Column024 :: Ishikawa Hiroki's HP

2月1日に祈る~中学受験への思い~


 私にとって2月1日は特別な日である。

 関東の多くの私立中学校でこの日に入学試験が実施される。27年前の2月1日に、私はある私立中学校の入学試験に臨んでいた。

 私が中学受験に挑むきっかけとなったのは、母の知人の勧めであった。隣の小学校に通っていたその女性の長男は、周囲に比べて段違いに頭脳が明晰であった。しかしそうであったがゆえに、彼は周囲から浮いていた。「落ちこぼれ」の反対で、成績が良いためにかえって居場所を失ってしまう、いわゆる「浮きこぼれ」であった。自分自身もかつて中学受験を経験したその女性は、彼に都内の有名私立中学校を受験させようとしていた。

 学年で1、2位を争うほど大柄であった私は、中身の方も年齢のわりに大人びていた。私が地元の公立中学校に進学して周囲とうまくやっていけないことを懸念していた両親は、その女性の勧めに従い、私に中学受験をさせることにした。

 私が塾に通い始めたのは、小学校3年生の3学期であった。私が住んでいた松戸市を含む千葉県の北西部には、当時まだ大手の塾は進出していなかった。この地域の中小の塾は、四谷大塚という東京都内の大手塾と提携していることが多かった。平日は「四谷大塚準拠塾」と呼ばれるそれらの塾に通い、土日のいずれかに都内各所の会場で四谷大塚のテストを受験するというシステムであった。

 当時四谷大塚は5年生と6年生のみを対象としており、4年生の終わりに選抜試験があった。四谷大塚に通うとなれば、土日のいずれかが丸々つぶれてしまう。それを知った私は、さすがに子どもらしく「1日休みがなくなるなんていやだ」としぶった。しかし結局は母親の説得を受け入れた。「母親がこれほど真剣に言うのであれば、よく分からないけれど、大事なことなのだろう」と思ったためである。

 四谷大塚は選抜試験の合格者を「正会員」と「準会員」に分けた。私はかろうじて「正会員」になったものの、成績は低空飛行を続けた。見かねた母親はよい塾はないかと探し、小学校5年生の夏休みから私は松戸市に隣接する柏市のある個人経営塾に通うことになった。

 当時柏には、名前が知られた中学受験用の個人経営塾が2つあった。1つはスパルタ教育で有名な塾で、私が入ったのは、その塾に比べれば合格実績は劣るものの、「先生が熱心で優しい」という評判のもう1つの塾であった。最初にその塾を訪れた日の光景は、不思議なことに30年近くが経過した今でもはっきりと覚えている。

 その塾の指導方法は独特であった。教科書の内容説明は一通り行われたものの、大半の時間は四谷大塚のテストの過去問を解くことに費やされた。宿題の量も多かった。「1日分の宿題の量が、それまで在籍していた塾の1週間分を優に超える」という事実に私は度肝を抜かれた。

 私は論理的な思考は苦手で、記憶力と読解力に頼るタイプであった。そのような私に、過去問をひたすら解くというその塾の指導方法は性にあった。今思えば、過去問を解くことにより、出題傾向を体得していたのだろう。驚くことに、それまで「正会員」の中で1500番台をさまよっていた私の順位は、その塾で約1ヶ月間勉強して臨んだ夏休み明けの試験で100番台になった。このような噂はまたたく間に広まるものらしい。その後、他の塾で成績が伸びなかった子どもたちが、次々にその塾に入塾するようになった。

 私は1週間のうち3日、その塾に通った。小学校の授業が終わった後、一度帰宅し、母が作ってくれた弁当を持って塾に向かった。帰宅が午後11時を過ぎることは珍しくなく、時には0時を過ぎることもあった。日曜日には、松戸の自宅からはるばる四谷大塚の中野校舎までテストを受けに行った。それ以外の日は、大量に課される塾の宿題をこなすことに追われた。

 「子どもにそんな過酷な生活をさせるなんて」と眉をひそめる方もいらっしゃるかもしれない。しかしこのような日々は私にとってとても充実したものであった。小学校の授業とは比べ物にならないほど高いレベルで、同じ歳の子どもたちと真剣勝負を繰り広げることは私にとって楽しかった。私にとってそれは家の外で初めて見つけた自分の居場所であった。

 しかし私が通っていた小学校では中学受験に対する理解はなかった。当時東京都内の小学校では、すでにクラスの3分の1以上の子どもたちが中学を受験するという状態になっていた。しかし私の地元では公立中学校に進学するのが一般的であり、塾に通い、中学校を受験しようとすることに反感を示す小学校教員は多かった。私が3年生、4年生であった時の担任教師はその典型で、事あるたびに中学受験に対する嫌悪を露わにした。「勉強をして何が悪い」と反発しつつ、私は心の片隅で自分が何か悪いことをしているように感じていた。

