ムスリム同胞団と新世代エリート
−エジプトのゆくえ−

イスラーム復興の2大潮流

 エジプトは元来、大衆によるイスラーム復興運動発祥の地であり、1967年の第3次中東戦争以降、各地で顕在化したイスラーム覚醒現象のなかにあっても、ムスリム同胞団およびそこから分枝したさまさまな地下組織の活動によって、これら運動の一つの中心と考えられてきた。加えて、「イスラーム集団」(ガマーァート・イスラーミーヤ)を自称する紅既による1992年来の派手な破壊活動は、いよいよこの地の復興主義に対する関心を高め、今や、世界がエジプトの動向に注目しているといっても過言ではない。
 ところで、「イスラーム集団」ないし過激な武装闘争路線をとる急進派の活動主体については、内外の強い関心を反映してか、これまでにもさまざまな調査・研究がなされてきた。その結果、もっとも活発な活動主体は10代後半から20代前半の理科系大卒および大学生(日本でいう「停差値エリ一ト」)であり、階層的には地方の中流下層階級出身という、ある意味では驚くべき事実が判明したのである。これによって、急進派を時代錯誤の狂信的保守主義者(「原理主義者」)と考えてきた「常識」は音を立てて崩れ去り、復興運動は、「門戸開放」や「都市化」の恩恵にとり残され、社会と自己の将来に絶望したエリ一ト青年層が支える反体制運軌として、一般に理解されることになった。
 右の解釈はこと急進派に楓するかぎり、おそらくは議論の余地なく正しい。しかしながら、エジプトにおけるイスラーム復興を問題にする場合、これら急進派の母体ともいうべき存在であり、なおかつ勢力的にはいまだ彼らを確実に凌駕するムスリム同胞団を無視して議論を進めることは不適切であろう。イスラーム復興に「原理主義=テロリズム」のレッテルを貼って満足してしまうのならともかく、なぜこうした運動が興隆したのか、どうしてこうまで持続的な力を維持できるのか、といった問題を、真剣かつ包括的に検討しようとする場合、ムスリム同胞団の活動を支える社会経済基盛を探ることは彼らの思想を探る努力と同じく不可欠なのである。エジプト人の考える「イスラーム復興」とは、第一義的にムスリム同胞団の活動を意味しており、急進派を支持する者はあくまでごく少数なのだから。
 本章は、現代エジプトにおいてイスラーム復興の2大潮流をなすイスラーム急進派とムスリム同胞団、それぞれの社会経済基舵を明らかにすることにより、この運動のもつ多様性と奥の深さを追究しようとする試みである。それはまた、同胞団のスローガン「イスラームこそ解決」の前提となっている、解決すべき問題の所在を明らかにする試らといえるかもしれない。イスラーム復興を支持する人々は、イスラーム法が、神の命令であると同時に、現に存在するさまざまな問題を解決してくれるとも信じている。彼らは狂信的な宗教者ではなく、みずからが直面する問題に積極的にとりくもうとするふつうの人々なのである。
 以下、まず1970年代以降のエジプトにおけるイスラーム復興の興隆過程を概観し、続いて、この時期のエジプトが直面せざるをえなかった社会経済危総の諸相と、イスラーム急進派が台頭するにいたった土壌について述べる。さらに、ムスリム同胞団が享受した「門戸開放」政策の恩恵と、職能組合における労力拡大闘争のもつ政治的な意味を探りたい。以上の分析を通じて、一方では失業に苦しみ、他方、職を得た場合には政治へのいっそうの参加を求める、新世代エリ一トによって支えられた復興運動の実態把握をめざす。
イスラーム運動の「解禁」

 1967年の第3次中東戦争において、アラブ諸国連合は壊滅的な大敗を喫し、イスラーム第3の聖地エルサレムまでも失った。これによって、長く支配イデオロギーの座にあったアラブ民族主義の威光は池に落ち、かろうじてエジプト国内の社会矛盾を覆い隠してきたナセルのカリスマも効力を失う。そしてムスリム大衆のあいだには、ユダヤ教「宗教国家」イスラエルに敗れたのは、自分たちがイスラームを捨てたがゆえの天罰、との思いが満ち満ち、イスラームを生活のなかにふたたび生かそうとする動きが一挙に表面化したのであった。
