ハーレムの外へ
―北アフリカにおける女性の社会進出とイスラーム―
1.はじめに−「イスラム原理主義」論の陥穽

 イスラーム主義が「原理主義」として論じられるとき、現場の政治状況や歴史、社会経済などの諸条件はしばしば不当に無視される。西洋社会が構築する「イスラム原理主義」論は、西洋近代文明の理念に対抗するイスラーム主義のあり方に本能的な反感を抱いており、両者の対立点を見出すやいなや、「イスラム原理主義」批判に熱中してしまうからである。結果として「イスラム原理主義」には、狂信的テロリズム、反民主主義的「反動」といった負のイメージがついてまわる。むろん、イスラーム主義の中に、我々が人類普遍と信じる西洋近代の価値観と相容れない部分があることは否定できない。多くのイスラーム主義者は「クルアーン(コーラン)」に述べられた刑罰規定の議会による変更など認めないだろうし、イスラームを誹議中傷するような議論に「言論の自由」を与えるなどもってのほかだと考えてもいる。彼らにとって、それは「背教」と同義なのである。他方、イスラーム主義者の中には既存の政権を倒すため、自ら武器を取って戦わんとする者もある。実力行使をもって反対勢力に臨む以上、彼らの反民主性は明らかである。イスラーム主義にはかくも反民主主義的な側面がある。
 しかし、にもかかわらず、イスラーム主義の反民主性を糾弾することに人は慎重でなくてはならない。イスラーム主義の挑戦にさらされている現地体制のほとんどは一種の独裁政権であり、議会とは名ばかり、我々の考えるような民主主義などどこにも存在しないからである。こうした中でイスラーム主義者は、民主化を要求する唯一の実質的な勢力として広範な支持を集めている。民主主義のないところに民主化を求める勢力の、反民主的な部分だけを取り上げて糾弾すること、それが、現行の独裁支配を直接・間接に支援する結果にしかならないことは明白であろう。イスラーム主義の支持者にとっていま問題なのは、「イスラーム国家」の建設後わずかに残るかもしれない反民主的制度の詳細ではない。彼らが望んでいるのは、目の前の非民主的状況をとりあえず改善することなのだ。しかるに「イスラム原理主義」論は、民主主義と相容れないイスラーム主義思想の細部を見境いなく攻撃することで、確実に民主化の芽を摘んでしまう。現場の状況など一顧だにせずに。
 イスラーム主義に「反動」イメージを与えているもうひとつの要素、女性抑圧に関してはまた別の問題もある。「イスラム原理主義」論はイスラーム主義の主張をきちんと検討すらしていない。もちろん男女の社会的役割分担について、男性イスラーム主義者の大半が著しく反動的な思想を抱いていることは疑う余地がない。一夫多妻や、男性による一方的離婚権を彼らが否定しないことも、男女同権という普遍的見地からして厳しく非難されるべきであろう。だがしかし、イスラーム主義は女性をかつてのハーレムに連れ戻そうとする運動ではない。女性に関するイスラーム主義の主張は、どう見ても一夫多妻や一方的離婚を奨励するものではないし、悪名高き「隔離」 にしても女性を公の場から締め出そうとする発想とは根本的に異なる。徹底して反動的な活動家はむしろ例外的存在なのである。 女性の社会進出を阻止しているのは往々にして、体制も含めムスリム社会全体に深く根ざした女性差別意識である。女性たちは何よりもこの差別意識、家父長制の遺産と戦っている。イスラーム主義に参入する女性もまた例外ではない。彼女たちは「真のイスラームは女性にも完全平等な権利を認める」と説き、運動中枢から女性を締め出す男子に対しては時に猛然と抗議する。西洋フェミニストの視点に立てば、家庭を女性本来の場と考える点において彼女らに「反動」的な面があることは否定できないが、それでも彼女たちの中に、目下の抑圧から解放されたいと願う確かな意志は読み取ることができるのである。
 しかし「イスラム原理主義」論はここでもやみくもに人類普遍の価値に立つ言説をふり回し、すべてをぶち壊してしまう。いわく、「イスラム原理主義」はヴェールを強制し女性から服装の自由を奪った、これぞ男性による女性支配の復活である、と。かくてイスラーム主義女性による地位向上の訴えは無視され、彼女らの存在は男性支配を強化する愚か者の集団として片づけられることになる。そればかりではない。「イスラム原理主義」論はここで、西洋社会がずっと携えてきた「偏見」−イスラームは本来的に女性を抑圧する−をも再生産する。イスラームそのものへの攻撃。ムスリムの多くは、たとえイスラーム主義の反対者でも、この種の攻撃を許さない。こうして、イスラーム主義に抗する女性を救けるはずだった「イスラム原理主義」論は、逆に彼女たちに「[イスラームの]敵の内通者」という汚名を着せ、自由な活動を阻害してしまうのである。いずれにせよ、現場における女性の地位向上に「イスラム原理主義」論は否定的な役割しか果たしていない。なぜならそれは、彼我の相違点に敏感なあまり、イスラーム主義者とふつうのムスリムとの区別もつかぬまま異文化そのものを攻撃し、他 方、抑圧から解放されたいとの願いが人類共通のものであるという事実すら理解できなくなってしまっているからである。
