近現代中東人名辞典


アサド Asad, Hafiz al- (シリア 1928〜  )
政治家.軍人.陸軍士官学校,空軍士官学校卒.異端的色彩が強いとされるアラウィー派イスラーム教徒で,1946年バアス党入党.'63年のバアス党政権誕生後は64年空軍司令官,'66年〜'70年国防相.'70年ヨルダン内戦への対応を巡る対立から,無血クーデタによって政権を掌握し,'71年から大統領.'73年の十月戦争を指導して国民的英雄となるなど対イスラエル強硬派として知られたが,'90年代末には中東和平プロセスの進展を受け,交渉のテーブルについている.イラク・バアス党とは犬猿の仲にあり,'80〜'89年のイラン・イラク戦争,'91年の湾岸戦争を通じて反フセインに徹した.側近をアラウィー派教徒で固め,独裁に近い体制を確立しているが,少数派の多数派スンナ派支配には反感もあり,'82年にはハマーでムスリム同胞団に指導された大規模な反政府暴動が起きている.

アジーズ `Aziz, Tariq al- (イラク 1936〜  )
政治家.ジャーナリスト.モスル出身.バグダード大卒.日刊ジュムフーリーヤ紙編集長,サウラ紙編集長などを経て,1974〜77年情報相.'79年副首相に就任し,'83〜'91年外相兼務.イラク革命指導評議会(RCC)唯一のキリスト教徒であり,フセイン大統領の政敵となり得る政治基盤を持たないことから,大統領の信任を得,イラク外交を一手にになってきた.特に,'91年の湾岸戦争前夜における調停工作は,世界の注目を集めた.

アツカード `Aqqad, `Abbas Mahmud(エジプト 1889〜1964)
哲学者.詩人.歴史家.批評家.アスワーンの貧しい家庭に生まれ,小学校卒業後独学してジャーナリストとなる.1916年処女詩集を刊行.以後,イスラーム神秘主義詩人ルーミーに関する著作や預言者マホメット,歴代カリフらの伝記を執筆するとともに,サアド・ザグルールやムハンマド・アブドゥフなど近代エジプト史の巨人たちに関わる著作をものした.マージニーとともに形骸化した詩作の手法を批判するなどアラブ近代文学に多大な影響を与えた.

アッラール・アルファースィー `Allal al-Fasi(モロッコ 1908〜74)
民族運動指導者.フェス出身.青年期から民族運動に身を投じ,1930年代には高揚するモロッコ人意識を背景に国民行動連合,ワタン党などを組織した.'43年フェズの知識人・有力者を糾合してイスティクラール党を創設.'44年には独立要求宣言を発表し,以後モロッコ労働組合総同盟とともに独立運動を指導した.しかし'53年以降は,フランスに対する自治を厳しく要求して国民的英雄となったムハンマド五世に運動の主導権を奪われ,'56年独立を達成したものの不遇な晩年を送った.

**アフガーニー Jamal al-Din al-Afghani 1838-97
パン=イスラミズムの運動家,思想家.イラン生まれのシーア派12イマーム派といわれる.1860年前後からアフガニスタン内政に関与して頭角を現し,以後インドからトルコ,エジプトにいたるイスラーム世界の大半と,ロシアを含むヨーロッパ各地を旅して歩いた.彼によれば,ムスリム没落の原因は何よりもその内的頽廃にある.イスラームはかつてムスリムを世界の覇者たらしめたほど強力なイデオロギーであったが,イスラーム法学の知的停滞と自己中心的な独裁者たちによる内部分裂の結果,本来の力をほとんど失ってしまった.よって,ムスリムにとって緊急の課題は,イスラームを復興し,専制支配を排除し,連帯して本来の力を取り戻すことである.立憲制・議会制の導入による政権の活性化と,宗派の違いを超えたウンマの団結が実現できなければ,ムスリムは列強の前に滅び去るしかない.このような主張は,彼自身が弟子ムハンマド・アブドゥフとともにパリで創刊した雑誌≪固き絆≫を通じて,84年以降イスラーム世界全域に広まり,人々に帝国主義の脅威に関する明確な認識を与えた.また彼にあっては,ウンマ統一の阻害要因となる専制支配や列強の干渉を排除する方向で働く地域ナショナリズムもパン=イスラミズムへの道として奨励され,結果として,彼の薫陶を受けた革命的青年層を中心に,エジプトではアラービー革命,イランではタバコ・ボイコット運動が起こった.さらに彼は,帝国主義に対する抵抗を緊急に実現すべく,専制権力にも時には積極的に近づく.とりわけウンマ統一時のカリフと目されたオスマン帝国のアブデュルハミト2世とは一時協力関係となったが,やがて対立.晩年はイスタンブルに幽閉されて亡くなった.現在広く観察されるムスリムの政治的覚醒は,彼による宿命論批判とムスリム活性化の努力に負うところが大きい.

アブド・アッラーズィク `Abd al-Raziq, `Ali (エジプト 1886〜1966)
近代イスラームの思想家.エジプト有数の名家に生まれ,アスハル大卒.後オクスフォード大学に学ぶも,1915年世界大戦勃発により帰国.以後イスラーム法裁判所の判事となる.オスマン朝カリフ制廃止に伴う思想的混乱の中で,'25年「イスラームと統治の諸原則」を刊行.政教分離につながる議論を展開したことから保守派の攻撃を受け,ウラマー(イスラーム法学者)資格を剥奪された.この筆禍事件により,政教分離思想は公式に否定されて今日に至る.'48-'49年ワクフ相.

アブド・アルカリーム `Abd al-Karim, Muhammad(モロッコ 1882?〜1963)
モロッコの反帝国主義運動(リーフ戦争)指導者.カラーウィーン大卒.ベルベル人部族長の子弟としてスペイン領モロッコのりーフ山地に生まれ,第一次世界大戦中から反スペイン抵抗運動を組織して,'21年リーフ地方を解放した.'23年リーフ共和国を樹立し大統領となったが,'25年フランス領モロッコに進出してフランスと衝突.翌年降伏して流刑となった.'47年脱走してエジプトに亡命.以後,マグリブ諸国の民族運動連携に尽力した.

アフラク `Aflaq, Mishil (シリア 1910〜89)
政治家.ダマスクス生まれのギリシア正教徒.ソルボンヌ大卒業後教師となったが, 1942年ビタールとともにアラブ・バアス党を創設.同党書記長として「統一・自由・社会主義」を目指すパン=アラブ主義運動を指導した.'54年に文相.'58年のエジプトとの統合(〜'61年)に尽力.'63年に成立したバアス党政権では主導権を握ったが, '66年,軍人派政権の成立により国外追放.後イラク・バアス党を頼り,'70年イラク・バアス党パン=アラブ指導部書記長.シリア,イラク両国バアス党反目の象徴的存在となった.

アミーン Amin, Ahmad (エジプト 1887〜1954)
思想家.文学者.カイロ出身.アズハル大,イスラーム法学院卒業後,地方裁判所の判事となったが,1926年エジプト大(現カイロ大)の教員に任ぜられ,以後は文筆活動に専念した.'36〜'46年同大アラビア文学料教授.'28年の 『イスラームの夜明け』を皮切りに初期イスラーム史三部作を執筆して,近代アラブ歴史文学に批判的方法を導入したほか,リサーラ,サカーファ両紙の編集者として活発な文芸評論を展開した.著作として他に,『エジプトの習慣因習表現辞典』,自伝 『わが人生』 など.

アミーン Amin, Samir (エジプト 1931〜 )
経済学者.1955年フランスに留学し,'57年パリ大学経済学博士.同年帰国して経済開発局に勤務したが,'60年ナセルによる共産党弾圧のためフランスに亡命した.以来国連アフリカ経済開発・経済計画研究所(IDEP)に勤務して北アフリカ諸国の開発計画などに携わる一方,'70年代以降は従属学派を代表する理論家として活動している.第三世界の経済社会構成体を「周辺資本主義」と規定し,不均等発展を世界システムの特長としながら,なおかつ現体制は周辺部から変動するとみる彼の理論は,第三世界の経済・歴史研究に大きく貢献した.

アラファート `Arafat, Yasir (パレスティナ 1929〜 )
政治家.エルサレム出身で,1948年の第一次中東戦争により難民となったといわれる.カイロ大在学中から,ガザのパレスティナ学生同盟議長として解放運動に加わり,'50年代後半パレスティナ民族解放運動(ファタハ)創設に参加.'69年ファタハ議長兼パレスティナ解放機構(PLO)議長.'70年のヨルダン内戦で軍事的打撃を受け,ベイルートに本拠を移したが,イスラエルのレバノン侵攻('82年)後は更にチュニスに移って活動を続けた.'87年以来被占領地で続いたインティファーダ(反イスラエル抵抗運動 )を受け,'88年フセイン・ヨルダン国王がヨルダン川西岸における主権放棄を宣言すると,アルジェにパレスティナ民族評議会を召集.西岸及びガザ地区を領土とするミニ・パレスティナ国家の樹立を宣言し,翌月にはアメリカと直接会談を開始するなど和平攻勢に出た.'90-'91年の湾岸危磯では一貫してイラク・フセイン体制を支持.湾岸産油国など従来PLOを支援して来たアラブ諸国の支持を失い,苦しい立場に立たされたが,'93年イスラエルとの相互承認,暫定自治原則に関する合意を実現.ハマース(イスラーム抵抗運動)などの反対にあいながら,暫定自治体制づくりのための交渉を続けている.

**アラービー・パシャ
Ahmad `Urabi (1840〜1911) エジプト最初の民族運動「アラーヒー運動」の指導者.ナイル・デルタの村長の子として生まれ,ムハンマド・アリー朝の第4代君主サイード(在位1854〜63)の始めた軍制改革にともなって徴兵された.このときエジプト人にも将校への道が開かれたことを知ったアラービーは,職業軍人となり異例のはやさで昇進する.しかし第5代君主イスマーイール(在位1863〜79)の時代にはトルコ・チェルケス系将校の優遇政策が復活,エジプト人の昇進は停滞した.この状況下,みずからも昇進を停められたアラービーは,人事や給与の差別に憤るエジプト人将校の不満を糾合していく.1876年の国家破産によって増幅された不満は,79年以降アラービー派軍人の政治介入という形で爆発.債務返済のため列強が定めた人員削減や減俸の対象が,エジプト人将校に集中したことが原因であった.ここに生まれた反列強,反ムハンマド・アリー朝の動きは,立憲制・議会制の実現をめざす地主層や,重税から解放されることを願う農民層の支持をもとりつけ,やがて,外部勢力の排除をスローガンとする一大民族運動へと発展していく.82年にはアラービーが軍事大臣に就任.運動は成功したかにみえ たが,同年夏,既得権益を守ろうとするイギリスの侵攻をうけアラービー派は鎮圧された.裁判の結果セイロンに流刑となったアラービーが帰国したとき(1901),彼はすでに過去の人であったという.

アルスラーン Arslan, Shakib (レバノン 1869〜1946)
アラブ民族主義理論家.歴史家.政治家.ドルーズ派イスラーム教徒の名家に生まれ,ベイルートのスルターニーヤ学院卒.同学院でムハンマド・アブドゥフに学んだほか,アフガーニーにも師事した.1888年オスマン朝の官吏となり,1913年オスマン帝国議会議員.'20年代初頭からはシリア・パレスティナ会磯の活動に参加し,'21年同会議ジュネーブ常駐代表.'30年以降フランス語誌 『アラブ民族』 を発行して,パン=アラブ主義の宣伝につとめた.著書に 『なぜムスリムは立ち遅れてしまったのか』『ラシード・リダー伝』などがある.

イーサー `Isa bn Salman Al Khalifa (1933〜 )
バハレーン首長.1958年皇太子となり,'61年から首長.'71年イギリスの撤退にともない独立を達成.'72年制憲議会召集,'73年国民議会召集など民主化を進めたが,議会内急進派の伸張にともない,'75年議会を解散.独裁体制に柊行した.他方石油後をにらんで,'75年オフ・ショア資金市場を設置.バハレーンをしてベイルートにかわる中東金融センターに育て上げた.外交政策ば'81年以来,基本的に湾岸協力機構(GCC)の枠内にある.

