ホロホロ鳥
初出:『マダガスカル研究懇談会ニュースレター Serasera』 第3号
2000年 pp.7-9 を基に一部加筆・修正
  よく人に「マダガスカルで一番美味しいものはなんですか」と訊かれる。もちろん、これに答えることはそう簡単ではない。バナナ・ライチ・マンゴ・トゲバンレイシ・チェリモヤ・ウリ・パパイヤなど熱帯の大地がもたらす実りが、どれも安くて美味しいことに異論は少ないだろう。エビ・マングローブガニ・岩牡蠣・ウナギ・ティラピヤそれに日本人の目にはいささか見かけの貧相な野菜も滋味に富み、また新米をお粥にすればそこにインディカ米とジャポニカ米の定式化された食味の違いを見いだすことは難しい。さすがに乏しい草を黙々とはみながら農耕にも寄生虫やアブやダニや暑熱や渇きにも耐えてきたマダガスカルの牛の肉は、塩をふり直火で焼くという荒っぽい料理方法以外では、野趣に富みすぎた味が強すぎるものの、豚肉と家禽の肉は日本のそれの比ではない。もし日本でマダガスカルと同じ味の豚肉や家禽の肉を求めようとしたならば、「自然」という名の特別な品を購なわなければいけないだろう。あるいは日本人なら顔をしかめるようなセミ・オオコオロギ・コウモリ・キツネザルと言った「食材」も、一度それを口に押し込んで咀嚼する勇気を奮って頂ければその「美味しさ」の説明はことさらに必要ないと確信する。
 とは言え、誰の口にも合いまた自分自身も好きな食べ物を探して頭の中にマダガスカルの地図を広げ検索してみれば、ホロホロ鳥の名前が浮かんでくる。ホロホロ鳥、英語とフランス語では<ギニア・ニワトリ>の名で呼ばれる。その名が示す通り、大航海時代にヨーロッパ人はそこで初めてホロホロ鳥と出会い、西アフリカ原産の鳥と考えていた。実際には、アフリカからアラビア半島にかけて広く棲息していて、原産地は定かではない。マダガスカル語名は、中央高地から南東部一帯で<アカンガ>( akanga )、西部から北部地方一帯で<トウメンドリイ>( tomendry )。人の手によってマダガスカルに持ち込まれたと物の本に書かれてはいるものの、1648年から1652年にかけフランス・東インド会社のフォー・ドーファン駐在館長として滞在したフラクールによって記された『マダガスカル・大島の歴史』の中で既に「森の中に沢山いる」と報告されているから、もしかしたら16世紀からのヨーロッパ人の来島以前からアラビア人の手によって持ち込まれ生息していたのかもしれない。現在でも、中央高地の草原地帯から西部の低灌木林帯にかけては、特に珍しい鳥ではない。稲刈りの終わった後の水田に、落ち穂を求めて里近くに群で出てくる姿も見られる。
  大きさは、ニワトリと鶉のちょうど中間。「ホロホロ鳥には二つの羽根(の色)」( akanga roa volo )と諺にも謳われる通り羽根の色には二種類あり、やや灰色がかった黒色の羽根に白っぽい細かな斑点が全身に広がっている種類が大半を占め、中にはその逆に白っぽい羽根に黒みがかった細かな斑点が全身に広がっている種類もある。頭部は、七面鳥のように無毛で、小さなとさかがあり、また日本画の染料か陶器の釉薬のような少し白味がかった独特のブルーの色をしている。人目を惹く派手な姿形ではないものの、その立ち姿は繊細でたおやかなそれでいて凛とした風情がある。マダガスカル語で<ホロホロ鳥する>( miakanga )とは、「(ホロホロ鳥のように)群れて歩き回る」ことを意味することからわかるように、自然状態であれ飼育状態であれ、常に仲間と至近距離をとりながら行動している。ニワトリのようなけたたましくせわしい啼きかたはせず、時折「ピロピロ」と特有の声を発する。ふだんは地上で餌をついばんで歩き回っているが、飛翔能力はニワトリや鶉よりもだいぶ優れており、西部から北部に広がる5mくらいの低灌木林帯なら楽々とその上を飛び越えてゆく。
