している、c.自分はメリナ族ではないため(ラツィラカは、ベツィミサラカ族出身)、メリナ族の多いアンタナナリヴの人びとは、自分に対して敵対的である、d.ラヴァルマナナはメリナ族の支配を再び目指していると、民族紛争の構図に従った反メリナ族感情を煽りたてる宣伝を繰り返した。けれどもこのようなラツィラカが煽動したネガティブ・キャンペーンにもかかわらず、マジュンガの市内において紛争中に反メリナ族感情が高揚することはなかった。
     しかしながら、2002年にラヴァルマナナが大統領に就任して間もなく、紛争中に新しいマジュンガ市長に指名した初代大統領フィリベール・ツィラナナの息子、ピエール・ツィラナナ(Pierre Tsiranana)をマルヴアイ市出身であるもののメリナ族と言われる人物とすげ替えたあたりから反メリナ族感情が再燃し、国会議員選挙における政権与党TIM(Tiako i Madagasikara <マダガスカル愛国党>の略称)の資金力にものを言わせた圧勝、2002年以降に顕在化したマジュンガ市内のさまざまな職種へのアンタナナリヴからの人びとの進出、ラヴァルマナナ大統領の自分の一族および企業への利益誘導策なども加わり、マジュンガ市内では反メリナ族感情がくすぶっている状態である。このような感情の一端は、2007年9月23日の国会議員選挙において、政権与党のTIMが大々的な選挙キャンペーンを行ったにもかかわらず、マジュンガ市内選挙区ではTIMの候補がRADIO  KALIZYの名物キャスターである独立系候補に敗れたことにも示されている。
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