いづつとしひこ 井筒俊彦 (日 1914〜93)
イスラーム学者.比較思想研究者.東京生まれ.慶応義塾大学卒.イスラーム研究では欧米に比べて百年遅れと言われた当時の日本にあって,ほとんど独学で研究を進め,思想研究の世界的権威となった.慶応義塾大学教授.マックギル大学教授.在テヘラン王立イラン哲学研究所教授.欧米諸語のほか中国語,サンスクリット語,アラビア語,ペルシア語に通じ,コーランの意味論的分析,イスラーム神秘主義の心理学的分析など独創的な方法に基づく思想研究を展開した.『コーラン』 を初めとしてアラビア語原典からの翻訳多数.『井筒俊彦著作集』 に収められた業績のほか,英語による多数の著作がある.

イドリース Idris, Yusuf (エジプト1927〜91)
作家.ナイル・デルタのシャルキーヤ県出身.カイロ大医学部時代から左翼運動に加わり,王制批判,イギリス統治批判を繰り広げた.卒業後は医療に従事しつつ文筆活動を開始.'54年ナセル批判のかどで逮捕されたが,同年出版された処女短編集『一番安上りの夜』 により文壇に認められ,以後一貫してエジプト社会の体質を告発する作品を送り出し続けた.上記のほか代表作に,『ハラーム[禁忌]』 『英雄』などがある.

エルバカン Erbakan, Necmettin (トルコ 1926〜 )
政治家.イスラーム運動指導者.イスタンブル工業大,ドイツ・アーヘン工科大卒. 1954年イスタンブル工業大助教授.'65年同大教授.'66年実業界に転じ,'69年商工会議所連合会会長.'70年反西欧・反共・親アラブを標榜するイスラーム政党国民秩序党を創設. '71年軍部の介入により国民秩序党が閉鎖されると,'72年国民救済党を結成し, '73〜'80年同党総裁.'74年,'75〜'77年副首相.'80年選挙地盤のコンヤ市でイスラーム法復活を要求する七万人デモを組織し,軍部によるクーデタで逮捕.'87年以降レファー党総裁として政治活動を再開し,'96-'97年には首相に就任したが,失脚後はレファー党そのものが解散に追い込まれたため,新たに美徳党を結成して政治活動を続けている.

オザル Ozal, Turgut (トルコ 1927〜93)
政治家.イスタンブル工業大卒.電力関係の技師をしていたが,1967年国家計画庁入省.'71〜'73年世界銀行相談役.'79年デミレル政権の下で総理府次官兼経済最高額間.'80年の軍による無血クーデタ後副首相に就任し,'83年の民政移管にともない首相.'88年アンカラでの演説中,極右テロリストに狙撃されたが,'89年大統領に就任.'91年の湾岸戦争では,参戦に消極的な軍を押しきって米軍のトルコ領内基地使用を認めた.'93年,現職大統領のまま死去.

オタイバ `Utaiba, Mana Sayyid al-(アラブ首長国連邦 1946〜 )
政治家.経済学者.アブダビ生まれ.バクタード大卒.カイロ大経済学博士.1969年アブダビ政府石油庁長官に就任し,'71年のアラブ首長国連邦独立とともに連邦石油政策の中心人物となった.'72年連邦石油・鉱物資源相.'79年,'81年と石油輪出国機構(OPEC)の議長を務めるなど,特に'80年代以降各国の利害対立があらわになって来たOPECの調整役を務めた.

*オマル・アブドゥルラフマーン `Umar `Abd al-Rahman (1938〜 )
武装闘争派イスラーム復興組織「イスラーム集団」の理論的指導者,思想家.ナイル・デルタの生れ.生後10カ月で失明した.カイロのアズハル大学卒.1981年のサダト暗殺事件,93年のニューヨーク世界貿易センター・ビル爆破事件の黒幕といわれ, 96年にはニューヨーク連邦地裁から終身刑判決を受けている.

カースィム Qasim, `Abd al-Karim(イラク 1914〜63)
政治家.軍人.バグダード生まれ.バクダード士官学校卒.第一次中東戦争に従軍して以来アラブ民族主義に目覚め,マンスール駐在旅団長(准将)時代の1958年,アーリフ大佐とともに軍事クーデタを敢行.王政を打倒してイラク共和国初代首相に就任した.まもなく共産党と協力して,アーリフ大佐ほかバアス党,親ナセル勢力を排除.独裁者となったが,ナセルとの対立やクルド民族解放運動に苦しめられ,'63年アーリフ大佐指導のクーデタにより処刑された.

カダフィー Qadhafi, Mu`ammar Muhammad al- (リビア 1942〜 )
政治家.軍人.遊牧民の子として生まれ,ベンガジ士官学校卒.同校在学中に自由将校団を結成し,国王が病気療養で不在中の1969年,無血革命に成功した.共和制の下で革命評議会議長(国家元首)兼国軍最高司令官.'70-'72年首相兼国防相.革命後は帝国主義支配の根絶を掲げ,米英の軍事基地を完全撤去したほか,すべての石油会社を国有化した.また反米・反イスラエル路線に立って様々な過激派組織と緊密な関係を保つ一方,チャド内戦にも介入した.'86年アメリカとの間で緊張が高まり,トリポリ,ベンガジに爆撃を受けたが,その反米姿勢は変わらず,被抑圧者間の連帯を訴え続けている.'79年以後は一切の公職を退いたが,事実上の国家元首.イスラーム化を目指す文化革命の主唱者であり,飲酒・賭博を禁止するとともに,特異な直接民主主義理論(ジャマーヒリーヤ理論)を提唱している.著書に 『緑の書』がある.

カッドゥミー Kaddumi, Faruq al- (パレスティナ 1930〜 )
政治家.ナーブルス近郊の出身で,カイロ大卒.アラファートPLO議長とカイロ大時代の同期生で,1950年代後半,ともにファタハの創設に参加した.'69年PLO執行委員. '70年のヨルダン内戦ではヨルダン軍に逮捕されたが,ナセルの仲介で釈放され, '74年以降PLO政治局長(外相)兼国連総会PLO首席代表.アラファート議長の片腕かつ PLO穏健派の中心人物であり,PLO外交をー手に担ってきた.

力ナファーニー Kanafani, Ghassan (パレスティナ l936〜72)
作家.アッカ生まれ.1948年シオニスト過激派によるデイルヤーシン村虐殺事件をきっかけに一家でシリアに避難.初等教育免許状取得後,国連難民救済機関(UNRWA)学校教員として働いた.'56年政治活動に専念するためダマスクス大中退.'61年処女作『12号ベッドの死』を発表して以降,一貫してパレスティナ民衆の全人格的闘争を描き,パレスティナ問題を告発し続けた.'69年パレスティナ解放人民戦線(PFLP)公式スポークスマンとなり,機関紙ハダフを創刊.'72年爆死.代表作に『太陽の男たち』『ハイファに戻って」など.

カーブース Qabus bn Sa'id (オマーン 1940〜 )
オマーン国王(スルターン).サラーラ生まれ.イギリス・サンドハースト陸軍士官学校卒.1966年の帰国後サラーラに幽閉されていたが,'70年クーデタで父王を追放し即位.即位後は従来の鎖国政策を改め,'71年アラブ連盟,国連加盟.当初は南部ドファールの共産主義ゲリラPFL0(オマーン解放人民戦線)の抵抗に苦しんだが,正規軍の強化とイラン・イギリスなどの支援により国内を掌握した.首相・国防相・外相・蔵相を兼務し,独裁色が強い.

ガーリー Ghali, Butrus Butrus (エジプト 1922〜 )
政治家.国際法学者.カイロ出身.カイロ大卒.コプト教徒の名家に生まれ,1949年パリ大学から国際法哲学博士号を取得した.以後カイロ大政経学部教授として国際法・国際関係論を講じる一方,'65年にはナセルによって創設されたアフリカ政治学大学副学長.'77年サダトに請われて外務担当国務相に転じ,'79年にはエジプト・イスラエル平和条約締結の立役者となった.また'92年には国連事務総長に就任.冷戦終了後各地で激化する民族紛争を未然に防ぐべく,国連平和維持活動の範囲を大幅に広げ,平和維持軍の予備展開を提唱するなど従来の路線を大きく踏み出した運営が賛否両論を呼び起こした.

カールマル Karmal, Babrak (アフガニスタン 1929〜 )
政治家.カーブル大卒.学生時代から左翼運動に参加し,1964〜73年下院議員. '76年左翼系パルチャム紙に集うパルチャム派を率いてタラキーらのハルク派と合同し,人民民主党を結成した.'78年のクーデタ後,革命評議会副譲長兼副首相となったがハルク派との権力闘争に敗れ国外に転出.'79年末のクーデタとソ連軍介入直後に帰国して革命評議会議長(元首)兼首相に就任するも,内戦を収拾できず,'81年首相を辞任.'86年には革命評議会議長も辞任して一切の公職を退いた.

ギョカルブ Gokalp, Ziya (トルコ 1876〜1924)
思想家.社会学者.ディヤルバクル まれ.若くして「統一と進歩委員会」に加入し,青年トルコ人革命後の1909年テッサロニキで「統一と進歩委員会」中央委員に選出された.以後『若いペン』誌に拠ってトルコ語の簡略化などを進める一方,'12年からはイスタンブルに移ってイスラームと近代西欧文明の調和すべきことを説いた.第一次世界大戦後マルタ島に流刑となったが,'21年帰国し,アタテュルクらの民族主義運動に参加.世俗主義国家としてのトルコ共和国を思想的に準備したといわれる.

クトゥブ Qutb, Sayyid (エジプト 1906〜66)
イスラーム復興運動の代表的思想家.アシュートの貧農の生まれで,ダール・アルウルーム卒.1921年カイロに上京してアッカードの知遇を得,文学批評,詩作を開始するとともにワフド党に人党した.'33年教育省入省.'45年ワフド党脱退後,政治問題に関心を移して健筆をふるったため,'48-'51年教育省による調査派遣名目でアメリカに追放される.アメリカ滞在中はその物質文明に失望し,帰国後,職を辞してムスリム同胞団に加入した.以後同胞団最大の思想家となり,'54〜'64年ナセルの弾圧により入獄.'64年ナセル体制を反イスラーム的と断じ,イスラーム的前衛による政治権力奪取の義務を説いた 『道標』を発表し,'66年絞首刑.'70年代後半から世界の注目を集めたイスラーム主義武闘派は,多かれ少なかれ彼の思想の影響を受けているといわれる.代表作として他に『イスラームにおける社会正義』など.

グラーム・イスハーク・カーン Ghulam Ishaq khan (パキスタン 1915〜 )
政治家.パンジャーブ大卒.1966年に大蔵次官に就任してから頭角を現し,'70年内閣官房長官.'71-'77年の人民党ブットー政権時代は野に下ったが,'79年ハク軍事政権の蔵相.'85年上院議長.'88年ハク大統領の事故死にともない,大統領代行.同年末の総選挙を経てブットー人民党総裁を首班に指名し,自らは大統領に就任した.'90年国内政情不安の責任を問う形でブット首相を更迭.'93年シャリーフ首相との対立が表面化し,混乱を収拾するため同時辞任.
クーワトリー Quwatli, Shukri al- (シリア 1891〜1969)
政治家.ダマスクス出身.20代でシリア独立運動の指導者となり,オスマン朝,次いでフランス政府から死刑宣告を受けた.ファイサル1世のシリア王国時代は,ダマスクス知事.亡命生活を経て1931年帰国し,以後フランスとの独立交渉を担当.'43年独立とともに大統領.'49年クーデタによりエジプトに亡命したが,'54年帰国. '55年再び大統領となり,シリアとエジプトの国家統合を実現した('58〜'61年).晩年は失意の内に過ごした.

*サアド・ザグルールSa`d Zaghlul (1851頃〜1927)
民族運動の指導者,政治家.ナイル・デルタの大地主の家の生れ.カイロのアズハル学院に学ぶ.第一次大戦後のパリ講和会議にエジプト独立を求める使節団(ワフド)を送るべく奔走し,マルタに追放されたが,これに反発した民衆が決起して「1919年革命」が勃発.名目的とはいえ,'22年にエジプトの独立を実現した.'24年にはワフド党首として,独立後初の議会選挙に圧勝し,首相となる.その後も国民の圧倒的支持を受け,終生民族運動の英雄であり続けた.

