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 マダガスカルでSikidyないしSiklyと呼ばれる占いは、英語でgeomancy、フランス語でGéomancieすなわち「土占い」と総称される占い方法の中の一つであり、この型の占いはアラビアからアフリカの広範囲そしてヨーロッパの一部まで分布している。この占いについて記した最も古い文献資料は、12世紀のアラビア語文書に遡ると言われている。土占いが、アラブ世界と強い関わりを持ちながら存在していたことは疑いないが、その起源が何処にあるかは定かではない。このような占い方法がイスラム教の教義そのものと直接関係するわけではないものの、8世紀以降のイスラム教の拡大と共に、世界各地に広まっていったものと考えられている。その証拠に、土占いは、古典アラビア語では「砂の上に書かれた文字」を意味する Khet't er Remel と呼ばれているが、スーダンでは Ram 、コモロ諸島では Ramouli と名付けられている。あるいはチャドの一部ではアラビア語で「読む行為」を意味する qr' に由来する Gara 、西アフリカの一部ではアラビア語で「土地」を意味する al teret に由来する Laturu と呼ばれている。さらに、マダガスカルでこの占い方法を指す Sikdy ないし Sikly の名称は、アラビア語で「記し」や「形」を意味する chikl・shikl に由来する。
 
 14世紀に書かれたイブン=ハルドゥーンの『歴史序説』の「砂占い」の章の中で既に、この占いの具体的やり方およびイスラム教との関係がかなり詳細に記述されている;
 「普通の人間で超自然を引き出し、未来を知るために、「砂占い」といわれる技術を考案した者がいる。この名はその技術に使われる砂から出た。この技術は、四「段」にわたって一つまたは二つの点を、配列と組合わせいろいろに変えながら打つことから得られる。この方法によると、結局16の組合せを作ることができる。なぜなら、もしこの四段すべてに一つの点、すなわち「単」を打つか、あるいは二つの点、すなわち「双」を打てば、二つの組合せができる。もし一つの段のみを単にすれば、四つの組合せができる。もし二つの段を単にすれば、六つの組合せができるし、さらに三つの段を単にすれば、四つの組合せができる。こうして全部で16の組合せとなる。
 砂占い師は、それぞれの組合せにすべて名前を付け、星の場合と同様、その組合せを吉と凶に分類する。そして、16組の組合せを16の「宿」であると仮定する。砂占い師の考えによれば、この「宿」とは自然に合致したもので、黄道の12宮と四「方位」に相当するという。彼らは各組合せに一つの宿、吉凶の影響力、元素世界のある特定の類に対する意義を当てはめている。このようにして砂占い師は、占星術や占星術による判断に似た法則を考案した。しかし占星術による判断は、プトレマイオスの主張しているように、自然の兆候にもとづいている。一方「砂占い」の表示は、形式的なものである。
 
                −中略−
 砂占い師が世に現れると、彼らは星とか天体の位置などを使わなくなった。そのわけは、器具を使って星の緯度を確かめたり、計算によって星の正しい位置を見つけるのが、彼らにはむずかしいと思われたからである。それで、彼らは前記の組合せ表を考案した。彼らは天球の「宿」と方位にしたがって、16を仮定し、それらが惑星の場合と同様に、吉であるとか凶であるとか、それらが混合しているとか仕分けをし、それらを六つの相に限定した。彼らは占星術の設問でなされるように、組合せ表にしたがって判断を下す。しかしいずれの場合も、占兆の応用の仕方は前述のような不自然なものである。
 
               −中略−
 砂占い師のうちには、彼らの感覚をもっぱら組合せ表の解読に使って、超自然的知覚を得ようとする者がいる。このようにして超自然的知覚を手に入れる「準備」の状態に達した者は、−中略−生来そういう準備に達している者と同じようになる。このような人々は、砂占い師うちでもっとも程度の高い者である。−中略−彼らは、「砂占い」がイスラーム法によって規定されていると主張し、その証拠として、マホメットの言葉、すなわち「文字を書く預言者がいた。誰でも彼の書くことに同意する」というのを引用する。しかしこの伝承は、彼らが主張するように、「砂占い」がイスラーム法によって規定されていると推定できるような証拠とはならない。この伝承の意味は、−中略−いつも書いているときに啓示を受けるような習慣を持っている預言者の場合、彼の書くことが啓示によって裏付けされているという点で彼は正しい、ということである。あるいは、その伝承は一種の賛辞で、その預言者が「砂占い」を使って−これは啓示と砂占いとのあいだに結びつきがあることを意味するものではないが−高貴な能力を持ちえたことを示すものらしい。というのは、この方法によってその預言者が、砂占いからの結論に一致する啓示を受ける「準備」をしたからである。しかし、預言者が啓示を伴わない砂占いだけでその結論を引き出すならば、その預言者は正しいとはいえない。これがその伝承の意味である。神はよりよく知り給う。
 
