本報告は、町田ほか編『中国におけるアラビア文字文化の諸相』(AA研,2003)に収録された記事をhtml化したものです


【調査報告】
広東回族のイスラム文字文化と寺院教育



王 建新

WANG Jianxin
(中国中山大学人類学系)


懐聖寺の光塔
は じ め に
中国イスラム文化の発祥と発展においては、広東地域の位置付けはきわめて重要である。まず、広州を中心とした海岸沿いの港地域は、古代における海上の国際貿易の便がよく、唐の初期よりアラブやペルシアの商人が来航し、イスラム文化をもたらした発祥の地である。次いで、中世以後は、従来のムスリム商人による「番坊」に加えて、元明朝の色目人などのムスリム軍人が「回営」を築いてムスリム社会を拡大させた地域でもある。また、近現代における経済発展と文化融合の波のなかで、中国全体の発展をリードする広東地域のイスラム文化はさまざまな変容を成し遂げてきて、明らかにすべき課題があるからである。従って、広東におけるイスラム文化に関する研究には、その発祥と拡大の歴史過程、そして現代的変貌といった2つの基本的側面があると言うべきであろう。

筆者は、広東におけるイスラム文化の歴史形成と現代的変貌の両方に関心を持ちながら、2002年春、夏と冬の間に3回にわたって関係資料の収集や広州市を中心にした現地調査を行った。これらの研究調査は初歩的なものではあるが、現地のイスラム文化における幾つかの重要事項が分かった。現在広東省のイスラム教徒の人口は、ほとんど回族からなるが、主に広州市をはじめとするいくつかの中心都市に散在している。回族の人々は、宗派や儀礼祭祀活動の異同に基づく特殊な社会組織を持っておらず、従来のイスラム寺院などの宗教施設を維持し、自民族の文化伝統の象徴として宗教生活を営んでいる。彼らの宗教信仰の支えとして、イスラム寺院の歴史や宗教教育にかかわる文字文化が存在し、伝統文化の伝達や宗教教育の媒体などの重要な役割を持っている。

本文では、広東地域の回族の歴史形成と現状及びイスラム信仰の基本状況を理解する目的で、イスラム寺院などの宗教施設に保存されている額、彫刻、墓石と記念碑(以下は碑文とする)の内容を検討すると同時に、現在のイスラム教育における文字文化の役割と変化について報告を行いたい。この報告で用いられるデータと資料は、広州市内の寺院所蔵の碑文資料に関する従来の研究からのまとめと現地調査で得られたものである。

1. 広東回族とイスラム寺院
現在、広東省内に在住するムスリム少数民族は、回族、ウイグル族、カザフ族、キルギス族、ウズベク族、サラール族、東郷族と保安族などの八つであり、回族は、その総人口の約97%に当たる8845人を占めている(表1)。回族の人々は、広東省内の84の県に散在しているが、その主要人口は、広州市、深セン市と肇慶市などの中心都市に集中している(広東省地方史誌編纂委員会2000、187-188頁)。近年、経済発展と都市化が進んでいる珠海市と汕頭市にも回族人口が増え、新しい礼拝所やハラール食品店ができあがっている。

表1 広東省ムスリム少数民族人口一覧表
民族 人口
回族 8845
ウイグル族 253
カザフ族 6
キルギス族 25
ウズベク族 2
サラル族 6
東郷族 15
保安族 2
資料出所:広東省地方史誌編纂委員会 2000、9頁

これらの都市地域に居住する回族の人々は、政府の役人や学校の先生である場合もあるが、大多数は商業活動に携わっているため下町の商店街の周りに住居を構えているのが一般的である。西北地域並の大規模な居住地区を持たず、周りの漢族と似通った生活様式を持つとも言われているが、どこの町においても必ずイスラム信仰を象徴するイスラム寺院や礼拝所を建設し、イスラム文化センターとして利用し、自分たちの宗教文化の伝統を維持している。