  ホロホロ鳥の肉の味を形容するとしたら、「優雅」とか「高貴」とかの単語がふさわしいだろうか。マダガスカルの「自然養鶏」のニワトリの肉も美味しいが、それでもホロホロ鳥に比べたら、その肉は脂の臭さをもった下卑たくどい味とでも表現するほかはない。では、淡白な味かと言えば、それも少し違う気がする。一口めは淡白に感じた肉も、二口、三口と噛めば、はっきりとしたホロホロ鳥特有の味を主張する。全身が、極上のニワトリのささみ肉のようであり、水に塩を入れて煮たような素っ気ない料理方法でも十分に食するに足りる。日本流にだしをはった澄まし汁の中に具として入れれば、さぞやと思う。僕が1983年から調査を行っているマジュンガ北部地方の人々は食べ物についての禁忌が少なく、国際的保護動物のアイアイであれ全て固有種である内陸棲のカメであれコウモリであれゲンゴロウであれコオロギであれ何でもよく胃袋におさめてしまうが、その中でもホロホロ鳥はうまいとする声が多い。
  しかしながら、マダガスカルに在住する日本人の間でこのホロホロ鳥の味を知る人はごく少ない。と言うのも、ホロホロ鳥の飼育そのものはさほど難しくはないものの地面に放し飼いにしなければならない上、ニワトリほど繁殖率が高くはないためその数が限られており、町の市場にはめったに出回らないためである。まして、野生のホロホロ鳥となったら、自分で鉄砲を持ち猟を趣味とする人以外には、入手の方法がない。それに、一時日本でもホロホロ鳥が飼育されその肉が大手デパートの精肉コーナーに並んだこともあるが、鳥そのものが日本人にはいまだにほとんど馴染みがない。その肉、うまいのか不味いのか、はたまた食べることができる鳥なのかどうか。
  1993年8月19日。1983年から住み込み調査を続けている村での5回目の半月一寸の短い滞在も終わり翌早朝には出立という夜、籠に押し込めた一羽のホロホロ鳥を携えて村の小学校の先生が、僕が住んでいる一間きりのそれでも一人住まいには十分に広い家を訪ねてくれる。それには理由があって、この先生がホロホロ鳥を十数羽飼っていたため、僕の方から二羽ほど売って欲しいと何度かせがんでいたためである。ゆったりとした雰囲気の美しい奥さんと三人のお子さんに恵まれた小柄で四十過ぎの先生は、「二羽との話だったけれど、夜だから一羽しか捕まらなくてね」と謝られた上代金を固辞され、その心遣いがうれしくもありまた日本円にすれば月数千円の小学校の先生の給与のことを考えれば心苦しくもあった。先生は、ホロホロ鳥に道中水と米を与えることを忘れないようにとの注意を与えてくれた。
  翌朝村を去り、タクシ・ブルースを乗り継ぎ一路マジュンガへと向かう。21日早朝の6時半にマジュンガの町に着く。すぐに定宿のインド系のオーナーの安ホテルに部屋をとり、服を着替えてシャワーを浴びる。それから、近くのこれもインド系の安ホテルの食堂に立ち寄り、マジュンガ名物のひき肉料理である<キモ>をサイダーで胃袋に流し込む。その後、二時間ちょっとタクシーブルースの旅の疲れを癒やすべく、まどろむ。11時前に起きてホテルを出、人力車<プス>を500FMGで拾い、港沿いにある<マダガスカル水産会社>、略称SOMAPECHE、の事務所に無事道中を乗り切ったホロホロ鳥と共に向かう。ここまでの道中ホロホロ鳥は、首だけを出した恰好で籠の中に入れられたままだった。SOMAPECHEでは、マルハから派遣され社長を務めていた向井 肇さんと壁のクーラーの吹き出す冷気がそこだけ日本を思い起こさせる事務室で面会する。この時、向井さんご自身は1984年に続く二回目のマジュンガ駐在の最中。その一回目の駐在の折には、村でマラリアに罹患し半死半生でマジュンガまでようやくのことで辿り着いた僕を同じマルハの森本さんや加瀬さんや田辺さんと共に助けて下さったという浅からぬ縁の持ち主。ただし、その時極度の衰弱状態にあった僕は、医師の家にまで付いてきて下さった向井さんの顔を覚えていなかったという失礼。さっそく向井さんに田舎から持参のホロホロ鳥を、進呈する。ところが向井さん、籠をのぞき込むやいなや「これ何?え!これを食べるの?」