Column025 :: Ishikawa Hiroki's HP

日本海を眺めながら「日本のシンドラー」について考える(敦賀、日本)


 その日私は敦賀に向かっていた。

 敦賀は日本海に面する港町である。東日本大震災の後、原子力発電所があることでにわかに注目されるようになったが、良港を擁する敦賀は古来より畿内と北陸を結ぶ交通の要衝であった。近代に入り、1902年にロシアのウラジオストクとの間に航路が開設されると、敦賀は大陸への玄関口となった。私が敦賀を訪れたのは、そこが尊敬する日本人外交官に縁の地であることを知ったためであった。

 杉原千畝(1900~1986年)。
 第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館において、ナチス・ドイツによる迫害を逃れてヨーロッパ各地から逃れてきたユダヤ人たちにビザを発給し、多くの命を救った日本人外交官である。自身が経営する工場で雇用していた多数のユダヤ人を救い、『シンドラーのリスト』という映画で世界的に知られるようになったオスカー・シンドラーになぞらえ、「日本のシンドラー」と呼ばれる人物であることをご存じの方も多かろう。杉原氏が発給したビザを携えたユダヤ人たちはシベリア鉄道でウラジオストクに向かい、そこで船に乗り、敦賀に到着した。

 私が杉原氏について初めて知ったのは小学校の高学年の時であった。教室の後ろの棚の上に並べられた学級文庫のなかに、杉原氏の功績を子ども向けに紹介した本があった。それを読んだ私は杉原氏の行為に感動し、杉原氏は私にとって尊敬する人物となった。

 私は中学受験を経験したが、第一志望校の入学試験では面接が実施された。実際に質問されたかどうかについての記憶は定かではないが、「尊敬する人物は?」と面接官に質問されたら、「第二次世界大戦中に多くのユダヤ人を救った日本人外交官の杉原千畝氏です」と答えようと決めていたことははっきりと覚えている。

 1990年に杉原氏の夫人が、杉原氏と過ごした日々を回想した『六千人の命のビザ』を出版すると、高校生になっていた私はすぐに購入して一晩で読み終えた。私は外務省の指示に逆らってユダヤ人にビザを発給した杉原氏の勇気にあらためて感動するとともに、戦後この時の不服従を理由として杉原氏を退職させた外務省に対して憤りを感じた。

 私が通っていた私立の中学・高校では、理系の生徒の多くは医者になることを、文系の生徒の多くは官僚か弁護士になることをまず目指した。歴史学研究者にあこがれていた私は、そのなかで毛色の変わった存在であった。しかしそれをあこがれにとどめ、厚生省か環境庁の官僚になって世の中のために働きたいという気持ちも強かった。

 しかし結局私は官僚になる道を捨て、歴史学研究者を目指すことにした。その決断の背景に、『六千人の命のビザ』を読んで胸に刻まれた官僚組織というものに対する幻滅や不信感があったことは否定できない。

 私が小中学生の頃にはほとんど知られていなかった杉原氏の功績は、『六千人の命のビザ』の刊行後、徐々に世間に知られるようになった。私は自分が尊敬する杉原氏の功績が広く知られるようになったことを人知れず喜んでいた。しかし歴史学研究という官僚の世界とはまったく異なる道を歩み始めた私にとって、杉原氏は少しずつ遠い存在になっていった……

 車窓の雪景色を眺めながらそのようなことを考えているうちに、私は敦賀駅に到着した。多少道に迷いながら、私は敦賀港に面した「金ヶ崎緑地」という海浜公園の一画にある「人道の港 敦賀ムゼウム」に到着した。そこは小ぢんまりとした資料館であった。しかし展示品と上映されている動画は充実し、見応えがあった。私は時を忘れてその1つ1つに見入った。私はそれまで知らなかった数多くのエピソードを知った。

 杉原氏が発給したビザを携えたユダヤ人たちは無事に日本にたどり着いたわけではなかった。シベリア鉄道で日本を目指す途中、列車が駅に停車するたびにソ連の秘密警察が乗り込んできて、彼らから貴金属を奪ったり、また若者を強制労働に連行したりしたという。

 そのような苦難に遭いつつウラジオストクに到着した彼らは、敦賀行きの船に乗船した。そして彼らはソ連の領海を出た瞬間に喜びを爆発させ、ある歌を合唱し始めた。それは後にイスラエルの国歌となった歌であったという。

 日本海の荒波に耐え、彼らはようやく敦賀の港にたどり着いた。あるユダヤ人女性はその時に船上から見た雪の降り積もる敦賀の街について「天国のように美しかった」と回想していた。その言葉に彼女が置かれていた苦難を思い、私は心打たれた。

 敦賀の人びとのユダヤ人たちへの心温まる対応についても初めて知った。着の身着のままでたどり着いたユダヤ人たちに、ある青果商は新鮮な果物をかごに盛って贈った。港近くの朝日湯という銭湯の主人は銭湯を無料で開放した。駅前の時計店の店主は、空の財布を見せながらものを食べる仕草をするユダヤ人たちに同情し、時計や指輪などを買い取るとともに、店にあった食べ物を渡したという。

 この時敦賀に到着し、今はオーストラリアで家族に囲まれて平和に暮らす老婦人や、敦賀やウラジオストクに両親や祖父母の足跡をたどる男性の映像。彼らがそこに生き、歴史を語り、たどることができたのは、杉原氏の決断の賜物である。私はあらためて杉原氏の偉大さに胸を打たれた。