 このような「イスラム原理主義」論の陥穽を打破すべく、本稿では北アフリカの地域大国エジプトとアルジェリアに焦点をあて、女性の社会進出過程と進出を阻害している要因、またイスラーム主義の現在について考えてみたい。両国を記述対象とするのは何よりも、アラブの「イスラム原理主義」論がこの地におけるイスラーム主義の情報に基づいて構築されてきたという歴史的経緯による。両国はいま巨大な社会変動のまっただ中にある。都市化と貧困化、教育の普及を受けて女性の貸金労働は増大し、家父長制は崩壊に向かった。だが問題は、こうした事態の進展に人々、とりわけ男性の意識が追いついていないことであろう。伝統的な男女差別意識は家父長制の崩壊にともないいくらかは後退したものの、イスラームの名において正当化されており、いまだ侮りがたい影響力をもつ。だがそれにしても、一夫多妻や夫による一方的離婚権を「神の命令」ととらえ、女性を公的な場から排除する伝統イスラームだけがあり得べきイスラームの姿なのだろうか。
2.イスラームの女性観

 イスラームが女性をどう考えてきたか、確定することは難しい。イスラームには教義を決定する宗教会譲が存在しないうえ、その絶大な権威に頼って、ありとあらゆる言説がイスラームの名のもとに主張される傾向があるからである。ここではしかし、フェミニストによる最新の研究成果にのっとって、イスラームの女性観を探りたい。それは同時に、ムスリム社会内外のフェミニストが進める女性解放戦略を垣間見ることにもなろう。 預言者ムハンマドはそれまで多様な形態を保ってきた婚姻制度の改編に取り組み、夫の家に妻子が住む父方同居婚を唯一合法的な婚姻形態と定めた。社会経済的に見た場合、この改編は、メッカ商業の成長にともない個人資産を貯えた男性信徒が、実子による遺産相続を望み始めた事態に対処した措置と考えられる。一夫多妻を認める一方で、一妻多夫が厳しく禁じられた理由もこのあたりに求められよう。ここで重視されたのは何より子供の父親を確定することであった。かくて夫は、妻の性や子供に関わる権限を独占することになったが、実はこのとき夫が手にした権利の中には、妻が他の男と付き合うことを禁ずる権利も含まれていた。歴史的な女性隔離の淵源はおそらくここにある。そしてそれを後押ししたのが、家の中に留まるよう女性に命じた『クルアーン』の章句であった。この章句は元来預言者の妻を対象としたものに過ぎなかったが、彼女たちがムスリム女性の範となるにつれ、公的な場から女性すべてを排除する装置として機能し始める。ここに、妻であり母であることこそ女性の優先義務と考える伝統イスラームの種がまかれたのであった。
 とはいえ、この時点ではまだ、女性を能力的にも劣ると考える露骨な差別意識は生まれてはいなかった。『クルアーン』は頑ななまでにひたすら信徒間の平等を訴えており、男女間についても一切の差別を禁じていたからである。けれども『クルアーン』の男女平等主義は歴史の中で徐々に浸食されていく。伝統的なイスラーム法学が成立したアッバース朝期、『クルアーン』やその他の聖典は、女奴隷で溢れた巨大ハーレムに暮らす上流階級男子の思想的影響を受けて解釈されることになった。しかるにそこでは、女は売買可能なモノに過ぎず、男女平等の教えが尊重されるいわれなどなかったのである。結果としてイスラーム法学は『クルアーン』の男女平等主義を棚上げし、一夫多妻や安易な離婚を戒める章句は個人の良心にのみ関わる問題として、法規定から排除していく。以後、イスラーム法学者の多くは、女性を能力的にも劣る存在として見下すようになっていった。
 右のように歴史的見地からイスラーム法の成立過程に注目した場合、伝統イスラームの示す女性抑圧は一種の偶然が作用した結果ということになろう。『クルアーン』には明確な男女平等主義が説かれており、それさえ「正当に」評価されていれば女性抑圧も軽減されたはずなのだから。だがそれにしても、伝統イスラームが示す女性抑圧は本当に単なる偶然の産物に過ぎないのだろうか。フェミニストの多くは女性を蔑視する思想家たちをあくまで例外と見、女性蔑視は本来イスラームとは無縁と主張する一方、女性抑圧がムスリム社会の必然であったと考えてもいる。彼女らによれば、イスラームの女性観を理稗する鍵は『クルアーン』ではなく、ムスリムが男女混在を拒む精神様造そのもののうちにある。
