Column027 :: Ishikawa Hiroki's HP

われ四十にして惑う~そして綺麗さびに魅了される~


 「四十にして惑わず」と孔子は言った。

 『論語』の為政編によれば、孔子は15歳で学問の道に進むことを志し、30歳で自らの立場を確立し、40歳で惑うことがなくなり、50歳で天命を知り、60歳で人の言葉を素直に聞くことができるようになり、70歳で心のおもむくままに行動しても人の道を踏み外すことがなくなったという。

 孔子が晩年に自身の生涯を振り返ったこの言葉からは、「志学」「而立」「不惑」「知命」「耳順」「従心」という6つの言葉が生まれた。そのなかで最もよく知られているのが「不惑」である。「天命を知る」といった大仰なものではなく、「惑わなくなった」という共感しやすい内容もさることながら、多くの人々が40歳になって自分の人生について考え、「四十にして惑わず」と言うことのできた孔子の偉大さを感じることが、この言葉が広く知られるようになった理由ではなかろうか。

 40歳になったばかりであるが、私は惑ってばかりである。

 孔子と同様に私も15歳のときに学問の道に進むことを志した。しかしその後20代後半までは目の前のことをこなすことに精一杯であり、40歳になったときのことなどまったく視野に入っていなかった。30代に入ると、数年先のことすら見通せない不安定な状態で生きることを余儀なくされ、40歳になったときのことなど考える余裕はなかった。そして「これまで年相応の人生を送ることができなかった」という思いを抱きながら40歳を迎えたにもかかわらず、年相応、あるいはそれ以上の責務を引き受けざるを得ない状況となり、正直戸惑いを隠すことができない。

 「戸惑いを隠せない」と言えば、最近突然茶の湯に興味を持ち始めたことに自分自身も驚いている。40歳という年齢は心身ともに変化が生じる人生の重要な節目であるらしいが、まさか自分にこのような変化が訪れるとは思ってもみなかった。

 歴史と名がつけば何でも好きな私は、茶の湯の歴史についても多少の知識を持っていた。利休が茶の湯に革新をもたらした日本芸術史上特筆すべき偉人であったこと、緑釉と独特な器形を特色とする織部焼で知られる古田織部が彼の高弟であったこと、そして利休が豊臣秀吉によって、織部が徳川幕府によって切腹を命じられたことなどは知っていた。しかし利休と織部の美、そして彼らの死の真相は私にはあまりに深淵に思えて、深く立ち入って考えることはためらわれた。

 そのような私が茶の湯に興味を持つようになったきっかけは、電子ブックリーダーを購入したことであった。海外調査のための長時間の移動の際に使おうと電子ブックリーダーを入手した私は、ノンフィクションや小説などともに、古田織部の生涯を描き、巷で評判となっている『へうげもの』も購入した。往復の機内で『へうげもの』を読みながら、私は歴史上の事件や人物に対する著者の斬新な解釈に驚き、デフォルメされた人物像に笑いつつ、戦国時代の人々が茶の湯に執心した理由について思いをめぐらせた。

 帰国後、たまっていた仕事を片付けるあわただしい日々の中で、私はふと「天下人たちが愛蔵した大名物(おおめいぶつ)と呼ばれる茶道具、特に松永久秀が織田信長に献上して大和一国を安堵されたという付藻茄子(つくもなす)と呼ばれる茶入れは、今どこにあるのだろうか」と思い、調べることにした。するとその有名な茶入れが静嘉堂文庫美術館という美術館に所蔵されていること、しかも開催中の展覧会において展示されていることが分かった。その展覧会は数日後に終了する。「そのような名品を間近で見られる機会はそうそうないだろう」と思った私は、休日にその展覧会を訪れることにした。

 静嘉堂文庫美術館は世田谷の閑静な住宅街の一角に位置する。三菱財閥を創始した岩崎家の庭園であったというその場所は、深い緑に包まれ、小川のせせらぎが響く、「都内にこのような場所が残っていたのか」と感嘆するような落ち着いた場所であった。

