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  マダガスカル島におけるキリスト教の本格的な布教は、アンタナナリヴを中心とする島の中央部に成立したイメリナ王国(Imerina)が18世紀後半から島の各地にその勢力範囲と支配地域を拡大し、その結果安定した統治主体とその政治的機構が広範囲に確立した19世紀初頭に始まる。1795年に創設され既にタヒチや南アフリカにおいて布教活動を行っていたロンドン宣教協会(The London Missionary Society)が、マダガスカル布教の計画を具体化させていた。
 
時を同じくした1814年、ナポレオン戦争による第1次パリ条約に基づき、フランスからモーリシャスの割譲を受けインド洋西域の活動拠点を獲得したイギリスもまた、マダガスカルとの間で政治的また経済的関係を確立する機会を模索し始めていた。このような歴史的状況の中で1818年、モーリシャスを経由しロンドン宣教協会の二人の若い宣教師がその妻と共に、マダガスカルのタマタヴに派遣された。その内の一人が、ダヴィッド・ジョーンズ(David Jones)である。
 
二人はタマタヴに学校を開設して布教に取り組んだものの、マラリアによってジョーンズは妻と子供、さらには同僚とその家族をも失い、自身も健康を損ねてモーリシャスに一旦戻った。1820年、ジョーンズは、モーリシャス総督ファーカー(Farquhar)がイメリナ王国のラダマ一世(Radama)に対して派遣した使節ハスティ(Hastie)に随行して再度マダガスカルに戻り、困難な旅路の末にイメリナ王国の都アンタナナリヴ(Antananarivo)に入った。アンタナナリヴにおいてジョーンズは、宣教団のもたらす新しい技術と教育に大きな関心と期待を示したラダマ一世の厚遇を得て、学校を開設した。翌年の1821年に協会は、宣教師ダヴィッド・グリフィス(David Griffith)を追加派遣し、イメリナ王国内部の守旧派の妨害や民衆の偏見などの困難に晒されながらも、ジョーンズたちは学校とそこに学ぶ生徒の数を着実に増やしていった。
 
ジョーンズたちは、学校教育および宣教のためにマダガスカル語をアルファベット表記化する作業に取り組み、1819年にアンタナナリヴに入りラダマ一世の特別書記官および補佐官を務めていたフランス軍伍長のロベン(Robin)やラダマ一世自身とも協議の上、1823年に正書法を定めた。これによって学校における教育が飛躍的に進展すると共に、ジョーンズとグリフィスたちは、聖書のマダガスカル語への翻訳作業に着手した。1826年時点で、新約聖書全編と旧約聖書の一部をもマダガスカル語に訳出するまでに作業は、順調に進んだ。しかしながらその矢先の1828年にラダマ一世が36才の若さで亡くなり、その妻でイトコのラマヴ(Ramavo)が、ラナヴァルナ一世(Ranavalona)として即位した。ラナヴァルナ一世も当初こそはラダマ一世同様の宣教団に対する待遇を約束したものの、次第に宮廷内において守旧派の勢力が台頭するにつれ、その政策は反キリスト教的色彩を強め、その傾向は、1830年に平民出身のライニハル(Rainiharo)が宰相となるに至って決定的となった。同年、健康を害したジョーンズ自身は、イギリスに一時帰国した。1835年に女王は、王国民が洗礼を受けることおよび教会活動に参加することを禁止し、事実上王国内におけるキリスト教宣教団の諸活動は不可能となった。1835年から1836年にかけ宣教師や協会関係者は相次いで、アンタナナリヴおよびマダガスカルから退去した。
 
  しかしその一方1835年は、ひとえにロンドン宣教協会の活動に留まらず、マダガスカルのキリスト教布教史および文化史上において、特記されるべき年となった。なぜならこの年、旧約と新約を併せた完訳マダガスカル語聖書がアンタナナリヴのロンドン宣教協会の印刷所において印刷・公刊され、さらに聖書翻訳作業の副産物と言うべき『マダガスカル語−英語』・『英語−マダガスカル語』も同所において公刊されたからである。後者は英語のみならず、ヨーロッパの言語による単語集を超える学習者などの利用を前提とした世界で最初のマダガスカル語辞典である。
 
ここで公開するのは、その1835年に出版された辞典の初版である。この辞典に集録されている語彙は多彩であり、19世紀初頭のマダガスカル語およびマダガスカル語研究を知る上での一級の言語資料であると同時に、イメリナ王国社会を知る上での重要な歴史資料としての価値を備えていると言えよう。

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