<「タイ語」 1996年度 夏期言語研修>

「平成8年度 夏期タイ語研修報告」

峰岸 真琴

1. 研修の狙い

タイ語の研修を企画した時期は、AA研の創立30周年、およびそれに引き続く自己評価(95年)の時期とほぼ重なっており、これは我々所員にとって、言語研修の今後のあり方を考える良い機会でもあった。
AA研の設置目的の一つである言語研修は、他の二つの設置目的である「アジア・アフリカの総合的研究」「辞典編纂」が、いかにも研究所としての研究目的らしく聞こえるのに対して、「語学教育」的な響きを持ち、また当然そういう性格も持つべきものである。
研究所が教育的な設置目的を掲げているのは、語学教育を通じての研究者養成と、語学教育方法の開発という研究上の目的を兼ねているからであろうが、所内的には日頃教育現場を免除され研究に打ち込める環境にある所員が、数年に一度経験する「義務」という捉え方をされがちである。

人間義務は少ないほうが楽であるし、研究者は自分の研究にあてられる時間を奪われそうになれば、当然抵抗するものだ。目前の研究テーマに夢中である働き盛りには、研究の後継者養成など考えたくもない。ただ、そんな我がままの通る古き良き時代は早晩過ぎ去ってしまうだろうということは、ロンドン大学の東洋アフリカ学院が、経済上の理由もあって、アジア・アフリカからの留学生を多く受け入れ、またアジア・アフリカに派遣される企業、官庁の語学研修を受け入れる一方、一般理論的な研究をしてきたと主張する高踏的言語学者、音声学者を最初に解雇しようとしたことからも窺い知ることができよう。

これまで言語研修は、アジア・アフリカ研究の基礎となる言語の教育を通じて、この地域の研究者を養成するというAA研設置当初の目的を、いくつかの言語については十分達成してきたといえる。
アジア・アフリカをフィールドとする研究者には、AA研の言語研修で現地のことばを学んだ者も多く、フィールドワークでの現地語の必要性を説き、夏休みを利用してAA研の研修を受講するように学生を指導し、毎年のように研修生を送り込んでくださる大学もある。この意味で、研修がフィールドワーカーの養成に果たしてきた役割は大きい。

一方、研究者のみならず、アジア・アフリカの諸言語に興味を持って学ぶ学生や一般の人々、あるいは仕事での必要から習得を迫られる社会人の数も急増している。AA研の設置当初、アジア・アフリカの諸言語を教える場はAA研以外にほとんどなかったのに対し、日本の経済発展に伴って、特にアジア地域の言語学習の需要は高まり、私の主たるフィールドである東南アジアに限ってみても、タイ語、ヴェトナム語、マレーシア語、インドネシア語、タガログ語を教える大学や民間教育機関は急増している。一見して、これらの言語を研修で取り上げる必要は、もはやなくなったかのようである。

今回研修言語としてタイ語を教えることが決定した際の私の懸念は、「今、なぜタイ語をAA研で教えるのか」という疑問に答えられるか、ということだった。確かに私の留学先はタイで、タイ語の運用能力は私の知る言葉の中ではましな方ではあるが、日本とタイとの交流も活発になり、各種の辞典や語彙集、市販教材も多種多様に存在し、市中にタイ語を教える学校、学科が増えている現在、なぜAA研で教える必要があるのか、もっと教授機会の少ない言語を選ぶべきではないか、という問いは、所内でもあった。私が担当するなら、タイ語よりもむしろカンボジア語を教えるべきではないか、との声もあった。

なるほどその通りではあるが、私としても研修を責任をもって担当するからには、なるべくリスクの少ない方を選びたい。現在の私の人脈と、単年度の集中制を基本とする研修実施の体制では、カンボジア語のインフォーマントを夏の間150時間確保するのは困難であるといわざるを得ない。教授経験もあり、頼りになるカンボジア人の元留学生は、現在それぞれカンボジアの復興のために活躍中で、長期の研修をお願いするわけにもいかないのが現状である。カンボジア語の研修は、もう少しカンボジア人留学生が増え、あるいはカンボジアから直接インフォーマントを呼ぶ体制を整えてから、実施したいと考えた。