 美術館の館内は多くの来場者でにぎわっていた。私はその展覧会の目玉であった曜変天目(ようへんてんもく)、油滴天目(ゆてきてんもく)という2つの天目茶碗、そして目当てであった付藻茄子、さらに出展されていた利休、織部、その他の茶道具をしげしげと眺めた。

 これらの茶道具を蒐集したのは、三菱財閥の2代目総帥であった岩崎彌之助と、その息子であり三菱財閥第4代総帥の小彌太であった。明治維新以降西洋の文物がもてはやされるなか、彌之助と小彌太は、日本の伝統文化を守ろうと、軽視され、打ち捨てられようとしていた美術品の蒐集と保存に尽力した。曜変天目を入手した小彌太は「天下の名器を私に用うべからず」と言い、生前一度もこれを用いることはなかったという。時代の奔流のなかで日本の伝統文化を守った彌之助・小彌太父子の偉大さ、そして蒐集した美術品を私物化しなかった品格に私は深く心を打たれた。

 まったく予期していなかったのだが、展示されていた数々の名品のなかで、私が一番心惹かれたのは小堀遠州の茶道具であった。遠州が「埋火」と命名した、黒い天目釉に銀色の帯が走る天目茶碗を目にして、私は一瞬にして心を奪われた。また私は仕覆(しふく)と呼ばれる茶入れや茶碗を入れる袋で、遠州が用いた色使いにも魅了された。400年前に生きた人物の色彩感覚にこれほど惹かれるとは自分でも驚きであった。私は閉館時間ぎりぎりまで粘り、食い入るように遠州の茶道具を眺め続けた。

 小堀遠州については、茶人であり、高名な作庭家であったことは知っていた。しかし彼の茶の湯についてまったく知識のなかった私は、それ以降暇を見つけては遠州に関する文献を取寄せ、仕事の合間にそれらを眺めるようになった。

 天正七年(1579年)に近江国に生まれた遠州は、豊臣秀吉の異父弟であった羽柴秀長に仕えた後、豊臣秀吉の直参となり、その死後は徳川家康に仕えた。古田織部に茶道を学んだ彼は、数多くの建築を手掛け、また庭園を造りながら、「綺麗さび」と呼ばれる茶の湯を創始した。それは利休、織部の茶の湯を継承しつつ、そこに王朝文化の美意識を取り入れた、明るく、華やかな茶の湯であった。

 しかし小堀遠州の茶の湯は単に華麗なものであったわけではない。現在では信じられないほどに政治権力と密接に結びついていた当時の茶の湯において、己が信ずる美を追求することは、利休と織部の死に見られるように、それが極まれば極まるほど、権力者との衝突を招く危険なことであった。そして遠州が綺麗さびを創りあげたのは、徳川幕府が成立し、その支配を盤石なものにしようとしていた時代であった。遠州に求められたのは、未だ下剋上の野心を捨てようとしない荒ぶる戦国武将たちを懐柔するとともに、隠然たる影響力を保っていたしたたかな公家を取り込むことによって、徳川幕府の安泰を支えることであった。そう思ってみるからなのだろうか。遠州の茶道具の華麗さには、時代が彼に課した宿命が発する凄みが秘められているような気がしてならない。

 私にとって戦国武将たちが茶の湯に魅了された理由は長年謎であった。しかし多少の苦労をして40歳に至り、そして小堀遠州について調べているうちに、それはまったく理解できないことではないように思えてきた。戦場の喧騒や荒々しさとは全く異なる茶室の静寂な空間で、美しいものを愛で、一杯の茶を楽しむ。そのような茶の湯に、修羅場をくぐり抜けてきた戦国武将たちが感じたであろう生きている実感と悦びを、私も少しは感じることができるようになったように思う。

 私はこれからも惑い続けるであろう。しかしその中で一つでも多くのことを学んでゆこうと思う。そのような歩みを着実に続けてゆけば、孔子の言った不惑の心境にいつかたどりつけるのではないかと信じながら。

2013年5月12日


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静嘉堂文庫美術館が所蔵する茶道具のパンフレット。神秘的な斑紋が輝きを放つ手前の茶碗は世界に3碗しか現存していない曜変天目茶碗。

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