広州市には、回族のイスラム信仰と宗教生活を象徴する4つのイスラム寺院がある。光塔路の懐聖寺は、規模が大きく最も歴史の古いイスラム寺院である。寺院の建設時期は、唐代とも宋代とも言われるが、予言者ムハンマドを記念するために作られた宗教施設であるため、懐聖寺と名付けられている。また、この寺院の入り口の隣に立っている、国の文化財でもある36メートルの高さを持つ白い塔があるため、光っている塔という意味で光塔寺とも呼ばれている。このイスラム寺院の3000平方メートルの広さを持つ敷地内には、礼拝大殿と教室などが設置されているが、市のイスラム施設の全体を管理する政府機関、広州市イスラム協会の事務所も併設される。寺院自体は、広東省レベルでの文化財になっている。
広州懐聖寺の礼拝大殿全景
濠畔寺入り口
                                 
広州市の第2のイスラム文化センターは、天成路の濠畔街に位置する濠畔寺である。このイスラム寺院は、明朝に入ってきたムスリム軍人によって建てられた宗教施設である。現在、狭い800平方メートルの敷地面積をより有効に利用するために、五階建てのビルが建設されている。寺院の敷地内には礼拝ホールと教室があるが、広東省のイスラム協会の事務所も併設されている。この事務所は広東地域における回族ムスリム宗教生活の事実上の指導部になっている。越華路に位置する小東営清真寺も、明代のムスリム軍人が築いた宗教施設であると言われる。寺院の全体は、礼拝大殿と数間の教室からなるが、現在は利用する人が少なく主に葬式を行う場所になっている。寺院の礼拝大殿は、明代の遺跡として認定を受け、現在広州市レベルの文化財になっている。

先賢古墓清真寺は、広州市北部の越秀公園の近くに位置し、唐代初期に中国にきたアラブの伝教師ワンガス(宛葛素)の墓地霊園内にある。場所は町の中心から離れているため、日常の礼拝に参加する人は少ない。しかし、出口商品交易会(広交会)会場に隣接しているために、年に春と秋二回に開かれる交易会に来る国外のムスリム商人たちによって、よく利用されることで有名な宗教遺跡としても知られている。また広州市内のイスラム古跡と認定され、広東省レベルの文化財になっている。古墓全体の敷地は2万平方メートル以上の広さを持つので、宗教施設としてだけではなく地域の経済発展にも貢献できるイスラム文化博物館にするべきとの建設案も出されている。
広州市西北部にあるイスラム遺跡ワンガス墓の入り口(左)とワンガス墓敷地内部の一角(右)

 

これらの回族イスラム施設を統括して管理するのは、広州市イスラム協会である。このイスラム協会は、政府の民族宗教管理の一部門であると同時に、宗教法人にもなっている。所轄施設として、市内にある四つのイスラム寺院だけではなく、不動産の管理部門やハラールレストランと食品製造工場、そしてムスリム墓地まで管轄し、自給自足のために幅広く経営活動を展開しているようである。これは、中国の他の地域における寺院が宗教法人になる状況とは、多少異なっている。これらの不動産や会社経営からの収入に加えて、民間からの寄付やハラール食品の認定サービス料などもあり、市イスラム協会は年間総額百万元前後の収入を持ち、堂々たる行政と経営管理の二つの機能を持ち合わせるイスラムの公共サービス機構である。

広州市のイスラム寺院数は少ないが、広州市西北地域の商店街や交通要所に位置していることで、その存在はイスラム教徒以外にも広く知られているようである。また、これらの寺院は、遺跡名所としても認定されそれぞれ全国、広東省ないし広州市レベルでの文化財として特別な保護政策を受けていることで、広州市におけるイスラム文化の悠久の歴史を物語っていると言えよう。

