『東南アジアにおける人に移動と文化の創造』

平成9年度第1回全体研究会

 

日時:1997年12月13日(土)13:30-17:30,  14日(日)10:00-17:30

場所:AA研大会議室
 

セッション1:「フィリピンを中心とした東南アジア島嶼部における人の移動と文化の創造」(座長:床呂郁哉)

報告1:黒田景子(鹿児島大学)

「前近代マレー半島部の港市とネットワーク--アユタヤ・ネットワーク下の港市--」

   コメント:西尾寛治(東洋文庫)

報告要旨

 東南アジアの前近代国家にとって,都市と地方を結ぶネットワークは重要な交易路であり、地方統治システムの原形を成す物である。マレー半島中部には東西交易の要衝をなす港市国家群が存在するが、これら港市は、ムラユ・イスラム世界の一員であると同時に,北の仏教政権,シャム・アユタヤ朝にとっても重要な交易拠点としての意味をもっていた。港市は半島横断の陸路、海路を介して互いにネットワークを形成しているが、土地を求めて移動する内陸農民,交易者がその担い手である。ネットワークはその担い手の文化や政治状況を敏感に反映する。シャム湾側港市群は華人交易ネットワークの一部として機能し、これを効率的に利用したアユタヤ朝のもとで比較的安定した構造を維持したのに対し,インド洋側港市群は中東インド・イスラム商人、シャム人、華人、西欧人、ビルマ勢力、スマトラ・アチェ,セランゴール・ブギス,マレー系海洋民などのマレー勢力の政治的なバランスを反映して,ネットワーク中心が短期間に移動するなど不安定な構造をもっていた。
 アユタヤを中心とする強力なネットワークは,マレー半島のナコンシータマラートをインド-中国交易の中継港市として重視し、アユタヤ地方統治システム上での地方国(Huamuang)という地位を与えることで,より下位の地方国であるタラーン港市群やマレー系朝貢国のケダー、パタニからの交易利潤を確保し,南部地域の軍事拠点としてネットワークの維持安定をはかる構造となっていた。
 しかし、ネットワーク末端の典型的港市国家であるケダーは現実にはシャム,マレーの勢力闘争の中でその政治的帰属は不安定であり、ネットワークは互いの交流による文化の混在状況をも生み出してきた。
 だが,1909年、英領に帰属したケダーは国民国家システムへ移行し,国境の管理の近代化,人口センサスの作成などがネットワークの担い手の移動を次第に制限するものとなり,より広域のネットワーク機能をも分断することになった。 (黒田景子)

報告2:宮原 暁(大阪外国語大学)

「フィリピン華僑はいかにして『移民』となったか」

   コメント:三尾裕子(AA研)

報告3:小瀬木えりの(京都大学東南アジア研究センター)

「現代フィリピン女性の国際移動」

   コメント:川田牧人(中京大学)
 

セッション2 :「多言語使用・標準語化・混交語」 (座長:菊澤律子)

報告1:新谷忠彦(AA研)

「シャン文化圏における言語状況」

   コメント: 藪司郎(大阪外国語大学)

報告要旨
 内容については、新谷忠彦 1998『黄金の四角地帯--シャン文化圏の歴史・言語・民族--』慶友社参照のこと。(新谷忠彦)

報告2:(報告者自身による)神戸市外国語大学・梅花女子大学)

「シンガポールに見る『国民国家』と国語の関係-標準語化の視点から」

   コメント: 崎山 理 (国立民族学博物館)