しかしこれはカンボジア語を選ばない理由であって、タイ語を選ぶ積極的な理由にはならない。それでもタイ語を教えるからには、研究・開発の観点からも、新しい試み、積極的な意義づけをしたい。そこで、タイ語研修を企画する時点で、以下のような目標を立てた。

到達目標:
研修の結果、受講生が十分な発音能力、文字の読み書きの能力、文法の理解力を習得し、ある程度の聞き取り、話し、作文する能力とを身につけ、研修後も自力で辞典を使って高度な文章の読解ができるための基礎を作ること。


現在では民間のタイ語講座として会話中心のものが多く開かれている。これらに対してAA研の言語研修ならではの特色を考えれば、やはり単なるコミュニケーション技術の習得に留まらない、将来の研究者養成という性格が考えられるであろう。そのためには最終的に高度な読解力が求められるはずである。そこで、研修では将来にわたるタイ語習得の基礎を十分に習得することを目標とした次第である。

この目標を達成するため、研修前の段階において、具体的に以下のような準備をしようと考えた。


  1. 印刷教材の準備を通じて、タイ語の教授内容を体系づけ、整理すること。
  2. タイ語、日本語、発音記号の混植組み版のシステムとして Thai \TeX を開発すること。
  3. 研修方法の開発の試みとして、CAI (Computer Assisted Instruction) のプログラムを開発し、研修に取り入れること。


これらの各項目について以下に述べていきたい。

2. 研修前の準備

到達目標を念頭に、まず時間の配分を検討した。

研修は計150時間という枠があるので、これを月曜から金曜の週5日、午前3時間(9:30--12:30)、午後2時間(13:30--15:30)の6週間に割り当てた。

夏期の研修の集中力の持続を考えて、およそ以下のような日程を予定した。

期間

午前

午後

第1週

発音と文字

基礎会話

第2週

文字と会話

会話

第3週

文法

会話

第4週

文法

作文と会話

第5週

文法

作文と会話

第6週

講読

作文と会話



実際の研修の進行については、研修経過の節で述べることにして、以下ではまず、具体的準備のそれぞれについて述べることにする。

教授内容の体系的整理


自分のある程度習得した言語については、その言語としての特徴と、教授法について整理しておくのが言語学者としては当然であって、こんなことから始める必要を感じるのは今更の感もあり、お叱りも受けるかもしれない。しかし考えてみると、私の場合、これまで公私の場で教えてきたのはカンボジア語であって、言語学の材料として取り上げる以外に、また初歩の学習を終えた者を対象とした講読を除いては、タイ語そのものを体系的に教えたことはなかったので、自分がタイ語を習得したとき何が問題だったか定かでなくなっていたようである。

「文字と発音以外に、タイ語について教えることなんかあったっけなあ」というのが研修前の実感である。これはタイ語とカンボジア語が言語類型的に似通っている上、歴史的文化的に密接な関係にあるため、まあだいたい同じだ、という言語学者としてあるまじき?感覚が培われてしまったことにもよる。当然ながら、印刷教材を準備する過程で、何を、どのように、どういう順序で教えるかを改めて整理することが必要となった。

印刷教材編集上の一般的な留意点としては、視聴覚を総動員したトレーニングが必要な語学では、せいぜい一時間の集中が限度であると考えられるので、なるべく各教材をモジュール化して、一つの課は一時間でまとまるようにすること、一つの課で学習する内容は一つに絞りこむこと。例えば発音の練習では発音記号を使い、タイ文字の学習は別の単元で扱うなど、発音と文字との学習、子音と母音、母音と声調の学習は分離して教えた後に、総合的な練習を課すこと、などがある。

またこれは私自身の語学学習と教育の経験に限っての話であるが、言語類型とその効果的な学習法には幾つかのパターンがあると思う。つまり、タイ語の類型論的特徴と、学習者である日本人の母語である日本語とを対照することにより、日本人がタイ語を、あるいはタイ人が日本語を学習する際に起こりうる問題点、障壁と、その解決法には、ある程度の予測、一般化が可能である。