               −中略−
 砂占い師の考えによると、何か超自然的なものを見出そうと欲する場合、彼らは紙か砂かか小麦粉のいずれかを取って、四「段」の数に一致させ、まず四列に点を打つ。これが四度繰り返される。このようにして16列を作る。それから「双」になっている点を差し引き、各列の残を「双」であっても「単」であっても、順序に従ってそれぞれの「段」に置く。するとこれは一つの連続した列に並ぶ四つの組合せとなる。ついでそのなかから、同一線上に並ぶ他の四つの組合せを作る。するとこれらは一列に沿って置かれた八つの組合せとなる。次ぎに対になる二つの組合せから、一つの組合せを作り、それをそれぞれ二つの組合せの各段に見られる双あるいは単の点を考慮して、その各二つの組合せの下に置く。このようにして、八つの組合せの下に四つの組合せができることになる。同様にして、この四つの組合せから、二つの組合せを作り、その四つの組合せの下に置き、さらにこれらの二つから同じく一つの組合せを作って、その二つの組合せの下に置き、ついでこの15の組合せと最初の組合せから、さらにもう一つの組合せを作り、これを最後の16番目の組合せとする。それから砂占い師は、この砂占い全体についてそれぞれの組合せが示す吉凶を判断するが、そのさいそれらの組合せをそのままにしておいたり、観察したり、分離したり、組合せたり、各種の存在界のように推定したりしながら、そうした判断を奇妙な態度で行うのである」(イブン=ハルドゥーン『歴史序説第一巻』 森本公誠 訳 岩波書店 1979年 pp.216-222)。
 
 10世紀頃から14世紀頃にかけてマダガスカルには、イスラム教やアラブ文化の影響を強く受けた人びとの集団が移住してきた。そのような人びと全てが人種的にアラブ人であったかどうかは不明であり、むしろ東アフリカ沿岸やコモロ諸島で成立したスワヒリ文化の担い手であった可能性も高いが、アラビア地方からの移住を伝承するこれらの集団の中には、現在でも自分たちが<メッカ>からやって来たことを主張する人びともいる。このような起源伝承を持つ集団は、マダガスカルの北東部から北西部、および南東部の沿岸地方に多く居住し、とりわけAntemoro(もしくはAntaimoro)・Antambahoaka・Antaisakaの三つの民族の間でアラブ−イスラム的な習俗が顕著に見出される。これらの民族の間に存在するSorabe と呼ばれるアラビア文字を用いて書き記されたマダガスカル語文書・アラビア語に起源を持つ儀礼などの際に用いられる秘密の言葉・アラビア語の暦と占い歴・製紙技術・男子割礼・豚や猪を食べることの禁忌・縁の無いてっぺんの平らな帽子の着用・Katraと呼ばれる盤上ゲームおよび Sikidy(Sikily)などは、このような移住集団がマダガスカルにもたらしたアラブ−イスラム的習俗と考えられている。マダガスカル研究者の中には、15世紀から16世紀にかけてマダガスカル各地で活発化する王国ないし首長国の形成は、これらのアラブ系移住集団が持ち込んだ<王>あるいは<首長>と言う外来の新しい観念によって誘発された結果と主張する者もいる。
 
