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海底の人と船を思う~「戦没した船と海員の資料館」を訪れる~(神戸、日本)


 その日私は神戸の小さな資料館を訪れていた。

 中華街の喧騒を抜けたさきにひっそりとたたずむ「戦没した船と海員の資料館」というその小さな資料館は、私にとってどうしても訪れたい場所であった。

 太平洋戦争中に沈没した船と、それらに乗船していた人びとの記録を展示・収集しているその資料館について私が知ったのは、『こころの時代 宗教・人生~鎮魂の模型船・戦没船乗員遺族の思い~』という番組を見たことがきっかけであった。

 太平洋戦争の開戦まで、日本は世界第3位の商船保有国であった。飛行機による長距離・大量輸送が困難であった当時、船こそが海外との交通の花形であった。船会社はより大型・高速で、サービスが充実した船を、北米航路をはじめとする各航路に就役させて競い合った。横浜港に係留されている氷川丸も、戦前北米航路用に日本郵船が建造した船であった。

 しかし太平洋戦争の開始により、そのような華やかな時代は終わった。広大な太平洋を舞台とするアメリカ合衆国を中心とする連合軍との戦いを支えるため、多くの船が軍に徴用され、輸送活動に従事した。しかしアメリカ合衆国の潜水艦や航空機の攻撃によって日本船は次々に沈められ、終戦時に稼働状態にある大型船はほとんど残されていなかった。氷川丸がそのような戦火をくぐりぬけ、奇跡的に戦没を免れた船であることを知る人は今となっては少ないであろう。

 戦前から日本は石油をはじめとする重要物資を海外からの輸入に依存していた。そもそも日中戦争で疲弊していた日本が連合国との開戦に踏み切ったのは、南方の資源地帯を攻略し、その資源を用いて持久体制をとるためであった。

 戦争というものが、国家の総力を注いで行われるようになった第1次世界大戦において、通商路の保全は国家の存亡を左右するものとなった。連合国の通商路を断とうとするドイツの潜水艦と、それを封じ込めようとする連合国艦艇との戦いは熾烈を極めた。

 連合国側の護衛艦艇が不足するなか、イギリスの要請を受けた大日本帝国海軍は3つの特務艦隊を編成し、連合国側商船の護衛を行った。特に地中海に派遣された第二特務艦隊の活躍は目覚ましく、連合国側で高く評価された。

 しかし第1次世界大戦の戦訓が日本で活かされることはなかった。大日本帝国海軍は、日露戦争時の日本海海戦のような艦隊決戦に勝利することによって国力で勝るアメリカ合衆国を屈服させようとする構想に固執し、通商路保全の重要性を軽視し続けた。

 太平洋戦争後半、アメリカ合衆国海軍の通商路破壊作戦が本格化して被害が激増すると、ようやく日本でも輸送船団の護衛を専門とする部隊が設置された。しかし日本の輸送船は次々に沈められていき、南方から本土に資源を輸送することも、また南方に兵士や物資を送り込むことも困難になっていった。この時点で戦争の勝敗は明らかになっていた。

 しかし戦争は続けられた。十分な護衛がないまま、多くの船が闇雲に南方に送り出され、その大半が戦没して多くの人びとが犠牲になった。特に台湾とフィリピンとの間に横たわるバシー海峡では、多くの日本船がアメリカ合衆国の潜水艦によって沈められた。それゆえこの海峡は「輸送船の墓場」と呼ばれるようになり、そしてそれは「バシー海峡の悲劇」と記憶されることになった……

 このようなことを私は知識としては知っていた。しかしそれはあくまで「知識として」であり、私は『こころの時代 宗教・人生~鎮魂の模型船・戦没船乗員遺族の思い~』を見て衝撃を受けた。そして太平洋戦争中の戦没船と、それらに乗船していた方々について強い関心を持つようになった。

 この番組に登場した佐藤明雄氏は、もともと船が好きで、戦前自分が乗船したことのある10隻の船の模型を作りたいと、ペーパークラフト(紙模型)を作り始めた方であった。1年間でそれらの船の模型を作り終えた佐藤氏は、ある日そのうちの1隻を、その船で船長を務め、船と運命を共にして亡くなった方の遺族に贈った。泣いて喜ぶ遺族の姿に、佐藤氏は戦没船の模型が遺族の方々にとって大きな意味を持つことを悟り、それ以来船の模型を作って遺族の方々に贈る活動を続けておられるという。