タイ語学習上の第一の障壁は、発音であり、第二の障壁は文字である。類型論的にはタイ語は動詞や名詞の活用、曲用のない「孤立語」であり、文法形態の点で覚えるべきことはごく少ないのであるが、音声、音韻の点で、日本人にとって習得の困難な「有気音・無気音」の対立と、5つの声調の対立、さらに音節末の p, t, k が破裂しない unreleased stop であるという特徴がある。

さらにタイ語は南インド起源の文字を使うが、インドの諸言語よりも複雑な母音体系と声調を表わす必要があって、書記体系に独自の改変が加えられた上、書記体系成立後に初頭子音に基づく声調の分岐という史的音韻変化が起きたため、文字上の声調記号と実際の声調の間に体系的なずれが生じてしまった。
従って、現代タイ語の正書法を学習する際は、子音文字と声調記号の関係を段階的に整理し、子音文字のタイプから声調記号の示す音価を導き出す規則として学ぶ必要が生じている。

以上のような学習目標、集中150時間という研修形態、学習内容のモジュール化を念頭に、印刷テキストとして「発音と文字」「会話」「文法」「語彙集」を準備した。前二者の編著は峰岸が、後二者は麗沢大学の坂本比奈子教授に編著をお願いした。

それぞれの教材の内容と特徴は以下の通りである。

『タイ語の発音と文字』
第一部発音編、第二部文字編からなる。発音編では、声調、母音、初頭子音、音節末子音、初頭二重子音、音節について、最少対立をなす例を、なるべく実在の語を例として比較、練習できるようにした。
また、日本語の話者が日常意識せずに区別している破裂音の語頭での有気化、語中での気音の弱さや、母音「ウ」の語頭での円唇傾向、語中での非円唇傾向に注意を喚起し、タイ語の有気、無気の対立や非円唇、円唇後舌母音の対立の習得に役立つよう工夫した。
文字編では、タイ語の子音字のうち、日本語でいえば「わ、れ、ね、め、あ」などの、音には関連がないが、文字の形に共通点があるものをセットにして対比し、特定の示差的ポイントにすばやく着目できるようになるよう工夫した。なお、この方法は、もともと1975年度のカンボジア語の研修テキストで坂本恭章教授が工夫したもので、カンボジア語の学習の際に極めて有効だったので、今回のタイ語研修でも採用させていただいた。


『タイ語会話』


各課1時間で1つの基本構文を用いた会話練習ができるようにしてある。全編を発音記号とタイ文字の両方で表記し、文字や文法の学習が終わらない段階での練習も可能なように工夫した。もちろん、文字の学習を終えた後では、発音記号と文字を対照しながら文字の復習にも用いることができる。
冒頭の課の内容は、あいさつや教室内での指示といった、文法等の学習進度とは無関係に、研修開始と同時に必要となる表現とした。
このテキストを使うことで、学習者が自分についていいたいこと、タイ人がよく話題にすることについての会話と作文の練習をすることができるようにした。
私の経験からいうと、実用語学の面では、何をいいだすかわからない相手のいうことを聞き取るのは、学習の初期段階では学習の内容を絞りこめないため困難である。むしろ実際のコミュニケーションで大事なことは、まず自分について表現することであり、これは覚えるのも容易である。なぜなら「自分の名前は〜で、今何歳で、家族は何人で、学生、あるいはどのような仕事についており、タイには何を目的に来たか」といったことは、自分に関してはしょっちゅう変わることはないし、暗記も容易である。そこで、経験上、タイで我々日本人がよく聞かれ、答える場面があることに例文を絞りこんだ。また、学習者の志望動機、専攻科目、職業などが作文できるよう、各課に単語を補充した。
テキスト後半では文法で学習する項目を中心とした例文を掲げ、文法事項を復習しつつ作文ができるように内容を工夫した。


『タイ語文法』
各課1時間で1つの文法項目を学習することができ、45時間でタイ語の文法全般を学ぶことができる。各課には日本語による簡単な解説がある。例文はタイ文字でのみ書かれており、文字の学習を終えている学習者を対象としている。従って、学習にはまず、語彙集を使って単語を予習しておくことが前提となる。


