これまでの研究活動
『アル=アフガーニーとイスラームの「近代」』
----- 平成10年度第2回研究会報告 -----

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日 時: 1998年11月28日(土)午後1時より6時
場 所: AA研セミナー室
報 告: 1. 池内恵(東京大学大学院総合文化研究科第一種博士課程)「<政治的イスラーム>の系譜学 ― サルヴァトーレの介入」
2. 三木亘(AA研元所員)「連続と非連続 ― イスラーム世界の思考の一端を考える」
第2回研究会は、アフガーニーという狭い意味での研究対象をいったん離れ、より大きな視野からイスラーム世界における言説のありかたそのものを分析することによって、アフガーニーや彼以後のイスラーム教徒が置かれてきた「近代」という時代の性格をとらえ直そうとする野心的な報告二つが行われた。

まず池内報告では、近現代における「言説としてのイスラーム」の構造を分析したArmando Salvatoreの近著Islam and the Political Discourse of Modernity(Ithaca Press, 1997)の内容が紹介され、近現代アラブのイスラーム思想を外部世界の言説との連続性においてとらえることの重要性が強調された。同書の極めて複雑かつ難解な論旨をこの場で過不足なく紹介することは不可能であり、詳細については雑誌『イスラム世界』52号(社団法人日本イスラム協会、1999年2月)に掲載された池内氏による書評をご覧いただくよりほかないが、氏の報告を最大限単純化して要約すれば以下のようになる。

サルヴァトーレの議論は「<政治的イスラーム>を解釈する者たちが置かれた言説の場には特定のメカニズムがあり、それによって制約され、「語らされて」いる面があるのではないか?」という疑念から出発する。近代における「イスラームについて」の言説はイスラーム世界の内部だけで自己完結してきたわけではないし、「西洋」側に身を置いてイスラーム世界を「観察」「記述」する者に特権的な客観性が保証されているわけでもない。そうではなくて、西洋の「観察者」とイスラーム世界の「観察対象」とが生産する言説は相互作用の関係にあり、欧米とイスラーム世界にまたがって「イスラームについて」の言説が生成される場 ―― サルヴァトーレはこれを<文化横断言説圏>と呼ぶ ―― が存在していると考えるべきなのではないか。

以上の立論を証明するため、サルヴァトーレは<文化横断言説圏>が形成される過程を跡づけていく。端緒は1870年代から1920年代にあった。すなわち我々は、ドイツ・オリエンタリズムと社会学の結合(この熱心な実践者がマックス・ウェーバーである)から生まれた「他者」としてのイスラーム認識が、19世紀〜20世紀初頭の、アフガーニーを始めとするイスラーム改革主義者によるムスリム=「自己」としてのイスラーム認識にすでに大きな影響を与えていた事実を確認できるのである。以後、「イスラームについての」西洋側の言説とイスラーム世界の知識人による言説は相互作用を重ねていく。1970年代以降注目を集めるようになった<政治的イスラーム>に関する言説にしても、G.v.グルーネバウムからM.ハルペリン、B.ティッビー、S.ズバイダ、M.A.ジャービリー、H.ハナフィー、M.A.ハラファッラーを経てY.カラダーウィーに至るという形で、「西洋」側の言説とイスラーム世界の思想家たちの言説は相互作用を重ね、鎖状に連鎖する形で展開されてきた「解釈」の系譜として理解することが可能なのである。

さて、以上のような議論の紹介を通じて、池内氏が批判したのは、現在の日本の学界で支配的な<政治的イスラーム>の解釈、すなわち、広範な宗教意識の覚醒に根差した、イスラーム文明の内在的発展論理による「イスラーム復興」として、イスラームの政治化現象を説明しようとする立場であった。このこともあって、報告後の議論は、そもそも「イスラーム復興」論者がアラブ思想に対する外部の影響を軽視してきた、という批判が当っているのかという疑問から、「カラダーウィーのようなムスリム同胞団系の思想家が英語の著作を発表していること自体、欧米の知識人や研究者を意識している証拠である」とするようなサルヴァトーレの論拠への疑問(カラダーウィーが意識しているのは欧米のムスリム・コミュニティーであって、研究者や知識人ではない)、さらに、言説分析と現象分析は基本的に別の次元の話であるといった反論まで、さまざまなレベルの質疑応答とコメントが行われた。

次に三木報告では、「近代」以前のイスラーム圏における思考法の特性が「連続性」としてとらえられ、近代西洋の非連続的な思考法と対置された。三木氏によれば、近代西洋における思考パターンが分類や分節といった方法を重視しているのに対し、「近代」以前のイスラーム圏では、事物を連続したものとしてとらえる思考法が重視されたという。このことは、古代ギリシャN源の熱寒乾湿を等級で示すことにより、熱と寒、乾と湿を連続した性質として把握した医薬学はもとより、ユダヤ教・キリスト教・イスラームを連続したものとしてとらえる宗教観、人間の行為を5つの範疇((1)義務行為(2)推奨される行為(3)どちらでもよい行為(4)しない方がよい行為D禁止行為)に分けるイスラーム法のあり方などに如実に示されている。また、先例を規範とすることで「イジュティハードの門」を閉じてしまったイスラーム法学の歴史や、ウラマーや聖者をヴォランタリーに産み出していく教育や社会のシステム、さらに、語彙の多義性を旨とするアラビア語のありかたにも、連続性(場合によっては「曖昧さ」と言い換えてもよい)を重視するアラブ的・イスラーム的思考様式が反映されていると見ることができるのである。

さて、以上のような観点からすると、イスラーム圏における「近代」とは、連続性を重視する伝統的な思考に代わって、分類・分節を追求し、曖昧さをとことん排除しようとする近代西洋的な思考が浸透していく過程と見ることができる。アフガーニーらが始めた「イジュティハードの門」の再開運動やアラビア語改革なども、こうした流れの一環として理解することが可能かもしれない。

以上の三木氏の報告は、先の池内氏とはまた違った角度から、イスラーム圏における「近代」の言説の特徴を指摘したものと考えられ、報告後はまず報告内容に関する質疑応答、次いで池内報告をも含める形で、イスラーム的な思考法、また「近代」の言説のありかたに関わる活発な議論が展開された。

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