Column019 :: Ishikawa Hiroki's HP

子は親の椅子を見て育つ


 「子は親の背中を見て育つ」と言う。

 子どもが親の何を見て育つのかは家庭によって異なるであろう。私の場合、それは椅子であったように思う。

 私の両親が家を建て、一家でそこに移り住んだのは私が4歳のときであった。私の記憶はその一戸建ての光景から始まる。そのなかで特に印象に残っているのが、ダイニングに置かれた6脚の椅子と母の部屋に置かれた2脚の椅子である。それらの椅子は私にとって幼いころから生活をともにしてきた日常生活の一部であった。

 ダイニングの椅子がハンス・J・ウェグナーのYチェア(ワイチェア)であり、母の部屋の椅子がアルネ・ヤコブセンのセブンチェアであることを知ったのは、インテリアに興味を持ち始めた大学生になってからだったと思う。

 ウェグナーとヤコブセンはいずれも20世紀に活躍したデンマーク出身のデザイナーである。彼らが創り出した家具は、新しい技術を取り入れ、大量生産に対応したものでありながら、あくまで北欧の木工家具の伝統を継承したものでもあった。優れたデザインと機能性を兼ね備えるとともに、木の温もりにあふれたそれらの家具は、現在に至るまで世界中で称賛されている。

 木製の家具というのは不思議なものである。年月の経過とともに使用されている木材の性質が変化し、使い始めとはまったく異なる表情を見せるようになる。私が幼い時から食事の際に座っていたYチェアも、最初は明るい色あいであったが、私が実家を出るころにはすっかり奥深い色あいに変化していた。しかしその堅牢さに全く変化は見られなかった。

 自分で家具を選び、購入するようになって、私は自分がいかに良質の家具に囲まれて育ったのかを知った。セブンチェアは母が結婚に際して持参した数少ない家具であったそうだが、1脚の価格は結婚するまで勤めていた会社での1ヶ月分の給与と同じであったという。新築の家のダイニングのために夫婦で選び、買い揃えたYチェアとダイニングテーブルの総額は、当時の父の給与3ヶ月分に相当したという。円の価値が現在の4分の1以下にすぎず、輸入品が総じて高価であった時代に、裕福とは程遠い生活をしながらこれらの家具を買い求め、大切に使い続けた父母に、私は畏敬の念を抱くようになった。

 実家を出て数年が経過し、私は思い悩んでいた。自分が正しいと信じ、必死に努力してきたことに対して、心無い言葉を浴びせられることが重なり、追い詰められていた。私は自分を見失い、何を信じ、どのように生きればよいのか分からなくなっていた。

 ある日、いつものごとく半日以上論文の執筆などを続けた私は、疲れ果てて帰宅した。遅い夕食を終え、ふと電話機に目をやって、私は着信の表示に気付いた。確認してみると、それは実家からの電話であった。重い気持ちを押し、少々無理をして作った私にしては明るい声で実家に電話をかけると、父が出た。電話をかけてきたのは父で、用件は「ウェグナーのバレットチェアの掘り出し物を見つけたので、気分転換に見に行かないか」というものであった。

 バレットチェアと一般に呼ばれるその椅子は、背もたれの上部がハンガーの形状をしている。座板を起こすと、それはスラックス掛けになり、座面の下には身の回りの小物を収容できるスペースが設けられている。「従者」を意味する「バレット」という名称は、1脚で身の回りの品々を全て整理できることからつけられた。ユーモアあふれるコンセプト、優れた機能性、そして何よりもそのデザインの美しさによって、バレットチェアはウェグナーの代表作の1つとなっている。

 椅子に興味を持ち始めてから、バレットチェアは私の憧れであった。しかしその特殊な形状や用途のために生産数が限られているこの椅子は、ウェグナーの作品の中でも高価なものの1つとなっている。「いい歳をして将来の見通しが立っていない自分のような人間にとっては縁のないものなのだが」と思いつつ、私は一緒に行くことを父に約束した。

 その週末、父と現物を見に行ったところ、その椅子は傷も劣化もない、極めて状態の良い品であることが分かった。趣味が高じて北欧家具の輸入業を営むようになったというまだ若い店主によれば、その椅子はデンマークの家具店で展示されていたもので、そのため良い状態のまま輸入することができたということであった。

 その椅子に用いられた木材は年月を経て美しい色を醸し出していた。その椅子は美しく、気品にあふれており、ウェグナーの椅子づくりに対する情熱と矜持がひしひしと伝わってきた。私はそれを眺めているうちに、自分の荒んだ心が癒されていくのを感じた。

 その日の晩、父から電話がかかってきた。母と相談し、その椅子を私のために購入することにしたという内容であった。御礼を言って電話を切った後、ベランダに出た私は夜空を仰いで涙した。自分がすばらしいと思うものを同じくすばらしいと思い、それに相応の対価を支払うことを惜しまない人びとがこの世の中に存在する……その事実に自分が決して孤独ではないことを気付かされ、そして励まされて。そしてそのような大切なことを椅子によって伝える2人の血を受け継いだことに感謝し、そして誇りに思って。

 Yチェア、セブンチェア、バレットチェア……
 父母は椅子で生き様を示してくれた。

 父母がYチェア、セブンチェアを買い求めた歳をとうに過ぎた私は、自分の生き様を示すことができるような何かを持っているだろうか…… 

2012年8月3日



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ハンス・J・ウェグナーのバレットチェア 


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