『タイ語語彙集』
実際の用例をもとに算定された使用頻度をもとに、重要な機能語や日本人の誤りやすい文法事項の解説と文例を含むタイ日語彙編と、日本語からタイ語を引くための索引からなる。約1500語を収め、コンパクトな内容ながら、読解のみならず、作文にも役立つよう工夫されている。


「発音と文字」「会話」「文法」の印刷テキストには、本文に対応する録音カセットテープを用意し、復習に便宜をはかった。

今回の研修を機会に、タイ語の類型論的な特徴、文法上の特徴、教授・学習の際に予想される問題点とその対策などについて、一度きちんと整理できたことは、私個人にとって有意義であったと思う。

Thai TeX の開発

アジア・アフリカ地域の固有文字を持つ言語の教材の印刷には、固有文字と日本語、発音記号の混植が必要で、多言語印刷・処理が必ず問題となる。現在こうした固有文字を持つ言語の教材準備には、パソコンを使った印刷処理がかなり一般化してきた。タイ語に関して言えば Windows, Macintosh 上での TrueType フォントを使えば、かなりきれいなタイ文字の印字が可能である。

今回の研修では、さらに進んで、TeX の印刷システムのサブセットとして、タイ語の Metafont を開発し、日本語、発音記号と組み合わせて自由な組み版を可能にしようと試みた。Thai TeX の開発は本研究所の高島淳助教授にお願いした。ここに記して感謝の意を表したい。タイ文字の Metafont によるデザインは私が担当した。字体のこなれていない責任はもっぱら私にあるが、今後改良してゆく予定である。

TeX を使う利点は、印刷の際に辞書や教科書の複雑なレイアウトを自由に行えることだけではない。言語教材の開発には、文字の印刷だけでなく、単語のリスト、索引作り、辞書順の並び替えなどの言語データの処理が必要になる。今回の Thai TeX では、従来これといった標準のないタイ文字の翻字を工夫して、タイ文字データを1バイトの英数字の翻字によるテキストファイルとして持っておくようにしたので、UNIX 系の文字列処理ツールをデータにそのまま利用することができ、結果として固有文字毎のプログラム開発の手間がいらず、スペルチェックや検索がパソコン上で比較的容易にできた。

CAI:コンピューターによる教育支援システム

語学を習得する過程は、内容の理解と、応答などの反射訓練、記憶の三つに大別されよう。
このうち内容の理解は、日本人講師の講義を聞くなり、テキストを読むなりによって可能である。
応答などの反射訓練はタイ人講師と受講生の直接の対話による聞き取り、発話、会話によってなされる。この部分の練習はネイティブの話者とのやりとりがもっとも効果的であり、日本人講師は誤りの訂正、文法的な解説を補足すればよい。

記憶に関しては、研修期間中の講義時間だけで達成できるものではなく、受講生の講義後の自習、根気強い復習に期待せざるを得ない。特に文字、発音、単語、表現の記憶、聞き取りの練習などは、一度理解するだけでなく、反復練習により習得する必要がある。従来、このような練習はテープレコーダーやビデオを用いた自習に頼ってきたが、テープはランダム再生が不可能なため、聞き取り練習では答えを順番に頼って覚えてしまうといった欠点があった。。

そこで今回の研修では、この記憶と訓練との補助となる教材として、Macintosh 上の HyperCard を使って、文字と聞き取りの CAI (Computer Assisted Instruction) プログラムを開発した。文字と聞き取りには機械的な練習が必要であり、練習において常に音声を確認すべきであるが、このような目的にはランダム再生が可能であり、必要に応じて何度でも繰り返して練習できるパソコンが有効である。

今回開発、試用したプログラムは、タイ語の発音を聞いて、その音を表わす子音文字、母音記号を当てるものや、文字とそれに対応する発音記号を選ぶものが主である。

HyperCard を使ったプログラムの開発を担当した吉野美由紀さん、タイ語の音声を録音してくれた留学生ナルモン・チンスィリワーニッチさん、音声、文字教材部品の準備とマネジメントをしてくれた木村佐知子さんに、この場を借りて感謝したい。