 このような状況のもと、1970年に急死したナセルのあとを受けて大統領となったサダトは、1954年以来非合法化され激しい弾圧を受けてきたイスラーム復興組織、ムスリム同胞団幹部の大量釈放に踏みきる。当時なお政権内部に強大な勢力を保持していた左派に対抗し、同時に、没落したアラブ民族主義にかわる支配イデオロギーとしてイスラームを利用するためである。さらにサダトは、各地の大学に「イスラーム集団」と呼ばれる学生運動組織を誕生させ、ここでも左翼勢力の封じ込めを図った。かくして、イスラーム復興の冬の時代は終わりを告げたのである。
 ここに復活をみたムスリム同胞団は、ナセルによる弾圧前、100万を超える団員数を誇ったころとは比べるべくもなく小規模弱体な組織であったが、事実上政府公認の強みを生かして、徐々に勢力を拡大していく。とりわけ彼らの成長にとって追い風となったのは、その真意がどこにあったにせよ、サダトが機会あるごとにイスラームに言及したことであった。1973年の第4次中東戦争の際、「聖戦」(ジハ一ド)という語・が用いられたことに始まり、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌などマスコミの語彙が少しずつ「イスラーム化」されるにおよんで、同胞団の主張は聞き手にとって違和感の薄いものになっていく。一方、サダトの思惑とは裏腹に、同胞団による「イスラーム国家」建設キャンペーンは、政権の非イスラーム性を示唆することにもなった。
 さて、1979年にキャンプ・デーヴイッド合意が成立し、サダトが対イスラエル単独和平路線を歩みはじめると、同胞団と政権との関係は急速に冷え込む。「イスラームの地」の侵略者、イスラエルとの和平は、同胞団にとっては神に対する責任放棄、敵前逃亡以外の何ものでもなかったからである。両者の蜜月はやがて破綻し、独裁色を強めたサダトは1981年9月、同胞団幹部を含む反対派の一斉検挙にのりだした。しかし、この時点ではすでに、同胞団指導部の合法路綿を批判しサダトを「背教者」として処刑すべしと考える、新世代の武装党争が離陸しようとしていたのである。しかも皮肉なことに、これら青年活動家のかなりの部分は、サダト自身が育てた学生組織「イスラーム集団」を母体として成長してきていた。
 1981年10月、サダトは上エジプトの「イスラーム集団」と連携したカイロのジハード団員によって暗殺される。そしてこれ以後、エジプトにおけるイスラーム復興運動は、人民議会(国会)や職能組合など法の枠内で「イスラーム国安」建設をめざす多致派=ムスリム同胞団と、シャリーァ(イスラーム法)を通用しない為政者を「背教者」として断罪し、実力をもってでも排除しようとする急進派地下組織とに大きく分かれ、ときに両者が対立しつつ、今日にいたっているのである。
 1990年代前半、湾岸戦争後の好景気に沸くエジプトに深刻な治安問題をつきつけたのは、いうまでもなく後者による武装党争であった。アフガニスタン戦争で実戦経険を積んだ戦士たちの帰還は、一部「イスラーム集団」など急進派の実力を一気に高め、政府との武力対決を新たな段階へと導いたのである。さらに、1992年以降、政府の「テロ対策立法」に抗して「イスラーム集団」が外国人観光客襲撃戦術にでたことは、政府との対立をいよいよ先鋭なものにした。緊迫した世相はやがて、サダト暗殺後、つかず離れずの微妙な距離を保ってきたムバラク後継政権とムスリム同胞団の関係にまで飛び火する。この結果、1995年には、29年ぶりに同胞団員が軍事法廷で裁かれるという事態すら生じることになったのである。
何が急進派を台頭させたのか

 1970年のサダト政権の発足以来今日にいたるまで、エジプトは厳しい社会経済危機のただなかにある。その原因は何よりも、1960年代以降間断なく続いた人口爆発にあるといえよう。しかし、危機をより深刻なものにした要因の一つは明らかに、湾岸産地国への出稼ぎとサダトの導入した「門戸解放」政策の結果生起した、巨大な社会変動であった。
 1973年の第4次中東戦争において産油国が発動した石油禁輸措置は、原油価格を著しく高騰させ(弟1次石油ショック)、世界経済に大きな打撃を与えたが、このことはまた産油国の側からみれば、原油収入の増大による時ならぬ開発ブ一ムの到来を意味した。しかし、そこでは開発に必要な労働力が決定的に不足しており、これを補うため、エジプトなどから大量の出稼ぎ労働者が迎え入れられたのである。
