これまでの研究活動
『アル=アフガーニーとイスラームの「近代」』
----- 平成10年度第3回研究会報告 -----

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日 時: 1999年1月28日(木)午後2時より6時
場 所: AA研セミナー室
報 告: 兼 文部省科学研究費創成的基礎研究「現代イスラーム世界の動態的研究」第3班研究会
共通テーマ「現代エジプトにおけるイスラーム運動・社会運動」(使用言語/英語)
  1. アフマド・アブダッラー(エジプト・アル=ジール青年社会問題研究センター所長)「社会運動について(On Social Movements)」
2. ハサン・バクル(エジプト・アシュート大学準教授)「エジプトのイスラーム運動(Islamic Movements in Egypt)」
本年度第3回の研究会は、現代エジプトを代表する二人の大衆運動研究者が同時に来日した、またとない機会をとらえ、アル=アフガーニーが100年前に種を撒いたとも言える「エジプトのイスラーム運動・社会運動」の現状を把握しつつ、これらの運動をいかなる理論的枠組みで分析すべきかをも考える国際ワークショップを組織した。報告者は、現代エジプトにおける指導的社会運動家のひとりであるアフマド・アブダッラー氏と、イスラーム運動研究の第一人者ハサン・バクル氏である。

非宗教系の社会運動家でありながら、著名な政治学者でもあるアブダッラー氏は、まず「社会運動」が「市民社会civil society」の表現であるとの考えから、「市民社会」概念にまつわるさまざまな問題点を指摘した。本来「市民社会」は、人々が支配者として支配することを目指す「政治社会political society」の対立概念であり、血縁や宗教などに基礎を置くことなく、政治権力をも求めない存在として理解されている(むろん、現実問題として「市民社会」が政治に影響を与えることは大いにあり得る)。そして、この概念を産み出した欧米にあっては、社会運動もまたこの「市民社会」と「政治社会」を橋渡しするものに他ならないとされてきた。だが、文化的なコンテクストが異なると、こうした西洋流の定義、理解は必ずしも有効ではなくなる。中東に「市民社会」概念を適用する際の問題は、まさにここにあると言っていいだろう。具体的には、3つの点で「市民社会」概念は修正を余儀なくされる。

まず第一に、中東では各国政府が常に「市民社会」の存在を警戒している。政府が実行できない貧困対策を「市民社会」が代行している様子などを見ると、政府と「市民社会」の関係は一見補完的に見えるが、実のところ政府は「市民社会」を国家権力に対抗し得るほとんど唯一の存在と見て恐れているのである。したがって、中東の独裁的な「政治社会」は「市民社会」を抑圧する方向に動く。次に、国家に権力が集中している西洋と違って、中東における政治権力はいまだに血縁集団や宗教の周辺に存在しているということがある。このため、「政治社会」と「市民社会」の境界は必ずしも明確ではない。これが第二の問題を構成する。さらに、中東における宗教の重要性は第三の問題を産み出す。すなわち、中東にあっては「宗教社会 religious society」を「市民社会」の一部と考えるかどうかによって、「市民社会」論はまったく違った様相を呈すことになるのである。「宗教社会」を「市民社会」の一部と考えれば、中東には豊かな「市民社会」が存在してきたと言うことができるだろう。しかし、西欧流の政教分離的発想に立って「宗教社会」を除外してしまえば、中東における「市民社会」の伝統は極めて脆弱なものということになる。イスラーム主義の運動が「政治社会」であり、「市民社会」でもあり、同時に「宗教社会」でもあるように見えるのは、以上のような中東特有の事情を考慮に入れなければ理解できない現象と言える。