3. 研修経過

以下では研修経過についての報告と、研修後実施した研修生対象のアンケートによる評価を併せて記すことにする。

研修生

研修の応募者は17名で、以下のような内訳である。

研修の趣旨からいうとせいぜい12名くらいの少数学習が理想的であり、数名を除外しようかとも考えたが、結局は全員を採用した。

年齢の面からみると、社会人はそれぞれ46歳、40歳、32歳、28歳で、大学院博士後期は30歳以下、博士前期は24歳以下、学部学生は22歳以下であって、40歳以上の2人には語学の学習を若い人々に伍して始めるのは困難かとも思われた。

また、応募の動機を見ると、現在、将来の職業や、大学の専攻分野との関係で、タイ語が必要になったので学びたいという明確なものから、タイに旅行し、あるいは在日タイ人との交流を通じてもっとタイを知りたくなり、そのためにタイ語が学びたいというもの、あるいはもっと漠然とアジアを知りたいというものまであった。

最近のアジアブーム、「エスニック」嗜好の結果、タイに旅行した経験のあるものが過半数で、タイに強い親近感をもつものが多かった。タイ語学習以前にタイ人との直接の交流を経験している点は、私の学んだころとは大きな違いである。

タイ語未修者を対象にした研修にもかかわらず、応募者には若干の既習者も含まれていたが、これを不採用の理由とはしなかった。ひとつは既習者であっても受講申込書にはそう記さないものが含まれている場合もあり、正直者が馬鹿を見ることもままあるからで、もう一つは研修目的の「きちんとした読解力の基礎を養成する」コースは、他にほとんど存在しないはずで、少々他で習ったくらいで研修受講の意味がなくなることはない、という判断による。
実際、既習者の申込み動機にも「週2コマの大学の普通の語学では身につかないので、集中的に学びたい」というものもあった。

また、例えば既習者を対象とする中級のコースを別に設定してあるのならば、そちらを受講するよう勧めることもできるが、AA研にはその用意がないのだから、多少の研修中の摩擦を覚悟した上で、今回は受講を認めることにした。

正直なところ、他のあらゆる肉体的訓練と同様、語学は年齢以上に個人的な向き、不向きの要素があるので、履歴書と作文による書類審査のみで選別するには無理がある。そこで初めから可能性をなくすより、参加した上で脱落を認めたほうが、応募者自身も納得がいくはずと考えて、敢えて全員を研修生として認めた次第である。

研修をなんとか最後まで修了したのは14名で、社会人の2人が、急な仕事が入ったため、4週目で脱落した。高年齢が脱落の一因かもしれないが、年齢が高くなれば、仕事についての社会的責任も重くなり、どうしても仕事を優先しなければならない事情もできてくる。

また学部学生のうち1人が開始直後の病気が原因で、残念ながら早期に脱落した。短期集中のため、最初の数日を休むと後で取り返しがつかないことは事実である。

研修後の受講生の数に関するアンケートでは、過半数が受講生が多すぎた、10名から12名が適当と答えたが、ちょうどよいと答えたものもいた。
私としては、やや多かったかとも思うが、より少ない人数で行った場合、受講生一人一人の受講時間中や自宅での予習復習の負担がより大きくなり、結果的に受講生間の達成度の差が広がり、脱落者も多くなることもあるかと思う。

少人数の場合、予習、復習の時間を減らし、一人一人にかける時間を増やし、時間あたりの目標達成度を低く、より確実にするなど、別のやり方を工夫する必要もあると思う。

講師

150時間の研修期間は語学のマスターという目標に関しては決して長いものではないが、語学と同時に、タイとその周辺の言語および文化について、およその状況を学ぶことは有意義なことである。特に東南アジア大陸部において、互いに陸続きの周辺諸国との間に民族の移動の歴史を持ち、文化的に多様性をもつタイの場合にはなおさらである。そこで語学の学習のある程度進んだ時点で、タイの南部、北部の多様な言語文化に触れるために文化講演を企画した。