 食い入るように展示を見るなか、私の目はある品にくぎ付けとなった。それは杉原氏がビザ発給前後の心情を書き綴った手記であった。そこには以下のように書かれていた。

 「最初の回訓を受領した日は、一晩ぢゅう私は考えた。考えつくした。回訓を、文字どおり民衆に伝えれば、そしてその通り実行すれば 私は本省に対し従順であるとしてほめられこそすれと私は考えた。仮りに当事者が私ではなく他の誰かであったとすれば、恐らく、百人が百人、東京の回訓通りビザ拒否の道を選んだだろう。それは何よりも、文官服務規程方何条かの違反に対する昇進停止 乃至 馘首が恐ろしいからである。私も、何をかくそう、回訓を受けた日、一晩ぢゅう考えた。……果たして、浅慮、無責任、が武者らの職業軍人集団の対ナチ協調に迎合することによって全世界に隠然たる勢力を擁するユダヤ民族から永年の恨らみを買ってまで、旅行書類の不備、公安配慮云々を盾にビーザを拒否してもかまわないのか、それが果たして、国益に叶うことだというのか。苦慮、煩悶の挙句、私はついに人道・博愛精神第一という結論を得た。そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと今も確信している。」

 杉原氏は単に人道上の見地からユダヤ人たちを救おうとしたわけではなく、自分が服務規程違反を理由に解雇される可能性を認識したうえで、国際社会におけるユダヤ人の力を考え、国益のためにビザを発給したのか……

 緑色の罫線が入った小さな原稿用紙に書かれたこの文章に、「杉原氏は人道的な見地からユダヤ人たちにビザを発給したのであろう」という、漠然と信じていたことを覆され、私は動揺した。

 展示を見終えた私は、運営のための寄付をして「人道の港 敦賀ムゼウム」を後にした。私はユダヤ人たちが下船したという船着き場の跡地に向かい、そこで日本海を眺めながら、杉原氏の手記の内容をどのように理解すればよいのだろうかと考えた。しかしはかばかしい答えは見つからず、私は帰路に就いた。

 東京に戻り、私は仕事の合間に杉原氏について調べ始めた。そして私は、1990年代半ば以降、杉原氏に関する研究が飛躍的に進んだことを知った。杉原氏がロシア語に通じた優れた外交官であったことは知っていたが、杉原氏は私が考えていた以上に優れた外交官であった。

 杉原氏が1939年にリトアニアのカウナス領事館に赴任したのは、欧州情勢が緊迫する中でソ連の動向を把握するための措置であった。そこでユダヤ人たちにビザを発給した杉原氏は、プラハ総領事館勤務を経て、1941年2月に東プロイセンのケーニヒスベルク総領事館勤務を命じられた。1936年に日本と防共協定を結んでいたナチス・ドイツは、1939年にソ連と不可侵条約を結んでポーランドを分割し、さらに1941年6月22日にソ連領内への侵攻を開始した。そのような複雑で奇怪な欧州情勢に、日本の政府や軍部、そして外務省すらも翻弄されるなか、杉原氏は優れた諜報能力を発揮し、独ソ戦の開始を1ヵ月半前に察知して報告したという。

 独ソ戦の開始後、杉原氏はヨーロッパ各地を転々とし、1947年に帰国した。しかし外務省はユダヤ人に対するビザ発給問題での不服従を理由として杉原氏に退職を勧告し、氏は外務省を依願退職した。「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」という陰口をたたく人びともいたという。

 杉原氏が発給したビザによって命を救われたユダヤ人たちは、戦後杉原氏の行方を探し続け、1968年になってようやく杉原氏の所在をつきとめた。そして彼らは、杉原氏の行為が外務省の許可を得ていないものであり、しかもそれを理由に杉原氏が外務省を追われたことを知り、驚愕した。1985年にイスラエル政府は、自らの危険を顧みずユダヤ人の命を救った杉原氏を「諸国民の中の正義の人」として顕彰した。

 戦後民間企業に勤めた杉原氏は、誰にでも温かく接し、決して上から見下ろしたりするような人物ではなかったという。ユダヤ人に対するビザ発給については、「大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです」と述べ、自ら進んで語ることはなかったという。

 杉原氏について調べるなかで、私は自分が大きな思い違いをしていたことに気付いた。杉原氏は一流の外交官であった。それゆえ時には本省に対して面従腹背の姿勢をとりつつも国益を守ろうとした。ユダヤ人にビザを発給したのも、ヨーロッパの複雑な情勢と、現場の状況に通じていない本省の判断を押し切ってのものであった。

 その根底には、外交に携わる者としての強い信念と、自分の能力に対する強い自負があった。それゆえ杉原氏は外交官という職を失う恐れがあっても、自分の判断を信じて、勇気ある行動をとることができたのである。私はそれまで心から賞賛しながら、いまひとつ腑に落ちなかった杉原氏の英断の背景について理解できたような気がした。

 そして私はあることに気づき、愕然とした。ユダヤ人たちへのビザ発給の舞台になったリトアニアのカウナスに杉原氏が派遣されたのは39歳の時であった。その時私も同じ歳であった。もちろん私は国益を守る最前線に立っているわけではない。しかしもしそのような立場に置かれ、そして杉原氏のように厳しい選択を迫られたとしたら、私は杉原氏のような行動をとることができるであろうか……

 私が「人道の港 敦賀ムゼウム」で目にして衝撃を受けた文章は、杉原氏が晩年に記した「決断 外交官秘話」という手記の草稿であった。この文章を読み返し、「そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと今も確信している」という末尾の文章に至るたびに、私は杉原氏の静かでありながら揺るぎのない強さを実感し、氏に対する尊敬の念を深くする

2013年3月2日


*「人道の港 敦賀ムゼウム」について詳しくは、以下のホームページをご覧ください。
 http://www.tmo-tsuruga.com/kk-museum/




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「人道の港 敦賀ムゼウム」正面の看板。左下の写真の人物が杉原千畝氏。

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