 戦没した船に乗っていた方々には遺骨はなく、どこで亡くなったのかさえ明らかではないことが多い。ある遺族は学童疎開のために幼い息子たちが乗船して犠牲になった対馬丸の模型を前にして泣き崩れ、また模型を受け取ったある遺族の一家は「ようやく夫が、父が自分たちのもとに還ってきてくれた」と号泣したという。船の模型を亡くなった肉親の棺と考え、寺で法要を行う遺族の方々も多いという。

 佐藤氏は「「戦没した船と海員の資料館」を支えるグループ」の代表であり、この番組は「「戦没した船と海員の資料館」で収録されたものであった。その時からこの資料館は私にとって「ぜひ訪れたい」、正確に言えば、「訪れなければならない」資料館となった。

 ようやく「戦没した船と海員の資料館」を訪れることができたのは、数年前の夏であった。資料館は2つの展示室に分かれていた。玄関から入り、階段を登ったところにある第1展示室の中央には、大小の船の模型が置かれており、周囲の壁面は戦没した船の写真と説明で埋め尽くされていた。写真と説明がある船は約1400隻、説明のみの船が約1500隻、合計2900隻もの記録が展示されていた。第1展示室の奥にある第2展示室には、寄贈された船員の方々の遺品や資料館が収集した文献資料が保管されていた。

 各船の説明には、沈没した場所と経緯、そして犠牲者の数が掲載されていた。私は戦没した船の数、そして犠牲者のあまりの多さに圧倒された。漁船まで含めれば戦没した船の数は7000隻以上、そして船員だけで6万人もの方々が犠牲になったという。私は犠牲者に対する責任や義務のようなものを感じながらそれらを1つずつ読んでいった。

 かなりの時間をかけて館内の展示物を見て回った私は、アンケート用紙を記入することにした。すると館員の方が声をかけてくださり、私はしばらくの間その方にお話しをうかがうことになった。

 驚いたことに、敗戦から60年を過ぎてなお、「亡くなった夫や父の最期の様子を知りたい」と、この資料館には遺族の方々から調査の依頼が続々と届いているという。しかし戦争中、どの船がどこでどのように沈没したのかという情報は軍事機密であり、詳細は不明であることが多い。それでも館員の方々は苦心して情報を収集して船を特定し、遺族の方々にそれを伝える作業を地道に続けておられるとのことであった。

 敗戦から長い時間が経過し、太平洋戦争の悲劇が語られる機会は少なくなってきた。戦争の悲劇が語られるにしても、戦没船とそれらの船員が注目されることはほとんどない。しかしこのような悲劇を我々は忘れてしまってよいのだろうか?

 資源を海外から輸入しなければ成り立たたないこの国に生きるのであれば、海外からの物資輸送の重要性、そしてそれに従事する人びとの安全を守り、彼らを戦火に巻き込まないことの重要性を深く認識する必要があるのではなかろうか?

 残念なことに、党派の関係でこの資料館を訪れる政治家はほとんどいないのだという。それを聞いて失望しつつ、私は自分が滞在していた数時間の間に何組もの若い人びとがこの資料館を訪れたことに驚きを感じていた。歴史と船が好きな自分はともかくとして、それらに縁がなさそうな若者たちがこの資料館を訪れ、展示に見入っている様子は、私の心を少し明るくした。

 何をしたとしても太平洋の海底に沈んでいる犠牲者が還ってくることはない。しかし悲劇を記録して後世に伝え、悲劇を繰り返さない努力をすることが生きている者の務めであることを、私はこの小さな資料館を訪れてあらためて感じた。

2013年8月15日


*「戦没した船と海員の資料館」について詳しくは、以下のホームページをご覧ください。
 http://www.jsu.or.jp/siryo/siryokan/



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「戦没した船と海員の資料館」の玄関。このような資料館が国の支援を受けずに運営されていることを複雑に思う。

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