 本国よりもはるかに高い貸金にひかれ、人々は産油国に向かう。同じころ、サダトはいわゆる「門戸開放」政策に踏みきった。経済を自由化し、国内産業に外資導入を図る試みである。順風満帆、エジプトは輝かしい経済発展に向かってつき進んでいるかにみえた。しかし、出稼ぎ労働者の送金を通じて環流されたオイル・マネーと「門戸開放」があいまって生まれたものは、社会全体からみれば、貧富の差の著しい拡大でしかなかったのである。
 「門戸開放」政策の恩恵を求めて人々は大都市圏に流入する。また、農村から産油国に出稼ぎに行った人々も、多くは帰国後故郷に戻らず、大都市に定着した。しかるに、このようにして都市に流入した人々に対して、サダト政権はいかなるサ一ビスも提供することができなかったのである。住宅難と就職難にさらされた人々は、大都市周辺にスラムを形成し、貧民化する。追いうちをかけるように、高学歴青年層の就職難が顕在化した。人口の爆発的増加は、産油国への出稼ぎ労働では解消しきれないほど深刻な失業問題をエジプトにつきつけたのである。「門戸開放」に裏切られた不満、一部特権階層に富が集中することへの不満、将来にまったく希望をもてない青年層の不満、これらすべてを吸収して、イスラーム急進派が台頭した。
理科系エリートの苦悩

 1970年代後半から注目されるようになったエジプトのイスラーム復興組織のうち、急進派と呼ばれるものの多くは、サダトによる「門戸開放」の進展と時を同じくして、かつてのムスリム同胞団から分離独立するかたちで生まれている。そして、これらの運動はほぼ例外なく、1966年にナセルによって処刑された同胞団の思想家サイイド・クトゥブに思想的起源をもっていた。
 1954年以降、ナセルの厳しい弾圧に直面した同胞団は、新たに登場したこの民族主義政権に対する評価・対応を迫られた。そのなかにあって、明確にナセルとの絶縁を宣言した思想家がクトゥブであった。すなわち彼は、エジプトを含め全世界の現状を「ジャーヒリーヤ」(イスラームが預言者ムハンマドによってもたらされる以前と同様の多神教状態)と呼び、現状を打開するため、政治権力の獲得を究極目標とする、イスラーム的「前衛」の誕生を要請したのである。「前衛」は「ジャーヒリーヤ」社会に宣戦布告して新たな杜会への精神的移住を行い、必要とあらぱ武器をとって反イスラーム的な支配者と戦わなければならない。急進派はこの思想をより直接的な反体制武装闘争の行動原理として鍛えなおし、70年代の社会経済危機を背景に著しく勢力を拡大したのであった。
 冒頭で触れた通り、急進派に身を投じたのは誰よりも、10代後半から20代前半の若者、それも理科系大卒者ないし大学生であった。彼らはまた、階層としては地方都市の中流下層階級に属する。この階層は、決して楽ではない暮らしのなかで、子弟の教育に社会的上昇の夢を託してきた。しかし、エジプトの工業化は思うように進まず、大学を出ても、いやなまじ大学を出てしまったがために、ほとんどの学生は就職することができない。実際、ナセル期以来エジプト最大の雇用機関となっている国営企業や官公庁も大卒者を吸収できず、「新卒」と称して過去5年に卒業した大卒者すべてを意味するほど、状況は過酷なのである。
 厳しい経済環境のなか、卒業してから数年ものあいだ何をして暮らせというのか。しかも彼らは、超難関の理系学部に合格した誇り高きエリートである。入学時に抱いた明るい希望を踏みにじられた怒り、離れて暮らす両親の期待に応えられない心苦しさ、それらがないまぜになった苛立ちがどれほどのものか、遠く離れた日本の読者にも想像することは可能であろう。サダト政確以来メデイアに日々流されるイスラーム宣伝により、改治・社会問題をイスラームの用語で考えることに慣らされてきた彼らが、みずからの不満を表明する手段としてイスラーム急進派を選んだのは、考えようによってはごく自然のなりゆきであった。
 一方、地域別にみると、急進派活動家の居任地は、開発からとり残された上エジプトの都市部(アシュート、ソハーグ、ミニヤなど)と、彫大な人口が上エジプトから流入したため、生活環境の悪化が著しいカイロ市周縁部(ザーウィヤ・ハムラー、ブイン・シャムス、ギーザ、インバーバなど)に集中している。経済の破綻は、この2つの地域にも深刻な失業問題を投げかけた。開発からとり残された不満、大都市移住時に抱いた期待を裏切られた不満もまた、急進派運動に表現の場を見いだしたのである。