タイ人講師としては、斎藤スワニー先生(麗沢大学講師)、白石アンチャリー先生(東京地方裁判所通訳員)、ブッサバー・バンチョンマニー先生(タイ国立カセートサート大学助教授)の3人にそれぞれ65時間、75時間、10時間の担当をお願いした。いずれもタイ語の教育の経験をお持ちの方々である。

日本人講師として、タイ語学を専門とし、タイ語の教授経験の豊富な麗沢大学の坂本比奈子教授に文法中心の講義を48時間と、文法テキストと語彙集の編集を担当していただいた。本学外国語学部の上田玲子講師には、タイ語と密接な関係にあるラオスのラーオ語についての語学と文化講演(語学2時間、文化講演3時間)をしていただいた。

AA研の同僚である新谷忠彦教授、西井涼子助手には、それぞれのフィールドである北タイ、南タイの言語と文化状況についての文化講演をそれぞれ2時間お願いした。
この場を借りて、担当していただいた方々に感謝の意を表したい。

なお、私自身は発音、文字、会話を計93時間担当した。

研修期間とその割り当てに関するアンケートでは、計150時間はちょうどよい、午前3時間、午後2時間も、ちょうどよい、という意見がほとんどだった。
文化講演を充実して、政治、経済に関する話も聞きたかったという意見もあったが、語学の学習内容の分量を考えると、これは難しいかもしれないという、留保つきであった。

時間配分

学習は午前中3時間に文字と発音練習など、視聴覚を動員した集中的な応答訓練を要するもの、および文法学習、講読といった体系的な学習、予習・復習を要するものとし、午後2時間は作文、会話など受講生の自主性を発揮できるもの、という性格分けをした。

第1、2週午前:タイおよびタイ語、タイ文化についての概説に続き、発音と文字の基礎を解説した。早い時点でタイで製作・市販されている児童向けの文字学習ビデオ教材を使用した。タイ文字には子音文字ごとに「ネズミのネ」というようなその文字で始まる単語を用いた呼び名があるが、これをビデオ化したものである。もちろん学習初期で内容が理解できるはずはないので、適宜解説を加えながら視聴した。「牛追い棒」など、現在のタイ人が見たこともない道具もあって、文化的差異を認識する上でも有用であった。

第1、2週午後:初歩的な会話を、発音の入念なチェックとともに練習した。個々の声調を学んでも、文中に現れる各声調の組み合わせでは、その声調が乱れがちになるので、発音練習も適宜行った。

第1、2週においては研修実施時間後の個人の学習を、その日に習ったことの復習に重点をおくように指導した。

第1週の最終日と、第2週の初日、2日目の午後に文字と発音練習のCAIプログラムを各1時間半試用した。
今回試用したCAIプログラムは、発音と文字に関する講義を受け、発音チェックをした上で、その記憶を確かにするための補助的なものであるが、研修後のアンケートによれば極めて好評であった。プログラムを使用するのに本学外国語学部の情報処理教育室を使わせていただいたが、Macintosh の操作性がよいため学習内容に集中でき、発音と文字の練習にビデオゲームの感覚で取り組めて、学習効果も上がったようである。5時間弱の使用時間もちょうどよかったという感想で、長すぎたと言う意見もあったが、これは目が疲れた、というものであった。

CAIへの希望としては、さらに学習者の発音の矯正に役立つものや、会話の練習ができるものを開発してほしいということであった。さらに研修時間外にも自由に学習できる設備があればもっと利用したかった、他の言語についても利用してみたい、という声もあった。これらの声に対応するためには、やはり将来的にはAA研独自の研修用CAI室やCAI開発準備室を設置できれば理想的である。

第3、4、5週午前:文法項目を学習する前に、予習の段階でテキストに使われている単語の発音、意味を語彙集で調べ、それをもとに例文を解釈する。その後で文法項目を詳しく説明する形で進行した。

第3、4、5週午後:会話はまずテキストの例文の口頭練習を終えた後、各自の用意した作文をタイ人講師に添削してもらい、関連する文法項目、単語についての説明を補充する形ですすめた。