イスラム文化の古い歴史を持つもう一つの都市は、広州市の西側に位置する肇慶市である。広東地方志資料によると、現在の肇慶市の西と東にはそれぞれ一ヶ所のイスラム寺院があるが、共に明末清初のあたりに建てられたものである。西寺は、1980年ごろまで荒廃していたが、その後改修工事が始められて1992年に独特なアラビア風の礼拝ホールが建てられ、全盛期に入ったという。東寺も300年以上の歴史のなかで、衰退と発展を繰り返してきているが、現在は西寺とともに回族住民の宗教生活を支える機能を果たすようになりつつある(広東省地方史誌編纂委員会 2000、213-214頁)。1990年の統計では、肇慶市の回族人口は359という小さい数字であったが、2つの寺院を持つということでは、イスラム文化の存在と宗教生活の発展ぶりが伺われる。

広州市と肇慶市ほどイスラム文化の古い発展が見られない深セン市、珠海市および汕頭市にも新しい動きがあった。深セン市は、1980年以後、迅速の経済発展と都市化を迎えている中で、その回族人口も大きく増えつつあるが、1990年頃は762人に達したと記録されている(広東省地方史誌編纂委員会2000、188頁)。人口の増加につれ宗教施設も整備されつつあるようである。深?市の梅林東路には、1987年に初めてのムスリム賓館が建てられ、その最上階が5000収容可能な礼拝場の代わりになった。1998年に正式な宗教活動場所として登録済みで、公認の宗教施設になりつつある。珠海にも、1990年代初めに数カ所のムスリムレストランができ、2001年11月に臨時礼拝所も設立するに至った。広東省イスラム協会が礼拝や宗教儀式を行うためのイマムを派遣し、珠海方面の動きを支援している。最近、汕頭市にもムスリム流動人口が増えるところで、数十件の回族経営の食品店ができて、臨時礼拝所の設立の意向も既に出されているという(1)。
懐聖寺の向かい側にあるハラール料理屋と肉屋。広州では珍しい風景。
懐聖寺の入り口通路に置かれていた
ハラール料理試食回のお知らせ
以上の社会事象は、現在の広東地域における回族人口は確実に増えつつ、特に経済発展と都市化が進んでいる珠江デルタにおいて顕著になっていることを示している。回族の人々は、集中居住地域も特別な社会組織も持たず、イスラム寺院を地域社会の象徴として維持し、自分たちの伝統文化を維持している。彼らが寺院中心に営まれている集団生活を支える重要な文化要素の一つとして、イスラム信仰に関わる文字文化がある。以下は、回族のイスラム寺院における文字文化と宗教教育の現状を理解するために、まずその発展と変化の歴史過程についてまとめたい。
2. 寺院所蔵の碑文とイスラム文字文化
広東回族の人々にとって、以上で述べたイスラム寺院などの宗教施設は、地域社会の文化センターの役割を担いながらも、各種の碑文の保存庫でもある。これらの遺跡や碑文による文字記録に対する確認と内容整理を通じて、広東地域のイスラム信仰の変容を理解し得ることだけでなく、イスラム文字文化の形成と発展の状況も把握できるに違いない。以下、入手可能な刊行資料や関係研究の内容を整理しながら、この地域におけるイスラム文字文化の変遷の歴史過程について簡単にまとめたい。

広東地域のイスラム寺院などの宗教施設に保存されている碑文の作成時期や信憑性に関する言及は、断片的に見られていたが、その内容についての本格的な整理と研究は1980年代に現れた。中国側の研究者たちは、信憑性に関する議論というよりも、とりわけ内容の解読と整理に集中するようになっている。これまで、数冊の研究報告が出版されたが、その中でも、中元秀・馬建・馬逢逹編《広州伊斯蘭古跡研究》(1989、以下は《広州古跡》とする)は代表的な一冊である(2)。この本は、広州市内の懐聖寺、先賢古墓と小東営寺など三ヶ所の宗教施設に保存されているほぼ全部の額や墓石と記念碑を網羅し、注釈と翻訳を加えて報告している。内容と史実との関わりについては、さらなる検討が必要であるが、初歩的状況の説明には、便利な参考資料を提供してくれた。