ムスリム同胞団に期待されたもの

 1970年代以降エジプトを襲った社会経済危機は、イスラーム急進派の力を著しく増大させた。だが、この時期に勢力を拡大したのは急進派組織ばかりではない。「門戸開放」によって加速された社会経済危機のなかで、苦況に立つ人々を救おうとした運動には、革命を志向することなく、より生活に根ざした救援を行おうとするグループもあった。その代表格がムスリム同胞団である。
 大都市周辺に広がるスラムと、人口爆発の結果、教育機能を事実上失ってしまった(そして女子学生からみれぜ、痴漢の温床にほかならないスシ詰めの)大学を主たる舞台に、同胞団は多様なサ一ビスを提供してきた。彼らはそこここに相互扶助ネットワ一クを建設し、行孜・法律相談や医療にまで手をのばす。スラムに蔓延していたアルコール中毒や麻薬中毒患者の更生を助け、伝統的なイスラーム道徳に沿った生活スタイルを根付かせるべく努力を重ねる。こうした勢力は、移住にともなって旧来の相互扶助ネットワークを失った人々に、新たなアイデンテイテイを提供することにもなった。一方、大学でも、試験用テキスト・コピーの廉価販売に始まり、女子学生を痴漢から守るための男女別座席、男女別スクールバスの実現にいたるまで、生活者の要求に応じた同胞団系組織の多様な活動がみられた。急進化する以前の「イスラーム集団」は、何よりも学内におけるこうしたサービスによって支持を獲得し、学生自治会を支配したのである。
 同胞団が提供したこれらのサービスは、政府を合め、ほかのいかなる政治勢力もなしえなかったものであった。それゆえ国家の側も、イスラーム復興主義とはいえ、こうした活動を中心にすえる同胞団に対しては、活動の自由を与えつづけたのである。同胞団は、国家が提供できない社会福祉サービスを代行し、スラムの治安を安定させ、不満をもつ学生が急進派に加わる危険を抑制する存在と考えられた。1970年代以降のエジプトにおける同胞団と政権との蜜月関係は、こうした事情をぬきにしては語れない。
 しかし、ここに一つの大きな疑問がある。すなわち、国家が自国民に提供できないほど大規模なサービスを、なぜ同胞団が代行できるのか、それほど潤沢な資金を彼らがどこから得ているのかという疑問である。ここではこの問いに答えるかたちで、同胞団員の企業活動に注目し、彼らの経済基盤の一端を明らかにしてみたい。
経済開発の受益者?

 ムスリム同胞団は1928年、当時エジプトを支配していたイギリス軍が集中的に駐屯していた町、スエズ連河沿いのイスマイリヤで生まれた。カリスマ的指首者であったハサン・アル=バンナーの言葉を借りれば、同胞団誕生の契機は、第一次世界大敗後のエジプトを覆った世俗化および自由主義の傾向と、トルコのケマル・アタテュルクに代表されるイスラーム攻撃とに対する強烈な危機感であったという。
 この組織はその後本部をカイロに柊し、1940年代までにはエジプト最大の大衆動員力をもつ政治・社会団体へと発展した。しかし、運動の拡大にともない組織は分裂する。もともと同胞団の驚異的な成長のかげには、当時反体制運動の主役であった左翼をつぶそうとした支配層による強力な支援があり、同胞団指導部とエジプト政府との関係は、単純な対抗関係で割りきれるものではなかった。つまり同胞団は最初から、世界恐慌下の経済危機に苦しむ大衆の抵抗拠点である一方、支配層の道具でもあるという、いうなればニ重人格的組織体だったのである。
 このニ重人格的体質は、1970年代以降の同胞団にあってもときおり顔をだし、外部からの評価を著しく困難なものにしているが、ともあれ、このニ重人格の結果、40年代後半から同胞団組織は分裂をみた。まず、なりふり構わず「イスラーム国家」の樹立をめざした秘密機関が独走し、指導部そのものが二元化する。彼らが行った対要人テロに、秘密警察はバンナー暗殺(1949年)で応え、バンナー後をめぐって指導部は完全に分裂した。かくて、組織的統一を欠いたままナセルと対決せざるをえなかった同胞団は、1954年以降ナセル政権の厳しい弾圧にさらされ、壊滅的な打撃をこうむることになる。
