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コメの味、パンの味~日欧文化比較、あるいは部屋探しの決め手~(武蔵境、日本)


 義務教育における歴史教育の賜物で、日本ではフランシスコ・ザビエルの名前はよく知られている。1506年にスペインのナバラに生まれた彼は、宗教改革の嵐が吹き荒れるなか、イグナチオ・デ・ロヨラらとともにイエズス会を創設した。ザビエルはアジアでのキリスト教布教を志してインドに向かい、マラッカにおいて日本人ヤジロウと出会う。ヤジロウとの対話を通じて日本に可能性を見出したザビエルは、1549年に鹿児島に上陸し、日本における布教活動を開始した。

 1552年にザビエルが亡くなった後、彼の遺志を継いで数多くのイエズス会士が来日してローマ・カトリックの布教に努めた。九州で布教活動を開始したイエズス会士たちは、その後日本の中心であった畿内にも活動範囲を広げ、そこで天下統一を目指していた織田信長に出会うことになる。「南蛮人」のもたらす新しい技術や知識の吸収に貪欲であった信長は、イエズス会士たちにも好意的であり、彼らの布教活動を保護した。

 信長の信任を得て間近で接することを許され、貴重な記録を残したことで知られるイエズス会士がルイス・フロイスである。1532年にポルトガルのリスボンに生まれた彼は、イエズス会に入会後インドに派遣され、そこで日本に向かう直前のザビエルに出会った。これがきっかけとなってフロイスは日本での布教を志すようになる。そして1563年に彼は日本に到着し、1597年に長崎で亡くなるまで布教活動に従事した。1992年に放送されたNHK大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』でナレーションを務め、毎回最後に「アテ・ブレーヴェ!オブリガード!(また近いうちにお会いしましょう。ありがとうございました。)」と言っていた人物こそ、フロイスである。

 イエズス会士たちはキリスト教という新たな宗教を日本に根付かせようと努力した。商売であれば、現地の言葉を十分に話せなくても、習俗に通じていなくても用は足りるであろう。しかし新しい信仰を受け入れてもらうためには、現地の言葉や習俗に精通して人びとの信頼を勝ち得なければ成功はおぼつかない。そのためイエズス会士たちは日本語と日本の習俗の研究・習得に努めた。

 イエズス会士たちのなかでも有数の日本通であったフロイスは、文才にも恵まれていた。彼は布教報告書の執筆を担当するとともに、日本におけるキリスト教の布教史を解説した『日本史』も執筆した。フロイスの文章は詳細であり、上司から「文章が冗長なので簡潔にするように」と再三指導されたほどであった。しかしその冗長さと紙一重の詳細さが、後世の歴史学研究者に思わぬ情報を与えてくれることは少なくない。

 フロイスの著作の中で異彩を放つのが、1946年にマドリードの文書館で発見された『日欧文化比較』である。この文献はフロイスが「ヨーロッパと日本の習俗があまりに、時には正反対であるほどに異なる」ことに驚き、それをヨーロッパに伝えるために執筆したものであった。本書の特色は、フロイスがその文才を遺憾なく発揮した詳細さもさることながら、ヨーロッパと日本の習俗を対比して記述している点である。このように自文化と他文化を比較している著作は珍しく、その内容は実に興味深い。本書は『ヨーロッパ文化と日本文化』というタイトルで岩波文庫に入っており、簡単に読むことができる。

 14章からなる『日欧文化比較』のなかで、「日本人の食事と飲酒の方法について」と題された第6章には60の項目が挙げられている。取り上げられている分野は、食器、配膳、調理器具、食材、料理、食事の作法、飲酒の方法など多岐にわたる。その中でフロイスが食べ物の対比として真っ先に取り上げているのが、「いつも食べるもの」の相違である。彼は「我々(ヨーロッパ人)がいつも食べるものは小麦粉のパンであるが、日本人がいつも食べるものは塩をいれずに炊いたコメである」と記している。

 フロイスがこの文章を記してから400年以上が経過し、日本において食生活の欧米化とともにコメ離れが指摘されるようになって久しい。しかし今なおコメが日本人にとって重要な食べ物であることは変わらない。米所と呼ばれる地域に関わりを持つ者ならば、その気持ちはなおさらである。

 私の両親は佐渡島の出身である。日本海に浮かぶ佐渡島は、大佐渡山脈、小佐渡山脈、そして両者の間に広がる国仲平野から構成されている。2つの山脈から国仲平野には無数の川が流れ込み、山麓から平野にかけては米所となっている。新潟県の米所といえば魚沼が全国的に有名であるが、佐渡産コシヒカリは魚沼産コシヒカリと肩を並べるブランド米である。

