『電脳処理《文海宝韻》研究』
編著者の辞


 11世紀の初めから13世紀にかけて、中国の西北部、現在でいえば、寧夏回族自治区、陝西、甘粛、それに青海、内蒙古自治区の一部にまたがる地域に西夏(タングート)国が出現した。この西夏国の公用語が西夏語であり、そこで制定されたのが西夏文字であった。西夏国は10代の王が即位し190年間続いたが、ジンギス汗の征服によって滅ぼされた。西夏の民は散り散りになり、多彩な西夏文化は歴史の彼方へと消え去った。

 西夏国の言語と文字の研究は、コズロフ探検隊の将来品により、20世紀初頭になって本格的にはじまった。当時日本にいた羅振玉とロシアのネフスキーとがその解読に着手して、その後、ロシア、中国、日本、フランス、イギリスなどの各国の研究者の間で進められてきた。

 近年は、ロシアと中国との国家間の協定によって西夏文献が公開され、大冊の『俄蔵黒水城文献』が中国から続々と刊行されるなかで、今まで一部の研究者にしか見られなかった文献の書影を信頼にたる整理された形で、われわれ一般の研究者が眼にすることのできるようにもなった。中国国内では、最近も新たなる西夏資料の発見の報がつぎつぎと伝えられている。ロシアや中国にくらべれば、研究者の層も薄く、文献資料の面では不利な立場に置かれていた日本の研究も、日本と同じ状況に置かれた海外の研究も、このように研究基盤が整ってくるにしたがって、西夏文字の解読や西夏語の音韻組織の再構を含むすべての西夏研究にわたって、今や謙虚な態度をもって、これまでの研究に根本的な反省を加え、新たに全面的検討を加えなければならない段階に達しているものとみうけられる。

 AA研にこれまでに西夏語の専門家としてお招きしたのは襲煌城教授(1991年 9月〜 1992年 8月)、李範文教授(1996年 5月〜 1996年 8月)で、両教授とわれわれとの共同研究の成果は、すでに、
  『コンピューターによる西夏文字の研究に向けて』
    (中嶋幹起・今井健二・高橋まり代共編、1996)
  『電脳処理 西夏文雑字研究』
    (李範文・中嶋幹起編著、大塚秀明・今井健二・高橋まり代協力、1997)
  『電脳処理 西夏文字諸解対照表(稿)』
    (中嶋幹起・今井健二・高橋まり代共編、1998)

となって公刊されている。このような西夏語研究の継続のなかで、1999年度の研究成果として本書『電脳処理《文海宝韻》研究』を上梓することができた。

 この度上梓した本書は、1998年9月から翌年の8月まで1年間にわたり客員教授としてお招きした史金波教授(中国社会科学院民族研究所)が、来日後、ご自身の研究の完成をめざすかたわら、西夏語に強い関心を寄せてAA研に集うグループにお教えをいただき、本研究所の世界に先駆けて開発した西夏文字フォントによるコンピュータ処理を加えつつ、教授の仕事を助けながら完成させたものにほかならない。このような日中共同研究の成果としては、本書は、第1作の『電脳処理 西夏文雑字研究』につぐ第2作である。

 1909年5月、ロシアのコズロフはチベットからハラホト故城にやってきて多量の書籍巻物、写本を手に入れた。そのなかには、西夏文字による仏典のほかに、辞典や字書、たとえば『同音』『番漢合時掌中珠』『雑字』などがあり、『文海宝韻』もそのひとつであった。

 コズロフ蒐集品中に含まれていた『文海宝韻』なる書物が、西夏人自らの手によって編纂されたもので、字書、韻書、事典の性格をかねそなえた西夏語解読の鍵をにぎる第一級の文献であることは言うまでもない。

 現存する『文海宝韻』(刊本。普通『文海』と通称されているもの)はその約半分(平声韻と雑類の一部)を収めるのみで、残る半分が欠落している。このために、西夏語研究者のなかには、『文海宝韻』の構成について正確な全体的認識を得られないのみか、文献が公刊され、研究が進んだ現在でも誤認しつづけ、自説を唱えてやまない者がいるのは、科学的精神にもとるかたくなさといえまいか。われわれは共同研究を通じて史金波教授の考え方と結論に与するのであり、ここに本書の完成によって『文海宝韻』の全体を明示するものである。

西田龍雄氏は、「『文海雑類』が何らかの理由から『文海』とは別の組織で構成されたことが納得できるならば、『文海』の補遺と見なして差支えないと考えている」(『西夏王国の言語と文化』p.110 1996.8)と述べている。
「『文海』にも収められず、その補遺である『文海雑類』にも欠ける文字が含まれていて」(月刊『言語』1996.Vol.25. No.8)のような同じ趣旨の言葉もみえる。

 西夏語のすべての文字体系と音韻体系を知ることのできる『文海宝韻』(写本)の存在は、N.A.ネフスキーが生前これを利用していることから、実は当初から知られていたことであった。