 さて、弾圧の結果、同胞団指導者の一部はサウジアラビアなど半島湾岸諸国への亡命を余儀なくされたが、皮肉なことにこの亡命は、およそ20年後の「門戸開放」時に意外な効用をもたらすことになった。すなわち、これら亡命者は、サダト政権による弾圧緩和に応じて帰国するまでに、亡命先で相当の財をなすにいたっていたのである。1975年以来の「門戸開放」は、彼らにとって願ってもない投資チャンスとなった。一方、湾岸諸国からの投資もこれら亡命先から戻った同胞団員に集中する。
 かくして十分な資金を手に入れた同胞団員は、主として設備投資の少なくてすむ輸入業や生活消費財生産にのりだし、さらに富裕化した。1976年の復刊以降、同胞団活動の柱となった機関誌『ダ一ワ』に掲載された全広告のうち、40パ一セントを占めたシャリーフ・プラスチックや、日本車輸入のモダン・モータースなど3社は、このようにして財をなした旧同胞団員の支配する企業だったことが確認されているのである。
 1970年代における同胞団の復活には、このほかにも「門戸開放」政策の受益者としての側面がみられた。現代エジプト最大の富豪の1人として知られるウスマーン・アハマド・ウスマーンの存在がそれである。ウスマーンはイスマイリヤに生まれ、青年期をハサン・アル=バンナーの直弟子としてすごしたが、ナセル政権のもとでは国有化の波を逃れた企業家としてアスワン・ハイダム建設などに従事した。弾圧期にも亡命することなく故国にとどまった同胞団員たちは、彼の経営する企業に事実上かくまわれ、監視を受けるかわりに一定の安全を保証されたといわれる。
 すでに触れたように、1970年に発足したサダト政権は、強大な勢力を誇った左派に対抗するカウンター・バランスとして同胞団を位直づけ、その復活を黙認したが、ウスマーンこそ、この政策の進言者であったとする説もある。70年代を通じて、彼は同胞団活動を側面から支援するとともに、サダトと同胞団との対立を未然に防ぐ仲介者として活躍した。 むろん、これら数少ない情報からいきなり同胞団の性格を云々することは早計であろうし、本章の意図するところでもない。しかし、ここでのわれわれの問題関心に即していえは、同胞団が−少なくとも、その指導者たちが一必ずしも「門戸開放」にとり残され裏切られた人々ではなかったという事実は確認できたとみてよかろう。このことをふまえて次節では、同胞団が現在まで主要な闘争拠点としてきた職能組合について論じ、彼らが進めてきた闘争の改治的意味を探りたい。
職能組合におけるムスリム同胞団の闘争

 ムスリム同胞面は1980年代以降、職能組合を、人民議会(国会)とならぶ、あるいは人民議会以上の闘争の場に選び、みずからの勢力拡大を図ってきた。現在まで確認されているだけでも、彼らの勢力は法律家・医師・技師・ジャーナリストなどの各組合、およびカイロ大、アシュート大の教員組合にまでおよんでいるのである。通常の選挙干渉では職能組合に広がる同胞団支配を阻止できないと考えたムバラク政権は、1995年ついに職能組合法の抜本的改定に踏みきった。そしてこれ以後、政権と同胞団の対立は一挙に巽迫した局面を迎えたのである。
 だがそれにしても、なぜ人民議会ではなく職能組合なのか。実際、1995年秋までの展開をっみれば、政権と同胞団双方がどうしても譲れない戦場として、職能組合を人民議会以上に強く意識していることは明白なのである。この不思議な現象を理解するためには、まずエジプトにおける職能組合がいかなる存在であるかを知っておく必要があろう。
 エジプトにおける職能組合は、1912年に設立された法律家組合を嚆矢とする。きわめて単純にいってしまえば、それは、19世紀以来の「近代化」(=西欧化)過程で成長してきたテクノクラートと、当時の支配層の利害が一致した結果生まれた、排他的な特権制度であった。エジプトの「近代化」は日本の明治維新に先だっこと約半世紀、19世紀前半の専制君主ムハンマド・アリーによって着手されている。そこでは日本と同様、西欧近代の科学技術のほか、西欧起源の実定法も導入された。それまで「神の法」としてまがりなりにも独占的な池位を保ってきたシャリーアは、以後適用領域を徐々に狭められ、最終的には家族法・相続法の一部を除き、実定法がエジプトめ法となる。
