Column013 :: Ishikawa Hiroki's HP

「月の山」のふもとで物思いにふける(ルウェンゾリ、ウガンダ)


 「エジプトはナイルの賜物」

 古代エジプト文明を支え、ローマ帝国にとって屈指の穀倉地帯であったエジプトの豊かさの根源は、ナイルによって上流から運ばれる肥沃な土砂であった。この大河の水源については古来より謎とされてきた。

 しかし2世紀のギリシアの学者プトレマイオスは、著書『地理学』において、アフリカ大陸の内陸部に位置する湖がナイルの水源であると記した。彼によれば、その湖は「月の山」と呼ばれる山の麓にあり、この山の雪解け水がそこに流れ込んでいるという。この後、ナイルの水源である湖とその傍らにそびえたつ「月の山」を発見することに多くの人々が挑戦した。しかしそれらを目にして無事に帰る者はいなかった。

 1770年、1人のスコットランド人探検家がエチオピア王国に入国した。ジェイムズ・ブルースという名のその男は、内戦の合間を縫って、青ナイルが流れ出るタナ湖に向かい、さらにこの湖に注ぐある川の水源に辿り着いた。彼はそこが「ナイルの水源」であると信じており、帰国後に執筆した旅行記において到達の喜びを感動的に記述している。

 往路に勝るとも劣らない苦難を経て、彼は無事にヨーロッパに帰り着くことができた。フランスで大歓迎された彼は、イギリスにおいては批判にさらされるようになった。エチオピア王国に関する記述をめぐって当時の文壇の大御所と衝突したこともさることながら、「彼が訪れた場所には、すでに17世紀の前半にイエズス会士が到達しているのではないか」という疑いが致命的であった。そしてこの指摘は正しかった。

 その上ブルースが訪れた水源は「ナイルの水源」ではなかった。ナイルの上流は青ナイルと白ナイルに分かれている。より距離の長い白ナイルの水源こそ「ナイルの水源」であった。

 19世紀半ばに、イギリス人探検家のスピークとバートンによって白ナイルの水源の探索が行われた。過酷な探検の後、スピークはヴィクトリア湖をナイルの水源と断定した。しかしスピークと仲違いしていたバートンは、さらなる調査が必要であるという慎重な態度を崩さなかった。両者は公開討論を行って決着をつけようとしたが、その前日にスピークは銃の暴発により不慮の死を遂げた。その後、スピークの主張が正しかったことが証明された。

 ナイルの水源をめぐる謎は長年にわたって多くの人々を惹きつけてきた。それゆえにブルースが青ナイルの水源に到達したとき、スピークが白ナイルの水源に到達したとき、その喜びは並々ならないものがあった。私も彼らが驚喜したその場に立ちたくて、青ナイルの水源、そしてヴィクトリア湖から白ナイルが流れ出る地点を訪れた。ブルースやスピークが味わった苦労を考えれば申し訳ないものの、はるばるこれらの地を訪れて彼らの感動の片鱗を味わうことができた。私もナイルの水源にとりつかれた人間の1人である。

 ウガンダでヴィクトリア湖から白ナイルが流れ出る地点を訪れた後、私は調査の途中で「月の山」のモデルとされているルウェンゾリ山地のふもとの街に赴いた。ホテルのレストランで夕食をとった後、私はバルコニーに出てルウェンゾリ山地の夕景を撮影した。するとレストランのウェイトレスが不思議そうに「何を撮っているの?」と尋ねてきた。

 「ルウェンゾリの夕景を撮っているんだ」「ふ~ん」「月の山だし」「月の山?」「きれいだし」「そうね」

 考えてみれば、あの大きな湖からあの大きな川が流れ出ていることは、地元の人々にとってはずっと当たり前のことであった。2000年以上にわたり外界の人々は「ナイルの水源」と「月の山」を血眼になって探したものの、それは壮大な空騒ぎであった。しかしその空騒ぎが当時の大英帝国の女王の名に因んだ「ヴィクトリア湖」という名称を生み、またウガンダという国の歴史に影響を与えたことも確かである。

 夕闇に消えていくルウェンゾリの山並みを眺めながら、私は「『地理学』に「月の山」について記したとき、プトレマイオスはどのような山並みを頭に思い描いていたのだろうか」「ナイルの水源が別の場所にあったならば、ウガンダはどのような歴史をたどったのだろうか」「人間はナイルの水源と「月の山」を探し出して幸せになったのだろうか」などととりとめもなく物思いにふけった。

2011年11月3日



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プトレマイオスの世界図におけるナイル 


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