 しかし、20世紀30年代にネフスキーがこの写本を引用し、この世を去って以後、その行方は杳としてわからなくなった。数十年を経過してこの幻の写本は1992年にペテルブルグの表装師の家から発見された。史金波教授らは発見されて後、ロシアに赴き、実物を見て、その複写をえられた。これにより、判読するのに多大の困難をともなう写本を整理し、序文を破片から復元し、翻訳を完成し、かくして欠落を補完されたほぼ完全な形となってここ東京外国語大学AA研から公刊されたものであり、以下に述べるようなめぐりあわせの糸に深い感慨を覚えるのである。

 N.A.ネフスキーは、N.I.コンラード(後にソ連科学アカデミー東方学研究所日本語部の碩学として名高い)、ローゼンベルグ(日本仏教研究者)、ランミング(駐日公使館勤務)、エリセーエフ(米国ハーバード大学教授)らとともに、東京外国語学校露語学科の教諭であった黒野義文にペテルブルグで日本語を学んだ。黒野義文は、東京外国語学校の教諭として、わが明治露語界草創期の開拓者として著名な市川文吉、古川常一郎の両教授とともにその一員であった。1885(明治18)年、東京外国語学校が東京商業学校と合併されて廃校となった後、ロシアに渡り、1888年からペテルブルグ大学(第一次大戦当時のペトログラード大学、現在のレニングラード大学)の唯一の日本語講師となり、1916年まで研究を続け、日本語関係の参考書を数種編纂する一方、ロシアの東洋言語学者の育成に貢献し、数奇な運命の下、彼の地で亡くなった人物である。日本ではすでに忘れ去られた人物ではあるが、ロシアではその功績を高く評価されていて、今も忘れ去られることはない。ネフスキーは、1915年に日本に留学、小樽高商や大阪外国語学校で教鞭をとり、西夏語の研究を続行していたのである。

 われわれは、本書の刊行が今後の西夏語研究に画期的な作用を及ぼし、その発展を促進させることになると確信する一方、その計り知れない学術的価値をもった刊行物の出版を担った重責を感じざるをえないのである。

 学説史の発展の上でも本書の刊行は意義深いことになるであろう。

 ペテルブルグのクチャーノフをはじめとする西夏語研究者は、『モーレ・ピスマン』(1969年)に掲載された論文のなかで、『文海』には平声韻の部と上声韻の部、それに雑類(文海雑類)をひとまとめにした字書があって、それが『文海宝韻』であったとのネフスキーの説を述べている。『文海宝韻』(写本)を実際に見ていたネフスキーであったればこそ、そのような示唆的な説が出すことができたのだとわれわれは今に至って思い至るのである。まさしくネフスキーの説が本書の刊行によって検証されたことになる。

 世界の西夏語研究者のなかで、その『文海宝韻』(写本)の発見の報をもっとも待ち望み、その学術的価値を誰よりも深く知っていたのは史金波教授その人であった。以下には史金波教授のプロフィルを記しておきたい。

史金波教授が、西夏学の分野において、中国を代表する第一級の研究者であることは無論のこと、国際的にも、学界のトップにある研究者であることは衆目の認めるところである。史金波教授は、目下、中国科学院民族研究所の副所長の要職にあるばかりでなく、中国民族古文字研究会会長、中国民族学学会副会長など数々の中国国内の学会の会長や副会長に任じられていることは、教授の業績に対する高い評価と学会におけるリーダーシップの高さを示すものである。

 これまで史金波教授は、西夏の言語を中心として、西夏の宗教、歴史、考古に関する高いレベルの著作を数々公刊されてきた。その中でも、特に労作として『文海研究』(中国社会科学出版社 1983)がある。これは西夏国で編纂された字書『文海』を校勘し、その内容について深く研究したものである。『文海』は長い間、サンクト・ペテルブルグの東方学研究所に保管されていて、門外不出であったために、この研究はロシアの研究者によって先鞭をつけられ、クチャーノフ等が編集した『モーレ・ピスマン』(『《文海》タングート語刊本の複製』)となって1969年に出版された。だが原資料が公開されるに及んで、史金波教授らはあらためて整理しなおし、検討を加えて、他の中国の研究者といっしょに共同研究を行い、ロシアの水準をはるかに越えた大部の著作として公刊したものであった。『文海』は西夏語文献のすべてを解読する上での最も基礎となる字書であるだけに、史金波教授らの努力のよって公刊された『文海研究』の偉業は国際的に高く評価され、研究者に常時参照される原典として、われわれ後学はいまその学問的恩恵に浴している。

 史金波教授は、考古学の領域では『西夏文物』(1988年)、西夏文学では『類林研究』(1993年)、法律・制度では『西夏天盛律令訳注』(1994年)などの著作をつぎつぎに公刊されてきているが、これらはみな教授が先頭に立って研究を前進させ、いずれも国際的な評価を得たものである。このように蓄積された業績によって、教授は中国国内の最高の栄誉である「国家レベルの傑出した専門家」の称号を与えられている。