 さて、新たな技術、新たな法を適用するためには、当然その道の専門家が必要とされた。かくして、西欧流の教育を受け、社会的にも高い地位を保証されたテクノクラートが誕生したのである。彼らは、法律家や医師、技師、ジャーナリストなどといった人々であり、当時のエジプトを支配していた地主層に対抗しうる新たなエリート集団として、徐々に発言力を増大させていった。なかでも、法律家は一般に政治参加要求が強く、多くの政治家が輩出したことで知られる。
 ここに顕在化したテクノクラートの政治参加要求に対して、地主を中心とする旧支配層はある種の恐怖を覚えた。彼らの不満が爆発すれば、体制は転覆しかねなかったからである。テクノクラート監視機構として職能組合を設立しようとする動きは、基本的にはこれら支配層の警戒心から、20世紀初頭に生まれた。一方、テクノクラートにとっても、政府の管理下に一種のギルドを形成するというのは悪い話ではなかった。それは、政府からさまざまな特権を得るための排他的装置として礎能すると思われたからである。
 かくて、新生テクノクラート中産階級は、職能組合に組織されることになった。この制度はナセル政権下でもほとんど手つかずのまま生き残り、サダト政権末期には、法律家組合、ジャーナリスト組合による辛辣な体制批判が注目を集める。さらにムバラク改権になると、これらの組合は事実上、政治の表舞台と化した。ムバラクはもはや回避できなくなった国改の「民主化」を、人民議会を通じてではなく、職能組合を通じて実現しようとしたからである。この政権がめざしたのは、さまざまな圧力・利益団体が提出する要求を調整しつつ政策を立案し、この過程を掌握することでエジプト政治を支配する、調停者型のりーダーシップであった。
新世代エリートの叫び

 ムバラクが国政を民主化せざるをえないところまで追いつめられた経緯は、いたって単純である。エジプトの場合、独立以来今日にいたるまで、政権を担当してきたグループに変化はなかった。ナセル以後、政権中枢は一貫して、1952年に決起した自由将校団系の人々によって支配されてきたのである。この国において最高権力者が最高権力者たるゆえん(政権レジティマシー)は何よりも、彼らこそ独立への道を指導したのだという事実、あるいは神話のうちに求められてきた。これに加うるに、第3次中東戦争の敗北までは、アラブ民族主義が公的な支配イデオロギ一として機能していたわけである。
 アラブ民族主義の威光が失望してのち、政権の座についたサダトとムバラクは、ともに深刻な政権レジテイィマシーの危機に悩まなければならなかった。サダト政権が発足した時点ですでに、1952年クーデタから20年。独立後に生まれた「新世代」が学生運動を担う時代がやってきていたからである。これら青年層にとって、独立はもはや前代の歴史に属する事柄であり、軍を主体とする現体制こそ独立を実現したという権威づけは、以前ほどの説得力をもたなかった。しかも悪いことに、1960年代以降間断なく続いた人口爆発が、エジプトに深刻な失業や住宅難をもたらしていた。経済危機を解決できない無策な政権にかわって、みずからが政治を動かそうとする新世代エリートの要求は、いやがうえにも高まっていく。 サダトが暗殺され、ムバラクが大統領になっても状況は変わらなかった。批判勢力は左翼からイスラーム復興へと大きくさま変わりしたものの、独立の神話は等しく通用せず、経済危機を解決できない政権に支持は集まらない。この状況下、非自由将枚団系新世代エリートの政治参加要求は、いよいよ高まりつづける。国政の自由化・民主化なくしてムバラク政権は存続不可能。1980年代とはおよそこのような時代だったといえよう。
 職能組合を通じての国政の民主化は、このような文脈のなかでムバラクが選択した、きわわて高度な戦略であった。そして、1980年代以降、同胞団が推進した職能組合闘争もまた、このような「民主化」に沿って必然的に選択された戦術だったといえる。 こうして、職能組合は両者がたがいの力量を計りあう場となった。なかでも主戦場となったのが、文科系エリートの最高峰、政治家予備軍を大量に抱えるエジプト法律家組合だったのである。議会選挙を真に民王化すれば、選挙に負けた鳩合、即政権交代に追い込まれる。この危険を回避しようとしたムバラクの姿勢が、法律家組合を政治の主戦場に変えたのであった。