 5年生、6年生の時の担任教師も中学受験に批判的であるように私には思えた。それが思い違いであったことを知ったのは、受験間近であった。寒さが厳しくなった12月のある日、その教師は私を職員室に呼び出した。そして一冊の問題集を差し出して「私立中学を受験するんだろ。これで勉強しなさい」と言った。それは前年度の全国各地の中学校の受験問題を集めたものであった。しかし志望校の過去問を10年遡って解くといった大学受験並みの対策を塾でしていた私にとって、それはまったく役に立たないものであった。私は御礼を言ってそれを受け取りながら、「この先生は中学受験についてなんにも知らないんだ。誤解していて悪かったな」と子どもながらに思った。

 入学試験というものに慣れるため、1月中に2校を受験した私は、2月初めに第1志望校の入学試験を迎えた。2月1日に筆記試験、2日に面接が実施され、3日に合格発表があった。私は合格した。

 今となっては冷や汗が出るが、当時は私も両親も第1志望校以外に関心はなく、すでに合格していた2校の入学金を支払っていなかった。この時に第1志望校に合格していなければ、私の人生は大きく変わっていたことであろう。

 中学受験業界には、上位校を示す「御三家」という用語がある。どの学校を含めるのかは時代によって変化するが、当時の関東の男子御三家は開成、麻布、武蔵、女子御三家は桜蔭、女子学院、雙葉であった。私が通っていた塾の男女御三家への合格者は、それまで年に1、2名であった。しかし私が受験した年は、塾生30名程度のなかから開成5名、麻布1名、桜蔭1名、女子学院1名合格という好成績をおさめた。これを機に「柏にすごい個人経営塾があるらしい」という噂が広まり、その後その塾は私が入ったときとは比べ物にならないくらい多くの塾生を擁する有名塾となった。

 自分自身の中学受験から8年後、大学に入学した私は、その塾でアルバイトをさせてもらうことになった。中学受験はすっかり様変わりしていた。まず四谷大塚で4年生のコースが設けられたのに伴い、中小の準拠塾も4年生を受け入れるようになっていた。また四谷大塚や日能研といった大手塾が千葉県北西部に進出し、校舎を開設するようになった。受験者数も増加し、もはや中学受験は特別なものではなくなっていた。

 それらに伴って「私立の中高一貫校の方が大学受験の実績が良い」「大学までの一貫校に合格すれば、高校・大学受験の苦労から解放される」といった考えが、小学生の子どもを持つ親たちの間に浸透し始めた。しかし裾野が広がったことで、安易に子どもに中学受験をさせる親も増えていた。

 中学受験は、まだ遊びたい盛りの子どもたちに、遊びや習い事をあきらめさせ、難解な勉強を長期間にわたって強いる。それに耐えなければならない理由を親に尋ねても、多くの場合納得できるような答えはもらえない。さらに中学受験は、無邪気に将来の夢を語っていてもよい年代の子どもたちに、自分の成績が全国で何番目であるのかという冷たい現実を毎週突き付ける。

 そうした苦労を経験したとしても、期待していたような成果を入学試験で得られればよい。しかし思うような結果が得られないことは多く、その場合子どもは深く傷つくことになる。そうした心の傷は高校受験や大学受験で受けるものよりも深刻な影響を子どもたちに与えることさえある。

 自分が中学受験をしたときには、ただがむしゃらに勉強しただけで、周囲の子どもたちがどのような思いで受験に向きあっているのかというところまで気が回らなかった。しかし教える側に立ったことで、中学受験の負の部分がよく見えるようになった。

 自分のように中学受験を必要とし、それに救われる子どもが一定数存在するという確信。そして中学受験の計り知れない残酷さに対する懸念。二つの思いの間で揺れながら、目の前にいる子どもたちのためにできる限りのことをしようと、研究が忙しくなってアルバイトをやめるまでの数年間私はその塾で悪戦苦闘した。

 大人びているがゆえに中学受験を必要とする子どもがいれば、子どもらしいがゆえに中学受験がふさわしくない子どももいる。いずれにせよ、2月1日が中学受験に挑む子どもたちにとって運命を決める大切な日であることに変わりはない。

 中学受験と縁遠くなった今でも、私にとって2月1日は特別な日である。毎年2月1日を迎えると、入学試験会場にいる子どもたちのことを思い、その幸せを祈らざるにはいられない。

2013年2月1日


*柏の塾でお世話になった恩師が亡くなった。その方の御指導により、中学受験で第1志望校に合格できたからこそ、今の私がある。ひとかどの研究者になって御礼を申し上げにうかがうことが夢であったが、それを果たすことはできなかった。悔やんでも悔やみきれない。研究者として恥ずかしくない業績を残すとともに、その方に教えていただいた教育に対する真摯な思いを守り続けることが、私がすべき恩返しであると思っている。





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四谷大塚の中野校舎。27年ぶりに訪れてみると、記憶の中よりもはるかに小さな建物であった。しばらく眺めていると、この校舎で感じた高揚感や緊張感が鮮やかによみがえってきた。 

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