 1648年から1655年まで南部のFort-Dauphin砦にフランス・インド会社の商館長として滞在した Etienne de Flacourtが1658年に著した Histoire de la Grande Isle Madagascar 『マダガスカル 大島の歴史』の中にも、この Sikily についての記述が見られる;「ウンピツィキーリ(<シキーリを行う者>の意)は、普通黒人とアナカンドゥリ(<貴族の子ども>ないし<貴族の子孫>の意)との間の混血である。シキーリとは、「土占い」(Géomancie)と一般に呼ばれるものである。砂を敷き詰めた板の上でシキーリを行う、すなわちその上に指でシキーリの形を描き、シキーリで問う現状に影響を及ぼす曜日・時・月・天体あるいは兆候を観察する点を除けば、シキーリの形状は、「土占い」のテキストの形状とほぼ同じである。ウンピツィキーリたちはシキーリを熱心に行うが、彼らが求める真実に到達することは希である。彼らの中のある者たちは、しばしば行ったシキーリに自らの推測を付け加えており、ウンピツィキーリたちの中では尊敬されまた評価されている。病人たちは治癒のために彼らに相談し、またある者たちは自分たちの身の回りのことで相談するが、シキーリを行うことなしには外出さえしない輩が少なくい。すなわち、彼らほど迷信深い土地の人びとはいない。なかんずく、マンガ湾(アントンジール湾)の人びとはシキーリの託宣をうかがう事なしには、身の回りの事、売り買い、植え付け、旅、家屋の建築など、何事もしようとはしない。マシクル地方の人びとは、「土占い」の形象と同じ数だけの穴をあけた小さな板の上でシキーリを行い、手に持った細い棒をその穴の一つに止め、そこに描かれている模様を注意深く観察し、それから(「土占い」の)形象を作成し、判断を下している」(Etienne de Flacourt , Histoire de la Grande Isle MADAGASCAR , Paris:INALCO-KARTHALA ,1995 , pp.234-235)。
 
 18世紀末に中央高地にある Imerina王国を再統一しその後の発展と拡張の礎を築いた Andrianampoinimerina王(1787年?−1810年在位)は、上記のAntemoro族の王国から書記・占い師・医師などを自らの宮廷に招き、占星術・占い法・アラビア文字による書記法・医術などの導入を図っている。恐らくこの頃、7年に一回の男子割礼祭も、Antemoro族からImerina王国にもたされたものと思われる。男子割礼・占い歴・アラビア語の曜日名称および Sikidy(Sikily)などは、現在ほとんどの民族の間で採用されているが、上記のアラブ−イスラム系集団ないしこれらの集団から技術を習得した集団からさらに流出し広まったものであろう。しかしながらその一方、Antemoro・Antambahoaka・Antaisakaなどの民族の祖先にあたる<アラブ系>移住集団が当初保持していたと推測されるイスラム教の教義は、集団のマダガスカルへの土着化と共に失われ、今ではその習俗の断片を残すだけとなっている。
 
 現在マダガスカルで行われている Sikidyないし Sikily には複数のバリエーションが存在する。マダガスカルでは、後述する Sikidy Alananaすなわち「砂のシキーディ」は、アラブないしメッカからもたらされたと語られ、他の Sikidyの方法に比べはるかに新しいものと見なされている。
 Sikidy joria「ズリアのシキーディ」 : 広範囲に行われている Sikidyで、形象の配置方法などは後述する Sikdy alanana に類似しているが、Sikdy alanana では一つの形象が縦に四つ並んだ単もしくは双の点によって構成されるのに対し、 Sikdy joria では一つの形象が単もしくは双の点だけによって構成されている。すなわち Sikidy alanana で用いられる形象は全てで16ある一方、 Sikidy joria で用いられる形象は2つのみである。このシキーディを行う者は、先ず種子を一掴み取り、それを右から左へと四つの山に分けて置いてゆく。次ぎに四つの種子の山それぞれから、二つずつ種子を取り去ってゆく。その結果、最後に残る種子の数は1もしくは2粒であり、これがそれぞれ4つの場所におけるシキーディの形象となる。
 Sikdy alakarabo「アラカラブのシキーディ」 : 南部から西部の民族の間で行われているシキーディであり、操作手順や配置法は、上記の Sikidy joria と同じである。唯一の違いは、置かれた種子の山から取り去られてゆく種子の数が2ではなく3である事にある。その結果、一つの位置に入る形象は、単・双・三の三種類の何れかとなる。alakaraboとは、シキーディの形象の一つの名称であると同時に、占い歴の第八番目の月の名前でもある。
Sikidy folak'ahitra「草を折ったシキーディ」・Sikidy vero「草のシキーディ」・Sikidy kofafa「箒のシキーディ」 : Betsileo族やBetsimisaraka族の間に見られるシキーディであり、シキーディの名称を冠しているものの占いと言うよりも子どもなどの遊びとしての性格が強い。二本の草の茎を選び、それぞれに等間隔に爪で傷をつけてゆく。その傷の数が、二本とも奇数ならば吉、二本とも偶数ならば凶とするものである。
Sikidy alanana「砂のシキーディ」 : Sikidy joria と共通する点があるが、一つの形象が縦に四つ並んだ単または双の点によって表され、その結果占いで用いられる形象は全部で16ある点が異なっている。これらの形象を16の位置に置き、さらにそれらの位置と形象との相互関係を解読してゆくため、Sikidy alanana の体系は Sikidy joria と比べ遙かに複雑である。最初の占いの形象の作り方は、Sikidy joria と同じようにひとつまみの種子の山から二つずつ種子を取り去ってゆき最後に残った種子の数によって決める方法、あるいは砂などの上に描いたジグザグ線を二山ずつ区切ってゆき最後に残った山の数によって決める方法の二通りがある。いずれの方法を用いても、一つの形象を得るためには、四つの種子の山ないし四本のジグザグ線が必要となる。
 