第6週午前:主としてAnone (アノネ)というタイで発行されているタイ人の日本語学習者、日本留学のための雑誌に掲載されたスピーチコンクールの原稿の読解をした。読解を通じて現代のタイ人学生の関心事、ものの考え方の一端に触れることのできる内容を選んだ。

第6週午後:第3週以降と同様、自由作文と、それをもとにしたタイ人講師からの質問に受講生がタイ語で答える形で進行した。この段階では、受講生が熱心に面白い話題、あるいは個々の関心分野に関る話題を選んで作文の予習をしてくるので楽しく進行ができた。受講生自身の創意工夫で研修が充実したと思う。

おわりに

研修修了後のアンケート、および懇談会では、タイ語研修の満足度はこちらの期待以上で、これはお願いした講師の方々の努力にもよるが、研修生自身の熱意と自主的な努力によるところが大きかった。なごやかな雰囲気で進行できたことは大変良かった。

反省会での研修生の懸念としては、今後各地方に戻ってからどうしたら現在のタイ語の力を維持、向上させていけるかという点が話題になった。東京中心に考えるとタイ語学習の機会はあちこちにあるのだが、地方には依然としてそのような場が少なく、できれば今回の受講者を対象に、冬休み、春休みと継続した研修があれば続けて受講したいとの希望もあった。これは今後の研修のありかたに一つの可能性を示唆しているかと思われる。

毎日完全なタイ語漬けで、生まれてこのかたこんなに勉強したことはない、充実していたが、研修終了後は放心状態であるとかの声もあり、真剣な研修受講態度が窺えた。

しかし問題点としては、中盤から予習、復習に大変な時間が取られ、夏休みに他のことがなにもできなかったという声もあった。研修を企画した側としては、一日5時間の研修は、3時間から5時間程度の予習復習を前提としてコースを考えているわけで、応募段階で何か他のこともできると考える応募者がいるとは想像もしなかった。大学では1コマの講義に2時間の予習を前提としているが、夏期集中ということで、これでも自宅学習の時間を減らすよう配慮したつもりだったが、研修終盤では予習のため寝る時間もない状態のものもあった。

この問題に対処するためには、研修公募のポスターで、研修の目的、内容についてもっと具体的に述べておくべきだったかと思う。

研修設備についてのアンケートによれば、会場となったセミナー室の施設は控え目にいって「質素」で、空調設備やビデオ、スライド再生装置が古く、改善の余地がある。暑い時期の研修なので、冷蔵庫が欲しいという声もあった。人数が多かったため、座席のならべ方にも頭を悩ませたが、それでも講師の声が聞こえづらい席があったようで残念であった。移転もあって難しいのだが、語学にはマイクを使うべきではないので、音響の十分に配慮された、座席の自由な配置を可能にする正方形、あるいは円形の部屋に、マルチメディア・プレゼンテーション設備を備えた研修室があれば、講師も無駄な消耗をせずに指導に集中できるはずである。

文化研修の一種として厨房設備があればタイ料理を作ってみたかったという意見は多い。また、通学に時間がかかるため、予習、復習の時間が十分とれないのが残念で、ぜひ研修用の宿泊設備がほしい、24時間講師と泊まり込みで学びたいという過激な意見もあった。

最後になったが、研修を陰で支えてくださったAA研研修情報処理係の方々にはこの場を借りてお礼を申し上げたい。特にベテランの中嶋弘子さんには、研修前のポスターのデザイン、受講希望者からの問い合わせの応対、お願いした講師の方々との連絡、遠隔地からの受講生の宿泊の手配に始まり、研修中の印刷、録音、ビデオ教材の準備から昼食の注文まで、不慣れな私ではとても気付かないあらゆる点でお世話になった。また、小笠原信博さんには学部の情報処理教育室の準備など、パソコンがらみのことでお世話になった。受講生からも、「国立大学の事務の応対とは思えないほどの親切さだった」との感謝の言葉がでたことも付け加えておきたい。



峰岸 真琴 「夏期タイ語研修報告」, 『通信』 88号, AA研, pp.28-35, 1997.11.25.


May 8, 1997