 ムスリムは男女が同じ空間を共有することに異常なまでに敏感であるが、それはなぜか。ムスリム男性が公けに問われた場合、答えは決まっている。すなわち、イスラームは女性の体を傷つきやすいものと考え、これを男性から守るために隔離を実践してきたというのである。だが、フェミニストの多くはこの回答の裏にもうひとつ別の回答を見る。彼女たちはムスリム男子の中に、実は女性を性の加害者、男性を被害者と見る深層心理が働いてきたと指摘する。そこでは男が女の誘惑に抗しきれるとは思われていない。男女が同じ場を共有すれば、男は間違いなく女の誘惑に負け、社会規範、宗教規範をおろそかにすることになる。結果として社会は混乱し、イスラームはないがしろにされるだろう。これこそムスリム男性の確信であった。社会秩序を破壊する潜在的脅威として、かくも女性を恐れるがゆえに、ムスリム男子は女性を隔離してきたのだと多くのフェミニストは考えている。
 一方、伝統イスラームの女性観など、家父長制社会の要請に従って構築されたイデオロギーに過ぎないと考えるフェミニストもいる。彼女らによれば、あらゆろ男女関係の思想は社会構造によって決定される文化に過ぎず、社会が変われば思想も変わる。よって、注目すべきはむしろ社会構造の方なのである。そもそも女性抑圧はムスリム社会に特有の現象ではなく、「近代」以前には旧世界のいたるところで目撃された。フェミニストはふつうこれを、農業社会・遊牧社会一般に存在する家父長制に由来するものと考えろ。これらの社会では家族ユニットが生産単位となるため、男性血縁に基づく大家族制が発展した。そこでは公権力が家父長会議に独占される一方、一族内部のあらゆる資源と権眼は家長に集中し、他の成員は家長への絶対服従を余儀なくされるのである。中でも女性は、主要な労働力でありながら労働を正当に評価されず、一種の動産と見なされた。裏を返せば、家父長制社会は女性搾取によって成り立っていた社会と言うこともできよう。さらにこの社会では、子供という労働資源を多く産み、かつ育てることが女性に期待された。子供なくして家父長制は存続し得なかったからである 。家族全体の名誉が女性の貞操に収斂していく構造も、父系の純血を守る方策と考えれば納得がいく。言ってしまえば、家父長制大家族社会とは全面的に女性に依存した社会なのであった。そこで社会秩序を維持できるかどうかは、ひとえに女性を管理できるか否かにかかっている。となれば、この構造が男女関係を規定する思想に影響しないはずはない。伝統イスラームもまた例外ではなかった。それは家父長制を利する男女差別思想を取り込み、イスラームの名のもとに男女間の不平等を説き続けてきたのである。女性に被抑圧者としての自覚を与えぬまま、家父長制社会を雑持すべく−。
 以上がフェミニストによる講論の代表例である。一見して明らかなとおり、彼女たちの議論は多様かつ錯綜している。実際、イスラームの女性観を問題にすること自体、批判がないわけではない。一口に「ムスリム社会」といっても内実はさまざまであり、女性抑圧の程度も地域や階級に応じて大きく異なるからである。この多様性を無視してイスラームの女性視を問題にすることは、イスラームを本来的に女性抑圧的と見る先入視の裏返しではないのか。さらにイスラームを過大評価することは、他の抑圧要因の軽視にもつながる。
 こうした批判を承知のうえで、なお多くのフェミニストがイスラームの女性観にこだわり続けるのは、何よりも、女性抑圧的な伝統が「神の命令」の唯一正当な解釈ではないという「事実」を証明せんがためであろう。伝統イスラームはいまだ多くのムスリムにとって絶対的真理であり、女性解放にとって最大の精神的障害となっている。フェミニストによる研究は学問的正確さとともに、女性解放の礎たることを目指す。アッバース朝支配階級の思想であれ、ムスリム男子の女性に対する恐怖心であれ、家父長制維持の必要であれ、伝統イスラームが本来のイスラームとは別の何ものかによって「歪められ」てきたとすれば、ムスリム女性は伝統イスラームの範から逃れることができる。それは、信徒である以上イスラームを否定することなく、新たなイスラーム解釈に基づいて男女平等の実を得たいと願う「目覚めた」ムスリム女性の志向と見事に共鳴する解放戦略なのである。

3.ヨーロッパによる攻撃の傷跡