《広州古跡》は合計142点の碑文とその内容を紹介したが、それらの碑文は、それぞれ懐聖寺に47点、先賢古墓に81点、小東営清真寺に14点が所蔵されている。作成時期は、元代よりつい最近までの約650年にわたっている。碑文の内容は、イスラム寺院や墓などの宗教施設の改修祝い、集団と個人による寄付の記録、商業取引の契約文書類、墓誌関係、政府の通告、コーランからの抜粋などがある。使用言語は、漢語とアラビア語の二つだけであるが、漢語によるものは109点、アラビア語は16点、漢語とアラビア語の両方で書かれたものは17点ある。

これらのことで広東地域の回族の人々は、イスラム信仰との関係で、文字文化として長らく漢字とアラビア文字の両方を用いていたことが分かる。両方とも宗教生活の重要な一面を担っていたが、機能や使用度合いは時代によって変化していた。それらの歴史変化の流れには、幾つかの重要な波があったことが分かるが、広東地域におけるイスラム信仰に関わる文字文化に対する私たちの理解にとってきわめて重要であるため、ここで確認しておきたい。

元代までのイスラム教徒は、自分たち本来のアラビア語風の名前を持っていたし、その表記も漢字音訳の方法を取っていた。例えば、懐聖寺の改修記念のために、元至正10年にアラビア語と漢語の両方を用いて作られた記念碑の最後の肩書きとして「中順大夫、同知広東道宣慰使司、都元帥府副都元帥馬合謀」と書かれている(《広州古跡》、6頁)。このような表記法は、当時広東地域に居住するイスラム教徒が、漢語を文章語として使用するようになりながら、自民族の言語も盛んに使っていたことを物語っている。しかし、その自民族語は、アラビア語であった可能性が大きいが、トルコ系言語であった可能性もないとも言えず、歴史言語学の研究と比較してさらなる検討を行う必要がある。いずれにせよ、元代までのイスラム教徒は、漢語を官用語として使っていたが、自自民族言語の使用頻度は、漢語のそれより相当に高かったと言うことができると考えられよう。

次いで、明代の碑文記録が存在しないという疑わしい事実がある。これについて、《広州古跡》編者は、明王朝に忠誠心を持った広州のイスラム教徒が清朝政府の鎮圧を受け、碑文などの文字資料も破壊された結果であると解釈している(《広州古跡》、5頁)。しかし、明朝こそがイスラム信仰を持つ人々に漢姓と漢名を持たせ、言語や服装などの風俗習慣を漢化させた史実があることからも、その時期におけるイスラム文字文化は、不振状態に陥って記録が保存されなかったと言うべきであろう。このことについては、さらなる専門研究の必要があるが、筆者は、明朝期は、イスラム文字文化の不振期であると認識したい。

清朝期の碑文が圧倒的に多いということは、清朝政府は、辺境地域のイスラム信仰とその文字文化を奨励し、発展を許していたことになろう。また、アラビア語で書かれたものを除けば、碑文の署名は一律に漢名が使用されるようになったこともあるが、これは清朝期におけるこの地域のイスラム文字文化が盛んになりつつあると同時に、漢字文化との融合の程度が深まったことを物語っているに違いない。

また、契約文や政府の通告なども多くあることが挙げられる。このことは、歴史上、イスラム寺院中心に使用されていた文書語は、宗教教育と祭祀活動の記録にだけではなく、社会活動の様々な側面との関連でも幅広く機能していたことが分かる。

最後に、民国期以後、特に中華人民共和国期に入ると、碑文の内容は寄付の記録と宗教施設改修に関する記念文に限られるようになった。これは、20世紀以来、現代教育の発達のなかで、広東回族におけるイスラム信仰関連の文字文化は、社会一般から離脱し、より寺院内部ないし宗教教育とかかわるようになったことを示していると言えよう。

