マダガスカルの村の20年
『自然と文化そしてことば 第2号 インド洋の十字路マダガスカル』葫蘆舎
2006年 所収 pp.50-64 を基に加筆修正
 1983年10月からマダガスカル北西部の一農村で、社会人類学の調査を行ってきました。村に足を運ぶこと20数回、1983年から1985年にかけての1年2ヶ月間の滞在から3日間ばかりの滞在まで、村に住んだ期間の総計は2年数ヶ月になります。よく日本人からあるいは都会に住むマダガスカル人からも「20年間でマダガスカルの農村はどのように変わりましたか?農民たちの生活は良くなりましたか、悪くなりましたか?」との質問を受けますが、この問いに答えることはさほど容易なことではありません。
 この20年、調査地の村は、マダガスカルの一部地域で活発化しているダハル(dahalo)やマラス(malaso)と呼ばれる武装強盗団などの襲撃を受け住民が殺戮されたり村が焼き払われたりすることもなく、ゆるやかな景観的変化をとげてきたと言えましょう。350人から600人へと倍近い人口の増大にともない家の数が増え、村は確実にその面積を広げ大きくなりました。現在私が調査期間中住んでいる家の建っている場所も、20年前は村外れの牛囲いの先にある草と灌木の生い茂った、時には村人たちの公衆便所ともなっていた丘の上です。また1990年代から村にも中央高地で行われていたのと同じレンガを焼く技法が入ってきて、プロテスタントやアドヴァンティストの教会をはじめレンガ造りの家々も増えてきました。1980年代は、木の柱と柱の間にはった枝の粗朶にそこら辺の赤土に水を混ぜてこねた泥を積み上げてゆく方法で、壁を造ったものでした。今私が住んでいる家も、屋根はトタン板、壁はレンガで、その上にセメントを混ぜた砂を塗り、さらに漆喰が塗布され、2002年に完成したものです。村の小学校の屋根も、草葺きからトタン板葺きへと変わり、就学児童数の増加に対応し、教員数も1980年代の政府派遣教員1名から、現在では政府派遣教員2名、村雇い教員1名の計3名へと増えました。トタン屋根の長所は吹き替えの必要がない事に尽きますが、陽射しがあたった時の室内の暑さと雨季の雷雨が跳ね返る音の凄まじさは、たとえ寝ている時に屋根からムカデが落ちてくることがあったとしても、草葺きの屋根の良さを思い起こさせてくれます。
 家の建築方法や材質以上に変わったことと言えば、鍵が必須になったことでしょうか。20年前でも既に多くの家の扉に鍵が取り付けられるようになってはいましたが、まだまだフォンビ(fomby)と呼ばれるラフィアヤシの葉柄を薄く削ったものを重ねあわせた簡単な板を戸口に立てかけているような家も珍しくはありませんでした。それが今では、どんな粗末な家でも、農繁期の出造り小屋でもない限り、扉と鍵は必需品となりました。村外から泥棒が侵入してくると言うよりは、10代や20代の村内の青少年たちが、盗犯の主体となっているようです。「近頃の若い奴らときたひにゃ、まったく困ったもんだ」と大人たちが、よくぼやいています。明日は我が家が荒らされるかもしれず、あるいは自分の息子や孫が泥棒として捕まったり告訴されたりするかもしれないわけですから。
 村外に目を向けると、目立った景観の変化は、水田や畑などの耕地が増大して丘や山の樹木や森が減少すると共に、散播水田が移植水田へと変わったことでしょう。1983年から1985年当時は、ちょうどフィリピンの国際稲作研究所IRIが開発した多収量品種のIR8号が村に導入され始めた頃で、それに伴い田植えと畦を造る湛水田が造成されるようになりました。当時、IR系の新品種と移植法および湛水田造成を採り入れていた農家は、村全体の二割から三割くらいでした。その一方、過半数の農家は、緩斜面の上部にめぐらした導水路の所々に水口を切り、そこから下方に向けて水を掛け流す独特の散播水田と赤米も多い在来品種の栽培を行っていました。それが今では、移植法と湛水田を採り入れていない農家は、村内に一軒もないような状態です。先の掛け流しの水田と散播と在来品種の組合せ稲作を行っている農家は、既に全体の一割から二割程度で、それも複数ある自分の水田の一部でそのような農法を行っているにすぎません。また、村内の水田にすることのできる土地はおおかた水田へと造成してしまった結果、最近では食料の足しにするマニオクイモ(キャッサバ)を植え付けた畑と町の市場や村内で売って家計の足しにする葉野菜やトマトやトウガラシなどを栽培する菜園が、目立って増えてきました。