 とはいえ、フェミニストが喚起するこの種の批判は彼女たちの独創ではない。女性問題に限ってみても、歴史の中で「真のイスラーム」が歪曲されたとする言説には百年の伝統がある。19世紀以降、西洋近代文明の圧倒的な力に直面したムスリム思想家たちは、イスラームの歴史に何か間違いが起こったのではないかと自問し始めた。神の意志に従い、繁栄を約束されたはずのムスリムが異教徒に敗れるなど、イスラーム思想の枠組では説明しきれなかったからである。なぜキリスト教を奉ずる西洋などにムスリムが遅れをとってしまうのか。結論は、ムスリム自身が神の教えを歪めた罰に違いないというものであった。かくてここに、イスラーム改革の潮流が生まれる。思想家たちはムスリム社会を衰退や隷属に導いてきた真の原因、イスラームの歪曲状態を脱却すべく、あらためて『クルアーン』その他の聖典と向き合い、「真のイスラーム」を追求することになったのである。
  19世紀末までに女性の地位向上を訴えた思想家たちは、概ねこれらイスラーム改革者の系列に属する。そこでは男性による一方的離婚や一夫多妻を戒める類の『クルアーン』の章句が脚光を浴び、女性の地位向上こそ真のイスラームだという新たな主張が展開された。さらにムスリムが女性に対する教育を怠ってきたことや、女性が本来所持する権利を隠蔽してきた歴史も、反イスラーム的行為として厳しく断罪されたのである。加えて、たとえばエジプトの場合、女性教育はイギリスによる占領状態を終わらせ、独立を達成する要件として、一部のナショナリストから高く評価された。女性は次の世代を育成するために重要な存在と考えられたのである。この議論はあくまで女性が家庭教育に果たす役割を評価したものに過ぎず、女性の人権という観点から社会進出を認めるものではなかったが、それでも女性が教育を受ける権利を社会に認知させるうえでは大きな役割を果たした。
 思想界を見るかぎり、いまや女性を抑圧する伝統イスラームは岐路に立ち、新たなイスラーム解釈の軍門に下るかに見えた。しかし事態はそう簡単には進まない。原因は何よりも当時の社会構造にあった。ムスリム社会が強固な家父長制を維持しているかぎり、この社会の支配者たる男たちが伝統イスラームの女性抑圧を拒否する理由は何もない。西洋近代文明の衝撃を受け「真のイスラーム」を復興せんとした思想家たちの営みは、女性の地位向上に関するかぎり、ほとんど一般大衆の支持を得られなかった。それは現実社会よりはるかに先を行く思想だったのである。もっとも、社会構造に由来するこの種の限界は、家父長制の崩壊とともにやがては解消される可能性もある。これに対し、「近代」において伝統イスラームが被ったもうひとつの批判は、ムスリム女性の自由獲得により永続的かつ決定的な障害を残すことになった。すなわち、ヨーロッパによる攻撃である。
 イスラームを本来的に女性抑圧的と見る「偏見」は、近代以前からヨーロッパにおいて常識の一部を形成した。そして19世紀以降、ヨーロッパ植民地体制はこの「偏見」をムスリム支配正当化の根拠として最大限に利用したのである。植民地体制は一夫多妻や男性による一方的離婚権、わけてもムスリム女性のヴェールに注目し、これぞイスラーム文明の後進性を示すもの、と激しい非難を浴びせた。西洋は「遅れた」ムスリム社会に進歩をもたらす「解放者」とされ、この「正義」のもとに植民地支配が正当化されたのである。こうした議論を展開した植民地体制の当の本国が、当時なお著しい女性差別構造の中にあったことを思えば、この議論の欺瞞性は明らかでおろう。けれども、そんなことにはおかまいなく、植民地体制はヨーロッパ文明の絶対的優越宇を説き続ける。一方でそれは、本質的な「後進性」を内包するイスラームと訣別しないかぎり、ムスリム社会に進歩はないとまで主張した。ここでははっきりと、ムスリムをやめることが要求されたのである。のちのフェミニズム運動に って悲劇だったのは、イスラームそのものを否定するこの種の言説が、女性の地位に関わる問題を主たる論拠として取り上げていたことであった。
 イスラームを捨てて西洋文化を採用すべしと説かれたナショナリスト、わけても下層階級の男たちは激怒した。植民地支配によって打撃を受けた伝統的ブチブル層や中流下層以下のムスリムにとって、植民者の文化は破棄すべき対象にほかならず、それを採用するなど思いもよらなかったからである。これ以後女性「解放」という話額は、帝国主義による陰謀を疑う深い猜疑心から自由ではなくなる。ヨーロッパは「近代」という錦の御旗を掲げて女性を西洋化し、これを通じてムスリム社会と文化を破壊するつもりなのではあるまいか。家族の基本たる女性を「堕落」させ、家庭を崩壊に追い込めば、ムスリムは自己のアイデンテイテイを失い、抵抗も弱まって外国支配を受け入れる。このように考えたとき、ムスリムのなすべきことは自明であった。ムスリム女性は西洋とは異なるイスラーム固有の価値に従って生きなくてはならない。西洋化と同義の「解放」など断固拒否されるべきである。かくて女性問題は、女性の人権という論点と出会う前に、「西洋近代文明対イスラーム」という価値対立の枠組にとらわれることになってしまったのであった。