以上に述べたことで、広東地域における歴史上のイスラム文字文化の発展と変化の基本状況について次のようにまとめることができよう。元代までの時期においては、この地域のイスラム教徒は漢字を使用していたが、自民族の言葉も相当に用いられていた。明代に入ると、宗教関係の碑文記録が完全になくなり、イスラム文字文化は発展の低迷期に落ち込んでいた。しかし、清代になると、宗教関係の書き物はとりわけ碑文などの記録の量が増大し、イスラム信仰と関わる文字文化の機能は、社会と教育の全体まで広がった。民国期以降の時期において、現代教育の発達と同時に回族のイスラム文字文化は、宗教祭祀と宗教教育の領域に限って機能するようになった。
三. 寺院教育と文字文化
現在の広東地域における寺院教育は、回族のイスラム文字文化の使用状況を理解する上での最も重要なスペクトルである。その現状と問題は、過去における文字文化のあり方に繋ぎながらも、現在における回族のイスラム信仰並びに宗教活動に関する意識状態を反映している。寺院教育の全容を明らかにするのは、大規模の専門研究が必要であるが、ここでは、現地調査で得られた第一次資料を用いて現場のおおよその状況を報告したい。

広東地域におけるイスラム教育は、西北地域のような回族人口の集中居住におけるイスラム教育とは異なり、ほぼ中心都市のイスラム寺院において少数の宗教知識人を中心に営まれているのが現状である。広州市の場合は、懐聖寺と濠畔寺の二か所のイスラム寺院だけが民族宗教局に公認された宗教教育施設になっている。回族の住民はイスラムの勉強に関心を持たない故であるかもしれないが、宗教知識人の養成が遅れていて、寺院のアホンは中国内地より招聘することが一般的になっている。

筆者は、2002年の春以来、数回に渡ってこれらのイスラム寺院を訪れ、イスラム専門教育の状況について見学し、アホンたち(宗教儀式の司会兼教師)に聞き取り調査を行っていた。現時点では、2つの寺院が共同で20歳1人、26歳1人と30歳前後2人、計4人(全員男性)の正規生を持つが、社会人教育としても不定期的にコーラン学習班も開催している。正規生の場合は、市のイスラム協会より月に540元の学習補助金と他の補助費を合わせて、700元前後の収入を受けることになっている。2002年12月現在、彼ら現行の学習内容は、主に現代アラビア語、コーランとイスラム文化知識及び礼拝儀式の基本となる。アラビア語の授業は月曜日と水曜日の午前中に懐聖寺で受けるが、コーランの勉強は火曜日と木曜日に濠畔寺で受け、イスラム文化と礼拝などの授業は金、土曜日に懐聖寺で受ける。正規生が参加するクラスは、場合によって聴講生が参加することもありうる。聴講生のなかには、地元の出身者もいれば、別の地域からきた人もいて、女性参加のケースもある。

教員としては、懐聖寺に所属する2名の男性アホンと1名の女性アホンと、濠畔寺に所属する1名の男性アホンが当たっている。2003年現在では、懐聖寺と濠畔寺に所属する男女3人のアホンのなか、1人は東北の沈陽出身で、他の2人は西北の甘粛地域の出身である。教授言語は、基本的に中国語の北方方言である。教材はイスラム文化と礼拝儀式では、回族の宗教知識人が中国語で編集したテキストを使い、アラビア語では北京言語大学が編集した基礎アラビア語、そしてコーランはアラビア語の原本がそれぞれ用いられている。懐聖寺に所属する2人の男性アホンの話によると、現時点で寺院でのイスラム教育においては、中国語とアラビア語以外の言語は基本的に用いられていない。

イスラム教育で用いられる言語についてはアホンたちに意見を聞いたことがある。昔のアホンは、「経堂語」や「小児錦」を講義の際の媒体として使う場合もあったが、現代においてはその必要はなくなったという。なぜならば、便利な通信や各種の教育媒体が発達している現在の時代では、イスラムを原典の学習を通じて行う技術的条件が備えられているからである。また、漢語を教授言語として採用するのは、中国文化の環境の中において当然のことであるが、昔のように儒教倫理などの中国式哲学の図式を持ってイスラムを説明する必要もなくなった。イスラム信仰をアラビア語で完璧に理解し、イスラムに特有の表現法で表すことは、現代の宗教知識人の方法であるし、回族の宗教学徒の目標であるべきだとも言われている。