ザイダーン Zaydan, Jurji (レバノン 1861〜1914)
作家・歴史家.ベイルート出身.初め医学を志したが,アメリカン大の指導教授と衝突してエジプトに移住.文筆に転じ,1892年カイロにヒラール社を創設するとともに同名の雑誌を創刊した.以後ヒラール誌を中心にアラビア語・歴史関係の論文や小説を発表し,アラブ文芸復興を代表する作家となった.主著として,『イスラーム文明史』『アラブ文学史』『東方世界偉人伝』などがある.
サイード Said,Edward W. (米 1935〜 )
文芸評論家.エルサレム生まれのパレスティナ人.1930年代のユダヤ人流入により一家でカイロに移り,ヴィクトリア・カレッジを卒業.のち渡米し,合衆国市民権を取得してハーバード大学博士.'67年コロンビア大英文学比較文学助教授.'69年同教授. '78年『オリエンタリズム』を発表して,欧米の中東イスラーム認識の歪みを指摘し,学界に強い衝撃を与えた.またPNC(パレスティナ国民議会)議員を務めるなどパレスティナ問題との関わりも深い.著書として他に『イスラム報道』などがある.
ザーイド Zaid bn Sultan al-Nahyan (アラブ首長国連邦 1918〜 )
アラブ首長国連邦大統領.アブダビの王族に生まれ,1949年アブダビ東部州知事. '66年アブダビ首長.'68年からイギリス撤退後をにらんでドバイ首長とともに湾岸首長国の連邦化に努力し,'71年の連邦独立以来,連邦大統領.豊富な石油収入を背景に国内インフラストラクチュアの整備に努め,対外的にはアラブ発展途上地域への経済協力を進めている.'90年の湾岸危磯では,フセイン・イラク大統領から,クウェート同様アラブの富の独占者と非難され,攻撃目標の一つとされた.

サウード Sa`ud bn al-Faysal (サウディアラビア 1941〜 )
サウディアラビアの王族.プリンストン大卒.ファイサル国王の第4子として生まれ,1975年父王の暗殺後に外務担当相.次いで外相.'80年代,エジプトのアラブ連盟除名によって求心力を失ったアラブ世界の調整役をよく果たし,モロッコ・アルジェリア紛争,レバノン内戦の解決に努力した.'81年湾岸協力会議(GCC)の結成にも尽力.'90年の湾岸危機ではイラク・クウェート間の調停を試みたが失敗し,湾岸に外国軍を呼び入れる結果となった.

*サダト,ムハンマド・アンワル・アッ Muhammad Anwar al-Sadat (1918〜81)
軍人,政治家.正しくはアッサーダート.ナイル・デルタの生れ.カイロの陸軍士官 学校卒.反英活動のため一時は軍籍を剥奪されたが,1952年「自由将校団」の一員と してクーデタ(エジプト革命)に加わり,70年には急死したナセルの後を継いでアラ ブ連合共和国第2代(共和国第3代)大統領となる.大統領としては経済自由化,イ スラーム運動公認など脱ナセル化路線を採り,第4次中東戦争(1973)ではイスラエル 不敗神話を打ち破って国民的英雄となった.以後はアメリカに接近し,78年には対イ スラエル単独和平をほぼ実現,同年ノーベル平和賞を受賞した(平和条約締結は '79年).しかし,開放経済のもとで生れた著しい階級間格差と腐敗の横行が国民の批 判を浴び,これを弾圧したことからイスラーム主義武闘派の手で報復暗殺された.主 著に『ナイルの反乱』('57)がある.

サドル Sadr, Musa al- (レバノン 1928〜?)
シーア派宗教指導者.祖父の代にイランに移住したレバノン人で,コム生まれ.テヘラン大卒.聖地ナジャフでシーア派イスラーム法学者の資格を取得した後,1960年レバノンに移住し,社会の最底辺で苦しむシーア派住民の指導者となった.'69年シーア・イスラーム評議会を設立し,自ら同評議会譲長.'74年激増するシーア派人口を背景に「収奪された者の運動」を開始.体制打倒のための戦いを宣言した.'78年リビア訪問後に消息を断ったが,今日なおシーア派武装組織「アマル」の精神的支柱である.

サドル Sadr Muhammad Baqir al- (イラク 1931〜80)
シーア派法学者.ムーサー・サドルの従弟で,バグダードに生まれ,聖地ナジャフで学んだ.青年期からイスラーム法を施行する「イスラーム国家」の建設を説き,1960年代後半からはバアス党世俗政権に反対するシーア派復興運動組織「ダアワ」を指導. '79年のイラン革命後は抑圧されたシーア派民衆の指導者となり,イラン型のイスラーム国家を目指したが,'80年フセイン政権によって処刑された.イスラーム哲学や神学の伝統に立って,階級支配と搾取を批判する独自のイスラーム経済論を展開し,資本主義,マルクス主義の双方を否定したことでも知られる.

サーレハ Salih, `Ali `Abd Allah (イエメン 1942〜 )
政治家.軍人.1962〜70年の内戦に共和派の一員として参加し,内戦終結後はタイーズ州軍公安部長官などを務めた.'78年ガシュミー議長の爆死にともない軍事評議会委員.同年,軍事評議会議長兼大統領.クーデタによる政権交代が続き不安定の極にあったイエメン政情を安定させ,'90年には長年の懸案であった南北イエメンの統一を実現した.イラン・イラク戦争に援軍を派遣して以来,イラクと親密な関係にあり,'90年の湾岸危機においてもイラクの立場に理解を示した.

シバーイー Siba`i, Mustafa al- (シリア 1915〜64)
シリア・ムスリム同胞団の創設者.ヒムスのウラマー(イスラーム法学者)の家系に生まれ,少年期よりフランスのシリア支配を非難して,何度か投獄された.'33年アズハル大に留学し,ハサン・アルバンナーらと親交を結ぶ.'41年帰郷して秘密結社「ムハンマドの青年」 を設立したため,フランス当局に逮捕され入獄(〜'43).'46年組織をムスリム同胞団と改称し,初代団長.以後,同胞団組織の発展に尽くすとともに,'50〜'51年ダマスクス大イスラーム法教授となるなどイスラーム教育の実践に努めた.著書に『イスラーム社会主義』『預言者伝』などがある.

しまだじょうへい 島田襄平 (日 1924〜90)
イスラーム学者.中国の遼陽出身.東京大学在学中からイスラーム史に関心を持ち, 1954年ロンドン大学東洋アフリカ研究所に留学した(〜'57年).'58年中央大学助教授.'65年同教授.日本のイスラーム史・イスラーム学研究における先駆的業績を次々に発表する一方,後進の育成に努めて現在の中東イスラーム研究の基礎を築き,更に NHKで市民大学講座を担当するなどイスラーム圏に関する啓蒙的役割をも果たした.主著に『イスラームの国家と社会』('77)『イスラーム教史』('80)など.
シャドリー Shadhili bn Jadid, al- (アルジェリア 1929〜 )
政治家.軍人.東部アンナバ出身.1954年,対仏独立戦争開始とともに民族解放戦線 (FLN)に参加し,'62年の独立まで東部軍管区司令官.独立後は,'62年東部軍管区司令官.'63年西部軍管区司令官.'65年のクーデタ後,革命評議会議員.'78年の盟友ブーメディエン死去に伴い,'79年以降大統領.マグリブのリーダーとしてアラブ各国の利害調整役を果たしてきたが,経済破綻,イスラーム主義勢力の伸張など内政に困難を抱え,'92年事実上のクーデタにあって失脚した.

ジャバルティー Jabarti, `Abd al-Rahman al- (エジプト 1753〜1825)
歴史家.カイロのハナフィー派法学者の家に生まれ,アズハル大卒.ハディース学や系譜学の復興者として知られるザビーディーに師事し,彼を通してシリアの伝記の伝統にふれたことから,16世紀のイプン・イヤース以来絶えて久しかった編年体形式の年代記『伝記と歴史における事蹟の驚くべきこと』を著した.ムスリムとしての厳然たる主体性を保持し,内部から退廃していくイスラームの現状を憂えた記述は,17〜 19世紀のエジプトに関する貴重な史料となっている.

ジャービル Jabir al-Ahmad al-Jabir al-Sabah, al- (クウェート 1928〜 )
クウェート首長.ジャービル家の王族に生まれ,1963年蔵相兼工業相.'65年サバーハ家のサバーハ首長即位とともに首相.'66年皇太子.'77年以来首長.豊富な石油資金を背景にアラブ開発途上地域への経済協力を続けてきたほか,'80年からのイラン・イラク戦争ではイラクに肩入れして多額の軍事援助を与えるなど,安全保障に腐心してきた.しかし'80年代後半からサウディアラビアとの関係が悪化.'90年イラクによる侵攻を招く結果となり,サウディアラビアに逃亡.'91年湾岸戦争の終結により帰国し,国内の再建にあたっている.

シャミール Shamir, Yitzhak (イスラエル 1915〜 )
政治家.ポーランド生まれで,1935年パレスティナに移住.'37年シオニストの反英ゲリラ組織イルグンに参加し,'46年逮捕されてエリトリアに流刑.'48年イスラエルの独立により帰国し,以後は秘密情報機関モサドを中心に活動した.'73年右派へルート党選出国会議員.'77年国会議長.'80年べギン内閣外相.'83年首相.'84年労働党・リクード連立内閣首相代行兼外佐相.'86年同首相.'90年〜'92年の右派連立内閣首相.'91年の湾岸戦争ではイラクからミサイル攻撃を受けながら自制し,戦火の拡大を避けたが,大イスラエル主義者といわれ,'87年以来パレスティナ人による抵抗運動(インティファーダ)を抑圧した.また,国際世論の非難をよそに,ソ連からの大量移民をヨルダン川西岸占領地に入植させ続けたことでも知られる.'92年総選挙で労働党に敗れ,政界を引退.

ジャラール・アーレ・アフマド Jalal Al-e Ahmad (イラン 1923〜69)
作家.テヘランのシーア派法学者の家に生まれたが師範学校に進み,教師として生活するかたわら,1945年『年始訪問』を発表して作家生活に入った.以後迷信の打破,社会の諸悪などを主題にした作品を発表し続ける一方,'47年には社会主義政党トゥーデ党に入党.更に石油国有化運動の際には国民戦線に参加するなど政治活動にも関心を示した.'54年以降は各地の農村に取材して方言や民俗の研究を進め,'58年ついに代表作『校長』を発表.教育と社会の現状に対する批判を死ぬまで絶やさなかった作家である.

シャリーアティー Shari`ati, `Ali (イラン 1933〜77)
思想家.イラン・イスラーム革命の真の準備者といわれる.イラン東部の砂漠地帯に生まれ,少年期をマシュハドで過ごした.モサッデク時代には父とともに国民戦線に参加し,'57年入獄.'60年マシュハド大卒業後,パリに留学して在外イラン自由運動に参加.'64年帰国と同時に逮捕されたが,'67年以降テヘランに新設されたフセイニーヤ・イルシャード学院で青年層にイスラームの革命性を訴え,決起を促す連続講演を行った.マルクス,サルトル,ファノンらの影響を強く受けた彼のイスラーム理解は,西欧文明と伝統的イスラームの間で自己を喪失した青年知識人層に強く働きかけ,やがてイスラーム革命の行動原理となる.'73年再び投獄され,釈放後も軟禁状態に置かれたため,'77年ロンドンに脱出したが,直後に客死.彼の不可解な急死はイランにおいては秘密警察による暗殺と信じられ,その著書は殉教者の遺言として革命に参加した大衆にむさぼり読まれた.俗に「革命の教師」と呼ばれる.

シャリーアト・マダーリー Shari`at madari, Kazim (イラン 1904〜86)
シーア派法学者.タプリーズ出身.1961年以降コムの最高宗教指導者の一員.コム神学校在学中にホメイニーと知り合い,'62年のホメイニーによる反シャー抗議行動に参加.'63年投獄されたが,以後も立憲派として活動を続けた.'78年からの革命状況でも指導的役割を果たしたが,'79年以後の革命政権では,宗教と政治権力の一致に疑問を呈し,非宗教指導者の民主主義を唱えてホメイニ一の「法学者の統治」論と衝突.'79年のイスラーム共和国憲法採択後は,表舞台から追放された.