 ここに誕生をみた思想的な枠組、女性のあり方をイスラーム的価値の象徴と考える言説は、その後百年を経ていよいよ強力にイスラーム思想を貫いている。すなわち、女性の問題に限っていえば、イスラーム主義とはこの思想的枠組に立ち、女性の西洋化(=「堕落」)を拒否する運動にほかならない。それはかつてヨーロッパが激しく攻撃した伝統イスラームの構成要素、一夫多妻や男性による一方的離婚を擁護する一方、女性にヴェールを被せ、あるいは公共の場を男女別々とすることで、社会の道徳的頽廃を防ごうとしている。彼らにとって、女性と家族はイスラームの本質に関わる問題である。背後にある思想が帝国主義の陰謀に対する警戒であることも、百年前と変わらない。
4.女柱の社会進出過程−エジプトとアルジェリア

 20世紀初頭のエジプト言論界は、女性の西洋化を非難する一部ナショナリストの声に席巻された。しかし、こうした論調によってエジプト女性、なかんずく上流階級女性の西洋化志向が揺らぐことはなかった。イギリスによる占領支配に打撃を受け、経済的苦況に立たされた下層階級とは裏腹に、植民地体制によって稗益せられた現地支配階級は自ら西洋化の道を選び、女子に対しても「近代」教育、西洋風の生活を勧めたからである。エジプトにおける女性の社会進出は、基本的にこれら上流および中流上層階級から始まった。
 1890年代にはすでに、少数とはいえ専門職に就く女性と多数の女子学生の存在が報告されている。街頭で女性を見ることは日常茶飯事となり、洋服が普及してヴェールをしない女性まで現われた。こうした女性たちは20世紀に入っていよいよ増え続け、1923年には最初の女性運動組織エジプト・フェミニスト連合が生まれる。この組織は前世紀以来の伝統にのっとって女子教育の必要を説く一方、議会に対して、一夫多妻・男性による一方的離婚・女子早婚などの禁止を要求した。さらに、婦女への経済的援助や医療提供、恵まれない女性に対する職業訓練など、草の根的な活動にも手をそめている。
 女性自身によるこうした活動は社会全体に新鮮な空気を吹きこんだ。しかし、この段階のフェミニズム運動には無視できない欠陥も存在していた。それは上流および中流上層階級に決定的に限定された運動であったため、政治参加や雇用といった女性の社会進出に関わる課題にはほとんど無関心だったのである。彼女たちには職業に就いて貸金を得なくてはならない経済的理由が欠けていた。それどころか、彼女たちの多くは、自分の家の家事労働に携わる膨大な数の使用人の管理に忙殺されていたのである。フェミニスト連合は婚姻法改正を含め、家庭内における女性の地位向上には貢献したが、教育を受けた女性が家庭外で働ける空間は相変わらず狭く閉ざされたままであった。
 こうした状況下では、失業問題が顕在化するたびに「女は家」という主張が幅をきかすことになる。さらに、良家の子女は給与労働などに従事すべきでないと考える家族からの圧力も女性の社会進出を阻害した。自ら西洋化を望んだ支配階級の男性ですら、女子が働きに出ることには強い心理的抵抗が残ったのである。この状況を打破し、女性の社会進出を一気に加速させたのは、1952年のクーデクを通じて政権を握ったナセル政権の輸入代替工業化政策であった。ヨーロッパによる経済支配からの脱却を目指すナセルにとって工業製品の自給は至上命令であり、これを達成するために計画経済と公共部門企業体が導入された。ここに女性にとって未曾有の巨大な職場が生まれたのである。以来、官庁と公共部門企業はエジプトにおける最大の女性雇用先であり続ける。女性が外で働くことに対する心理的抵抗も、公的な場での男女混在を警戒するムスリム男性の深層心理も、ナセルの強大な権力の前にはまったく無力であった。さらにナセルは男女平等をうたい、共学を一般化するとともに、大卒者の就職を全面的に保証する。就職が保証されたことで、中流下層以下の女性にも教育を受けるメリットが理解 された。かくて、国家の強力な支援のもと女性の給与労働は飛躍的に拡大したのである。
 70年代に入ると、ナセルの後継者サーダートが採用した「門戸開放」政策が、さらに女性の給与労勧者を増加させた。西洋の良質な製品を見てしまった人々は、それがいかに高額であろうと手にしたいと考える。結果、共働きが一般化した。また80年代以降慢性的なインフレが続く中で、中流下層以下の家庭では女性の賃金収入が不可欠となった。だが、ここに大きな問題が生じる。いまだ家父長制の男女観に縛られ続ける男たちは、女性の貸金労働を認めこそすれ、決して家事を分担したりはしない。このため家政婦を雇う資力のない中流下層以下の家庭では、妻が家事と労働のニ重苦に苦しむことになったのである。都市ではすでに核家族が一般化しており、姑らの支援は期待できない。政府による対策もこの面では遅れている。都市化と工業化による大家族の崩壊は、女性を抑圧する家父長制そのものを後退させたものの、思わぬところ