 同じ佐渡島でも場所によってコメの味は異なる。山麓に位置する母方の祖父の水田のコメは極めて良質であり、私は幼いころからそれを食べて育った。私にとってコメが美味しいこと、そして美味しいコメを食べられることは当たり前のことであった。

 20代の終わりに、フロイスの母国であるポルトガルに留学することになった私にとって、美味しいコメが食べられなくなることは覚悟のうえであった。期待していなかった分、ポルトガル料理でコメが多用されること、また普通の食料品店で購入したコメを鍋で炊くとそれなりの味になることが嬉しかった。むしろ私が驚いたのはパンであった。ポルトガルのパンは素朴で味わい深かったものの、「パン、そしてパンという言葉を日本に伝えた人びとの子孫であるポルトガル人は、コメを主食としている日本人以上にパンに情熱を注いでいるのだろう」という私の予想は外れた。

 それをきっかけとして、私は日本とヨーロッパのパンの違いについて考えをめぐらせるようになった。すでに指摘されていることであるが、ヨーロッパには主食副食という概念はない。パンは重要な食べ物ではあるけれども、主食ではない。それに対して日本人はパンを主食であるコメと同等の食材ととらえ、コメの味わいにこだわるのと同様に、パンの味わいにこだわっているように思われる。

 特筆すべきであるのは、日本人のパンへのこだわりのすさまじさであろう。バゲットにせよ、ドイツパンにせよ、日本ほど本場の味を追求しているパン職人が多数いる国はないであろう。外国の文化を吸収し、時には本場の水準を凌駕するまで高めてしまうことは日本文化の特色の1つであるが、パンはその典型ではなかろうか。

 帰国してから数年が経過し、私はある大学に就職が決まった。部屋探しをする際、通勤の便利さと同じくらい私が重視していたのが、「近くに美味しいバゲットを焼くパン屋があるか」という点であった。「コメは佐渡島のコシヒカリを実家から送ってもらって自分で炊けばよい。しかしバゲットは、レシピ本は購入して眺めているものの、当面自分で焼く余裕もないだろうから、美味しいものを焼くパン屋が近くにあってほしい」と考えたためである。

 私は勤務先周辺で美味しいパン屋を探しまわった。うまい具合に、通勤に便利なJR武蔵境駅の近くに好みのバゲットを焼くパン屋が見つかった。JR中央線の踏切跡地のそばにある「パサージュ ア ニヴォ(Passage à niveau)」(フランス語で「踏切」という意味)という名のそのパン屋は、バゲットなどハード系のパンがとても美味しかった。それが決め手となり、私は引っ越し先を決めた。

 ポルトガル産のワインを飲みながら、生ハム、スモークサーモン、チーズといった好みの具材をはんで「パサージュ ア ニヴォ」のバゲットを食べていると、佐渡島産コシヒカリでつくったおにぎりを食べているときと同様に心身ともに満たされる。そして私は頭の中で16世紀と現代を行き来しながら「フロイスは日本各地のコメの味の違いを分かったのだろうか」「フロイスが現代の日本のパンを食べたらどのような感想を書くだろうか」「フロイスが食べていたパンはどのようなものであったのだろうか」「フロイスが今生きていたとしたらどのような『日欧文化比較』を書くのだろうか」などと考え続ける。

2013年9月7日


「パサージュ ア ニヴォ(Passage à niveau)」の情報は以下のとおりです。時間が遅くなるとバゲットは売り切れになるのでご用心。パリに通いなれた食通の同僚に紹介したところ、「パリでもあれほど美味しいバゲットを焼くところはなかなかない」と絶賛していたので、味は間違いないでしょう。
  電話:0422-32-2887
  住所:東京都武蔵野市境南町1-1-20 タイコービル1F
  営業時間:8:00~18:00頃(売り切れ次第終了)
  定休日:第一火曜日、水曜日

**美しい朱鷺(とき)が舞う佐渡島では、農薬や化学肥料を減らし、「生きものを育む農法」で栽培されたコメを対象とする「朱鷺と暮らす郷づくり」認証制度を設けています。人と自然に優しい農法でつくられた佐渡島産コシヒカリは、佐渡島から取り寄せることができます。独特の粘りと、噛みしめるほどに口の中に広がる旨味を持つ佐渡島産コシヒカリをぜひご賞味ください。 



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「パサージュ ア ニヴォ」のバゲット。お店の方に許可をいただいて撮影。


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