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  ベニョフスキーは、本名ベニョフスキー・モーリッツ(Benyovszky Moric)、自称マウリス・アウグスト・ド・アラダー・ベニョフスキー伯爵(Maurice Augusute de Aladar 〔Baron de〕Benyowski)。1741年にハンガリーのヴェルボワ(Verobova)に生まれたと『回想と旅行記』に記されているが、歴史考証によれば1746年生まれと言われる。
 
  1769年、ロシア軍の捕虜となったベニョフスキーは流刑と逃亡を繰り返した後、1771年4月、彼とその仲間たちはカムチャッカ半島の流刑地先で反乱を起こして船を強奪し、5月太平洋に船出した。この航海の途中、彼らは、7月には鎖国中の江戸時代日本の四国沿岸に投錨し、薪水を補給している。沖縄から台湾を経てマカオで一旦船を乗り換えた後、彼は1772年にフランス船に乗り、途中当時はまだフランス領であったフランス島(モーリシャス)を経由して、同年パリに到着した。
 
パリに着いたベニョフスキーは、海軍省大臣はじめヴェルサイユの宮廷人たちに自らがマダガスカルに再びフランスの進出拠点を設けることおよびそのことのフランスにとっての利益について熱弁をふるった。1774年フランスの援助を取り付けることに成功した彼は、マダガスカル北東部のアントンジール湾(Antongil)内の現在のマルアンツェトラ(Maroantsetra)近くに村を建設して<ルイ王の村>(Louisbourg)、河口上流一帯を<健康な平野>(Plaine de la Sante)と命名した。
 
半年後、ベニョフスキーはパリに対し、全島を征服しそこから献上される税は莫大なものであることを報告した手紙を送りつけた。1776年、ベニョフスキーのこの企ての査察団2名が、派遣されて来た。しかし彼らがそこで見たものは、熱病によって300名以上の随員を失い朽ち果てる寸前の家屋がいくらかあるだけの<ルイ王の村>と度重なる戦闘によって荒廃した一帯であり、貢ぎ物を納める服従したマダガスカル人の姿はおろか定期的な東海岸との交易さえも存在しなかった。フランスに召喚されたベニョフスキーは、自分はマダガスカル人にメッカから来たことを主張するラミニア王の子孫であると信じられているため<マダガスカル王>を名乗っているとの話を粉飾してマダガスカル進出の機会を再度与えるようルイ16世に弁明したものの、受け入れられなかった。その後彼は、オーストリア皇帝、イギリス王に対しても同様な進言を行ったものの、やはり期待した援助を受けることはできなかった。
 
1784年、アメリカに渡ったベニョフスキーは、バルチモアで後援者に恵まれ、会社を興し船を一艘入手した。その船で彼は、1785年に再びマダガスカルに渡り、当初北西海岸に上陸したもののサカラヴァ族のブイナ王国の王の攻撃を受けたため、アントンジール湾に船を回航し再上陸した。彼は、そこにあったフランスの小さな砦を奪って、<マダガスカル皇帝>を僭称し、東海岸一帯のマダガスカル人たちに対しフランスを相手に蜂起するよう扇動した。これに対し、フランス島(モーリシャス)総督は、(インドの)ポンディッシェリ連隊に属する60名の兵員を差し向けて彼を拘束しようとしたが、1786年5月24日(もしくは23日)、ベニョフスキーは投降を拒否し分遣隊の放った銃弾に当たって死んだ。
 
  ベニョフスキーの『回想と旅行記』は、彼が再度のマダガスカル進出を図ってヨーロッパに滞在していた時期にフランス語で書かれたものであり、その死後の1790年に先ずロンドンにおいて英語版として出版された。続いてフランス語版も同じ年に出版されたが、ここに公開するのは、その1790年ロンドンで出版された英語版の初版である。1500年にマダガスカルがヨーロッパ人によって「発見」された直後の16世紀から17世紀にかけては、ポルトガル・オランダ・イギリス・フランスなどがマダガスカルへの進出や植民あるいは交易や布教の機会を求めて海岸部を中心に居住したり寄港したりしていたためフランス東洋会社フォー・ドーファン商館長エティエン・ド・フラクール(Eti- enne de Flacourt)による『マダガスカル 大島の歴史』(Histoire de la Grande Isle Madagascar)1661年に代表されるように、マダガスカルとそこに住む人びとについてのかなりの量の記述が残されている。16世紀と17世紀のヨーロッパ人に手になる記録の多くは、後にグランデイディエ父子(Alfred Granddier, Guillaume Grandidier)の手によって、『マダガスカルについての古文書集成』(Collection des Ouvrages Anciens concernant Madagascar)として集大成されたが、ベニョフスキーの『回想と旅行記』はその中に収録されていない。国家的事業としてのヨーロッパ各国の進出や駐在が失敗した後の18世紀のマダガスカルについての記録や記述は総体として少なく、そのような中でベニョフスキーのこの本は、北東部地方のみならず当時のマダガスカル全般を知る上での一級の歴史資料として評価されている。

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