報告要旨
 「国語」という言語学用語は、様々な学問領域やコンテクストで比較的自在に使用されてきた。これは、「国語」の用語自身が持つ曖昧さによるところが大きい。東南アジアでは、国家毎に「国語」が制定される過程やその後の施策が大きく異なるため、それぞれ独自の機能を担っている。言い換えれば、「国語」に相当する言語のプレステージも国家毎に微妙に異なるということであり、どの言語国家でも等しく用いられる概念ではない。まさに、本研究テーマである人の移動が「国語」という一つの文化の生成に関与していることは疑いない。そこで、移民が基盤となっているシンガポールをケーススタディに、「国民国家」の形成過程との関係において「国語」を再考してみた。
 社会の言語的変化から「national Language」の多義性−「国語」と「国家語」−を読み取れば、シンガポールは「国語」に相当するマレー語と「国家語」に相当する英語の両言語を合わせ持つ「国民国家」であることが判明する。しかしながら、しばしば社会学的文脈では、多様な民族集団が「国民国家」になる過程で「国語」と「国家語」が同義で使われ、「国語」教育の必要性が述べられる。それは、標準化もしくは共通化した言語が、通常、「国語」として国家統合の役割を期待されているからであろう。社会言語学的文脈では、1.「標準化された(される)言語」、2.「国家語」、3.「国語」の三つのレベルが明確にされるため、西欧型は1. --> 2.か1.--> 3.が多く、アジア型は 3.--> 2. --> 1. か 3. --> 1.(-->2.)に該当するなど、国家毎のモデルを組み立てることができる。シンガポールは1. --> 2.3.の複合形となる。今回、導入として、様々な言語国家を内包する東南アジア研究において社会言語学からの問題提起を試みた。(大原始子)

報告2:赤嶺 淳(地域研究企画交流センター/日本学術振興会特別研究員)

「サマ人の移動の軌跡と共時的分布」

  コメント: 山田幸宏(姫路獨協大学)

報告要旨

 サマ語はフィリピン南西部のスル諸島からボルネオ島東岸、東インドネシア地域にかけて分布している。本報告の目的は、サマ語を分類する際に考慮しなければならない問題点をあきらかにすることにある。調査には、報告者が作成した150語の語彙票と20のセンテンスリストを用いた。
 一般に東インドネシア地域のサマ語には、方言差が少ないと考えられてきた。本調査報告では、その点を具体的に確認することができた。加えて、中部スラウェシ州のブオル・トリトリ地区に点在するサマ語には、フィリピン系とインドネシア系のサマ語の要素が入り乱れて存在していることがわかった。興味深いことは、ばらつきは語彙だけではなく、他動詞文を派生する動詞接辞にも違いがみられることである。
 このことは、この地域において過去におこった激しい人口移動を示唆するものと思われる。この現象を分析するには、従来の歴史言語学の手法だけでは不十分であろう。同族言語における音韻変化と借用をどのようにして区別するのかなど、接触言語学を意識したあらたな研究手法が必要となろう。(赤嶺 淳)
 

セッション3:「人の移動と政治思想・意識の創造」(座長:栗原浩英)

報告1:池端雪浦(AA研)

「フィリピン革命期の連邦思想−カントナリスモ・流刑・留学・マロロス議会−」

   コメント: 川島 緑 (上智大学)