シャリーフ Sharif, Minan Muhammad Nawaz (パキスタン 1949〜 )
政治家.バンジャーブ州出身.ラホール州立大卒業後実業界入りし,パンジャーブ州有数の企業人となったが,政界に転身して1981年,バンジャーブ州蔵相.'85年同州知事.間もなく暫定州首相となり,'88年州首相に再任.'90年政情不安の責任を問われる形でブットー首相が解任されたのを受け,イスラーム民主連合 (IDA, IDJ)を率いて総選挙に大勝.グラーム・イスハーク・カーン大統領より首班指名を受けた.'93年大統領との対立が表面化,政治混乱を収拾するため, 同時辞任.'97年には首相に返り咲いたが,カシミールをめぐるインドとの対立や国内経済の不調を改善できず,'99年軍部のクーデタにあって失脚. 2000年4月にはムシャッラフ参謀総長暗殺を企てたかどで終身刑を宣告された.なお,'98年の首相在任時にはインドの核武装に対抗してイスラーム圏初の核武装に踏み切っている.

シャルカーウィー Sharqawi, `Abd al-Rahman al- (エジプト 1920〜 )
作家.メヌーフィーヤ県の小村の出身.カイロ大卒業後,法律家,官吏として働きながら,1951年詩人として文壇デビューした.'53年新聞連載小説 『大地』を発表.農民の話し言葉を大胆に取り入れ,ナイル・デルタの農村の現実を描いたこの作品は,エジプト文学界に強烈な衝撃を与え,ユースフ・イドリースらに代表される農村文学の隆盛を招く.『大地』以後も社会問題を扱った小説を発表し続ける一方,'70年代には 『ローズ・アルユースフ』誌の編集長なども務めた.

シャロン Sharon, Ariel (イスラエル 1928〜 )
政治家.軍人.パレスティナのクファル・マラル出身.10代から義勇軍に参加し, 1948年の第一次中東戦争で活躍した.以後長く軍籍にあり,'58年参謀本部司令官. '67年の第三次中東戦争,'73年の第四次中東戦争に従軍して国民的英雄となり, '73年リクードから政界入り.'77年農相.'81年からの国防相時代にはしバノン侵攻を計画・実行したが,'83年ファランジスト党民兵によるパレスティナ難民虐殺を招いた責任をとって辞任し,無任所相.'84年〜'92年商工相.イスラエルきっての右翼政治家である.

シュクリー・ムスタファー Shukri Mustafa, Ahmad (エジプト1942〜78)
イスラーム復興運動指導者.アシュート近郊の農村の出身.アシュート大在学中にムスリム同胞団の勧誘を受け,1965年ナセルの第二次同胞団弾圧により投獄された(〜 '71年).獄中でマウドゥーディーやクトゥブの著作に触れ,預言者ムハンマドにならって反イスラーム的な社会から「聖遷」する必要を感じ,出獄後,秘密結社「イスラーム社会(一般にはタクフィール・ワルヒジュラとして知られる)」を創設.同結社は '76年までに2000人の信者を獲得したが,'77年ザハビー・ワクフ相を誘拐・殺害したことから, '78年処刑された.自身の組織だけが真のイスラームであるとして脱退者の処刑を行い,ネオ・ハワ-リジュ派と恐れられたが,その思想は以後のイスラーム過激派に多大な影響を与えている.

ジュマイエル Jumayyir, Amin al- (レバノン 1942〜 )
政治家.弁護士.マロン派キリスト教徒の名家に生まれ,サンジョセフ大卒.1959年父ピエールが党首を務めるファランジスト党(カターイブ)に入党.'70年国会議員. '82年イスラエル軍のレバノン侵攻のさ中に,大統領に選出されながら爆死した弟バシールの後を襲って大統領.'85年イスラエル軍撤退とともに国内の小康を得たが, '87年以降シリア軍の介入によって再び激化した内戦を収拾できず,'88年後任大統領を選出できぬまま任期切れとともに国外に逃亡した.

ジュンブラート Junbalat, Kamal (レバノン 1919〜77)
政治家.アレイ出身.ソルボンヌ大卒.宗派体制をとるレバノンで,ジュンブラート系ドルーズ派の長として,早くから政界入りし,1947年経済相.'49年ドルーズ派政党進歩社会党を創設し,以後,文相,内相等ドルーズ派の就任可能な閣僚ポストを歴任した. '58年内戦ではシャムーン大統領派と争い,'75年内戦ではムスリム左派・PLO連合を率いてマロン派に対抗.議会制民主主義の信奉者で,一人一票によるマロン派支配打破を目指したが,'77年暗殺.遺志は長子ワリードに引き継がれた.

ダーウード Dawud,Sardar Muhammad (アフガニスタン 1909〜78)
政治家.軍人.パーラクザーイ一朝の王族に生まれ,カーブル士官学校卒業後フランスに留学した.'34年従弟のザーヒル・シャー新王のもとで東部州知事兼軍司令官. '37年中央軍司令官.'53年首相に就任し,国防相,内相をも兼務する最高実力者となったが,パシュトゥーン人居住地域の帰属を巡ってパキスタンと対立.'63年両国関係改善の必要から辞任した.'73年軍の協力を得てクーデタに成功し,アフガニスタン共和国を樹立して初代大統領となったが,実際には独裁体制を取り,'78年タラキーらのクーデタで処刑された.

ターハー Taha, Mahmud Muhammad (スーダン 1909?〜85)
イスラーム改革思想家.青ナイル州ルファーア出身で,ハルトゥーム大卒.1945年共和主義党を結成し,共和制スーダンの独立を目指したが,'46年イギリス当局による女子割礼禁止に反対して投獄され,獄中でイスラーム思想家に変身した.'67年主著『イスラームの第二のメッセージ』を発表.伝統的な解釈に真っ向から挑戦する社会進化論的なイスラーム観を示し,イスラーム法を超越する必要を説いてムスリム同胞団などイスラーム憲法の施行を要求する勢力を厳しく批判した.'69年以降ヌメイリー政権を支持.共産党弾圧,南部問題解決などの施策に思想的基盤を提供したが,'83年イスラーム法が施行されるに至って関係が悪化し,'85年背教者として処刑された.彼の処刑は反体制派に大きな衝撃を与え,同年ヌメイリー政権は崩壊する.

タバータバーイー Tabataba`i, Sayyid Mohammad, al- (イラン1843〜1921)
イラン立憲革命を指導したシーア派法学者.テヘランの法学者の家系に生まれ,自らも父祖と同じ道を歩んだ.早くから西欧文明の学習の必要を訴え,自身外国語や国際法を学んだほか,革新的な教育法を採るイスラーミーェ学院を開設してイスラーム復興を目指した.1905年以降,べへバハーニーとともにテヘランのバーザール商人・イスラーム法学者を指導して反専制・立憲運動を展開.'06年の第1議会を実現し,アルメニア人の代表権を委任される形で議員に選出された.

タフターウィー Tahtawi, Rifa`a Rafi` al- (エジプト 1801〜73)
思想家.上エジプト・タフターの名士の子として生まれ,アズハル大学で開明派のウラマーとして名高いアッタールに師事した.1826年ムハンマド・アリーの派遣した留学生の礼拝を指導するイマームとして渡仏.期待された役割を越えて,フランス語の習得と啓蒙思想の理解を果たし,帰国後は官報編集長,翻訳局長などを歴任した.多くの著作を通じて,社会教育の必要を説くとともに,「エジプト民族」という概念を打ち出し,エジプト近代思想に大きな足跡を残した.

*タラアト・ハルブ Tal`at Harb (1867〜1941)
民族資本家.鉄道員の子としてカイロに生れる.法律および言語学校卒.20世紀初頭 から女性の西洋化を非難する論考で注目を集め,穏健民族主義政党ウンマ党の結成に も参加した.1920年にはミスル銀行を設立してエジプトの工業化を促進.航空会社や 映画製作にも出資し,民族産業の発展に尽くした.工業化に基づく経済の自立こそ独 立の要件と考え,これを実践した経済面での民族主義者である.

タラキー Taraki, Nur Muhammad (アフガニスタン 1917〜79)
政治家.作家.ギルザイ系アフガン人.青年期を国営通信社記者として過ごす一方,パシュトー語を用いる作家として『バング氏の旅行』などの作品を発表した.1966年ハルク紙を創刊して以降,政治活動に没頭し,'76年カールマルのパルチャム派と合同して人民民主党を設立.以来同党書記長として反ダーウード勢力を指導していたが,'78年逮捕.翌日のクーデタで救出され,革命評議会議長(国家元首)兼首相.'79年後任のアミーン首相により処刑された.

ダルウィーシュ Darwish, Mahmud (パレスティナ l942〜 )
抵抗詩人.アッカ近郊の出身.1948年のイスラエル建国時には,シオニストによるテロを恐れてレバノンまで逃れたこともあったが,無事帰郷して中学卒業後パレスティナ解放運動に参加.同時にパレスティナの悲劇をうたう詩作活動を開始した.'56年以降数度に渡って,イスラエル当局による自宅監禁・投獄を受け,'73年イスラエルを脱出.以後各地を転々としながら詩作を続けている.著名な詩に『パレスティナの恋人』『母』 などがある.

ターレガーニー Taleqani, Mahmud (イラン 1910〜79)
シーア派法学者.ターレガーン出身で,コムの神学校に学び,アーヤトッラーの称号を得る.第二次世界大戦前後から反シャー抵抗運動に参加.以来数度に渡って投獄・国外追放を繰り返しながらも,反体制運動を指導し続けた.1961年バーザルガーンら国民戦線の生き残りと協力して「イラン解放運動」を組織.'78年からの革命状況にあっても国内に留まり,国民戦線・左派諸勢力と宗教勢力の仲介役を果たして革命を成功に導いた.革命政権成立直後,惜しまれながら急死.

ティルムサーニー Tilmsani, `Umar al- (エジプト 1904〜86)
イスラーム復興運動指尊者.カイロに生まれ,ワッハーブ派を信奉する祖父の影響を受けて育った.カイロ大時代はワフド党員であったが,党首サアド・ザグルールの非宗教的な生活に失望して,1928年頃ムスリム同胞団入団.'30年以降弁護士.'56年ナセルの弾圧により投獄(〜'71年).'73年同胞団第3代団長に就任し,以後サダト政権と協調しながら同胞団復興に努めた.'76年機関誌ダアワを復刊.'81年対イスラエル政策を巡る対立から再び投獄されたが,サダト暗殺により釈放.著書に『イスラームと宗教的統治』などがある.

ナジーブッラー Najib Allah (アフガニスタン 1947〜 )
政治家.医師.パクティアー州出身.カーブル大卒.1965年頃から学生運動に参加し,二度に渡って投獄されながら,人民民主党バルチャム派の幹部に成長した. '78年の人民民主党によるクーデタ後,駐イラン大使.'79年末のソ連軍介入後のカールマル政権で国家情報局長官.'81〜'82年人民民主党政治局員.'86年同党書記長,革命評議会議長(国家元首).同年中に新憲法の下で大統領に就任したが,反政府運動に苦しみ,'92年失脚した.

*ナセル,ガマール・アブドゥン Jamal `Abd al-Nasir (1918〜70)
軍人,政治家.正しくはアブドゥンナーセル.アレキサンドリア生れ.カイロの陸軍 士官学校卒.1952年にクーデタ(エジプト革命)を起し,エジプトを完全独立に導い た「自由将校団」の指導者で,56年には共和制第2代大統領に就任.同年スエズ運河 の国有化を宣言し,これに反発した英・仏・イスラエル3国と第2次中東戦争を戦 う.この戦いに外交的な勝利を収めて以後アラブ民族主義の英雄となaC58年にはシ リアと合邦してアラブ連合共和国初代大統領となる(1961年にはシリアはエジプトか ら独立).62年以降アラブ社会主義を掲げてイエメン内戦に介入したが,サウデ ィアラビアとの代理戦争に疲れ,67年の第3次中東戦争では惨敗.70年ヨルダン 内戦の仲裁中に急死した.非同盟・第三世界の指導者として名を馳せる一方,国内では秘 密警察を用いた恐怖政治を行い,イスラーム主義活動家など多くを処刑している.著 書に『革命の哲学』(54)がある.