ところで、今日では世界中で人々の関心が政治から社会運動へ、また「市民社会」的な活動へと移行しつつある。政党という組織はどんどん弱くなっているのである。だが、単純に「市民社会」万歳で済ませるわけにもいかない。現実には、中東に見られるように、他宗教の信徒や他の思想の支持者を認めない偏狭な「市民社会」も存在するからである。行き過ぎた「市民社会」の活動を抑制するためには、政治の再活性化や、宗教を含めた多様な価値を認める態度が必要になる。現代エジプトにおける社会運動の課題はまさにここにあると言っていいだろう。

以上のような内容を興味深い具体例で味付けしながら報告してみせたアブダッラー氏に対し、出席者からは「市民社会」の定義に関わる疑問や、アラビア語の「市民」にあたる"madani"の語が持つ「非宗教的」というニュアンスに関わる質問、さらにエジプトにおける環境運動の現状や、偏狭な「市民社会」の代表とも言うべき頑迷なイスラーム主義者にどうやって多様な価値を認める態度を教えるのか、などといった多様な質問が寄せられた。

続くバクル報告では、最初に現代エジプトの政治システムを規定するさまざまな要因が簡単にまとめられ、イスラーム運動興隆との関係が指摘された。周知のとおり、エジプトはナイル川を治水する必要から古来強力な中央集権国家として発展してきたが、一方で強い反中央の伝統を持っている地域もある。イスラーム過激派の最大の根拠地となっている上エジプトなどはその代表格と言っていいだろう。また、エジプトにはいわゆる「東洋的専制」に近い感覚があり、国家元首を決して非難してはならないという不文律が存在する。この環境下で民主化を進める難しさを十分に理解した上でないと、イスラーム運動の持つ意味を十全に把握することはできない。さらに現代エジプトの場合、利権は大統領を中心に階層的に構築されており、議会はほとんど実権を持っていない。利権にぶら下がっている人々の運命を委ねられた大統領は辞任したくてもできないのが実情であり、結局、死ぬまで大統領職に留まることになる。これらすべての要因がイスラーム運動の成長に関係してきたのである。

以上のような背景説明に続いて、バクル氏はエジプトにおけるイスラーム運動の歴史と現況を克明に報告したが、これについては日本でもたくさんの研究書が出版されているので、それらを、また特に近年の動きについては、雑誌『AERA』580号(1999年3月8日)p.61に掲載された同氏のインタビューを参照していただきたい。この日の研究会について言えば、ムスリム同胞団、イスラーム解放党、ムスリム集団、ジハード連合などの各組識が順次取り上げられ、1992年から始まった政府と「イスラーム集団」の内戦が95年以降終結に向かった要因(右から左までのあらゆる勢力が結集した反「イスラーム集団」連合の設立)などについても詳細な指摘が行なわれた。最後にバクル氏は、上エジプト地域の経済開発が進んで来なかったことが当地におけるイスラーム運動興隆の大きな要因であったとし、中央に開発の必要を訴えた結果、じょじょにイスラーム過激派の勢力が衰えつつあることを報告した。また、中道またはオポチュニスト的な支配者しか成功して来なかったエジプトの政治史を振り返り、強力なイデオロギー性を持つイスラーム運動が成功する可能性はエジプトに関するかぎりほとんどないだろう、と結論づけた。

以上のバクル報告に対しては、出席者から個別の組織や具体的な事件の事実関係などについてさらに突っ込んだ質問が寄せられたほか、武装闘争路線を採る偏狭なイスラーム過激派と穏健派のムスリム同胞団を同列に論ずるのは問題であり、やはり両者は分けて論じるべきではないか、などといったコメントも加えられ、アブダッラー氏の報告に関わるコメントを含め、時間の許すかぎり活発な議論が展開された。なお、この日の議論では、現代エジプトのイスラーム運動、社会運動にとってアフガーニーがいかなる存在なのか、といった論点にはあまり触れることができなかったが、大衆運動の多くがアフガーニーを肯定的にとらえている一方、イスラーム過激派の一部は彼を世俗化の元凶として厳しく非難している事実をここで確認しておく。もっとも、こうした点については、来年度以降さらに研究を深めていくつもりである。

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