 在来品種の3倍にあたる3t/ha強の反収をさえ一時記録したIR系の品種は、1990年代後半には村で栽培されている稲全体の過半数を占めるまでに普及しましたが、密植、無施肥、種子籾米の無更新などの結果、病虫害が目立つようになり、それと共に反収も減少、農家のIR系品種離れを引き起こしました。現在では、水がかりが良くまた水位の調節の容易な水田を持ち、殺虫剤噴霧を行うことのできる農家を中心に、その反収の高さが評価され、IR系品種の栽培も続けられていますが、村全体としては、高収穫品種よりも早生品種を求める傾向が強くなっています。と言いますのも、年々降雨パターンが不安定になっている中で、降水期を逃さず確実に収穫をあげるには、3ヶ月で登熟する早生品種の方が、登熟までに5ヶ月から中には7ヶ月もかかる在来品種よりも、有利だからです。それと同時に、反収は低く成育は遅いものの、病虫害に強く、茎が強いため風で倒れにくく、背が高いため水位の上昇にも耐え、食味の良い在来品種への回帰も生じています。ただし、赤米の在来品種だけは、とても美味しいと村人はこぞって言うものの、白米に比べ市場価格が低いため、ほとんど栽培されなくなってしまいました。
 調査地の村では、男女・長幼に関係のない兄弟姉妹間での相続財産の均分が行われていますので、新しい水田や耕地を入手しない限り、祖父の代よりも親の代、親の代よりも自分たちの代、自分たちの代よりも子供たちの代と、用益できる土地が世代を経る毎に狭小化してゆくことは、村人の誰の目にも明かな事です。そして現在村内には、新しく水田を拓くことのできるような土地はほとんど残されてはいません。家族当たりの米の収量の減少は、村内にある米倉の数の減少として目に見える形としても現れています。20年前は村の西端や東端には米倉が列を成して建っていたものでしたが、今では収穫された籾米は各家の中に貯蔵され、米倉は気をつけていないと見過ごしてしまうくらいの数になってしまいました。もちろん、米倉を破って中の籾米を盗む不逞の輩が横行を始めたことも大きな要因ですが、各自の家の空間に貯蔵できるくらいの収穫量しか得られないことが、わざわざ米倉を造る労を厭う結果を招いています。となれば、限られた面積の水田からより多くの米を収穫しようとする欲求は切実です。まして、牛の売却を除けば、米の売却が現金収入の多くの部分を占めるこの地の村人たちにとって、米の収量の多寡は自分の生活水準を直接に決めることになります。
 水田の形も、畦の無い水を掛け流す緩傾斜水田から、畦を造る湛水田へと変わりましたが、水田と水田との境は、畦ではなく依然としてヴェロ(vero)と呼ばれるわざと刈り残された草むらによって示されています。この草むらを勝手に移動させたり植えたりすることは、禁止されています。常に村の人びとの衆目監視の下で、草むらを新しく植えたり、あるいは動かしたりしなければなりません。一方畦は、毎年耕作のたびに壊され新たに作りかえられますので、境界の役目を果たすことができないのです。畦が作られた水田の中にも、点々と草むらが散在する様子そのものは、1980年代と少しも変わっていません。
 直播きをしていた頃には、耕起から播種、刈り入れ、脱穀までの一連の稲作作業を世帯間の協同作業として行うアサ・ライキ(asa raiky)の組織が、村中に張りめぐらされていました。けれども、IR系の品種と共に導入された移植法は、この協同労働組織を大きく弱体化させてしまいました。なぜなら、移植法の導入直後こそ田植えも世帯間の協同によって行われていましたが、炎天下や時には雨にうたれながらの腰を曲げて行う長時間のきつい作業であることが、互いの水田面積の違いによる労働力交換の対等性に対する疑問や不満を噴出させた結果、田植えが協同労働組織の対象となる稲作の作業過程から外されてしまったからです。協同労働組織に代わって、田植えを遂行する大きな力となっているのが、賃雇いです。20年前にも田植えの賃雇いは存在しましたが、当時の労賃の計算単位は、作業日数でした。それが今では、綱で測った5m×5m四方のカレ(kare)と呼ばれる面積を労賃支払いの基礎単位とするようになっています。しかしこの事は逆に、子供であっても大人であっても同じ面積の田植えには同じ労賃が支払われることを意味し、村を超えての田植え時の労働力の移動が盛んとなりました。1月から2月の学校が休みの土曜日や日曜日には、子供たちが「田植えの仕事な〜い?」と家々や村々をまわって歩いています。

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