ヌメイリー Numayri, Ja`far Muhammad al- (スーダン 1930〜 )
政治家.軍人.オムドゥルマン生まれ.軍士官学校卒.北部軍在勤中の1957年,アズハリー政権に対するクーデタ未遂で入獄(〜'59年).'64年にもアッブード軍事政権に対するクーデタ未遂容疑で逮捕されるなど,青年期から政治に強い関心を示した. '69年自由将校団による無血クーデタに成功し,革命評議会議長(国家元首),首相兼国防相.'71年左派によるクーデタで一時追放されたが,リビアなどの援助で政権に復帰し,同年大統領.'77年首相,経済相を兼務.'83年サウディアラビアから経済援助を得るなどの目的でムスリム同胞団と和解し,国内にイスラーム法を施行したが,これに南部のキリスト教徒が反発.内戦状態となった.'85年イスラーム法の施行に反対する宗教運動家ターハーを処刑したことから,激しい反政府デモに直面.同年訪米中に起きたスワルダハブ軍司令官によるクーデタで政権を追われた.以後カイロに亡命して再起を期している.

ヌーリー・アッサイード Nuri al-Sayyid (イラク 1888〜1958)
政治家.軍人.北メソポタミアの地主の子に生まれ,イスタンプル陸軍大卒.第一次大戦にオスマン帝国軍将校として従軍したが,1915年イギリス軍の捕虜となり,以後ファイサル一世を奉じる「アラブの反乱」に参加した.'18年ダマスクス占領軍戒厳司令官. '21年イラク王国建国とともに参謀総長.以来十数回に渡って首相となり,国情の安定しないイラク王国を運営した.'50年代半ばからは高揚するアラブ民族主義に徹底的な弾圧をもって臨み,王国体制の維持を試みたが,'58年カースィムによるクーデタで虐殺.

ハイル・アッディーン Khayr al-Din al-Tunisi (チュニジア 1820〜90)
政治家.改革思想家.コーカサス出身のマムルーク(奴隷軍人)で,チュニジア・フセイン朝のベイに登用された.1852年パリに留学.'56年帰国して海軍相(〜'62年). '73年国家財政再建の期待を担って首相となり,行政改革・教育改革を断行したが,保守派及びベイと対立して'77年辞任.同年,オスマン朝のアブデュルハミト二世に招かれてイスタンブルに移り,'78年大宰相(〜'79年).政治家として立憲制の確立を目指すとともに,西欧近代科学の導入がイスラームに反さないことを説いた.著書に『王国の状態を知るための最もまっすぐな道』がある.

ハキーム Hakim, Tawfiq al- (エジプト 1902〜87)
戯曲家.小説家.アレクサンドリア出身.カイロ大卒業後,法学博士号取得のためローマ,パリに留学したが.文学への思い断ち難く,創作に熱中した.1928年帰国して司法職に就く一方,'33年戯曲 『洞穴の人々』,小説『魂の回帰』 を発表.以後戯曲を中心に活発な創作活動を行った.その作品は,青年期に味わった西欧への幻滅からイスラームなど東洋の文化を見直す一方,社会の現状に対して鋭い批判の目を向けている.'76年アジア・アフリカ作家会議ロータス賞受賞.著作として他に,実体験に基づいた小説 『ある田舎検事の手記』などがある.

バクル Bakr, Ahmad Hasan al-(イラク 1914〜82)
政治家.軍人.タクリート生まれ.教員養成所,陸軍士官学校卒.自由将校団の一員として1958年革命に参加したが,カースィム独裁への過程で投獄された.釈放後はバアス党に接近し,'63年の軍事クーデタ後,アーリフ(弟)政権首相.同年アーリフの反バアス党クーデタで解任され,以後副大統領(〜'64年).'68年無血クーデタに成功し,アーリフ大統領(兄)を追放して大統領兼RCC(革命指翼評譲会)議長,バアス党書記長(〜'79年).現在まで続くバアス党政権の産みの親であり,アラブ世界で唯一平和裡に政権を禅譲した例を残している.

バーザルガーン Bazargan, Mehdi (イラン 1905〜 )
政治家.技師.パリ大卒.テヘラン大教授.1949年頃から石油国有化運動を推進する国民戦線に参加し,モサッデク政権下の'51年イラン国営石油公社初代総裁.'53年の反革命クーデタ後は一切の公職から追放されたが,'61年ターレガーニーらと「イラン解放運動」を結成.イスラームの役割の回復を訴えて国民戦線と宗教勢力の架け橋となった.'78年以降の革命状況でも主導的な役割を果たし,'79年暫定革命政府首相.革命後はホメイニーの「法学者の統治」論に追われ,同年末解任されたが,現在に至るまで野党勢力として活動を続けている.

*ハサン・アルバンナー Hasan al-Banna (1906〜49)
イスラーム復興組織「ムスリム同胞団」の創設者(初代団長).ナイル・デルタの生 れ.カイロ師範学校卒.高校教師として赴任したイスマーイーリーヤでムスリム同胞団を 結成し(1928),1940年代初頭には団員100万ともいわれる巨大な大衆運動に育てあげ た.しかし,第二次大戦後の革命情勢の中で同胞団内の秘密軍事部門が暴走.政府要 人暗殺の報復を受け,秘密警察の手で暗殺された.

ハディード Hadid, Marwan (シリア 1940?〜76)
イスラーム復興運動指導者.ハマーの農家に生まれ,青年期からムスリム同胞団に加わった.1960年代初め農業技術取得のために留学したエジプトでサイイド・クトゥブに師事.'65年ナセルの弾圧を逃れて帰国.以後はクトゥブ革命理論の実践に努め,同胞団弾圧政策をとるバアス党政権への武力闘争を展開した.'76年逮捕されて獄死. '70年代におけるシリア・ムスリム同胞団の武装闘争路線への転換を,思想と行動の両面から準備した人物といわれる.

バドル Badr, Muhammad al- (イエメン 1927〜 )
イエメン最後の国王.シーア派の一派ザイド派のイマーム(最高指導者).1962年父王の死により国王となったが,1週間後自らが抜擢したサッラール軍司令官を中心とする共和制クーデタで失脚した.以後は北部山岳地帯の保守的部族民を糾合し,サウディアラビアの援助を得て8年に及ぶ内戦を戦う.'70年頼みのサウディアラビアが共和派を支援するナセルのエジプトと和解したことから戦闘継続を断念.ロンドンに亡命し,ここにイエメン王国は滅亡した.

バニー・サドル Bani Sadr, Abu al-Hasan (イラン 1933〜 )
政治家.経済学者.テヘラン大卒.学生時代から反体制運動に参加し,1953年の反革命クーデタ後は地下に潜行した.'63年逮捕され,以後パリに亡命(〜'79年).'78年イラクを追われてパリに移ったホメイニーの経済顧問となり,革命後の'79年経済・蔵相兼革命評議会議員.'80年イスラーム共和国初代大統領に選出されたが,やがて「法学者の統治」を主張するイスラーム共和党と衝突し,'81年解任された.同年パリに亡命し,モジャーヘディーン・ハルクなどとともにイラン国民抵抗評議会を結成. '84年離脱した.

ハバシュ Habash, Jurji (パレスティナ 1925〜 )
政治家.医師.リッダ出身のギリシア正教徒で,ベイルート・アメリカン大卒. 1950年代初めに「アラブ民族主義運動」の結成に参加して以来,複数のゲリラ組織を創設してパレスティナ解放闘争を指導して来た.'67年マルクス・レーニン主義を奉じる「パレスティナ解放戦線(PFLP)」を結成して議長.以後PLO内第二の勢力として力による全パレスティナの解放を唱え,しばしばアラファートのファタハと対立している.かつてはハイジャック戦術を多用したことで知られた.'74年PLO執行委員から脱退.ダマスクス在住.

ハーメネイ Khameney, Sayyid `Ali (イラン 1940〜 )
政治家.シーア派法学者.マシュハド出身.コム神学校でホメイニーに師事して以後反シャー闘争の闘士となり,1964〜78年の間に六度入獄.'79年革命状況の中でイスラーム共和党の設立に参加し,革命後国防次官.のち革命防衛隊司令官.'80年イスラーム共和党党首(〜'87年).'81年のバニー・サドル大統領解任直後,爆弾テロにあって負傷したが,同年10月第三代大統領(〜'89年).イスラーム革命体制の確立に努め,'89年ホメイニーの死去により専門家会議で最高指導者に選出された.以後ラフサンジャーニ一大統領と協力して国政にあたったが,'97年以降は新任のハータミー大統領に代表される改革派と保守派の対立が表面化し,難しい舵取りを迫られている.

ハリデ・エディブHalide Edip Adivar (トルコ 1884〜1964)
女流作家.イスタンブル生まれ.アメリカ系女学校に英語・英文学を学び,1908年以来「統一と進歩委員会」機関誌上などで文筆活動を開始.'09年以降小説の執筆を開始するとともに女子教育の改革に貢献した.オスマン帝国崩壊後は,ケマル・アタテュルクらと協力して外国勢力一掃に尽力したが,やがてケマルの急進主義と対立. '26年以後ヨーロッパに亡命し,'39年帰国してイスタンブル大教授.'50年国会議員.イギリス小説の影響を強く受け,『ハエのいる雑貨屋』ほか多数の作品を残した.

ハリーファ Khalifa bn Hammad al- Thani (カタル 1932?〜 )
カタル首長.米ノース・インディアナ大卒.イギリス統治下の1960年首相に就任して以来国政を司り,独立後の'72年無血クーデタで首長となった.以後財政改革を断行する一方,道路・港湾などインフラストラクチュアの整備に努め,'76年カタル石油,'77年力タル・シェルを完全国有化.更に石油後をにらんで,天然ガス液化プラント,製鉄所などの建設を進めている.湾岸協力構想の熱烈な支持者で,GCC(湾岸協力機構)の一層の統合に向け努力していたが,97年クーデタにあって失脚した.

バルザーニー Barzani, Mustafa al- (クルド 1902〜79)
クルド民族運動指導者.スンナ派イスラーム教徒.イラク領クルディスタンのバルザーン出身で,青年期からクルド自治を要求するゲリラ活動を指揮した.1945年イラクでの反乱に失敗してイランに脱出.'46年ソ連軍支配下のイラン領クルディスタンに建国されたクルド人民共和国の軍司令官.同年のイラン軍侵攻によりソ連に亡命したが (〜'58年),'60年クルド地区に戻って部族勢力を糾合し,クルド民主党党首.以後イラク政府に対するゲリラ戦を展開して,'70年にはバクル政権から大幅な自治を勝ちとった.'74年目治の実現を巡る対立から,イランの支援を得て反イラク・ゲリラ闘争を再開したものの,'75年のアルジェ協定でイランの軍事支援を失って敗北.イランついでアメリカに亡命し,失意のうちに病死した.

ハワトメ Khawatima, Na'if (パレスティナ 1935〜 )
政治家.ヨルダンのサルト生まれのキリスト教徒.カイロ大,ベイルート・アラブ大に学ぶ一方,1950年代から「アラブ民族主義運動」に参加し,その左傾化・脱ナセル化に努力した.'57年ヨルダンで死刑判決を受け,亡命先のイラクでも'59-'63年投獄.出獄後の'67年「パレスティナ解放戦線」結成に参加したが,'68年分離して現在の「パレスティナ解放民主戦線(DFLP)」を結成し議長となった.マルクス主義者であると同時に,徹底した現実主義者として知られ,冷戦後の国際秩序の中でいかなる路線を探るのか,注目されている.

ビタール Bitar, Salah al-Din (シリア 1912〜80)
政治家.ダマスクス生まれのイスラーム教徒.ソルボンヌ大卒業後教師となったが, 1942年政界入りしてアフラクとともにバアス党を設立.主に党務を担当して党勢拡大に努めた.'56〜'58年外相.エジプトとの国家統合に尽力し,統合後はアラブ連合文化国民指導相.'59年ナセルと対立して辞任し,'61年の国家統合解消を経て,'63年バアス党軍事クーデタにより首相(〜'64年).'65年再び首相となったが,翌年バアス党強硬派・軍部のクーデタにあって失脚し,亡命先のパリで暗殺された.

ファイサル一世 Faysal bn Husayn (アラブ 1883〜1933)
シリア国王のちイラク国王.メッカの大守フセインの三男としてターイフに生まれ,第一次大戦中の1916年,いわゆる「アラブの反乱」に決起した.反乱はシリア地域のアラブ民族主義を背景に,またオスマン帝国の後方撹乱を狙うイギリスの支援を得て,アラブ地域を次々に解放したが,戦後イギリスによる独立の約束が反古にされたため,'20年シリア王国の独立を一方的に宣言.国王となったものの,同年中にフランス軍に排除された.'21年メソポタミアの反乱に苦しむイギリスに迎えられてイラク国王.'32年イギリスの委任統治終了により一応の独立を達成した.