で女性給与労働者を苦しめることになった。
 中流下層以下の女性が直面する問題はほかにもある。この階層の女性貸金労働者は、家庭第一という伝統的思想を保持していることを周囲に認知させなければ、いまなお不道徳のそしりを免れない。彼女たちの場合、ヴェールはそれを示す記号である。また、妻が家計を支えるようになれば夫のストレスは頂点に達する。ここはいまだ、単独で家計を支えられない夫が「女」と呼ばれて馬鹿にされる世界なのである。妻が外で働くことは夫の無能ぶりを世間に知らしめるものにほかならない。憤慨した夫はめったやたらに妻への権威をふりかざす。さらに通勤に用いざるを得ない交通機関の混雑や、就職・昇進における男女間格差も彼女たちの労助意欲を減退させる。家政婦に家事を任せ、西洋化した考えを持つ夫の人脈にも支えられた上流階級の女性企業経営者とは対照的に、中流下層以下の女性は日々多くの障害に直面しているのである。60年代以降続く人口爆発が産み出した経済危機と高失業率のあおりを受け、都市女性の大半はいまインフォーマルな賃金労働に従事している。その多くは低収入の肉体労働であり、この状況が改善される見込みは当面まったくない。
 だがそれにしても、エジプト女性の歩んだ道は、アルジェリア女性が置かれてきた環境に比べれば、はるかに恵まれたものであった。アルジェリア政府が展開した女性政策はナセル以来のエジプトにおける女性政策の対極をなす。そこでは強力な中央集権体制がイスラームの名のもと、「女性は家に」という価値観を推進してきたのであった。このような女性政策が採用されるに至ったきっかけは、およそ130年にもおよぶ苛酷なフランス植民地支配と、これに対抗した独立闘争の論理にある。
 1830年以降アルジェリアに進出したフランスは、ご多分にもれず西洋近代文明の優越を説き、イスラームを否定した。しかも注目すべきことに、ここではこうした言説がフランス支配を正当化するためだけでなく、全人口の一割にも満たないフランス人入植者の特権を保護するためにも用いられたのである。本質的に「劣った」イスラームに帰依する現地住民などにフランス人と同等の権利を認める必要はない。こうしてムスリム住民は徹底的に差別され、経済的な基盛をも完膚なきまでに破壊された。追い込まれたムスリム大衆はしかしフランスの論理を逆手にとる。植民地体制拒絶の思いをこめて、彼らは伝統イスラームの価値観に固執したのである。家父長制はむしろ強化され、女性の保護と隔離が強く要請された。都市では入浴と医者に行くとき以外、女性を外出させないことが常識となった。家族と女性は、ここに民族的アイデンテイテイの象徴となったのである。
 1954年に武装蜂起に踏み切った民族解放戦線(FLN)の場合も、抵抗の論理は同じであった。フランスが否定した旧来の社会構造と伝統イスラームを再建すること。「独立」とはまさにそれを意味していたのである。こうした思想のもと、FLNは大衆なかんずく農民の支持を獲得していく。一方、フランスで教育を安けたごく少教のインテリを除けば、女性にとっても独立戦争は古い生活様式を取り戻すための戦いでしかなかった。女性はこの闘争に看護婦や料理人、洗濯女として協力したほか、ヴェールの下に爆弾を隠し持つ「運び屋」としても活躍したが、この軍事行動はあくまで非常事態ゆえの例外的措置と考えられた。自覚的にも、また男性から見ても、彼女たちは植民地当局による厳しい弾圧を受けて地下に潜った男性の「代わり」に爆弾を運んだだけだったのである。教育どころか、戦争以前は外出すらままならなかった大半のアルジェリア女性にとって、政治や軍事は男の領域であり、家庭こそ彼女たちの場であるという観念は疑われもしなかった。
 FLNのナショナリズムが伝統イスラームの復興を目指していた以上、独立後も女性を取り巻く環境が変わるはずはなかった。65年に政権を奪取したブーメディンのもと、FLNはいよいよ保守化の傾向を強める。そこでは、アラブとベルベルという言語の異なる「民族」を統合するムスリム・アイデンテイテイの象徴として、伝統イスラーム的な女性のあり方、家族のあり方が強調された。もっとも、女性の社会進出は文化政策にのみ依存するわけではない。女性労働力を必要とする経済的な要因があれば、社会進出は一気に進む。だが、独立アルジェリアは当初から高い失業率に苦しんだ。74年以降はフランスへの出稼ぎも困難になる。女性の都市労働者を必要とする環境はこの国にはなかつた。