と不二家のマスコット人形のペコちゃんに似ていることから<ペコちゃん>のニックネームを持つ柔和な顔を、眉間に皺を寄せて曇らせてしまう。僕がホロホロ鳥の素敵に美味しいことを説明するも、「何かかわいそうだよね」。後で向井さんご自身、この時のことを「ホロホロ鳥と眼が会っちゃってね、僕の方を見つめるんだよ」とよく人に語っていたと言う。ホロホロ鳥、ニワトリよりも身体全体に占める頭の割合が小さいが、その小さな頭に大きな眼がついている。その眼がまた赤ちゃんの眼のように濡れてつやつやしており、「眼が会っちゃった」との言葉はホロホロ鳥を知る人間には説得性と真実味がある。でも、その時は数百キロを運んできたのに向井さんに喜んで食べて貰えなかったことだけが、ただただ残念であった。
  その日は、向井さんが住まわれているSOMAPECHEの社長公邸で昼食をご馳走になる。社長公邸は、ベツィブカ川の河口とモザンビーク海峡を一望するその昔マジュンガのサカラヴァ王国がイメリナ王国によって攻め落とされるまで王宮が置かれていた小高い丘の上にある白い瀟洒な建物で、大きく庭に突き出た広いバルコニーにはいつも海からの風が吹き抜けている。結局ホロホロ鳥は、公邸付きの女中さんの手に渡され、逃げないように台所の前の裏庭に片足を紐で繋がれ、水と白米を与えられていた。長旅を終えて少し安心したようでもあり、また見も知らぬ遠い所に連れてこられさてどうなるのかとの不安に小さくなっているようでもあり、置かれた米をついばむでもなく、乾季のマジュンガの強烈な陽光が創り出すマンゴの木陰にたたずんでいた。もう孫もいるという年季の入ったいかにもサカラヴァ的な恰幅のよい女中さん、さすがに万事を心得ていて、「ホロホロ鳥飼うにはね、一匹ではだめなんだよ。仲間がいないとね、活発に餌をとらないのさ。ニワトリでも構わないよ。向井さんに言って、明日にでもニワトリを買ってもらおうかね」。
  1995年8月10日。二年ぶりに調査地の村へ行く途中にマジュンガの町に立ち寄り、夕刻SOMAPECHEの事務所に向井さんを訪ねる。執務時間も終わった6時過ぎに、向井さんのクーラーの効いた日本車で公邸に向かう。公邸に着くと、二年前の女中さんが庭を案内してくれる。ニワトリが二羽、ホロホロ鳥が四羽、芝生の上を思い思いに動き回っていた。鳥達が辺りかまわず新芽をついばんでしまうせいであろう、せっかくの公邸の芝生がだんだらになっている。僕が村から持ってきたホロホロ鳥は牡で、女中さんが市場のニワトリ売りに頼んで牝のホロホロ鳥を手に入れてくれたお陰で、子供のホロホロ鳥も生まれていた。牝のホロホロ鳥は、白い羽根全体に黒みがかった斑点が入っている。女中さんの話では、病気になったり猫に襲われたりで数羽が死んだという。ニワトリは、当座の仲間として購入されたもの。公邸のバルコニーから見ていると、モザンビーク海峡に日没が近づくやホロホロ鳥たちは、西隣のマジュンガ州の裁判所長官の公邸の塀の上に一斉に飛び上がり、並んでとまっていた。隣家の隅にある樹木がホロホロ鳥の夜の間のねぐらだと向井さんが教えてくれる。これが、当時マダガスカルに在住していた邦人の間で知らぬ人のないSOMAPECHE社長公邸の<動物園>であった。この日はその後SOMAPECHEの船員の方々の宿舎でみんなでにぎやかに夕食をとったが、この<動物園>を僕に見せてくれるためだけに向井さんがわざわざ公邸に立ち寄ってくれたことの心遣いがやけにうれしかった。
  その後、このホロホロ鳥達と二度と会うことはできなかった。1996年にSOMAPECHEの社長が向井さんから交代すると共に、ホロホロ鳥達も行方知れずとなり、風の噂では猫に獲られてしまったとも人に捕獲されたともあるいは何処かに飛び去ったとも聞く。そして、向井さんご自身も三度めの駐在としてマジュンガの地を永遠に踏みしめることなく、2000年2月10日未明、46才の若さで不帰の人となった。合掌。
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