ファイサル二世 Faysal bn Ghazi (イラク 1935〜58)
イラク王国最後の国王.ファイサル一世の孫で,1939年父王ガーズィーの事故死により王位を継承した.実際の政治には伯父のアブドゥルイラ-摂政と宰相のヌーリー・アッサイードがあたったが,国情は安定せず,'41年にはラシード・アリーの反乱にあってエジプトに亡命するなど厳しい少年時代を送った.イギリスで教育を安けた後,帰国して'53年即位したが,'58年カースィムのクーデタにより王宮内で殺害され,イラク王国は滅亡した.

ファハド Fahd bn `Abd al-'Aziz (サウディアラビア 1922〜 )
サウディアラビア第五代国王.建国の父イブン・サウードの第九子で,リヤドのサウード科学研究所で学んだ後,アメリカに留学した親米派.帰国後の1953年初代教育相.'62〜'75年内相.'68年第二副首相.'75年ファイサル国王暗殺により皇太子兼第一副首相.'82年ハーリド国王の病死にともない国王.豊富な石油収入を背景に80年代アラブ諸国の盟主となり,イラン・イラク戦争におけるイラク支援,レバノン内戦終結などに努めたが,'90年クウェイトとの関係が悪化する中でイラクによるクウェイト侵攻を許し,更にアメリカ軍の介入を求めて,「聖地メッカ・メディナの守護者」としての威信を大きく低下させた.

ファラジュ Faraj, Muhammad `Abd al-Salam (エジプト 1952〜82)
イスラーム復興運動理論家.ブハイラ県出身でカイロ技術学校卒.アレクサンドリアの工場で働いていた1978年,同僚に誘われてイスラーム復興運動組職ジハード団に入団し,'79年の組織摘発後はカイロ大の電気技師となって首都の団員獲得に努めた.イスラーム法に従わない支配者を殺害してでもイスラーム国家を建設すべしとする彼の主張は,やがて青年層の共感を呼び,'81年のサダト大統領暗殺を引き起こす.'82年軍事法廷により処刑されたが,主著 『隠された義務』は現在に至るまでイスラーム復興運動武闘派のバイブルである.

*ファールーク1世 Faruq, Ibn Fu'ad (1920〜65)
ムハンマド・アリー朝実質最後の国王(在位1937〜52).カイロ生れ.イギリスのウ リッジ軍事アカデミーに学ぶ.即位当時は若く聡明な君主として人気を集めたが,第 二次大戦が終わり,戦争協力を求めるイギリスの圧力が弱まると専制化.反宮廷派を排 除して政治の混乱を招き,これを収拾できぬまま,1952年ナセル率いる「自由将校 団」のクーデタ(エジプト革命)にあって退位した.のちイタリアに亡命,ローマで 没.

フサイニー Husayni, Muhammad Amin al- (パレスティナ 1896〜1974)
パレスティナ抵抗運動指導者.エルサレムの名家に生まれ,アズハル大中退,イスタンブル士官学校卒.カイロでラシード・リダーに師事してイスラームの政治的役割に目覚め,第一次大戦時には「アラブの反乱」に参加した.1920年イギリスのパレスティナ支配,ユダヤ人入植に反対する最初の暴動を組職.'21年エルサレムのムフティー (イスラーム法判断者)に就任し,'22年同最高イスラーム評議会議長.'30年イスラーム世界会議議長.'34年パレスティナ・アラブ最高委員会委員長.'29年,'36年にもユダヤ人入植者の土地収奪に苦しむパレスティナ人を糾合して反ユダヤ人暴動を組織するなど抵抗運動の指導的役割を果たしたが,イギリス当局の弾圧を受け,'37年国外に脱出した.第二次大戦中はヒトラーに接近し,反英宣伝に従事.戦後は戦犯追及を逃れてエジプトに移り,第一次中東戦争後ガザの「全パレスティナ政府」首班.以後も国連などで活動を続けたが,イスラームを基本とする抵抗路親が青年層から見離され,'59年ベイルートに引退した.

フセイン Husayn bn 'Ali, al- (アラビア 1852?〜1931)
ヒジャーズ国王.預言者ムハンマドの血を引くと言われるメッカの大守ハーシム家の嫡流として,イスタンブルに生まれ育った.成人してからはオスマン朝のアブデュルハミト二世によりメッカに幽閉されたが,1908年青年トルコ人革命により解放されてメツカ大守.第一次大戦が始まると,シリアを中心とするアラブ民族主義者に推されてイギリスから戦後独立の約束を取り付け,'16年「アラブの反乱」を起こしヒジャーズ国王.'24年のオスマン朝カリフ廃絶に際してイスラーム世界全体の支配者となるべく自らカリフ就任を宣言したが,まさにそのためムスリム指導者の間で孤立し,同年中にイブン・サウードの攻撃を受けてヒジャーズ王国は滅んだ.'25年キプロスに亡命し,失意の内にアンマンで死去.

フセイン Husayn, Saddam (イラク 1937〜 )
政治家.タクリート生まれ.カイロ大及びバクタードのムスタンスィル大卒.王政期の1957年アラブ民族主義を掲げるバアス党に入党し,'59年には共和革命後独裁者となったカースィム首相の暗殺を企てた.エジプトに亡命した後,'63年の軍事クーデタで帰国したが,同年アーリフ(弟)大統領の反バアス党クーデタにより追放.'64年クーデタ計画が発覚して逮捕・投獄.'66年脱獄.'68年のバアス党無血クーデタを陰で指揮し,'69年革命指導評議会(RCC)副議長兼バアス党副書記長.以来有力者を次々に排除して自己の権力基盤を固める一方,'75年にはアルジェ協定を調印してイランのクルド民族運動支援を終了させるなど外交面で活躍した.'79年バクル大統領の引退にともない,大統領兼RCC議長,バアス党書記長.'80年には革命で混乱するイランに突如侵攻し,以後'88年まで続くイラン・イラク戦争を引き起こした.'90年,戦後復興の行き詰まりを強大な軍事力によって解決せんとクウェイトに侵攻したが,国際社会の承認を得ることができず,翌年湾岸戦争に敗れて撤退.

フセイン Husayn,Taha (エジプト 1889〜1973)
文学者.上エジプトの貧しい家庭に生まれ,3歳で失明した.1902年アスハル大に入学しムハンマド・アブドゥフに師事.また新設のエジプト大でもヨーロッパ人オリエンタリストに師事,'15〜'19年にはフランスに留学した.帰国後はエジプト大学アラブ文学教授,'29年同文学部長.'26年近代歴史学の方法を古典アラブ詩に適用し,イスラーム前の作といわれる詩の偽作性を指摘した『ジャーヒリーヤの詩について』を発表したが,これが学問的見地から伝統的なイスラーム聖典解釈に疑問を呈す結果となり,同書は発禁.'32年には自身も文学部長を解任された.'36年再びエジプト大文学部長.以後教育の普及に尽力し,'42年新設のアレクサンドリ ア大学長.'50〜'52年教育相.思想家としては完全な西欧化を志向し,教育を前提とした民主国家の実現を訴えて,'36年の形式的独立達成以降進むべき道を模索していたエジプト言論界にひとつの方向性を与えた.『エジプトにおける文化の将来』 など膨大な著作を残し,『アラブ文学の巨柱』の称号を持つ.

ブットー Butto, Benazir (パキスタン 1953〜 )
政治家.ハーヴァ-ド大,オクスフォード大卒.1977年のクーデタで失脚・処刑されたズルフィカル・ブットー首相の娘で,'77年以降自宅に軟禁されていたが,'84年イギリスに亡命した.'86年帰国してパキスタン人民党総裁.以後民主回復運動の中心的存在となり,ハク軍事政権と対峙した.'88年の総選挙では,ハク大統領の墜死もあって圧勝し,同年中に首相に就任.首相としては,深刻な経済危機と国内治安の悪化に苦しめられ,'90年更迭.直後の総選挙にも敗れて野に下ったが,'93年の総選挙に勝利して政権を奪回した.'97年の失脚以後は国外に亡命している.

ブーメディエン Boumedienne, Hawari(アルジェリア 1925〜78) 政治家.軍人.チュニジアのジトナ大,アズハル大などを経て士官学校卒.東部ゲルマの貧しい家庭に生まれ,1954年民族解放戦線(FLN)に参加した.対フランス独立戦争中は主に西部軍管区で活躍し,'60年国民解放軍参謀長.'62年独立直後に起きた臨時共和国政府とFLNの抗争では,ベン・ベッラーとともに臨時政府を倒して国防相.更に'65年独裁色を強めるペン・ベッラーを無血クーデタで追放し,革命評議会議長.国内で独自の社会主義路線を進める一方,対外的には第三世界の大国として '70年代の非同盟運動を支え,'76年国民投票で大統領に就任した.

フランジーエ Faranjiya, Sulayman (レバノン 1910〜 )政治家.北部ザガルタ出身のマロン派キリスト教徒でトリポリのマロン派学校卒. 1960年郵政相として政界入りし,'68年内相.'69年経済相.'70年大統領に就任したが,72年以降PLOの拠点攻撃を口実にしたイスラエル軍の南部侵攻と国内各派の対立に苦しめられ,有効な打開策を打ち出せないまま'75年の第一次内戦を招いた.'76年任期満了に伴い辞任したものの,その後もマラタ軍団を率いてシリアと協力.ジュマイエル系ファランジスト党とマロン派内の主導権を争い続けたが,'90年シリアの協力を得て一応の勝利を収めた.

ブールギーバ Burghiba, Habib 'Ali (チュニジア 1903〜2000.4.6)政治家.弁護士.モナスティル出身で,サティーキー大,ソルボンヌ大卒.青年期から独立運動に参加し,1934年には運動の中核となる新ドゥストゥール党を創設した.以後フランス当局による投獄・流刑と釈放を繰り返しながら独立を要求し続け, '54年遂に帰国.'56年の独立に際しては首相兼外相兼国防相.'57年王政を廃止して初代大統領.実質的な独裁体制をしき,国内で穏健な社会主義を進めるとともに,アラブ世界の盟主の座を目指してナセルと対決した.'87年悪化する経済情勢を背景に高揚するイスラーム運動に苦しめられ,腹心のペン・アリー首相に解任された.

ベギン Begin, Menachem (イスラエル 1913〜92)
政治家.ワルシャワ大卒.ポーランドに生まれ,1936年以来シオニストとして活動した.'40年ソ連軍に逮捕されてシベリアで強制労働.'42年の釈放後はパレスティナに移住して,反英独立運動の秘密軍事組競「イルグン」の指導者.国際的なテロリストとして勇名をはせたが,'48年イスラエル独立とともにへルート党を結成して総裁となり,以後長く野党指導者として活躍した.'70年無任所相.'73年右翼連合リクードを結成して党首.'77年首相(〜'83年).同年エジプト・サダト大統領のエルサレム訪問を実現し,'78年ノーベル平和賞受賞.'79年には両国間の平和条約に調印した.

へダーヤト Hedayat, Sadeq (イラン 1903〜51)
作家.テヘランの名家に生まれたが通常の教育課程にとらわれることなく独学で文学の道に進んだ.1926-30年フランスに留学.'28年ベルリン発行のイランシャハル誌に処女作『菜食主義の利点』を発表.以後,カフカ,ネルヴァル,アラン・ポーらの影響を受けながら短編小説を中心に執筆を続け,現代ペルシア文学の発展に寄与した.口語をよく用い,人間の悲惨と死の影を描き続けたが,'51年苦悩のうちにパリでガス自殺.代表作に『盲目のフクロウ』『野良犬』などがある.

ベフバハーニーBehbahani, Sayyid `Abd Allah (イラン 1844?〜1910)
イラン立憲革命を指導したシーア派法学者.ロシアの進出に対する市民の反感が高まった1905年,テヘランの法学者代表としてムハッラム月のフセイン殉教祭における抗議行動を組織し,ロシアの手先と化したカージャール朝政府に対峙して声望を高めた.以後タバータバーイーとともにテヘランのバーザール商人・イスラーム法学者を糾合し,反専制・立憲運動を推進.'06年の第一議会ではユダヤ教徒の代表権を委任される形で議員となり,反革命後の第二議会('09〜'11年)でも穏健派を指導した. '10年反対派に暗殺された.