 とはいえ、アルジェリア女性がすべて伝統イスラームの虜となっていたわけではない。ここでも特権階級を構成するブルジョワ官僚層は強い西洋化志向を保持し、この階級に生まれた女性たちは例外的に社会進出を認められた。彼女たちは血縁に基づく人脈にも恵まれ、政府高官にすら就任する。だがこうした女性はあくまで特別な存在であり、他の階層の理想とはならなかった。男も女もほぼー貫して、洋服の女性を見れば道徳的頽廃や帝国主義の文化を連想したのである。地方では特権階級でないかぎり、ヴェールや隔離を拒否したり給与労働を求めたりすることはできなかった。80年に至ってなお、都市においてすら通勤や通学以外の理由で女性が外出することに根強い批判があったという報告もある。
 こうした状況の中、長びく経済危礎と政治腐敗を非難するイスラーム主義の攻勢にさらされたFLNは、これをかわすべく女性の地位問題を利用することになる。冒頭述べたとおり、イスラーム主義者は一夫多妻や男性による一方的離婚を決して奨励はしない。しかし、それが『クルアーン』に見出される以上、国家の法として容認されるべきだとは考える。84年、FLN政権はついに彼らの主張に譲歩し、伝統イスラーム思想に基づく家族法を採択したのであった。危機感を強めた働く女性たちは家族法をめぐる譲論の過程で、初めて官製ではないフェミニスム運動を組織する。89年2月、FLNの一党独裁が崩壊すると、彼女たちは新たに結成された政党の中で男女平等を説く組織に加入し、イスラーム救国戦線(FIS)との対抗を試みた。だが、これらの政党指導部が彼女らの存在を重視しているわけではなく、アルジェリア女性の地位向上、社会進出への道はなお遠い。
5.イスラーム主義の現在

 1970年代半ば以降、北アフリカで興隆したイスラーム主義が、農村から流入した都市貧民を主たる支持母体としてきたことはよく知られている。この事態はしかし、イスラーム主義と女性抑圧の関係を考えるうえで深刻な混乱を産んできた。ヴェールを着けない女性に向けて農村出身者が働く暴力は、そのままイスラーム主義者による組織的活動と見なされ、さらにイスラーム主義自体、女性の社会進出が進み家父長制が急速に崩壊しつつあることへの反動として理解されたのである。暴力的にでもヴェールを強要すべしと考える一部イスラーム主義者の存在がこの議論を補強した。かくて、こうした理解は「イスラム原理主義」論のみならず、フェミニストの研究にも深く浸透する。だが、支持者個々の行動がイスラーム主義の立場を常に反映するとは限らない。さらに、洋装女性に対する暴力事件は政府当局によってまま捏造される。事態はもっと複雑なのである。
 「門戸開放」の恩恵を求めて、あるいは農村部における人口爆発を背景に、北アフリカでは70年代以降大規模な人口移動が起こった。しかし、この事態に政府は有効な処方義を持たず、都市流入民をただ放置する。住宅難と就職難にさらされた人々は大都市周辺のスラムに居を求めた。この時点ですでに彼らは都市生活への期待を裏切られたのである。男たちは最底辺の仕事を複数かけ持ちし、何とか家計を維持しようとしたが、インフレが限りなく進行する状況下でそれは不可能であった。結局彼らは女性の働きに頼らざるを得なくなる。一方、スラムの生活は彼らが慣れ親しんできた農村生活とは異なり、家の中が丸見えであった。性的感受性の高揚、不安が高じやすい環境の中で、女性は言葉や心理的な嫌がらせに悩まされることになる。農村の家父長制的価値観に従って生きてきた男たちにとって、こうした環境は耐えられるものではなかった。彼らにとって女性は他人の目から隠しておくべき存在である。しかるに、自分は女性親族を保護も管理もできないばかりか、その収入に頼って生きている。男たちは挫折感に打ちひしがれた。しかし上流および中流上層女性の派手な服装を見たとき、痛みは 憤りに変わる。なぜ支配階級だけが富み続けるのか。それは政府が掲げてきた理想、またイスラームの理想とあまりにもかけ離れているのではないか。支配階級の富と自由に衝撃を受けた男たちは、かくて洋服を着た女性に対する社会的圧力を形成し、街頭における暴力事件まで引き起こす。そこでは支配階級の富に対する憤りとともに、放埒な生活、道徳的額廃への怒りも爆発した。西洋化した女性が放蕩な性生活を送っているという印象は、学生売春の噂まで囁かれるほど下層社会一般に浸透している。この状況下では、支配階級の西洋化こそ経済危機や道徳的頽廃その他諸悪の根源であるとするイスラーム主義の主張が支持されるのは当然であった。
