「前植民地期における人の移動とムラユ世界:18世紀ジョホール・リアウ王国の事例を中心に」

西尾寛治

 

 ジョホール・リアウ王国の前身であるムラカ王国やジョホール王国の支配は、「ダウラト」(=王の所有する超自然的力)観念と「ブアナ−ダウンの君臣誓約」とに依拠した二元的支配であった。この「ブアナ−ダウンの君臣誓約」は「ダウラト」観念を包摂した「プルジャンジアン」(=君臣間の誓約)であった。

 ところが。17世紀−18世紀のムラユ世界では、スルタン・マフムード弑逆事件(1699)によるムラカ王統の断絶、南スラウェシのブギスの移住、イスラームへの傾倒の強まりとハドラマウト出身のアラブ系ウラマーの活動の活発化、新王権誕生に伴う政治的紛争の激化などの社会的諸変化が発生した。こうした社会的諸変化の影響により、18世紀にジョホール王国の後継として成立したジョホール・リアウ王国では、「王権の相対化」が進行した。すなわち、「ダウラト」観念の相対化が進み、それと平行して「プルジャンジアン」論理の重視や「ナマ」(=王の名声、臣下のタイトル)の観念の確立が見られた。

 その結果、ジョホール・リアウ王国における王族・貴族層との君臣関係は、ダウラト観念を相対化した「プルジャンジアン」である「ムラユ−ブギスの忠誠誓約」と「ナマ」の観念に規定されるように変化した。だが。地方の村落などに居住する平民との君臣関係には、依然「ダウラト」観念が大きな影響を与えていた。

 17世紀以降のブギスとアラブのムラユ世界への流入は、上記のようなムラユの政治文化の変容を促した。すなわち、ブギスは「ダウラト」観念を相対化した「プルジャンジアン」の導入に影響を与え、アラブはイスラームのさらなる浸透を通して、ダウラト観念の相対化と「ナマ」の観念の確立に影響を及ぼしたと考えられる。(西尾寛治)