ヘラーウィー Hirawi, Ilyas (レバノン 1925〜 )
政治家.マロン派キリスト教徒でラ・サジェス大卒.べカー高原の富裕な地主の子に生まれ,1972年国会議員に初当選した.以後親シリアのフランジーエ系マラタ軍団の一員として活動し,'80年サルキース政権下で公共事業・運輸相(〜'82年).ジュマイエル政権下では,反ファランジスト党の立場から救国戦線に参加し,同政権崩壊後の '89年,ターイフ合意に基づいて新たに選出されながら暗殺されたムアイヤド大統領の後を襲って大統領.'90年湾岸危機の中でイラクの支援を失ったアオン将軍を追放し レバノン内戦に一応の終止符を打った.

ベラーヤチー Velayati, 'Ali Akbar (イラン 1945〜 )
政治家.医師.テヘラン大卒.少年期から反体制運動に加わり,1961年にはバーザルガーン,ターレガーニーらによる「イラン解放運動」の創設に参加した.'63年以降はテへラン大医学部にイスラーム協会を設立して活動.'79年以後の革命状況の中では,ホメイニーを支持して地下活動を展開し,革命後の'81年36歳の若さで外相となった.以来現在に至るまで対イラク戦争,湾岸戦争など難しい立場に置かれ続けるイラン外交を担い,精力的な活動を続けている.また医師兼外相による世界会議の提唱者でもある.

ヘルツォグ Herzog, Chaim (イスラエル 1918〜 )
政治家.法律家.軍人.北アイルランドのベルファストに生まれ,1935年パレスティナに移住した.エルサレムで法律学校を卒業した後,ケンブリッジ大卒.第二次大戦にはイギリス軍将校として従軍したが,戦後はパレスティナに戻り,'48年のイスラエル建国以来長く軍の首脳として活躍した.'75年国連大使に任じられ(〜'78年),'81年には労働党国会議員.'83年大統領に選出された(〜'93年).

べレスPeres, Simon (イスラエル 1923〜 )
政治家.軍人.ポーランド生まれで,1934年パレスティナに移住した.イスラエル独立前夜の'47年,ハガナ(義勇軍)に参加.'48年の第一次中東戦争では海軍を指揮し,独立後も一貫して国防畑を歩んだ.この間ハーバード大に学び,'59年ペン・グリオンのマパイ党所属国会議員兼国防次官.'65年ラフィ党の結成に参加して同党書記長.'68年の労働党結成以降は党内有数の実力者となり,'69年統治地域経済開発・難民定住相.'70年運輸通産相.'74年情報相.同年国防相.'77年労働党党首となり, '84年リクードとの連立内閣首相.'86年首相代行兼外相.'88年首相代行兼蔵相. '90年連立内閣崩壊後の総選挙に敗れて野に下ったが,'92年ラビン政権の成立とともに外相に就任.'93年にはPLOとの相互承認に踏み切り,暫定自治原則に関する合意を実現した.'95年ラビン首相の暗殺にともなって首相に返り咲いたが,'96年の首相公選でネタニヤフに敗れ,その後は労働党党首の座もバラクに明け渡して,事実上政界から引退した.

ベン・アリー Ben `Ali, Zayn al-`Abidin (チュニジア 1936〜 )
政治家.電気技師として軍に入ってブールギーバに抜擢され,1958年国内治安軍司令官(〜'74年).'77年内務省治安局長,陸軍大将.'86年内相.'87年首相.首相在任中は,ガンヌーシーらイスラーム復興運動の高揚に苦しみ,局面打開のため同年中に病身のブールギーバ大統領を無血クーデタで解任して,自ら第二代大統領となった.大統領就任後しばらくはイスラーム復興運動に対する懐柔策をとっていたが,最近は復興運動勢力の伸張に強い警戒感を抱き抑圧にかかっているといわれる.

ベン・クリオン Ben-Gurion, David (イスラエル 1886〜1973)
政治家.ポーランド生まれで,イスタンブル大卒.1906年パレスティナに移住して以来,社会主義シオニストとして活躍し,'14年には第一次大戦勃発のためオスマン朝政府から国外退去を命じられた.'18年義男兵として帰還.戦後の'20年,後にイスラエル経済の根幹となるヒスタドルート(労働総同盟)を創設して事務総長.更に'30年マパイ党を結成して名実ともにシオニストの最高指導者となり,'35年以降はユダヤ機関及びシオニスト幹部会議長に就任した.独立前夜の混乱状況の中でも,よくユダヤ組織を掌握してアメリカの支持を得る一方,ハガナ(義勇軍)の創設に尽力し, '48年のイスラエル建国とともに首相兼国防相(〜'53年).'55年国防相に復帰し,同年再び首相(〜'63年).'65年マバイ党を離れてラフィ党を結成したが,'67年の労働党結成には参加せず,'70年政界を退いた.建国以来度々滅亡の危機に見舞われたイスラエルを対アラブ強硬論に立って指導し,「建国の父」と讃えられる.

ベン・ベッラー Ben Bella, Ahmad (アルジェリア 1912?〜 )
政治家.オラン県マールニアの商家に生まれ,1946年マールニア市議会議員となって以来,独立闘争に積極的に関与した.'50年には逮捕・投獄されたが,'52年脱獄.エジプトに亡命して,'54年の民族解放戦線(FLN)結成を準備する.'56年以降はフランス軍の監禁下にありながら,'58年臨時政府副首相.'62年アルジェリア独立により釈放され,間もなくベン・ヘッダ臨時政府と対立したが,ブーメディエンの協力を得てこれを倒し,同年初代首相となった.'63年には初代大統領に就任し,以後ナセル,チトーらと並ぶ非同盟運動の有力な指導者となったが,国内で独裁色を強めたことから,'65年アジア・アフリカ会議のアルジェ開催前夜に盟友ブーメディエンのクーデタにあって失脚.'80年以来フランスに亡命.'90年帰国.

ホメイニー Khomeyni, Ruh Allah (イラン 1900〜89)
イラン・イスラーム革命を指導したシーア派法学者.コム神学校卒.中西部のホメインでシーア派法学の最高峰であるアーヤトッラーの家に生まれたが,生後間もなく父は盗賊により虐殺された.1941年以来反体制運動を指導し,'63年の「白色革命」に際しては各地で反シャー暴動を組織.暴動鎖圧後逮捕・国外追放されたものの,以後も長くイラクのシーア派聖地ナジャフにあって反シャーの運動を継続した.'75年のアルジェ協定後改善されたイラン・イラク関係のため,'78年革命状況が深まる中でパリに亡命.以後は当地から反シャー運動各派の統一指導者として王政打倒を唱え,'79年シャーの国外退去にともない帰国.同年末イスラーム共和国最高指導者.革命後は独自の「法学者の統治」論を実行に移して革命のイスラーム化を進めたが,'80年革命の輸出を恐れるイラク・バアス党政権の侵攻を受け,以後泥沼化するイラン・イラク戦争(〜'88年)を戦った.'89年にはイギリスの作家サルマン・ラシュディーの小説『悪魔の詩』がスンナ派諸国で発禁となったのを受けて,イスラーム教徒の著者を背教者と断定.イスラーム法に従って死刑判決を下し,欧米諸国に衝撃を与えた.

ホーラーニー Hawrani, Akram (シリア 1914〜 )
政治家.イスラーム教徒.ハマーの地主の子に生まれ,ベイルートの聖ジョセフ大,ダマスクス大卒.1941年のイラクにおける対イギリス反乱に加わるなど,青年期から民族主義者として活動した.'43年独立とともに国会議員.'49〜'50年シーシャクリー軍事政権の国防相,農相.'50年選挙地盤のハマーを中心とするアラブ社会党を結成し,'53年にはアラブ・バアス党と合併し新党総裁となった.以後エジプトとの国家統合を推進し,'58年アラブ連合副大統領.'59年ナセルと対立して辞任.'61年にはバアス党をも離れてレバノンに亡命した.

マウドゥーディー Mawdudi, Abu al-A`la al- (パキスタン 1903〜80)
イスラーム復興運動指導者.現インド領のアウランガバードに生まれ,イギリスのインド支配をきらう父の方針で公立学校には通わず,家庭教育を受けて育った.1919年新聞記者となり,'26年処女作『イスラームの聖戦』を発表.'32年以降は月刊誌『コーランのタルジュマーン』を創刊して,イクバールらとも親交を深めた.'41年ラホールでイスラーム主義組職ジャマーアテ・イスラーミーを創設.国民会議派のイスラーム教徒吸収に反対すると同時に,ムスリム連盟のパキスタン構想をも「イスラーム国家」とは無縁のものとして厳しく非難した.'47年のパキスタン分離独立後は一貫して「イスラーム国家」の建設を説き,事実上の政教分離を目指す体制と厳しく対立.'53年ラホール暴動で死刑判決を受けるなど苛酷な弾圧を受けたが,'77年に成立したハク政権では自己の主張をある程度実現した.神のみが主権者であるとの立場から西欧起源の政治思想をことごとく否定し,独自のイスラーム国家論を提起してイスラーム世界全域に強烈な影響を与えた思想家である.

マフディー Mahdi, Sadiq al- (スーダン 1936〜 )
政治家.マフディー運動を指揮したムハンマド・アフマドの曽孫で,オクスフォード大卒.1961年マフディー家の支持者を基盤とするウンマ党の党首となり,'66年首相に就任した(〜'67年).'69年クーデタにより逮捕され,'70年亡命.以後帰国・逮捕・亡命を繰り返したが,'77年ヌメイリーと和解して帰国.'78年再び野に下り, '83年にはイスラーム法施行に抗議して投獄(〜'84年).'85年のヌメイリー政権崩壊を受けて首相となったが('86年),南部キリスト教徒との内戦を収拾できず,完全な経済破綻をきたして,'89年ムスリム同胞団系軍人のクーデタにより解任された.現在は国外にあって,反政府運動を展開している.

マフフーズ Mahfuz, Najib (エジプト 1911〜 )
作家.カイロ出身.カイロ大卒.カイロ大事務員を務めていた1938年短編集『狂気の 囁き』を発表して作家生活に入り,'39年以降は様々な職業を転々としながら,創作 活動を継続した.'66年映画管理委員会委員長.'68年文化省顧問.'88年アラブ文学 者として初めてノーベル文学賞を受賞.作品は小説だけでも40篇にのぼるが,代表作 として『バイナ・アルカスライン』など三部作のほか,イスラームを冒涜したとして発 禁になっている『わが町内の子供たち』などがある.

マルコム・ハーン Malkom Khan, Mirza (イラン 1833〜1908)
啓蒙思想家.イスファハーン出身のアルメニア系シーア派イスラーム教徒で,主として フランスで教育を受けた.イラン国内でフリーメーソン組織を結成したため,1861年 国外追放.'73年追放解除とともにイギリス大使.この間帝国主義の手先となり,イ ギリスの投機的資本家にイラン国内の利権を斡旋して私腹を肥やしたことから'89年 解任されたが,解任後はロンドンで『カーヌーン』誌を発行し専制批判を行った.同誌は法の支配を要求して,イラン知識人の政治的覚醒を著しく促したといわれる.

*ムスタファー・カーミルMustafa Kamil (1874〜1908)
民族運動の指導者.カイロ生れ.フランスのトゥールーズ法学校卒.学生時代から民 族運動に身を投じ,フランス留学中も欧州各国に反英世論を喚起すべく奔走した. 1896年に帰国して以後は反英民族運動のカリスマ的指導者となり,1906年のデンシャ ワーイー事件を機に大衆政党ワタン党(国民党)を創設(1907).翌年病に斃れ,民族 運動の伝説的英雄となった.