 法律家組合内部の格力闘争は、これまでムバラク政権の与党国民民主党(NDP)と野党連合との対決を基本とし、通常、会長選挙、理事会選挙を通じて争われてきた。NDPは同組合を支配すべく選挙戦に臨んできたが、組合の独立を維持し、政権への批判を示そうとする野党勢力に阻まれてなかなか目的を達することができない。そこで、NDPは組合員の拡大を訴え、親NDP勢力を外部から導入することで局面打開を図ろうとした。具体的には、政府関連機関で働く法律家を組合員として認めさせる一方、NDP支持者の多い地方組合の発言力を増大させようとしたのである。しかし、野党連合はこれを認めず、会員権の拡大拒否あるいは選挙権制限によって対抗した。選挙のたびに争われてきた選挙人名簿をめぐる裁判は、法律家組合における激しい権力闘争
の象徴といえよう。
 このような場で同胞団は着々と勢力を拡大してきたが、1992年秋の理事会選挙では、彼らの驚異的な躍進がみられた。ほかの野党勢力との連合によって候補を立てる従来の路線を放棄し、ほぼ単独で候補者を立てた結果、理事24名中17名の当選者をだしたのである。同胞団系月刊誌『ムフタール・イスラーミー』によれは、野党(ワフド党)系、ナセリスト系、与党系が分けもった残り7議席については同胞団が最初から候補を立てておらず、同胞団系候補は全員が当選したという。
 中流下層階級に属する理科系新世代エリートの社会経済不満がイスラーム急進派の支持基盤を形成する一方、ここでは、社会経済的にみればある程度恵まれた文科系新世代エリートによるイスラーム法の実施を求める運動が、強い政治参加要求をともなって展開されているのである。
エジブト政治を読む鍵

 これまで、イスラーム急進派とムスリム同胞団の社会経済基盤について述べてきた。とくに、同胞団運動が中産階級の文科系新世代エリートによる現状(軍による政権支配)批判の側面をもつという事実は、イスラーム復興主義者=テロリストという偏見を除去し、復興運動の実態を考えるうえで有力な手がかりとなろう。しかし、忘れてならないのは、同胞団運動のこうしたありかたが決して固定したものではなく、つねに変化する可能性をはらんでいるということである。もともと同胞団運動はイスラーム道徳の頽廃に対する怒りから出発しており、その意味では社会経済的な立場を越えて成立する素地をもっていた。したがって、指導部のありかたや社会経済的な地位にかかわらず、イスラーム道徳の復興を求めて、「門戸解放」に裏切られた階層を含むあらゆる階層がここに集結する可能性は否定できない。
 また、同胞団の指導部は現在までハサン・アル=バンナーの直弟子、いうなれば旧世代によって占められてきたため、「門戸解放」に裏切られた青年層による急激な変革要求を受け止めきれないとされてきたが、1970年代に「イスラーム集団」の指導者として活躍した人々の合流は、こうした制約を徐々に解消していく可能性を秘めている。彼らの合流や、やがては訪れる指導部の世代交代が即、同胞団の急進化に結びつくかどうかは予測困難であるが、現状を劇的に変更しかねない不確定要因であることはまちがいなく、今後の同胞団運動はとくにこの点でも注目を集めつづけることになろう。1970年代に「イスラーム集団」の指導者として鳴らしたイサーム・アルヤーンが、1995年9月、同胞団員としてサイイド・クトゥブ以来29年ぶりの軍事裁判にかけられたことは、この点に関するムバラク政権の警戒感をよく反映しているように思う。
 さて、1995年2月、人民議会はムバラク政権から提出されていた職能組合法改正案を採択した。同法案により、職能組合の理事会選挙は司法当局の直接管理下におかれることになる。すなわち、政府による露骨な選挙干渉が可能になったわけである。ムバラク政権をここまで思いきらせた要因は種々考えられようが、いずれにしても非自由将校団系の文科系新世代エリートが政治に参加する道が奪われたことだけはまちがいない。人民議会は有名無実であり、職能組合を通じての政治参加も不可能となった。出口を失った文科系エリートの不満がどこに向かうのか。目の離せないところである。