 ここにHP上で公開する『Sikidy占い解読方法手稿』は、上記のシキーディ分類の中では、Sikidy alanana にあたるものの具体的な解読法を記載したノートである。ノートそのものに表題等は一切記されておらず、『Sikidy占い解読方法手稿』とは、私が仮につけた題名にすぎない。全部で128の質問が用意してあり、それぞれの質問に対して16の形象一つずつが対応した時の答えないし解読法の合計2048例が、体系的に記されている。この手稿は、首都アンタナナリヴの町のAmbohijatovo地区にある古本屋街で2004年8月に購入し入手したものである。そのため、この手稿が何時頃何処で誰の手によってどのような経緯によって成立したものかについての詳細な情報を持ち合わせていない。しかしながら、手稿に用いられているマダガスカル語の語彙がMerina族などの中央高地方言のものであること、二人称単数がianaoではなくhianaoと書かれていることなどから、アンタナナリヴで20世紀前半、ないし場合によっては手稿を売った古本屋の店主が主張するとおり19世紀末に、作成された手稿であると推測される。また、複数の人間の筆跡とインク跡が認められることから、一人の人間が自分の持っているシキーディの技術ないし知識を書き留めたものと言うよりは、複数の人間が既存の手稿ないしテキストを共同で書写したものと考えられる。その場合、原本ないし原手稿は、この手稿よりもさらに古い時代に成立したことになる。したがってこの手稿は、Andrianampoinimerina王が18世紀後半に自らの王宮に招聘したAntemoro族の占い師たちが伝えたシキーディの技法に連なるテキストの一つである可能性をも考慮する必要がある。私自身も、調査地域のマジュンガ州北部地方でこのようなシキーディの解読法について記したノートを3例確認しており、恐らくマダガスカル全土ではスラベ sorabe(アラビア文字によって表記されたマダガスカル語文書)をも含め厖大な数のシキーディをめぐる類似の手稿や写本が存在しあるいは流布されているものと考えられる。このようなシキーディの操作法や解読法をめぐる手稿が翻刻された先例としては、Documents Historiques de MADAGASCAR N.33-38 『マダガスカル歴史資料集 33−38号』, Fianarantsoa:Centre de Formation Pedagogique Ambozontany に収録されている Le manuscrit de l'Ombiasy de Ranavalona I . Antananarivo 1869-1870『ラナヴァルナI世女王の占い師の手稿 アンタナナリヴ 1869−1870年』があるが、シキーディ占いについてはその操作手順の概略が述べられているにすぎず、ここに公開した『Sikidy占い方法手稿』は実際の解読に用いることのできる手引き書ないし参考書としての役割がはるかに高い点に特徴がある。この手稿の読解および他のSikdyテクストとの比較は、マダガスカルにおけるアラビア系文化の受容と流布の通時的な過程および共時的な多様性に対する研究に寄与するものである。なお、 Sikidy alanana「砂のシキーディ」の具体的手順とその読解方法の全体については、Raymond Decary著Divination Malgache par Le Sikidy , 1970年Paris:Librairie Orientaliste Paul Geuthnerもしくは J.F. Rabedimy著 Pratiques de Divination a Madagascar , Techique du Sikily en Pays Sakalava-Menabe , 1976年 Paris:O.R.S.T.O.M. に詳しく記述されているので、そちらを参照されたい。
 
   参考文献
Andreb , 1987. À la Découverte de La Géomancie , Paris:Dervy-Livres.
 
Jaulin , Robert. 1966. La Géomancie , Analyse formelle , Paris:Mouton&CO.
 
Decary , Raymond. 1970. Divination Malgache par Le Sikidy , Paris:Librairie Orientaliste Paul Geuthner.
 
Rabedimy , J.F. 1976. Pratiques de Divination a Madagascar , Techique du Sikily en Pays Sakalava-Menabe , Paris:O.R.S.T.O.M.

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