 史金波教授はすでにアメリカ、ロシアなど海外での学術活動を体験されておられる。1993年からは、ロシアとの学術協定のもとに進められているハラホト黒水城文献(ロシアのサンクト・ペテルブルグに保管されている西夏語文献)の調査のためにロシアに滞在され、中国を代表してその調査にあたられてきた。この調査によって、これまでロシア人研究者の気づくことのなかった貴重な文献までもがいくつも史金波教授によって発見され、それらを撮影してつぎつぎに中国から公刊されつつある。かくしてコズロフ探検隊によってロシアに持ち去られた幻の文献が大量にわれわれの眼前に提供されることになり、国際的に注目されている。これらは5年間をかけて「漢文部分」(計6巻)、「西夏文世俗部分」(計5巻)、「西夏文佛教部分」(計10巻)に分け出版される予定である。

 この『俄蔵黒水城文献』の第7巻に収録されている貴重な韻書のひとつに『文海宝韻』がある。史金波教授の今回の一年に渡るAA研での研究の主な目的は、実はこの文献の校勘と解読にあって、世界に先駆けて開発したわれわれAA研の西夏文字電算機処理技術による支援体制もその完成を志向しているのである。これは、かつてロシアの研究者によって先鞭をつけられ、史金波教授を中心とする中国の研究者たちによって研究された『文海』が、実は、多くの欠落部分を含んだままになっているのを補完する作業であり、このことは、ネフスキー教授の死とともに行方不明になっていた欠落部分の再発見があってようやくいま可能になったのである。

史金波教授は1939年、河北省は新城県(現在は高碑店市)のお生まれ。西夏学の専門家とわれわれの多くは思い込んでいるが、中央民族学院の学生時代には彝族(ロロ族)の言語を専攻されていて、四川省の涼山彝族自治区において長く調査実習の体験をお持ちであることを知る人は少ない。チベットでの調査体験もゆたかにお持ちである。

 史金波教授のこの度の来日前の数年間、中嶋幹起は北京訪問のたびに教授と会って、西夏語の研究を飛躍的に発展させることになる『文海宝韻』(写本)の漢語訳の構想を相談する機会を幾度ももち、教授の基本的考えを理解していた。

 『文海』から『文海宝韻』までの道のりは相当に長いものであったと言えよう。

 さきに、史金波教授は、刊本の『文海』と『文海雑類』とが一本をなすことをいち早く見抜かれていて(この事実は「簡論西夏文辞書」〔1980〕で明言され、その後さらに詳しく根拠を述べたのが「西夏文文献新探」〔1988〕である)、すでにそのたぐいまれなる洞察力を盛り込んだ形で、『文海研究』(1983)として、刊本『文海』および『雑類』の漢語訳を解説を加えて刊行された。

 だが、刊本『文海』には、平声の大部分と雑類の一部しかなく、上声と入声、それに雑類の大部分が欠落していて、全体の約半分を留めるにすぎない。しかも、この欠落部分は、西夏語の全体系を理解する上では、なくてはならない重要部分を構成しているのである。西夏語の、この失われている体系性を補完するという不可欠性を写本がもつが故に、これを全面的に補うことのできる幻の写本の発見とその解読が長い間期待されていたのである。

 史金波教授は『文海宝韻』(写本)の複写を手に入れた後、1995年に同僚の聶鴻音教授といっしょにこの翻訳と校勘の作業を開始したのであった。だが、写本の文字が草書でさらさらと書かれている上に、小さな文字で書かれてところはなおさらのこと判読することが容易でなかった。全部を翻訳するには多くの労苦と時間がかかることが予想された。民族研究所の副所長としての要職の地位にあった史金波教授の身辺は多忙を極めてもいて、写本の翻訳の仕事は多くを残して未完に終わっていたのである。

 1998年、史金波教授は来日後まもなくして、『文海宝韻』(写本)の翻訳に没頭された。われわれはしばらくの間は、その作業を傍らでみまもっていた。  一方、AA研の教務補佐員の高橋まり代さんは、史金波教授の来日にさきがけて、刊本によった史金波教授らの作品『文海研究』に依拠して、被解釈字(大字)および大字の構造を分析して示す4文字、それに音形式を示す反切上下字のすべてをコンピュータに入力することが完了し(意味の解説部分は未入力)、独自に西夏文字の字素分析と反切法の分析に向かっていた。高橋まり代さんは、この研究を進めながら、史金波教授の来日後は、教授の解読作業の進展に合わせて写本の入力作業を行ったのであった。

 この史金波教授の解読作業には、実はAA研のコンピュータによって字素分析を進めていた高橋まり代さんの援助の力に大いにあずかっていることを述べておかなければならないだろう。コンピュータと人間の頭脳との調和がいかんなく発揮されたのはまさにこの仕事の過程の中においてであった。

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