 かくして、イスラーム主義と政権の対立は階級間対立の色彩を色濃くにじませるようになった。しかし、ここに述べてきたのはあくまで支持者の側の論理である。イスラーム主義の指導者たちは支持者とはまた別の論理で女性の西洋化に反対している。そもそも彼らの大半は都市中流上層階級の出身であって、農村出身者のように強固な家父長制の伝統の中に生きてはいない。女性の貸金労働は推奨しないまでも、妻を外に出すことが男の沽券に関わるなどとはまず考えていないのである。彼らが女性の西洋化に反対するのは、何より帝国主義による陰謀を警戒し、社会の道徳的頽廃を憂えるからにほかならない。
 先に指摘したとおり、女性に関するイスラーム主義の思想は、およそ百年前にナショナリストが作り出した枠組を継承している。そこでは女性を西洋化することでムスリムの家庭・文化破壊を狙う帝国主義の陰謀が疑われ、ムスリムとしてのアイデンテイテイを守るため「イスラーム的」な生活を送ることが女性に期待された。すなわち、女性は家庭におけるアイデンテイテイ形成と維持の坦い手と考えられたのである。女性は家庭を優先すべしとイスラーム主義が説く理論的根拠はここにある。家庭を犠牲にするような労働は認められない。もっとも、イスラーム主義指導者のほとんどは女性の給与労働そのものは否定しない。家庭における義務さえ果たせば、女性の社会進出を拒む理由は特にないからである。ただ一点、同一家庭に属さない男女が同じ空間を共有することを除いては。
 男女混在と社会混乱を結びつけるムスリム男子の心理については、フェミニストによる研究がつとに指摘してきたところである。イスラーム主義者はこの議論の格好の材料となる。彼らは社会の道徳的頽廃を防ぐため、公共の場をすべからく男女別に分けるべしと主張する。これが通常「隔離」として非難される思想である。もちろん、この思想に問題がないわけではない。男性が女性の魅力に負けて「社会」が混乱すると言うとき、女性は社会の一員と見られてはいない。こうした発想に立つかぎり、社会はあくまで男の世界であり、女性の進出は妨げられよう。また、混在批判の背後には、女性は必ず男を誘惑するという前提がある。そこでは女性は自己管理能力なしと考えられているのである。にもかかわらず、「隔離」の主張は実に多数のムスリム女性に支持された。交通機関の混雑解消や男女間のいわれなき職場格差解消に、それは有効と考えられたからである。
 家族以外の男性がいる場所ではヴェールを着けるよう、イスラーム主義者が女性に求めるのも、同じく男女混在がもたらす道徳的頽廃を恐れんがためである。加えて、服装に絡む議論では西洋の頽廃が厳しく非難される。ポルノグラフイーやミス・コンテストに明白に示されていろように、西洋の男はただ女性の体を金儲けに利用しているだけではないのか。女性解放などと言っても、実態は男の性欲に奉仕する商品に過ぎない。あんなものは解放ではない。真の解放とは女性が人間性や内面によって評価されることである。
 中流上層階級より上の女性、十分な教育を受けムスリム社会の中では相対的に良好な社会進出条件に恵まれた女性たちがイスラーム主義に参入するのは、家庭を重視する思想への共感もさることながら、こうした「性の商品化」批判に感銘を受けるからである。彼女たちは西洋女性のあり方を批判し、ムスリム女性独自の「解放」を追求する。男性イスラーム主義者と同じ理由で一夫多妻その他の法制化には反対しないし、女性は家庭を優先すべきとも説くが、なおかつ彼女たちからは強い男女平等を求める声が聞こえてくる。「真のイスラーム」は男女同権を認めると主張する点では、彼女たちはまさに19世紀改革者の子孫である。それどころか彼女たちは、家庭優先と女性の社会進出は矛盾しないとして、イスラーム主義指導部への進出を望み、自ら運動を導く意志すら見せている。
 もちろん、男性イスラーム主義者の抵抗は大きい。彼らは伝統的な男女の役割分担意識から自由ではないし、神が両性を創造した以上男女の役割は異なるに違いないという理論で武装し始めてもいる。男女は平等である。しかし、もし社会における役割まで同じであるなら神が両性を創造した意味はなくなる。世の中には細胞分裂だけで繁殖する生物もいるのである。しかるに神がふたつの性を造ったということは、それ自体両性の果たすべき役割が異なる証拠ではないのか。
 神を万物の創造者として信仰し、創造に意味を認めるかぎり、この議論を論駁することは容易ではあるまい。だが、女性たちは簡単には退かない。運動に参加する過程で彼女たちは著しく行動的になっている。すでに「目覚めた」新しい女性たちがイスラーム主義をどう変えていくのか。いまはただ彼女たちの戦いを見守るしかあるまい。
参考文献
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