Column017 :: Ishikawa Hiroki's HP

フィンランドで奇跡を感じる(ヘルシンキ、フィンランド)


「フィンランド」と聞いて何を思い浮かべるであろうか?

 「森と湖の国」「高福祉国家」「サンタクロース」「サウナ」「ムーミン」「キシリトール」「マリメッコの雑貨」「イッタラの食器」「クロスカントリーやスキージャンプといったウィンタースポーツ」「F1ドライバー」「ノキアの携帯電話」「Linux」……人それぞれ思い浮かぶイメージは異なるであろうが、フィンランドが平和で豊かな北欧の国として世界中の人々に敬愛されていることは間違いないであろう。

 10年ほど前、留学期間が終わりに近づいて、ヨーロッパに滞在しながらほとんど旅行をしてこなかったことの愚かしさにようやく気付いた私は、帰国前の夏休みを利用してヨーロッパ諸国を巡ることにした。よく知られた観光名所を一通り目にしたかったのはもちろんのことであるが、私が最も訪れたかった国はフィンランドであった。

 そこで私は滞在していたリスボンからまずパリへ飛び、その後陸路と海路を使ってヨーロッパを北上した。ストックホルムから船に乗って絵のようなバルト海沿岸の風景を眺めつつ、フィンランドの首都ヘルシンキに到着した私は、憧れの国を訪れることができた感動を胸に早速市内の名所を巡り始めた。

 私がフィンランドに興味を持ったのは、中学生のときに第2次世界大戦前後のフィンランドの歴史に関する本を読んだことであった。

 主にフィン人が居住していた現在のフィンランドの地は、スウェーデンの支配を受けた後、19世紀初頭にロシア帝国の一部となった。1917年にロシア革命が起こると、フィンランドでは、社会主義国家を樹立しようとするグループとそれに反対するグループの間で内戦が起こった。その結果、後者が勝利をおさめて1919年にフィンランド共和国が成立した。フィンランドの人々はようやく自分たちの国を持つことができた。 

 しかし1939年9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発すると、フィンランドは過酷な状況に直面することになる。

 ナチス・ドイツとの間に密約を結んでいたソ連は、1939年9月17日に不可侵条約を一方的に破棄すると、ポーランドに攻め込んでその西半分を制圧し、さらにバルト三国にも侵攻して、易々とこれらを占領した。勢いに乗ったソ連はフィンランドの征服も目論んだ。

 1939年10月11日、ソ連はフィンランドに無理難題を押し付けた。それは「現在の国境線では、フィンランド側から長距離砲でレニングラード(現サンクトペテルブルグ)を砲撃可能であるので、国境地帯を割譲せよ」という恐ろしく理不尽な内容のものであった。当然交渉は決裂した。ソ連は「フィンランド軍の挑発攻撃」を自作自演したあげく、それを口実として計45万名という大兵力でフィンランド国内に攻め入った。それは何の道理もない、紛れもない侵略行為であった。

 1939年11月30日から1940年3月13日まで続いた「冬戦争」と呼ばれる戦争で、フィンランドの人々は、国際社会の支援を受けられぬまま、旧式の兵器をかき集めて勇敢に戦い、奇跡的にソ連軍を食い止めた。しかし停戦合意までに2万7千名もの人々が犠牲となり、講和のためにフィンランド政府は全国民の10%以上もの人々が居住する地域を割譲するという過酷な条件を飲まざるを得なかった。

 1941年6月22日にナチス・ドイツが突如としてソ連に侵攻を開始し、さらに日本が参戦すると、フィンランドはアメリカ合衆国やイギリスの支援を受けたソ連と再び戦わざるをえなくなった。これを「継続戦争」と呼ぶ。この戦争でフィンランドはナチス・ドイツから武器を供与され、その同盟国となった。しかしフィンランド軍は奪われた国境地帯の奪回を完了すると、ソ連領内に進攻してナチス・ドイツの侵攻に加担することは頑なに拒んだ。

 1943年に入ってナチス・ドイツの敗色が鮮明になり、また米英の援助によって増強されたソ連軍の大攻勢が始まると、フィンランドは何とかそれを食い止めつつ、講和の道を探った。そして1944年9月19日にソ連との間に休戦協定を結ぶことに成功した。 

 フィンランドは敗戦国となり、勝者となったソ連に多額の賠償金の支払いを課せられた。さらに冷戦の崩壊まで、フィンランドの歴代政権は、資本主義経済圏に属しつつ中立政策を採り、出来る限りソ連を刺激することを避けるという微妙な舵取りを余儀なくされた。

 しかしフィンランドの人々は独立と民主主義を守り抜き、今日見られるような豊かな国を築き上げた。

 ヘルシンキの街を歩きまわった私が最後に向かったのが、ヘルシンキ・オリンピックスタジアムであった。第二次世界大戦後、フィンランドの人々は懸命に復興を進め、1952年に賠償金を完済するとともに、第15回夏季オリンピックを開催した。1952年7月19日から8月3日まで続いたこのオリンピックは、近年の商業化された大規模なものとは異なり、こぢんまりとしたアットホームな大会であったという。

 私が訪れたとき、スタジアムでは中学生くらいの少年少女による陸上競技大会が開催されていた。選手たちはもちろん真剣であったが、それを見守る人々の表情は穏やかで、北欧の平和な国の休日にふさわしい光景であった。

 穏やかな午後の日差しの中でそれを眺めながら、私は1939年11月30日から1952年7月19日までの間にフィンランドの人々が経験した過酷な運命に思いを馳せた。そして国際社会の理不尽さに屈せずに彼らが独立を守り抜き、復興を成し遂げ、その証としてオリンピックが開催されたことの奇跡を感じるとともに、その舞台となったスタジアムを訪れることができた幸せを噛みしめた。

2012年6月13日



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「冬戦争」「継続戦争」を最高司令官として戦い抜き、戦後は大統領としてソ連との困難な講和を成し遂げたマンネルハイムの記念館。フィンランドの独立を守った彼は、軍人としても、政治家としても稀有な人物であった。

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