**ムハンマド・アブドゥフ Muhammad Abduh 1849-1905
思想家.ナイル・デルタのファッラーヒーン(農民)の家に生まれ,カイロにあるイス ラームの最高学府アズハル在学中からアフガーニーに師事.立憲制・議会制を求める 政治活動に加わったが,1879年の政変に連座して故郷に追放されてからは,欧米法導 入の結果権威の失墜したイスラーム法の復興に努めた.反面熱烈なエジプト民族主義 者でもあり,<トルコTurk>(オスマン帝国)によるエジプト支配を嫌悪したほか,ア ラービ-革命に対するイギリス軍の介入を厳しく批判.ために革命失敗後は国外追放 ともなった.'84年にはパリでアフガ-ニーとともに雑誌≪固き絆≫を創刊し.師のパン= イスラーム主義宣伝に協力.'88年,イギリス支配下の祖国に戻ってからは,イスラー ムと西欧近代思想の本来矛盾しないことを主張して,新たな時代にも通用するイスラ ームの普遍的価値を説く一方,当時広く見られた近代科学への疑念を払拭した.'99年 以降エジプト最高ムフテイー(イスラーム法判断の権威)を務めたこと,また弟子ラシ ード・リダーが創刊した『マナール』誌の影響力により,彼の改革思想はイスラーム 世界全域に広まり,20世紀におけるイスラームの思想的展開に多大な影響を与えてい く.なお彼は早期に師であるアフガーニーの政治的急進主義を離れ,ムスリムの内面 改革に基づく<ウンマ>復興の道を選んだため,一般にイスラームと政治との分離を 主張した思想家と誤解され,各国の現政権からは肯定的に評価される一方,サイイド ・クトゥブらによる激しい非難を浴びてきた.しかし,彼の主張した内面改革とは, イスラーム法の施行を前提に,大衆の行動を監督・教育することによってのみ実現さ れるものであり,むしろ現在各地のイスラーム復興運動が要求している<イスラーム 法の実施>概念を先取りした思想家といえる.ただ彼にあっては,キリスト教徒との 平和共存が重視されるなど,他者に対する攻撃性は総じてぅすい.

参考 Adams, C. C. ≪Islam and Modernism in Egypt≫ Oxford Univ. Press, 1933.| Gibb, H. A. R. ≪Modern Trends in Islam≫ Univ. of Chicago Press, 1947. | 飯塚正人<オラービー運動期のムハンマド・アブドゥフ−シャリーア施行を 巡る戦い>(≪オリエント≫33-2, 1991).

**ムハンマド・アリー Muhammad `Ali (1769〜1849)(在位1805〜48)
ムハンマド・アリー朝(1805〜1953)の初代君主(形式上はオスマン朝のエジプト総 督).アルバニア人で,マケドニアの港町カヴァラに生まれ,ナポレオン軍と戦う オスマン朝アルバニア部隊の一員としてエジプトにわたった.フランス軍撤退後の混 乱のなか,アルバニア部隊のトップにおどりでたムハンマド・アリーは,イスタンブ ルから派遣された総督や土着のマムルーク指導者などライバルをつぎつぎに蹴落と し,カイロ住民の支持を得て総督に任命される.しかし総督就任後はマムルーク旧支 配層470人を欺いて大虐殺する一方,ウラマーや大商人など都市有力者の財源を断っ て没落を促し,専制君主への道を歩んだ.権力基盤を固めたムハンマド・アリーは, エジプト自立のため,富国強兵・殖産興業政策に乗り出す.アラビア半島のワッハー ブ派掃討作戦やスーダン遠征,ギリシア独立戦争などを通じて実戦経験を積んたエジ プト軍は,1831年ついにシリアに進出しオスマン朝軍に大勝.ムハンマド・アリー は東アラブ世界の大半を手に入れた.'39年にはふたたびオスマン朝軍を撃破した が,東地中海の軍事バランス崩壊を恐れた列強の圧力をうけ,エジプト,スーダン以 外の地からは撤退.'41年,エジプト総督位の世襲を認められたものの,精神病に冒さ れ,'47年事実上引退した.一代の英雄であったが,戦争のために動員・搾取された国 民にとっては非情な専制君主にほかならなかったといえる.

**ムハンマド・ブン・アブドゥル・ワッハーブ
Muhammad b. `Abd al-Wahhab(1703頃〜92) サウジアラビアの建国原理「ワッハーブ派」イスラームの開祖.アラビア半島中部のウ ヤイナ・オアシスで,スンナ派四大法学派のひとつ,ハンバル派法学者の家系に生ま れ,青年期には当時の学者の習慣にならって,メッカ巡礼を兼ねた遊学の旅にでた. 遊学中はメッカ,メディナの両聖都でハディース(預言者ムハンマドの言行録)学を学 ぶなど,本来あるべきイスラームの姿を模索する.のちに長期滞在したバスラで,スー フィー教団やシーア諸派による聖者崇拝の実態を目撃したらしく,以後は,聖者崇拝 ・預言者崇拝を本来のイスラームからの「逸脱」「多神教」として非難する厳格な原始 イスラーム復古運動を展開した.1740年以降,故郷ウヤイナで唱道した聖木・聖墓破壊 運動は,強大なシーア派勢力の介入にあって挫折したが,'44年にはリヤード近くの小 村ダルイーヤを支配するサウード家の当主ムハンマドと盟約を結ぶことに成功.自己 の主張を実現するための武力を手に入れた.ここに成立したイスラーム復古主義国家 は,徹底した偶像破壊とイスラーム法の容赦ない適用を掲げ,武力闘争によって中部ア ラビア全体に支配を広げていく.ムハンマド・ブン・アブドゥル・ワッハーブ自身 は,'73年にリヤードを征服すると公的生活から引退し,モスクでの説教と執筆活動に 余生をあてた.なお,偶像崇拝を徹底して拒否した思想家にふさわしく,肖像画など はいっさいのこっていない.

*ムバラク,ムハンマド・ホスニー Muhammad Husni Mubarak (1928〜 )
軍人,政治家.正しくはムバーラク.ナイル・デルタの生れ.カイロの空軍士官学校 卒.ソ連留学後の1967年,空軍士官学校校長に任命され,同年の第3次中東戦争で壊 滅的打撃を受けた空軍の再建に取り組んだ.'73年再建なった空軍を率いて第4次中東 戦争に臨み,イスラエル軍を撃破.翌年空軍元帥,'75年副大統領に指名され,'81年サー ダート大統領暗殺を受けてエジプト・アラブ共和国第2代(共和制第4代)大統領とな る.以後はサダト路線を踏襲して経済自由化を進める一方,アメリカとと協調して中 東和平プロセスを推進.国内では武装闘争派イスラーム運動を厳しく弾圧し,治安維 持の実をあげている.

モンタゼリー Montazeri, Hoseyn `Ali (イラン 1923〜 )
シーア派法学者.イスファハーン近郊のナジャファバードに生まれ,コム神学校でホ メイニーに師事した.'63年のホメイニーによる反シャー暴動に参加して以来反体制 運動の指導者となり,以後数度に渡って逮捕.'74〜'78年入獄.'79年のイスラーム革 命後は憲法制定専門家会議議長などを務め,'80年コムに移って学究生活に入った. '86年ホメイニーの後継者に選出されたが,批判と言論の自由,イスラーム法の厳格な 解釈などを説いてホメイニーと対立.バーザルガーンやバニー・サドルらとの親交を 非難されて,'89年解任された.

ヤマニー Yamani, Ahmad Zaki al- (サウディアラビア 1930〜 )
政治家.法律家.メッカ出身.カイロ大卒.1956年留学先のアメリカから帰国して弁 護士となり,'58年閣僚会議法律顧問に任命された.'60年当時のファイサル皇太子に 抜擢されて法務担当国務相.'62年石油・鉱物資源相.以来20年以上に渡ってサウデ ィの石油政策を運営し,'68年新たに創設されたアラブ石油輸出国機構(OAPEC)事務局 長(〜'69年).'73年の第四次中東戦争勃発時には,ファイサル国王の意を受けて石 油戦略を発動した.'86年原油の過剰生産による市場価格下落の責任を問われて解 任.'90年世界エネルギー研究センターを創立し理事長となった.

ラシード Rashid bn Sayyid al-Maktum (アラブ首長国連邦 1914〜 )
アラブ首長国連邦副大統領.ドバイ首長.首長家に生まれ,個人教育を受けて育っ た.1958年父の後を継いで首長.'68年イギリスがスエズ以東からの撤退を表明した 際には,ザーイド・アブダビ首長とともに湾岸首長国の連邦化を画策.'71年連邦独 立を実現して副大統領に就任した.緩やかな連邦体制の支持者で,豊富な石油収入を 背景に連邦内におけるドバイの発言力強化に務めている.

ラシード・リダーRashid Rida, Muhammad (シリア 1865〜1935)
イスラーム復興思想家.トリポリ近郊の小村に生まれ,近代科学とイスラーム諸学の統合 を目指してトリポリに設立されたフサイン・ジスルの学校に学んだ.青年期にはスー フィー教団に参加したこともあったが,やがてイスラーム復興思想に開眼.1897年カイ ロでムハンマド・アブドゥフの弟子となり,同年中に『マナール』誌を発行した.以 後は同誌を通じて,時代に適応するイスラーム法解釈と近代科学の導入,法学者の統治 する「イスラーム国家」の建設などを説き,後のイスラーム復興運動に強固な思想的基盤 を提供した.

ラビン Rabin, Yitzhak (イスラエル1922〜95 )
政治家.軍人.エルサレム生まれ.1943年頃から独立運動に加わり,'48年の第一次 中東戦争では義勇軍(ハガナ)エルサレム旅団を指揮した.'49年アラブ諸国との休 戦交渉におけるイスラエル軍代表.'52年イギリス陸軍大に留学し,'54年帰国して国 防軍訓練部長.以後も軍籍を歩み,'64年参謀総長に昇進.'67年の第三次中東戦争で は祖国を大勝利に導き,'68年駐米大使に任命された.'73年労働党国会議員,'74年 同党党首.同年首相(〜'77年).'77年野に下り,労働党党首の座もペレスに譲った が,'84〜90年国防相.'92年党首に返り咲き,同年の総選挙に勝利して首相となっ た.'93年PLOを承認.中東和平への道筋をつけたが,和平を神への裏切りと考える宗教的シオニストの反発にあい,'95年暗殺された.

ラフサンジャーニー Rafsanjani, Mohammad Hashimi, (イラン 1934〜 )
政治家.シーア派法学者.コム神学校でホメイニーに師事して以来反体制運動に身を 投じ,1964年以降数回に渡って逮捕投獄された.'79年革命状況の中でイスラーム共和 党の設立に参加し,革命後内相.'80年国会議長(〜'89年).国会議長としてはイス ラーム革命体制の設立に務め,モジャーヘディーン・ハルクなど反体制勢力を弾圧し た.'88年軍の全権を掌握してイラン・イラク戦争を終結させたが,モンタゼリーに 敗北的講和と非難されて対立.'89年のモンタゼリー失脚,ホメイニー死去後,第四 代大統領.'97年任期切れとともに事実上政界から引退したが,2000年の総選挙で国会議員に当選した.

ラフマーン Rahman, Fazlur (パキスタン 1919〜88)
イスラーム改革思想家.イスラーム学者.パンジャーブ大修士号取得後イギリスに留学し, 1951年オクスフォード大で博士号を取得した.ダーラム大,カナダ・マックギル大イス ラーム研究所を経て,'62年パキスタン国立イスラーム研究所長.同時にイスラーム・イデ オロギー諮問会議の委員に任命され,アイユーブ・カーン政権のイスラーム政策を一手に引 き受けて,現代にふさわしいイスラームの実現を目指した.'67年近代科学の方法を導 入した研究書『イスラーム』を発表.同書の中で伝統的なイスラーム解釈に疑問を呈した ことから,宗教指導者の厳しい非難を受け,'68年全国に広がった大衆デモの中で辞任した.晩年はシカゴ大教授となって,イスラームと近代科学との真の統合に務める一 方,『コーラン』の精神を科学的方法で抽出すべく解釈学の方法を導入するなど独自 の研究を推進.イスラーム学全般に渡って多大な業績を残しただけでなく,ともすれば 単なる世俗主義に堕しがちな「イスラーム近代主義」を方法論的に確立しようとした第 一級の思想家である.

*レセプス,フェルディナン=マリ・ヴィコント・ド Ferdinand-Marie Vicomte de Lesseps (1805〜94)
フランスの外交官.スエズ運河開削者.ヴェルサイユ生れ.パリのアンリ4世大学 卒.1832年のアレキサンドリア赴任をきっかけにスエズ運河開削の夢にとりつかれ, 54年旧知のサイードがムハンマド・アリー朝の第4代総督に就任するとエジプトを再 訪した.イギリスの妨害にあいながらもサイードの認可を受け,10年にわたる大工事 の末に運河を完成(1869).晩年はパナマ運河開削に挑んだが,出資金をめぐるスキャ ンダルに巻き込まれ,不遇のうちにラ・シュネーで没した.