報告要旨
 本報告では3つの課題を追究した。(1)「人の移動」が「政治思想・意識の創造」をもたらす場合の条件とその間の仕組みを考える。(2)フィリピン革命期に事例をもとめて、西ビサヤで提起された連邦主義の実態を新たに掘り起こす。(3)「人の移動」との関わりで、この連邦主義の淵源を究明する。
 西ビサヤのパナイ島では1898年3月に独立革命が開始され、98年12月に「ビサヤ連邦政府(Estado Federal de Visayas)」が組織された。この連邦主義は「政治的統合体」としてのフィリピン共和国の存在を認めつつ、「行政的統合体」としてビサヤ連邦の自立性を主張し、フィリピン共和国はルソン連邦、ビサヤ連邦、ミンダナオ連邦の3連邦によって構成されるべきだと主張した。同じく西ビサヤのネグロス島でもパナイ島の呼びかけで、98年11月に蜂起が起こり、同月下旬に「ネグロス島カントナル連邦共和政府(Gobierno Republicano Federal del Canton de Ysla de Negros)」が組織された。ネグロス島の連邦主義はカントナル主義を標榜したことからも明らかなように、中央政府の存在をほとんど無視する自立性の強いものだった。
 パナイ島・ネグロス島の革命勢力がこうした連邦主義を提起した思想基盤はどのようにして形成されたのか。本報告では、(1)プロパガンダ運動の影響、(2)1874/75年にスペインからフィリピンへ送られた600人以上の流刑者(その多くはカントナリスタと呼ばれる急進的な連邦主義者)の影響、という二つの歴史過程に注目した。プロパガンダ運動に従事したフィリピンの留学生たちは、スペイン人連邦主義指導者と親交を深めた。なかでもホセ・リサールはピ・イ・マルガル(Francisco Pi y Margall)から多くの影響を受けた。プロパガンディスタは連邦主義についてほとんど著述を残していないが、「語り」によってフィリピンの在地エリートに連邦主義が伝達された可能性はあるだろう。ただし、マロロス議会に召集されたかつてのプロパガンディスタは、ルソン島出身者が大半を占めたこともあって、西ビサヤから提起された連邦主義を無視した。一方、大量の過激なカントナリスタのフィリピン流刑は、報告者がマドリッドの国立歴史古文書館で発掘した事件で、それがフィリピン社会に与えた影響は今後さまざまな面で検討される必要がある。ネグロス島のカントナル主義はこの事件と深い結びつきを持っていると想像される。この想像を確実に実証するためにはさらに多くの史料の発掘が必要であり、ここでは中間報告にとどめざるを得ない。
 結論として以下の3点が指摘される。(1)従来のフィリピン革命解釈と異なって、革命過程では単一国家主義と連邦主義のせめぎあいがあった。(2)西ビサヤの連邦主義の淵源には、プロパガンディスタがスペインからもたらした連邦思想やカントナリスタの流刑などによる影響があるとみられる。(3)「人の移動」と「政治思想・意識の創造」との間にある関係を、今回の事例に限って言えば、人々は共時的場を介しての相互作用によって新たな思想形成に向かったのではなく、通時的記憶の蓄積のなかから新しい思想形成のための情報を選び出したと言える。(池端雪浦)

報告2:弘末雅士(天理大学)

「ヨーロッパ人の調査活動と介在者の文化の創造」

   コメント: 栗田博之(東京外国語大学)

報告要旨(報告者自身による)

 19世紀後半以降、インドネシアの大部分の地域がオランダ植民地政庁の支配下に置かれるにいたった。植民地支配を拡大していく第一段階として、オランダはしばしば探検家や政庁官吏に対象となる地域への調査旅行を実施させた。彼らは、通常その地域のオランダとの接近を望む有力者の介在のもとに調査を実施し、当該地域についての記述を残している。報告者は、その過程においてヨーロッパ人来訪者と地元社会とのの介在者に注目したい。彼らが来訪者に対し、地元の文化社会を「異化」して提示することで、自らの仲介者としての役割の重要性を主張していると思われるからである。
 この問題を考察するうえで、東南アジアにおける「食人」が介在者によっていかにヨーロッパ人に提示されたかは、興味深いデータを提示してくれる。報告者は19−20世紀にかけて北スマトラを訪れたヨーロッパ人に対し、介在したバタック人が自覚的にカニバリズムを提示した事例を考察する。これにより、ヨーロッパ人の「食人」記述を、ヨーロッパ人の他集団に対する「野蛮」を発見しようとしたバイアスからのみではなく、彼らに自文化と他文化を異化させた仲介者の役割を通して、考えてみたい。
 19−20世紀におけるインドネシアは、ヨーロッパ人の東洋学の研究対象となり、当該の文化社会が「博物館化」されていく過程が、一般に指摘されてきた。が、同時に現地社会とヨーロッパ人とを媒介したインフォーマントにより、そのつど当該文化社会は「異化」されたり「神秘化」されて、再構築されていた可能性がある。こうした媒介者の存在は、人々の意識の「広域化」や「個別化」に重要な役割を果たすと思われる。(弘末雅士)

報告3:小林寧子(愛知学泉大学)

「メッカで学ぶジャーワJ^awah−19世紀末を中心に」

   コメント: 飯塚正人(AA研)