しかし、現在のイスラム教育には、問題があるとも言われている。広東省は中国における個人収入の最も高い地域の一つであるが、回族住民が持つイスラムに対する関心は、経済発展に対するものより比べられないほど低いという。これは、回族人口が少ない、政府からの重視もないなどのことからなる問題であると考えられるが、宗教専門家の存在は皆無に近く、イスラム教育に対する情熱がないことも否定のできない原因になろうという人もいた。地元の回族住民に責任を負わせるというよりも、大量の寄付と支援金を得られたイスラム協会の運営に問題があるという強い批判もあった。イスラム協会は、数十年前から地元出身の宗教指導者を養成することを中心問題にしてきたが、いつも高い代償を支払った後に、結局は内地よりアホンを招聘する始末になっている。

一応、広東地域のイスラム教育は発展の可能性が十分にあるが、管理部門の指導方針にも問題があることで、人材の育成と教育の普及が遅れている。アラビア語やコーラン原本による寺院教育は強化する必要があるが、文字文化以外の問題も解決しなければならないという認識がある。広東回族は古いイスラム文字文化の歴史を持つが、これからは現代の歴史条件に合わせて、自分たちのイスラム文字文化を発展させる新しい道を探っていくべきであろう。
おわりに
2003年元旦を過ぎてからの最初の水曜日に、懐聖寺に行って王文潔アホンが主催するアラビア語講座を見学した。現場には、4人の正規生と3人の聴講生が集まり、アホンの話を熱心に聞いていた。天気が良いために、その日の授業はアホン室の外の廊下で行われていた。授業の途中で、アホンの声が覆われるくらいに近くのビルからは、粤劇の演奏が始められた。後に聞いた話であるが、これは毎週水曜日に近くの老人活動センターで行われる伝統劇の練習である。無意識にアホンと生徒たちの反応を確認したが、皆はその演奏は耳に入らぬ様でアラビア語の読む練習に専念していた。

この場面で、あることに思い至った。広東の回族と彼らの文化伝統は、海の中の孤島の如く異なる文化によって囲まれている中で、自分たちの存在がなくならないように必死で顔を出している。彼らの文化伝統を特徴付け絶えまぬ努力を支えているのは、なによりもアラビア語で表すイスラム信仰である。どんなプレシャーにも負けずにイスラム文字文化を維持していこう、という強い意志を持つ人々がいる。故に、イスラム文字文化に関する研究は、回族の宗教信仰に対する理解において意味があるだけではなく文化伝統を維持する営みのあり方と彼らの帰属意識の実践状況を解明することにも重要であると言えよう。
[付記]本稿の執筆に当たっては、早稲田大学大学院の田中周氏のお世話になった。末筆ながらここに記して謝意を表したい。

(1)ここで述べられた事柄は、公式な発表がなく、筆者が現地調査で地元の政府幹部や宗教指導者に行った聞き取り調査で得られた情報によるものである。

(2)広東地域の状況に関する言及は、他にもある(例えば答振益他主編《中国南方回族碑刻扁聯選編》[1999]や余振貴他主編《中国回族金石録》[2001]など)が、しかし内容は前述のものと基本的に同様で、新しい発展が見られていない。

参考文献
答振益・安永漢1999、《中国南方回族碑刻??選編》寧夏人民出版社
広東省地方史誌編纂委員会2000、《広東省志・少数民族志》広東人民出版社
余振貴2001、《中国回族金石録》寧夏人民出版社
中元秀・馬建?・馬逢逹1989、《広州伊斯蘭古跡研究》寧夏人民出版社

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